プロローグ
北条虎太郎は式典の行方を見守りながら、神経質に時計を確認していた。演壇には、卒業証書授与を終えたばかりの学長が立っている。
「起立」
司会進行役の女が号令を掛け、卒業生が一斉に席を立つ。プログラム通りに進めば次は、学長から卒業生一同への式辞である。正直、長々と話されても有難迷惑なのだが、短い式辞で終わることに期待はしていない。これまでの卒業式を振り返っても、短かった試しがないからだ。虎太郎は大学の内部事情に疎い。学長の顔すら覚えておらず、今聞いてやっと名前を思い出すくらいに重症である。
学長は独特の風格を醸し出し、式典会場を見回して、一礼する。卒業生一同もそれに合わせ、お辞儀を返した。彼はガウン姿に、黒いモルタルボードを被っている。式典用に体裁を整えてくれたのだろう。ただ、虎太郎にはどうでも良いことである。四年間、学んできたこの大学とは今日でお別れになるが、社会人への船出に大した感動はない。
「どうぞ、お座りください」
指示が出て、再びパイプ椅子に腰を下ろす。キャンパスライフもこの日が最後なので、卒業式くらいは出席しようと早起きしてきたが、さっきから起立、礼、着席の反復運動ばかりでうんざりさせられる。卒業式はめでたい式典である、と世間一般で認知されているが、面倒なのでさっさと閉式して欲しいものだ。
学長がマイクの位置を調整し、高級そうな和紙を広げる。紙は屏風のように折りたたまれていて、かなりの分量だ。卒業生のために労力を惜しまず、推敲に推敲を重ねて作ったのだろう。敬服に値する。その努力を考慮すると、集中して話を聞くのが筋とは思うが、ここにいる卒業生のうち、一体何人が真面目に聞いているのか興味すら沸かない。学長が文章を読み上げていく間、虎太郎は他のことを考えていた。式典が終われば、各学部、研究室ごとに移動して、卒業証書が個人の手元に渡される。学部での記念撮影もあるし、大学内では毎年恒例の小さなイベントも催されている。決して、即解散という訳ではない。さらに学生生活最後の特別な夜には、謝恩会とやらが控えている。宴の席で卒業生たちが飲んで戯れて、学友たちとお別れする会だ。中には、もう二度と会うことのない同期のメンバーもいるだろう。それでも、虎太郎はいまいち乗り気になれなかった。脳裏にひたすら浮かんでいるのは、先日会った浅香このはとの会話である。彼女とは絶縁したも同然で、大学内ですれ違っても互いに避け、挨拶すらしない関係だった。そんな相手が声を掛けてきたのだから驚いた。お陰様ですっかり一昨年の冬に逆戻りだ。
浅香このはとの出遭いは二年前の夏、大雨の降る夕暮れ時にまでさかのぼる。友人を車に乗せて帰宅している途中、立ち寄ったコンビニの軒先で彼女は雨宿りをしていた。大雨で列車が停まり、帰宅する手段がバスしかなかったので、定刻までそこで時間を潰そうとしていたのである。虎太郎の同乗者とは自動車学校で面識があったらしく、二人はコンビニ前で楽しそうに雑談を始めた。蚊帳の外に置かれてしまった虎太郎は一足先にコンビニに入り、買い物を済ませることにした。わざわざ、豪雨の日に立ち寄ったのは、アニメとコンビニのコラボキャンペーン開始日でどうしても欲しい商品があったからである。目当てのものを購入して店を出ると、一緒に来ていた友人が「彼女を家まで送れないか」と頼んできた。それがきっかけとなり浅香このはとの間に交流が生まれ、頻繁に会うようになった。当時は色々と考えることがありつつも、仲間といるのは楽しかったし、毎日が充実していた。だからこそ、数ヵ月後に起こった悲劇が悔やまれる。全ては自分の招いたことなので、悔やむことすらおこがましいだろうが、直前でも食い止めようと思えば何とかなっていた筈である。だが、いくら悔やんでも過去は変えられない。何があっても修正は許されず、無慈悲に未来が巡って来る。現実は過酷なものだ。
このはに呼び止められ、二人だけの空き教室で浴びせられた言葉は「人間のクズ」だの「下等生物」だの、卒業を間近に控えた先輩には、絶対に言わないような辛辣な非難だった。もちろん、腹も立った。だが、自分の行いを顧みれば、罵倒されるのも当然で反論もできなかった。虎太郎は彼女が心の支えとしていた人物を奪い、平然と生きているのだ。許されないことをしたとの自覚はあっても罪と向き合うことはせず、あの手この手を行使して責任から逃れてきた。虎太郎は法律に詳しくないし、恐ろしくて確かめる勇気のない臆病者なので、自らの行いがどれだけの罪に問われるのかも、分かっていない。何もかも忘却して都合よく片付けたのは、時間が経つにつれ、保身に走るための口実を模索するのが苦しくなってきたからである。こんな人間だから、虎太郎がこのはに憎悪されるのは自業自得なのである。何事もなかったかのように過ごすことに後ろめたさがある一方、どこかで謝ったのだから大目に見て欲しいと願っている最低人間なのだ。
大学卒業後、虎太郎は新卒入社を控えている。しかし、このはが妙な話をしてきたせいで、正常な精神状態で仕事に打ち込める自信はない。彼女は誰もいない教室で、二年前のクズ行為を決定づける手掛かりが、虎太郎の所有物に記されていると言った。その手掛かりが何なのか具体的には分からない。確認しようにも、「あれ」は既に別人物の手に渡ってしまっているので不可能だ。話は虎太郎が保持していることを前提に進んだが、彼女が伝えようとしていることはさっぱり理解できなかった。
それでも、虎太郎の所業に触れられているであれば、早めに取り戻しておく必要がある。事実が表沙汰になってしまえば、周囲からは「人間のクズ」とレッテルを貼られ、下手すれば再び警察の事情聴取を受ける羽目にもなる。二年という歳月を経ていたとしても、用心するに越したことはない。何が隠されているのか浅香このはに尋ねてみても、内容を濁されるばかりで抽象的なヒントさえ教えてくれなかった。最終的に彼女は「あなたが苦労して探してください」と冷淡に言い残し、教室を去って行った。
彼女がいなくなってすぐ、「あれ」の現在の持ち主に、連絡を試みたが今のところ、応答はない。厄介な人物に渡してしまったものである。幼馴染の形見でもあるので、さすがに処分しているということはないだろうが、大人しく渡してくれる保証はどこにもない。
「卒業生、起立」
女の号令が虎太郎を呼び戻す。意識が過去に飛んでいて真面目に聞いてはいなかったが、学長が卒業生に宛てた文章を読み終えたようだ。卒業生一同に少し遅れ、虎太郎も慌てて起立する。形式的に頭を下げ、着席して再び「あれ」を奪い返すための構想を練る。直接、持ち主に連絡が付けば一番良いのだが、まだ電話が繋がった試しはない。最悪の場合、県外まで遠征することも視野に入れなければならないだろう。そのためには奴がどこに住んでいるのか念入りに調べ、準備を整えるしかない。困難を極めるが、虎太郎にも多少の心当たりはある。