天国エレジー
抜けるように澄み切った空に浮かぶイワシ雲。入道雲をはるかに見下ろしてどんどん空を翔る。次から次から湧いては、蒼空をどこまでも昇ってゆく。
年に一度、俺たちにチャンスが与えられる。気が遠くなるほどの苦しみを耐え抜いた俺たちが、晴れて天国へ召されるチャンスだ。その幸運を射止めた俺は、一つの雲をあてがわれて、夢の天国を目指している。
思い起こせば……、いや、今となってはいつ死んだのやら、もう数えることすら忘れてしまった。ただ、修行を始めてずいぶんたって、気位ばかり高い者や、いやに鼻息の荒い者も地獄にやってきたものだ。すでに修行を重ねてきた俺は、そいつらの傲慢な態度をせせら笑ったものだ。娑婆でどんなに偉かろうが、どんなに強かろうが、そして、どんなに裕福であろうが、地獄ではなんの役にも立ちはしない。態度が悪ければ酷い修行を強いられるだけだ。泣こうが喚こうが、有無をいわさず強要される。それに気付くまで、俺もたいがい横着だった。
だが、人は知恵の生き物だ。苦境を乗り越える努力を怠らない。それこそ知恵を振り絞って打開策を打ち出さねばいけないし、それを実行すべきだ。
そういう考え自体が過ちだということも、身をもって思い知ったのだが、とんだ遠回りをしたものだ。
様々なことを考え試した結果が、同期よりも遅れて天国行きを許されたということだ。つまり俺は、同期より余分に修行をさせられた、いってみれば敗残兵ということだ。それだけに、新入りの意気込みが可笑しくてしかたない。
「おい、そろそろ試験を受けてもいいぞ」
極卒が甘い言葉をかけても、断る冷静さが養われていた。
「もう大丈夫だぞ、受験しろよ」
二度目も遠慮し、三度目も辞退した。そうして殊勝な態度を印象づけたのだ。我慢に我慢を重ねた五回目、俺は天国への昇格試験に応募した。
型通りの書類審査があり、筆記試験があった。選別されたのは受験者の一割弱。その中に入った俺は、口頭試問に望んだ。
「次は……、藤原の不比等か。……なるほど……。よくやっておるようだな。どうだ、辛いか?」
試験官は、大きな冠を被った人だった。好々爺のように穏やかな眼差しで俺を労わるように見つめた。
「いえ。私の過ちにより、多くの人々に与えた苦痛にくらべれば、まだ足りないくらいでございます」
「ほう……」
試験官は驚いたように一声放った。
「そこまで罪の重さに思い至ったか、それは感心なことだ。どうだな、それほどまで思い悩んでおるのなら、もう暫く修行に励むか?」
「えっ? ……それが天命ならば、修行を……」
「戯言だ。冗談のひとつも言わねば息が詰まるからなあ。ところで、餓鬼道はどうだった? さぞ空腹だったであろう?」
冗談にしては度が過ぎる。口から心臓が飛び出るようなことを平気で言う。その後にさりげなく餓鬼道での様子を探っているようだった。
「は、はい。腹が減って狂いそうでした。しかし、私のせいで食うや喰わずになった人のことを思えば、まだ足りません」
俺は、神妙な態度をとり続けた。
「火の山はどうだった? 血の池は、針の山も辛かったであろう。早く死にたいと望んだであろう?」
「いえ。いかに国を思ってであれ、焼き討ちをかけ、井戸に毒を投じ、切り刻んだのですから当然の報いでございます。まだまだ修行が足りぬと思っておりますが、担当様が再三試験を薦めてくださいましたので、それに従いました」
試験官は、俺の言葉を聞きながら筆を運んでいる。あくまでも自発的に受験したのではないことを印象づけることができただろうか。
「なるほど、五度におよぶ勧めで決意したと記録されておる。反省は十分に進んでいるようだな。……ではな、口頭試問はこれで十分だ。書類は上へ送っておくから、心を穏やかにして結果を待つがいい。ヒヒッ」
言い終えるとまた何やら書いて、大きな印をバンと押した。
「その結果でどうなるのでございますか?」
「しれたこと、てんごくへ行けるのだ」
「天国……、夢のようでございます。私などが許されるのでしょうか」
「ああ、十分修行を積んだこと、よくわかった。間違いなくてんごくへ行かせてやろうヒヒッ」
あの試験官は温情溢れる役人だ。後退した額は愛嬌たっぷり。上をむいた鼻も、乱杭歯もごま塩の髭も、どれをとっても普通のおじさんだ。天国に配ばれながら、俺は幸運に感謝していた。だが、俺は作戦勝ちだったことを確信していた。
四度も遠慮し、五度目にようやく申請を出したおくゆかしさは、三顧の礼を二度も上回る。地獄での苦行は辛いと正直に言いながら、罪の重さに較べたら足りないと言ってのけてやった。どうだ、正直さを印象づけて、反省していることを印象づけてやった。知恵はこうして使うものだ。
台風が穢れを吹き飛ばした空に、イワシ雲は、後から後から切れ目なく続いている。その一つひとつに亡者が乗っていた。顔すら知らない同士だが、つい手を振り合ってしまう。永い間地獄で苦しめられた者にすれば、天国は夢の中の夢。そこへ行けるのだから嬉しくてしかたない。それは俺だけではないようだ。
ゆく手に緑に覆われた大地が現れた。入道雲さえ上がってこられない高い空の上だ。大地では、五色に彩られた雲が、生あるもののように舞っている。イワシ雲は、その大地の上にくるとすぅっと消えてしまった。
柔らかな草の褥に放り出された俺は、ようやく念願が叶った事を実感した。天国だ。草萌え、花咲く天国。そこに降り立ったのだ。
後から後から亡者が到着するので、その場にいることはできない。前に従い、ぞろぞろと細い道を俺は歩いた。
木戸があり、その手前に机がずらっと並んでいる。その木戸こそが天国の入り口なのだろう。が、遅々として手続きが進まないので、ずいぶん待たされた。時の感覚がないのでたとえようがないが、待っている間に何度か眠ったくらいだ。
「えーっと、名前を教えていただけませんか?」
女だ。地獄にはいなかった女事務員だ。スモックを着た事務員が分厚い帳簿を前にして作り笑いをうかべている。長い髪を巻上げて、ピンで留め、薄く紅を注していた。両淵の尖ったメガネが理知的な印象を与える、善い女だ。
「藤原の不比等です」
魂が抜けたような声だっただろうか。鈴を転がしたような事務員の声に、俺は一発で腑抜けになっていたのだ。言葉を紡ぎ出す唇のすぐ下にある小さな黒子。眼はそこに釘付けになっていた。
「ふ、ふ、ふ……、ふじ、ふじ……」
その事務員は大柄なのだろう。座った俺と目の高さがほとんど違わない。その事務員でさえ、首から下は帳簿に隠れてしまっている。帳簿はそれほどに分厚いかった。帳簿を最後まで繰って、どうしても名前を見つけられなかった事務員が、背表紙を確かめた。
「……中村けから藤島み……。ご、ごめんなさい。帳簿を間違えていましたわ。うふっ」
事務員は、恥ずかしそうに次の帳簿を繰りだした。
「……はい、ありました。藤原不比等さん。ご本人に間違いないですね? うふふ」
メガネの枠に手を添えてちらっと俺を窺う。そして何やら書き込みをしながら木札を差し出した。
「藤原さんは、大日組です。入り口で札を提示してください。係が案内しますので」
「大日組ってどういうことですか?」
「藤原さんの面倒は大日如来が受け持ちます。それで大日組と……うふっ」
小首をかしげてにっこり微笑んだぞ。やっぱり天国に来れたのだ。俺は誰にもみられないよう小躍りしたのだ。
大日組と幟が翻った広場があった。すでにそこで甘いものを食べている奴がいた。適当なところに腰掛けて机の上に札を置くと、すぐに給仕がやってきた。
「何でも選んでください。美味しいものばかりですよ。あは」
可愛らしい少女だった。持ってきた品書きの中から好きなものを選べということだ。だけど、そこには酒がひとつも載っていない。
「ここは天国なんでしょう? 酒がないようなのですが、何でも楽しめるというのは……」
「いやだ、お客さん。いくらてんごくだからって何でもありじゃないですよ。お酒とお色気は禁止なんです。あはっ」
……だそうだ。
「大日様がお出ましになるまで、昼寝でもしていてください」
給仕は、注文したゼンザイを配んでくると、可愛らしいエクボと八重歯を見せて駆けていった。
「皆さぁーん、準備が整いましたので集まってくださぁーーい」
給仕が一斉に触れてまわった。歓迎会でもしてくれるのか、しつらえられた舞台の上で、給仕が伸びやかな手足を晒して踊っている。
ゴワーーーーン……
腹に響く鐘であった。
その余韻が消えないうちに、舞台の幕がさっと落とされた。
『ようこそ、天獄へ』
一瞬で浮かれた気分がぶっとんだ。天獄……。天国の間違いだろうと囁きが交される。
「皆の者、静まれーっ。これより大日様が御出座くださる。拝伏いたせーーーーっ」
舞台の袖に立った司会者が、甲高い声を出した。
「しばらく、暫くお待ちください。ここは天国のはず、天獄とはどういうことでしょうか」
髪ボサボサの亡者が辛抱できずに声を上げた。
「あんたたち勘違いしてないかしら? 私たちは仏教徒よ。仏教に天国なんかないの。あるのは極楽、お浄土よ。ここは正真正銘てんごくなの。誰か一人でも天国などと言った職員がいるかしら? てんごくと言ったはずよ」
ピッチリとしたスーツの似合う、有能な秘書といった印象の女だ。立て板に水、理路整然として付け入る隙がない。
「ええっ、で、では、あなたは?」
「職員よ、典獄に決まってるじゃない。わからないの?」
司会者は、呆れたように俺たちを見下ろした。
「ええっ……。て、天国じゃないとしたら、ここも牢と同じなのか? 俺たちはどうなるのですか?」
「生まれ変わりの儀式を受けてもらうわ。ミジンコか、カゲロウか、蛙か蛇か。イタチかもしれないし、熊かもしれない。もちろん、……人というのもあるわよン」
あらゆる生き物に生まれ変わるのだと語った。ただ、最後に人を付け加えたとき、謎めいた笑みをみせたのだ。
「ど、どうせ生まれ変わるなら人がいい。人にしてください」
「そう、人がいいのね? ふぅん……。人に生まれ変わって、また罪を犯すんじゃないの? 何十年も苦労した挙句に死刑になって、それでまた地獄へ行くのね? いい覚悟ね」
我慢しきれないらしく、クスクス笑っている。
「ミジンコだったら?」
「すぐに食べられて死ぬわ、罪を犯す前に。そうしたら文句なしで極楽へ行けるわよ」
「じゃ、じゃあ、ミジンコを希望します」
即座に答えがあった。
「ムフゥーン。よ・く・ば・りっ。そう上手くはいかないわよ」
人差し指をたててチッチッと振った。
「どういうことですか?」
「大日様があんたたちを落とすのよ、櫓の上から。ポチャンと落ちた池には底がないの。真っ逆さまに地獄へ逆戻りするのよ」
「う、嘘でしょう?」
「大真面目だってばぁ。どこまで落ちるか知ってる? 皆さんおなじみの針山よ。見事針に刺さったら生まれ変れるわ。刺さらなかったら、地獄でやり直し。刺さった針の色で行き先が決まるの。一番有難味のある針は少ししかないのよね、気の毒だけど。でもね、一本だけ、特別な針があってね、生まれ変らずに極楽へ行けるのよ。見事に命中するとね、蓮の花が咲いて教えてくれるのよ」
典獄と名乗った女は、うっとりとして口を噤んだ。
キャッキャキャキャキャキャ……
亡者がポチャンと落とされるたびに狂ったように笑い、大日は手を打ち鳴らして大喜びした。
とうとう俺の番になった。身を竦ませている俺を指先でひょいと摘んだ大日は、針の先よりずっと小さい針山に狙いを定め、ひょいと指を離した。
ギャーーーーーーーー
息の続く限り俺は叫んでいた。千切れそうになるほど耳がバタバタはためき、馬鹿みたいに開けた大口に空気が塊となって詰め込まれる。ボロだった着物はあっけなく脱げ落ち、下着もするりと解けて散った。それでもまだ落ち続けている。
はるか遠くに小さな塊が見えてきた。そこへ向かって俺は凄い勢いで落ちている。俺の前に落とされた亡者が遠くに見える。きっとそいつも、できれば気絶したいと思っていることだろう。
黒く見えていた山は、実は無数の針が突き出たものであることを俺は知った。金の針、銀の針、だけど、圧倒的に多いのはどす黒い針だ。
ギューーーーーーン……
先に落とされた亡者が針に近づいたと思ったとたん、尻から針が突き出てきた。
ポン
突き刺さった亡者が煙になった。もわっと広がって、すぐに縮んでしまう。初めから何もなかったかのように。
俺の視界に金色の針がとびこんできた。きっとあれに刺さったら極楽へ行けるのだろう。だけど、真っ直ぐ向かっていると思っていたのに、隣の針に落ちているようだ。隣でもいい。そこは銀色の針がかたまっている。
いいぞ、いいぞ、その調子……
ところが良く見れば、沢山生えている針ではなく、隙間に落ちている。
じょ、じょ、冗談じゃない。地獄へは戻りたくないんだ。
俺は、懸命に手足をばたつかせた。すると、少し向きが変った。もう何色でもかまわない。どうせこのままぶち当たって無事なわけがないのだ。いっそひとおもいに殺してくれ。
閉じることのできない目が、一本の針を見据えていた。
ギトギトに尖ったそれは、すでに指呼の間に迫っている。そして、先端が目の先に迫った。
俺はもがいた。手足を突っ張り、徐々に近づく光にのみこまれまいと足掻いた。だが、奇妙なことに、超スローモーションになってなお、光に向かって押し出されているのだ。
い、嫌だ、地獄は嫌だ、あぁぁ。
懸命に最後の悪足掻きをした。
「……ご主人、このままでは危険ですので、急遽開腹します。よろしいですか?」
返事のかわりにドサッという音を聞いた。
ここは?
人に生まれ変わったことを知った俺は、すべての希望とともに記憶も失った。