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 授業までかなりの余裕を持って教室に入ったのに、開始直前になって鞄にペンケースが入っていない。実に間抜けな話である。兎々津は冷静になって再度鞄を探り、順番に中身を確認する。やはりペンケースらしきものは見当たらない。朝の授業で使用しているので、確実に持ってきている筈だが、どこにもない。そういえば図書館でイラストを描き始める前にも、筆記用具を使っている。大学四年で就活生でもある兎々津には、企業への応募書類を手書きで作成するのに必要だったのだ。ペンケース紛失に心当たりがあるとすれば、もうそれしかない。とんだ不運に見舞われたもので、やらかすにしても間抜けすぎる。教室から図書館まで、片道五分。今から突っ走れば、ギリギリ間に合いそうである。

 兎々津は座席に荷物を置いたまま、貴重品だけ持って教室を出る。大したものでなければ放っておくが、書くものがなくては授業が成立しない。漁師に釣竿が必須なのと同じで、学生には筆記用具が不可欠である。教室にいる学生の誰かから借りる手もあったが、授業が終わるまで忘れ物を放置しておくのは気が進まない。息を切らしながら廊下を抜け、学生たちの間を縫って走る。図書館前の中庭に入ったところで、両膝に手を付いた。教室から休みなく疾走してきたので、呼吸は酷く乱れている。こんなに長く走ったのは、高校時代に体育でサッカーを履修して以来となる。

 体中が熱気を帯び、シャツには汗が滲んでいる。集団でキャンパスを盛り上げていた蝉たちは午後になって疲れてしまったのか、比較的大人しい。喉が渇き、すぐにでも水分補給したくなったが、ペンケースを見つけるまでは我慢する。帰りはもう少しペースを落としても大丈夫そうなので、自販機で飲み物を購入するくらいの余裕もある。

「てめえ、何しに来た?」

 額に湧いた汗を拭い、図書館の方へと進んでいると、いきなり罵声が飛んできた。どこかで知能の低い学生が喧嘩でも始めたのだろうか。チンピラみたいな言葉遣いで喚いている。

 不名誉なことだが、この大学では何年かおきに酷く評判の悪い学年が出てくる、というジンクスがある。どういう訳か、授業の取り組み姿勢に問題のある学生が試験に合格して、入学してくるのだ。高校デビューならぬ大学デビューの行き過ぎなのだろうか。彼らはホストやキャバ嬢を真似た奇抜な容姿を好み、「DQN」と言われて煙たがられている。所構わず下品な会話で盛り上がっている学生などは九割方、そうである。兎々津が所属する学部の同期は勤勉で無害とされているが、一つ下の後輩などは「DQN」に分類される学生が多く、教員や他の学生たちからはあまり良い印象を持たれていない。先ほど図書館内で絡んできた福永汐莉なども、ちょうどそれに該当する。

 



 評判が悪いと言えば、兎々津の一つ上の学年でもトラブルが多かった。こちらは元からそうだったわけではなく、問題児が約一名、編入してきて以降の話である。教員や外部講師とのいざこざも大体、その編入生を中心に起こっていた。彼とは同じ教室で授業を受けたことがあるが、同期の先輩たちからは忌避されていて友達もいなかった。

「もう……。少しくらいは敬意を払おうよ? これでも一応、先輩なんだし」

「うるせえよ」

 今回、兎々津が履修している授業では、成績に出席点が加味される。いちいち他人の争いごとを詮索している暇はない。そんなことは分かっている。なのに、どうしても厭味ったらしい煽り口調が引っかかる。

「まーた、彼女を束縛しているの? 相変わらず独占欲が強いね、君は。で、どうして彼女と揉めているの? もしかしていつものように、人には話せないほど些細なこと? 事情を言ってくれると『何でも屋』の俺が、解決してあげられるかもしれないよ」

憤怒を露わにする相手に、自称「何でも屋」はふてぶてしい。大げさに嘲笑い、口喧嘩を楽しんでさえいる。兎々津は、相手の神経を逆なでさせるために、わざとこういう話し方をする奴を一人知っている。それは彼女の一つ上の先輩であり、いつもトラブルの渦中にいた例の編入生と同一人物だ。一旦、この調子で煽りの波に乗ってしまうと殴られても蹴られても止まらない。むしろ、相手がブチ切れれば、ブチ切れるほど弁舌が勢いづいていく厄介者である。彼はそうやって、人の自尊心を潰し、精神状態が破綻するまでの過程を観賞しているのだ。

「俺と彼女の問題だ、お前には関係ねえよ。気色悪いアニオタニートがしゃしゃり出てくんじゃねえよ」

「あらあら、随分と酷い言われようだこと。これだから『人間瞬間湯沸かし器』は面白いんだよ。からかいがいがあるというかね」

 あの男の関与を疑いたくはないが、発言の傾向は一致している。兎々津はトイレを繋ぐ、通路へと足を踏み込む。開いた物置から、微かに香水の匂いが漂ってきた。どうやら罵り合いはこの中で行われているようだ。

「んだとコラ」

 授業にも遅れるし、引き返すべきではないか。そう迷いつつ暗闇に近づいていくと、目の前で一人の男が尻餅をついた。見覚えのあるアニメ柄のブランケットから、状況を察した兎々津は、最初から無視していれば良かったと嘆きたくなった。

 行く先々で悪評が付きまとう元転入生で兎々津の相方、休場飛鳥が白昼堂々と揉めていたのである。

「痛いな、もう。少しは加減してよ、頬っぺた腫れちゃうから」

 飛鳥は殴られた頬を撫でながら、不平を漏らす。いかにも平気そうな彼の態度が相手の怒りを助長させるようだ。男が詰め寄り、胸ぐらを掴んで引き上げる。殴ろうとしている長身の男を見て、兎々津はさらに混乱する。相手は先ほど、福永汐莉が紹介してくれたイケメン彼氏、飯塚レオだ。どうしてこうなったのか経緯は分からない。

「あっ、トトッちゃん」

「あっ……じゃないよ。あんた一体、ここで何してるの?」

「それがね、この坊やに絡まれて困っているんだよ」

「毎度のことながら?」

「毎度のことながら」




 平日の昼間から大学にやって来て、後輩と揉め事を起こすとは傍迷惑なOBである。飛鳥は殴られそうになっているにも関わらず、全くといっていいほど恐怖を感じていない。痛みはある筈なのに、慣れ合いをする男子学生のノリと何ら変わらない。

「はー、分かったよ。世話が焼けるね、まったく」

 始業を知らせるチャイムが鳴り、兎々津の遅刻が確定する。急いでも無意味なのでボランティア精神で、相方が招いた面倒事を片づけるとしよう。放っておくとろくなことが起こらない。

「この人、先輩の知り合いなんですか?」

 物置の奥から福永汐莉が顔を出す。彼女は二人の喧嘩を止められず、隅で小さくなっていたようだ。

「そう、私の相方。世話の焼ける異常者だよ」

「トトッちゃん、この時間は授業あるんじゃなかったっけ? 行かなくて良いの? 休講になった訳じゃないんでしょ?」

「ええ、ちょうど今、授業が始まったところ。私がここにいるのは筆記用具を図書館に忘れるという痛恨の馬鹿やらかして、慌てて取りに戻ったから。まさか、あんたが学校でトラブっているなんて思いもしなかったから、最悪の気分だよ。お陰様で出席点はマイナス。今後、同じようなことがあったとしても、もう二度と筆記用具を取りに戻ったりしない」

「それはすまなかったね」

「謝るなら一番高いタピオカドリンク奢れ」

「オッケー、了解。好きだね、君」

「あの……先輩の筆記用具ってひょっとしてこれですか?」

 福永汐莉が鞄からペンケースを出して見せる。

「そう、それ。持っててくれたんだ」

「椅子の上に転がってましたよ。事務に持って行こうか、先輩に直接渡そうか迷っていたところです」

「ありがとう」

 福永汐莉が拾ってくれていたお陰で、図書館まで行って探す手間が省けた。

「へえ、君はその子の先輩なんだ。奇遇だね、俺はこっちの坊やの先輩」

「はいはい、奇遇、奇遇。それで? まず、どうしてこんな状況になったのかを説明してよ?」

「どうしてって言われても、俺は被害者なんだよ。可愛い後輩に親しみを込めて挨拶したら、いきなり殴られた被害者だ。酷いと思わない? 俺じゃなければ警察行って、被害届出してるところさ」

「黙れ、お前が他人ごとに首を突っ込んでくるからだろうが」

 レオの右手が飛鳥の喉元をとらえる。のど輪締めを入れられた飛鳥は「グエッ」と品のない声を上げた。一体、どんな挨拶をすればこうなるのだろうか。飯塚レオは既に飛鳥を殺しかねない程、激怒している。彼も、私怨を持つ者の一人だろう。相方が多くの人から恨みを買っていることは兎々津もよく分かっている。

「止めようよ、レオ君。先生とかに見つかったらヤバいよ」

 汐莉が必死になって宥めるが、とても収まりそうにない。当事者がこうなった経緯を曖昧にしている以上、兎々津としても施す術がない。張本人は楽しくて仕方がないようで、むせ込みながらも口角に笑みを浮かべている。ほとほと、救いようのない相方である。

「飯塚君、落ち着いて。こいつが無礼を働いたのなら代わりに私が謝るから、離してやって」

 兎々津がお願いすると、飯塚レオは決まりが悪そうに飛鳥を離す。

「無礼といえば、俺より彼の方がよっぽど無礼だ。少し挨拶しただけで真っ赤な顔して暴力奮ってくるんだもん。久しぶりに会った先輩に対してまったくひどい仕打ちだよ」

 レオが鋭い目つきで睨み、二発目を打ち込もうと拳を握る。

「あんたは少し黙ろうか」

 飛鳥が怒りを扇動するので、語気を強めて遮る。

「ごめん。こいつには私の方からもキツく言っておくから勘弁して」

 堂々巡りになってしまったら騒ぎに収束がつかないので、飛鳥の分も含めて兎々津が謝る。子供みたいな争いには大人の対応が必要なのだ。

「さっさと行くぞ、気分悪い」

 レオは舌打ちして、通路を出ていく。汐莉も半泣きで会釈して、彼氏を追い掛けた。二人には面倒な奴に絡まれて気の毒なものだと同情する。




「悪いね、君を巻き込むつもりはなかったんだ」

「だろうね。私が筆記用具を取りに戻らなければ、あんたが来ていることすら知らなかったわけだし」

 飛鳥は呑気にブランケットを揺すり、埃を払っている。ほんの数分の間によくこれだけ、大ごとを起こせるものだ。何があったのかは依然として不明瞭だが、災いを招く才能には感銘すら受ける。兎々津から細かく原因を突き詰めてやっても良かったが、恋愛絡みの可能性が高いと見えるので止めにする。どうせ、後輩カップルの世界に無遠慮に踏み込んで、二人の反応を楽しんでいただとか、ふざけた理由に決まっているのだから。

「面白半分で人にちょっかい出すあんたの性格、どうにかならないの?」

「それは難しいね、俺は生まれつき人にちょっかい出すのが大好きな性分だからねえ……」

 飛鳥は殴られた頬を撫でながら「ああ、痛かった」と同情を誘う。兎々津はそれを「自業自得」の一言で切り捨てた。


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