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七月も終盤に入り、日増しに気温が上昇して行く。高温多湿で鬱陶しい梅雨が明ければ、燦々と照りつける太陽に蝉の合唱、日本各地でお祭りが開催される夏が本格的にやって来る。世間では、海の日を過ぎた辺りから夏休みの話題で持ちきりになっているが、兎々津の夏休みはもう少し先となる。履修科目にもよるが、大学では八月の頭まで授業があるのだ。
とはいっても、授業で日程がぎっしり詰まるというわけではない。日によっては、次の授業まで何時間か、待たなければならないなんてこともある。家が近くだと、午前中の授業に出席して一旦帰宅し、午後になってから再び大学に戻って来る学生も多いが、兎々津の場合、そうなると大抵、大学内の図書館に行く。洒落っ気のないモダンな雰囲気の館内には冷房が効いており、パソコンを自由に使えるスペースも設けられている。静かで落ち着いてイラストを描くことが出来るので、割とお気に入りの場所である。他人からの干渉がないというのは素晴らしい。その分、作業に集中できるからだ。
兎々津は慣れた手つきでペンタブを走らせ、自らの絵に命を吹き込んでいく。昨日までに線画を仕上げ、背景もつけておいたので、これから最終段階の色付けに入る。線画も根気がいるが、色を塗っていくのもかなり骨の折れる作業である。集中力と体力を要するだけに、出来上がったときの達成感は大きく、苦労に比例して作品への愛着も強くなる。描いているのは、踊り子の格好をした美少女キャラクターで、両手を握りしめ、天に祈りを捧げている。踊り子の肌は少し日焼けしたように見せたかったので、普段よりも浅黒い色に設定してある。ラテン系の雰囲気を醸した衣装と、背景に映るステージとの相性は悪くない。
「先輩、何しているんですか?」
ふいに肩を叩かれ、ペンが止まる。絵に集中していたので背後からの気配を感じなかった。
「ねえ、先輩」
厚かましいノリでやって来たのが誰なのか、振り返らずとも大体の予想はつく。同じ研究室の一つ下の後輩、福永汐莉だ。捕まると最も面倒なタイプの相手である。化粧が濃く、ウェーブ掛かった奇抜な髪は金髪で、ピンクを基調にした派手な服は大学に派遣されてきたキャバ嬢にしか見えない。
「何って絵を描いているんだけど……」
素っ気なく聞こえるように努めて言うが、それも徒労に終わる。福永汐莉は遠慮もなく首を伸ばし、画面を覗き込んできた。彼女の厚顔無恥な性格は本当に苦手だ。
「へえ、先輩って絵上手なんですね。あ、こんなの使って描くんだ」
ペンタブレットをひったくり、上下左右に動かして執拗に凝視する。自習していた学生はとても迷惑そうだ。無遠慮にはしゃいでくれたせいで、必然的に注目が集まっている。
「図書館だし、静かにしようよ。勉強している人もいるんだからさ。あと、それ早く返して?」
この女の稚拙さはそこら辺の中学生と大差ない。飛鳥宅にやってきた麻雀部の高校生たちの方がよっぽど大人びて見えてしまう。
「ごめんなさい、邪魔しちゃって。でも、すごいよね。レオ君も見てこれ」
汐莉は後ろに立つ見知らぬ男子学生に同意を求める。「レオ君」と呼ばれた彼は金色に染まった髪をワックスで立たせている。外見はいわゆるイケメンであり、筋肉質でいかにもスポーツ万能といった感じだが、大学生としての知性は感じられない。類は友を呼ぶとはよく言えたもので、香水の強烈な匂いが痛いほどに鼻腔をついてくる。
「すごいでしょ」
汐莉は彼にぴたりとくっつき、返答を催促する。しつこいボディータッチと猫なで声で甘えているので、男子学生は福永汐莉の彼氏と見て間違いないだろう。体育会系の彼は「凄いっすね」と一言で評価してくれた。社交辞令であるのが丸わかりだったため、嬉しさは半減する。
「この人、汐莉の新しい彼氏でーす」
静かにするよう促しても聞き入れられず、わざとらしく男子学生の腕に体を寄せる。見ていてこっちが恥ずかしい。自慢したいだけなのは一目瞭然である。
「漢字でライオンと書いてレオって読むの、カッコいいでしょ」
ライオンと書くと言われても正直困るが、兎々津はなんとなく「獅子」を連想した。
「飯塚レオです」
男子学生はチャラチャラした仕草で頭を下げる。汐莉が満足げに頷き、聞いてもいないのに彼氏がバスケサークルのエースであるだとか、強くて男らしいだとか、前の彼氏よりも格好いいだとか、至極どうでも良い情報提供を始めた。この調子で喋られたら、イラストの方に集中できない。兎々津は諦めてデータを保存し、ノートパソコンの電源を落とす。初対面の彼のスペックに興味はなかったので、取り敢えず「良い人そうだね」と無難に褒め、機嫌を取っておく。
「じゃあ、私そろそろ行くから」
ここで延々と自慢話に付き合わされては、堪らないのでさっさとパソコンを仕舞い、席を立つ。
「ちょっと待ってくださいよ、先輩ー」
冷たくあしらうことで大人しくなって貰いたかったが、彼女には無意味なようだ。汐莉はしつこく追い縋る。中途半端に彼氏を讃えたのが逆効果だったのか、さっきよりも調子に乗ってきている。
「あーあ、もう」
兎々津はため息を隠さず、鬱陶しい後輩と向き直る。他の学生もいて、非難の籠った視線が送られているのに、甲高い声を発して動物のように騒げる神経が分からない。どこかの誰かを見ているようで、苛々する。
「こらこら、そんな大声出したら目立つだろ」
兎々津が注意するよりも先に、レオが腕を掴んで止めてくれた。どうやら彼の方は、人並みのモラルを有しているようだ。図書館で非礼な振る舞いをする汐莉を見ると、彼氏として恥ずかしいのだろう。凄く分かる。
「すいません、汐莉がはしゃぎ過ぎたみたいで」
「ううん、別に構わないよ」
初対面の彼に、素直に謝られては文句も言えない。兎々津は苦笑いで手を振り、逃げるように外へ出た。授業開始まで二十分ほど余裕があったが、やむを得ず教室へと向かう。