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喫茶店の軒先に設けられている「カップル限定特大パフェ」のディスプレイは、芸術作品のような美しさで、デート中の男女を惹きつける。パフェには、バニラアイスとチョコアイスに多彩なフルーツが盛り付けられ、ポッキー、コーンフレーク、ハート型のいちごチョコなどが華麗にトッピングされている。
価格は二千円。少々値は張るが、レオが注文するのに迷いはなかった。甘いもの好きの汐莉が、前々から興味を示していたパフェなので、ぜひ一度、彼女に実物を味わわせてやりたかった。汐莉は向かいのテーブル席に座り、目を輝かせながら巨大なパフェをスプーンで掬っている。
「美味しい、これ」
子供みたいに両手を振って、感嘆する彼女を見ていると、買って良かったと心から思う。普段なら、絶対に買わない高価なデザートだが、彼女とのデートで頼む分には惜しくも何ともない。小遣いはバイトで稼いでいるし、これだけ喜んでもらえるのなら安いものである。レオの今一番の生きがいは汐莉に幸せを与えることだ。彼女の笑顔がレオの癒しとなっている。
デートの日は、一日が本当に短い。ショッピングして映画鑑賞して、喫茶店で一休みすれば、もう日が暮れている。どこかで「時間は平等」という理論を耳にしたことがあるが、楽しいかどうかの感情によって、長いか短いかの感覚が変動していくのなら、それはもう平等とは呼べないし、呼びたくもない。恋人とデートする時間ほど大切なものはない。そう考えるレオにとって、授業に費やす退屈な一時間と汐莉と過ごす一時間の価値が、等しく同じなんてあり得ないのだ。
今日は人生最高の一日だった。汐莉が欲しがっていたおしゃれな服を購入し、ペアリングも作った。彼女の勧める恋愛映画も良かったが、何よりも嬉しかったのは上映中、隣に座っている彼女が優しく手を握ってきてくれたことである。意識した訳ではなく、自然に掌を重ねて来たらしく、そっと握り返してやると汐莉は少し驚いて、こちらを向いた。目が合って微笑みを交わし、二人は再び映画に戻ったが、以降は感動的なラブストーリーに集中できなくなっていた。
「レオ君も食べてみて」
上目使いでスプーンが差し出されたので、身を乗り出して味見する。上品な香りに包まれた、濃厚なバニラの風味が頬全体に広がっていく。
「本当だ、おいしい」
彼女と一緒にいるからだろうか、甘さを程よく抑えたバニラアイスはこれまで食べてきたどのアイスよりも上質に感じられた。
「あたし、幸せだよ。レオ君と付き合えて本当に良かった」
頬を赤らめて微笑みかける汐莉が愛しい。
「人がいるところで言うなよ。恥ずかしい」
「だって、本当なんだもん。束縛はちょっと、厳しいけどね」
「ありがとう、俺も好きだよ」
少し照れ臭いが誰も聞いていないのを確認して、囁き返す。このまま、何年も、何十年も彼女と一緒にいられたら夢のように幸せなのに。そこまで考えて、レオは虚しくなる。幸せは永遠には続かない。実際、これまでも様々な障害が立ちはだかり、レオの幸せを阻んできた。とりわけ多かったのが恋愛絡みの災難である。新しい彼女が出来ても、その都度、何らかの邪魔が入り、継続しないのだ。これまでの恋愛経歴を振り返っても、交際期間は最短一週間、最長でも五ヵ月そこそこと異常に短い。汐莉とは付き合い始めたばかりであるが今後、同じようなことが起こらない保証はない。むしろ、起こることを前提にして交際するくらいがちょうどいいだろう。過去を繰り返さないためには、より一層の努力が必要なのである。そのためにも、汐莉とは交際を始めた瞬間から、いくつかの約束を交わしている。約束と言っても簡単な決まり事みたいなもので、携帯での連絡先は女だけにする、メールは一時間以内に返信する、男とは遊ばない、遊びに行くときは必ず一言声を掛ける、自分以外の男とはなるべく話さないようにする、など基本的なものばかりである。また、復縁を防ぐために元彼との写真は全て捨てさせ、プレゼントや思い出の品も処分してもらった。汐莉も初めのうちは躊躇していたが「二人で幸せになりたい」との強い想いを伝えると反発を止め、快く了承してくれた。もちろん、このような束縛が彼女の負担になってしまうのは分かっている。だが、レオも同じ条件で生活しているし、互いの幸せを確保するには、やむを得ない予防策である。ガードを固め、第三者が入り込む余地を作らせない。障壁となるものは可能性から徹底的に排除する。休場飛鳥と名乗る病原菌が現れたのだから尚更、気を抜いてはいけない。汐莉は過去に付き合ってきた女たちがゴミ同然に思えてくるほど特別な人であり、万が一、別れるようなことがあればレオは不幸になるどころか、生きる意欲も失ってしまう。
「そろそろ、出ようか。明日も朝から授業だろ?」
「うん」
「なら、送って行かないとな」
大学やバイト先へはほぼ毎日、レオが車で送っている。当然、これも彼女を守るため、二人の幸せを守るためである。
「良いよ、あたし一人で行けるから。レオ君だって朝練早いんでしょう」
「いや、汐莉にもしものことがあるといけないから、送っていくよ。練習に遅刻するくらいなんともないし、遠慮するな」
「良いの? ごめん、本当は練習したいよね?」
「全然。ぶっちゃけ練習とかどうでも良いし」
レオからすればバスケの練習なんかより、恋人の方が遥かに大事である。なので、汐莉を優先させた結果、練習が疎かになって、レギュラー漏れしたとしてもそれはそれで本望だ。二人はパフェを片付け、伝票を持ってレジへと進む。汐莉がダイエット中だったこともあり、終わってみればほとんどレオの胃袋に収まっていた。半分も食べられなかった罪悪感からか、彼女は健気にも財布を出して払おうとする。うさぎのキャラクターが描かれたピンク色の二つ折り財布に、ついつい顔が綻ぶ。
「良いよ、払わなくて。こういうのは男が全額払うものなんだ」
気持ちは嬉しいが、ここで払わせるのは彼氏として格好がつかない。彼女との割り勘は男としてのプライドが許せないのだ。
「少しくらい出させてよ。レオ君、払ってばっかりじゃん」
「ダメ」
「意地悪。もう、お金なくなっても知らないよ」
汐莉は楽しそうにふくれながら店員が見ている前で、腕を絡めてくる。死ぬまで彼女を独り占めに出来たらどれほど幸せなのだろう。そんな風に思い、顔が熱くなる。
「当店のポイントカードはお持ちでしょうか?」
支払いを済ませ、早く店から出たいのに、店員が水を差してきた。空気の読めない男だ。年齢は二十代半ばといったところだが、小太りでやたらと滑舌の悪い男はどう見てもオタクである。
「いいえ、持ってないです。レオ君持ってる?」
「持ってない」
レオはオタク系の人間が大嫌いだ。良い年してアニメや漫画ばかり見て、恥じらいもしない。逆に、誇らしげにさえしている。そんな奴らが同じ人間として生きているかと思うと、無性に腹が立ってくる。オタクどもは、アニメキャラクターのコスプレをしたり、奇声を上げながら踊ったりと品性の欠片もない。その代表例に休場飛鳥がいるが、あれを見ていると存在自体が公害である。
「カードを無料でお作りすることも出来ますが、いかがいたしましょう?」
「良いよ、そんなの」
これまでも、これからも一生彼女が出来そうにない豚に用はない。レオは心の中で毒づきながら男を睨む。だが、この汗臭くて鈍い豚には、客の苛立ちを理解する能力がないらしい。断ったにも関わらず、「取り敢えず、説明だけでも」と前置きしてポイントカードを広げてきた。カードにはマス目が引かれており、一から二十までの番号が記載されている。男はそれを指さして酷い口臭を排出させながら、人語とは思えない話し方で説明を始めた。レオは相手に聞こえるように舌打ちする。せっかくのムードが、この豚のせいで台無しである。仕事の一環だとしても客が拒否しているものを押し付ける行為は、サービス業として相応しくない。望んでもいない営業活動は不要だ。
汐莉も汐莉で、いつもレオに向けているのと同じ笑顔をオタク店員に向けている。横から見ていると、自分がこの豚と同じ土俵に立たされているみたいで耐えられない。対等になるなんてあり得ない筈の、日常でもモテたことのない出来損ないに、汐莉と愛想よく話す権利なんてあるわけがないのだ。
「てめえ、さっきからベラベラうるせえぞ。こんな店、もう二度と来ねえよ」
レオはカウンター上でクーポン券を握り潰し、罵倒する。驚いた豚は何も言えず、茫然と立ち尽くしている。激高されて泣きそうになっている姿を見ると、余計に殺意が湧いてくる。
「行くぞ」
あたふたしている彼女の腕を掴み、無理やり店を出る。既にときめきは消え、約束を破った汐莉に対する癇癪が一気に燃え上がっていた。
「ちょっと、痛いよ。レオ君」
「静かにしろ、ついて来い」
人目のつかないところで話しがしたかったので、彼女を駐車場の裏手に停まるワゴン車の陰まで連れて行く。人の流れから遠ざかっているこの場所でなら、多少は叱責しても問題ないだろう。汐莉は「男との会話は出来るだけ控える」との約束をレオの目の前で破った。素っ気なく流していればまだ堪えもしたが、あんな気持ち悪い男のくだらないセールストークに笑顔で応じてしまう彼女には失望した。
「どうしたの?」
「お前、どういうつもり?」
「どうって……」
「分かっているだろ。言わなきゃ分かんねえのか、馬鹿」
オドオドするばかりで答えない彼女にじれったくなり、頬を平手で張る。
「あの豚店員と楽しそうに話していただろうが。まさか俺よりもあいつの方が良いとか思ったんじゃないだろうな?」
「そんなわけないでしょ。あたしの一番はレオ君だけだもん」
汐莉は頬を抑え、涙を浮かべている。
「でも、笑ってたよな? 無視すればいいのになぜ、そうしなかった? 下心丸見えなんだよ。彼氏がいる前で堂々と男に媚びるお前は最低人間だ。あれっ、お前って元々ビッチだったっけ? 今まで何人もの男と付き合ってきているもんな。汚ねえ、汚ねえ」
「お願いだからそんなこと言わないで。昔は昔。今のあたしはレオ君一筋なの」
「なら、どうして約束を守らない? お前にとって俺が特別なら、努力くらいしろよ。約束を忘れたわけじゃないんだろ? お前が大変だってうるさいから、先公やバイトの先輩との会話だけ特別に認めてやってんじゃねえか。最低限、必要になってくるだろうと思って譲歩してんだ、こっちはよ。でも、さっきのは違うよな。無視できたのにしなかった。それはお前の気持ちが緩んでいたからじゃないのか?」
「そう……だね」
「甘えてるんだよ、お前は。意志が弱すぎる。俺はお前と付き合い始めてから、お前以外の女とは一切、雑談すらしてねえぞ?」
「ごめん、もうしないよ。お願いだから怒らないで」
「二度とするなよ」
「しない……」
「まったく、世話の焼けるバカ女だな」
「ごめん。レオ君を悲しませちゃう彼女で……。約束も守れないこんなバカ女でごめんね」
汐莉はその場で泣き崩れ、謝罪を繰り返す。小さくうずくまった彼女を見下ろしていると、段々と哀れに思えてきた。
「もう良い、謝るなよ」
熱くなった体が腹の内側から冷却されていくように、舞い上がっていた感情が鎮静していく。いつの間にかレオは彼女の隣にしゃがみ、華奢な体を強く抱きしめていた。