2
「もう、先輩っていっつも冷たいんだから。少しくらいあたしの彼氏に興味を持ってくれても良いのに」
レオと手を繋いで歩きながら、汐莉は頬を膨らませる。大好きな彼に身を預けると、優しく頭をなでてきた。子供みたいに甘えても鬱陶しがらない包容力に安心する。
「ごめんね。あの先輩、愛想があんまり良くないの。これだけ格好いいレオ君を見て何とも思わないなんて酷いよね」
「褒めすぎだぞ。そんなこと言って俺があの先輩に惚れちゃったりしたらどうする?」
「えー、あり得ないよ。もしかして先輩にちょっとときめいちゃった?」
「んなわけねえだろ。俺は世界一可愛い汐莉しか見てないよ」
「もう、やだ。世界一とか、恥ずかしいこと言わないで」
胸の鼓動は激しく高鳴る。筋肉で引き締まったレオの腕に自分の腕を絡めていると、香水の心地良い香りがした。向かいからやって来る男子学生の集団が、二人を指さして何かを囁き合っている。いつもの光景だ。彼との至福の時間を楽しんでいたら、必ずと言っていいほど周りの人間は注目し、興味の対象にしてくる。こちらを見て苦笑いしたり、小馬鹿にしたり、あからさまな不快感を向けてくるのだ。汐莉はそれに気付いているが、動じない。恥ずかしいとも思わない。むしろ、優越感に浸れるので、わざと身を寄せて存在を誇示している。公共の場でいちゃつくカップルに対しては、ふしだらであるとの批判を度々耳にするが、彼女に言わせればそんなのはただの嫉妬である。恋人のいない人間が幸せを満喫するカップルを妬んでいるだけなのだ。そんな奴らに配慮する必要なんてない。自分がモテないことを棚に上げ、カップルを目の敵にするような情けない負け組は、他人の幸せを見てせいぜい悔しがればいいのである。秀でたものを尊敬できず、「リア充爆発しろ」などと暴言を吐いているような奴らは卑怯だし、惨めに思う。どうせ大した努力もしていないのだろう。他人を悪く言っている暇があるのなら、自分を磨けば良いだけなのだ。
「何だよ? 文句ある?」
レオがすれ違いざまに、学生の一団を睨み付ける。すると、男たちは慌てて「何でもないです」と愛想笑いを浮かべ、足早に通り過ぎていった。余程、うらやましかったのだろうか。訊かれて困るなら初めから、話題にしなければいいのに。
「あれ? 汐莉、何してるの?」
図書館から少し離れ、今度は学部の同級生と遭遇した。新しい彼氏が出来るまで、行動を共にしていた友人たちで女子学生が三人、男子学生が二人いる。失恋中はよく悩みを相談していたが、レオと付き合い始め、彼を第一に考えるようになってからは、自然と疎遠になっている。
「次の授業、履修してるから、彼と教室に行ってるの。みんなはもう終わった?」
「あたし、授業取ってないよ。旦那の方はサボりだけど」
汐莉は気前よく笑う男女を一瞥する。この二人も一応は付き合っているそうだが、あまりに下劣で軽蔑せずにはいられない。服のセンスもなければ容姿もいまいちで、並んでみると背丈もほぼ変わらない。男が小さくて女が大きいのはみっともない。高く見積もって百点満点中四十点。汐莉たちの比較対象にすら値しない低俗カップルである。
「そうなんだ、あたしたちもサボろうかな。授業とか面倒なんだよね」
「あんたは行った方が良いんじゃない? 単位取らないとそろそろやばいでしょ。てか、いつの間に二人は付き合うようになっていたの?」
「先週からだよ」
「そっか。あー、だから彼が一番なんだ。この間まで元彼のことを引きずっていたのに、立ち直るのが随分早いんだね。毎日、よりを戻したいって言って泣いていたのにね」
「元彼ねえ……」
小馬鹿にされているようでムッとするが、彼女の言い分も否定はできない。実際、汐莉は先週の初めまで、半年も付き合った彼氏と別れて落ち込んでいた。失った彼のことを思い出して、泣いたり過呼吸になったりを繰り返していたのである。失恋は何年経っても慣れないものだ。付き合っていた頃の幸せが滅茶苦茶に蹂躙されて、死にたくなる。彼といた場所、彼にもらった誕生日プレゼント、プリクラでのツーショット写真、携帯電話に保存されている写真、彼のつけていた香水の香りなど、大好きだった元恋人の遺産が亡霊みたいにフラッシュバックして汐莉の精神を締め上げる。深夜や明け方に目が覚めて苦しくなる時もあり、電話で友達を起こしたこともある。また、情緒不安定で自殺を仄めかしたりもしていた。だから、汐莉は友人たちを生意気だと思いはするが、憎んでいるわけではない。むしろ、迷惑を掛けたのに愚痴を漏らすことなく、親身になって慰めてくれた彼女たちには感謝している。
ただ、失恋中の生活は悲惨そのものだったのに、汐莉に新しい彼氏が出来た途端、どうでも良くなった。薄情なもので、プリクラを見ても元彼のプレゼントを見ても、悲しんだりしないし涙も出てこない。過去の男との思い出はどれもこれも陳腐になり興ざめしてしまった。失恋から立ち直るのは大体、いつもこのパターンである。「女性は上書き保存」とは、よく言ったものだ。彼氏が出来ても、元彼を思い出してはウジウジ泣いている同級生がいるので、全ての女性に当てはまるとまでは行かないだろうが、間違いなく汐莉は上書き保存するタイプである。今は元彼よりも強くて頼りになる男が守ってくれるので、寂しさは微塵も感じない。気持ちを切り替え、未練をすっかり断ち切れたのはレオのお陰なのである。
「もうあんな人、忘れたよ。よく考えたら頼りないし。すぐに『バイトがあるから、会えない』とか言い訳するんだもん。よりを戻したがっていた自分が馬鹿みたい。やっぱり今彼が一番だよ」
「ふうん」
頷く友人は、驚きとも呆れとも取れる表情をしている。
「ま、まあ頑張ってね。あたしたちこれから街に行くから。じゃあね」
「分かった、じゃあねー」
同級生と別れ、「行こっか」と彼氏の手を握り直す。しかし、レオは立ち止まったまま、根が生えたように動かない。汐莉が繋いだ手を払いのけ、悲しそうに首を振っている。何か気に障るようなことでもあったのだろうか。爽やかな笑顔はない。
「どうしたの?」
嫌われやしないか、幻滅されてはいないか不安になって尋ねる。やっと見つかった心の拠りどころなので、彼のことは大切にしたい。
「疑いたくはないけど、さっきの友達が言っていた元彼のことが、ちょっと気になってな」
「ああ、あり得ないよね。レオ君の前で、元彼の話をするとか。ほんと無神経。今度、あの子に会ったらキツく叱っておくよ」
「でももし、そいつとよりを戻そうと思えば、簡単に戻せるよな? 汐莉は可愛くて男にモテるもんな」
「そんなことないよ、心配し過ぎ。あたしがあんな奴とよりを戻したりするわけないじゃん。メールも返さない、デートに誘っても忙しいから無理とか言って断る奴なんか魅力ないよ」
「なら、携帯を見せてくれ。一応、彼氏として無視出来ないから」
「そんな急に言われても……」
「見せられないのか? なら、やましいことがあるんだな?」
数分前まで優しく微笑んでいたレオが態度を一変させて言う。
「違うよ。周りの人に変な風に思われたくないの」
汐莉たちがいるのは図書館前の広い中庭である。学生や職員の通行も多いので、ここで揉めておかしな誤解を生むのは避けたい。付き合って早々、喧嘩しているなんて友達の誰かに知られたらさっきみたいに馬鹿にされてしまう。それに、些細な理由で彼氏の評判を落としたくはない。
「なら、人のいないとこに行けば良いんだな。こっちに来い」
応答を躊躇っていると、レオが乱暴に腕を掴んできた。汐莉は力づくで引っ張られ、トイレの入り口、通路の途中にある物置へと押し込まれる。その薄暗い物置には、学祭などの年間行事で利用される備品やテーブル、掃除用具などが、格納されていた。普段は施錠されている小汚い一室だが、何か用事でもあるのかこの日は扉が開いていた。電気はついていない。大きいサイズの段ボールが適当に積まれ、荷台が並んでいる。不健康そうなカビの匂いと埃が鼻に入り、軽く咳き込んだ。吸い込み続けたら肺に悪そうなので、左手で鼻を覆う。
「ここなら目立たないだろ。早く見せろ」
暗闇での恫喝は威圧感が増し、鳥肌が立つ。レオには付き合う前から独占欲が強く、癇癪持ちであるとの噂があったが、自分の想像を超えている。元彼の話題が出た直後に人格が豹変し、凶暴になった。とても断れる雰囲気ではないので、素直に携帯電話を差し出す。汐莉は神経質そうに画面を覗き込む彼を視界の端にして、これも愛情表現の一つなのだとポジティブに捉えることにした。騒ぎに反応してか若干、外がざわついている。トイレを利用する学生もいたが、誰も汐莉とレオのやり取りを覗く者はいなかった。
「これは誰だ? 元彼か?」
レオが送信メールの履歴に残っていた男友達とのやり取りを発見し、画面を突きつける。メールは昨日、送ったもので相手は学部の男子学生だ。元彼とのやり取りは交際が決まった段階で全件消去しているが、携帯をチェックされるとは思っていなかったので、男友達とのメールは遡れば大量に残っている。
「元彼なんかじゃないよ。学部の友達」
「でも、男なんだろ」
「そうだけど……よく読んで。授業のことで相談しているだけだから」
休んだ講義分のノートやレジュメを貸してもらうのが用件で、やましいことは何も書いていない。レオが履修していない科目なので、他の人に頼るしかなくて彼に送ったのだ。
「そういう問題じゃねえよ。これは何だ?」
レオは「じゃあ、また今度ネ♡」という文字を指でなぞる。語尾にハートの絵文字が入っているのが気に入らなかったようだ。
「そんなのただの絵文字じゃん。別に深い意味はないよ。ハートなんか誰にでも使うもので」
「誰にでもだと? 連絡を取っている男がこいつの他にもいるってことか?」
「いないってば。もう止めようよ、こんな些細なことで喧嘩なんて。それより、早くしないと授業に遅れちゃうよ」
「うるせえ、授業どころじゃねえんだよ。彼氏がいるのに男と連絡取って、会う約束までするとはどういうつもりだ?」
レオの怒鳴り声が中庭にまで響き渡る。必死に笑顔を作ってもまるで効果はない。汐莉の胸ぐらを掴み、物置の向かいにある通路側の壁に押し付けてきた。外部からは丸見えだが、聞こえていた筈のざわめきは消え、人の気配がなくなっている。授業に遅れないように急いで教室へ向かったのか、巻き添えになりたくなくて逃げていったのかは分からない。もしかすると聞こえていたのはただの空耳で、初めからトイレ周辺には誰もいなかったのかも知れない。
「彼氏がいるなら他の男とは連絡を取らない。こんなの常識だぞ」
これまでにも何人か束縛してくる男と付き合っているので、似たような状況を経験したことはある。なので、対処方法もある程度、把握している。こういった場合、委縮してしまってはいけない。謝罪したうえで相手の希望に応じる姿勢を見せ、自分にはあなたしかいないのだと言って、精一杯の愛情を示していかなければならない。今まではそうやって、毎日メールを返さないと文句を言ってくる男や飲み会に参加しただけで浮気を疑ってくる男をやり過ごしてきた。要求を呑むことがどうしても不可能なら、表向けは了承しておいて、新たな疑いをもたれないように努めていく必要がある。
「ごめん、あたし馬鹿だから……。レオ君がいるのに失礼だったね、もう連絡するのは止めるよ」
「なら早く消せ。見ててやるから、電話帳に登録してある男の宛先は全部消せ」
「えっ、全部?」
まとめて消せという命令には、さすがに汐莉も戸惑いを隠せない。電話帳にはゼミで連絡を取らなければならない友人やアルバイト先の先輩がいる。消去したら間違いなく、汐莉の生活環境に支障をきたしてしまう。目の前で削除するように言われているので、口約束だけしておいて後でバックアップを取るわけにもいかない。
「何だ、出来ないのか? 彼氏がいるんだから、それくらいは当然だろ」
レオは汐莉の胸元に拳を押し当てて、恫喝する。肋骨が圧迫されて痛い。告白される数日前までは別の男と連絡を取りあっていても平気だったのに、彼女になったら突然、認めてくれなくなった。
「……分かったよ。消すから、怒らないで」
あれこれ言い訳を考えていると、肺と肋骨が押し潰されてしまいそうなので、諦めて連絡先を消すことにする。先輩や男友達には迷惑を掛けてしまうが、彼が離れていくよりかはマシだ。
「あれあれ……君たちこんな暗い所で何をしているのかな?」
覚悟を決め、携帯の電話帳を開いたところで急な横やりが入った。
「ああ?」
振り返ると通路で一人、怪しい男が立っている。小柄な男は袖口や襟がほつれたぼろいTシャツを纏い、アニメキャラクターのブランケットを肩に掛け、首からは鍵とキーホルダーをぶら下げている。乱れた前髪は目に掛かり、表情を読み取りにくくしている。
太っていたり、眼鏡を掛けているわけではないが、容姿から推察して彼がオタクであることは明白である。汐莉はオタク系の人種に対して、臆病で他人の喧嘩や騒動を目撃すると一目散に逃げ去っていく情けないイメージしかないが、この男は例外なのか平然と構えている。
「色恋沙汰の匂いがするなー、なんて思って覗いてみたら、案の定そうだったね。我ながら抜群の嗅覚だよ」
「何だ、てめえ?」
「やあ、久しぶり。元気にしてたかな? 坊や」
男はレオの脅しに動じず、不気味に微笑みながら、手を振っている。助けに来てくれたわけではないのだろうか。汐莉を庇ったり、レオを叱ろうとする素振りを一切見せない。どころか、汐莉を見て冷笑し、レオの人間性や過去を淡々と語り出した。他人を見下した口調で、饒舌に話すオタク男は見ていて非常に不愉快である。
「調子に乗ってんじゃねえよ」
我慢できなくなったレオは男に飛び掛かっていった。