死合
レギオルが地上に解放されてより、3カ月、季節は冬になっている。彼はその強靭なる生命力と類い稀な回復力によって、体力を取り戻しつつあった。独房から解放されてから最初に行ったのは身体を清潔に洗い清める事だった。長い独房生活により、皮膚は浅黒くなりかびたような色をしており、髪はもはや油で塗り固めたがごとく凝り固まっていて、ぼさぼさの髪の奥には虫が湧いていた。伸びきった髭は顔を蔽い隠し、爪は茶色く変色しきっていた。体力の低下が著しかったため、湯浴みはかなわず、湯に浸した布で身体を拭いた。あまりの臭いに下女が嘔吐したほどであった。2、3日はベッドに寝たきりであり、食事も芋粥を中心としたものであった。しかし、回復は早く3日目にはか細い声ではあるが、話すことが出来るようになっていた。
「感謝・・・する」
食事を運びに来た下女に礼を言う。彼女は驚いた顔をしたが、すぐに普段の澄まし顔に戻ると、頷き一言も発することなく出て行った。
「・・・・・・・」
自分は何故、このような所にいるのだろう。兵士は恩情による釈放だと言った。おそらくその通りだろう。虚偽を言う理由がない。ならば、自分はもう独房に戻らなくてもよいのだろうか。わからない。まだ完全に自由と決まったわけではなく、身体も思うように動かない。ここは世話になる方が賢い選択だろう。今は無理をせず、休息を第一に考えるべきだ。思考を巡らしていると、先ほどの下女が大きなたらいを持って入ってきた。
「話せるようになったって事はかなり回復してるわね。あんなに弱ってたのに。呆れてものも言えないわね。どんな身体してんるんだい。あんたを生んだ母親を見てみたいさね」
「・・・・知ら・・ない。母は・・見たことはない。・・俺は・・孤児・・だった」
「・・・・そうかい。それは余計な事を聞いちまったね。髪の毛を洗うついでだ、水に流しておくれ。」
レギオルはゆっくりと頷くと目を瞑り、数年ぶりの洗髪とその心地よさを味わった。下女は仕事が終わると、たらいを持ってさっさと退出してしまった。
再び一人になった部屋で、レギオルはベッドに仰向けに寝て白い天井を見上げた。視覚はもうだいぶ慣れてきた。若干の疲れは感じるが、じきに戻るだろう。右腕を目の前まで持ってくる。細い腕だ。記憶にあるものとはかけ離れている。ギュッと力を込めて拳を握る。驚くほど力が入らない。これでは元の体力を取り戻すのにどれくらいかかるだろうか…
ふと気配を感じた。部屋の外の石畳の廊下、その更に先だろう空間からこちらに向かってくる者がいる。只者ではない。下女ならばここまで自分の感覚が警報を鳴らさない。気配の主はまだ廊下に差し掛かってはいない、が、わかる。こちらに向かっている。この察
知能力、或いは究極までに研ぎ澄まされた第6感ともいうべき直観は、まぎれもなく彼が暗黒の中でその身体と人生を犠牲に手に入れたものであった。
入ってきたのは白銀の甲冑を身に付けた騎士であった。腰には家紋が入った装飾付きの剣を帯びており、紺色の上等そうなマントを羽織っている。目が細く吊り上っており狐顔に分類されるだろうが、全体的に整ってはいる。品のある出で立ちからして彼が貴族であることは容易に想像がつく。
「失礼します。まずは病床の身にあるとしりつつも入室する非礼をお詫びします。私の名前はクーロン=イオニアと申します。レギオル殿…でよろしいでしょうかな?」
レオギルは小さく頷く。
「無理をなさらなくても結構です。ただ一方的に私が貴方に興味があっただけなので」
イオニアはそう言うとレギオルの天辺からつま先までじろじろと遠慮なしに観察する。
「ふむ、想像以上の回復力ですね。」
「貴方が・・俺を牢から・・?」
「いえ、私ではありません。そうですね、私の主の更にその上辺りですね。私は一介の小領主、大罪人を無罪放免にするなどとても出来ませんよ、亡霊さん。」
「・・・・・・」
「まぁしばらくは、通常の私生活が送れるようになるまで静養してください。その内、私の主からお呼びが掛かるでしょうから。安心してください、その時までは命は保証します。それを言いに来たのです。では、またお会いしましょう。」
イオニアはそう言うとさっそうと部屋を出て行った。飄々としているが隙のない立ち振る舞いは彼の武人としての才覚を証明しているようだった。
「(どうやら、すぐにここを去る必要はないようだな。信用できるかはまだわからないが)」
感情のなさそうな虚ろな瞳が瞼によって閉ざされると、彼の意識は自然と暗闇の底へと落ちて行った。
解放されてから三か月、季節は冬となり、多くの民が家に籠り寒さから身を守るなか、レギオルは鉄鎖騎士団の一人として、訓練に参加するようになっていた。彼の回復は驚異的であり、既に他の団員と同じ通常訓練をこなすようになって2日が経過していた。
支給された武器防具は、鎖の胸当てに鉄の籠手、鉄製のヘルムに、鉄の膝当て、すねまで隠せる皮のブーツ、そして鋼鉄製の剣、これは片手剣と両手剣から選ぶ事ができた。レギオルは150cm程の両手剣を選んだ。
美しい剣舞が訓練場の片隅で行われている。流れるような剣の動きは一切の無駄がなく、如何に最も楽な姿勢で、且つ安定した体勢で人を斬れるかを追求しているようであった。それ故か、誰もが彼の舞うような美しさに目を奪われていたが、時折背筋に冷たいものが走る瞬間を感じているようでもあった。
「おい、あんたが噂の亡霊か?昨日からここに来ているようだが、俺たちに一言の挨拶もねぇのはどうかと思うがな」
話しかけたのは、スキンヘッドの頭部に入墨の入った男であり、彼を真ん中にした両脇の2名は短髪、顔にある傷跡が特徴的だった。
「ここにはここの流儀がある。新入りにはそこの所を弁えてほしくてな。郷に入っては郷に従えって言うだろ?」
入墨の男が言った。
「・・・その流儀とは?」
「なに、簡単なことよ。要は誰が一番強ぇかってことだ。あんたも知ってんだろうが、ここにいる俺たちはすねに傷のある野郎ばかりだ。お上のおかげで今じゃ正規軍様のご身分だが、内実までは変わらねぇ。力が全て、そうだろ?」
入墨の男は薄ら笑いを浮かべると、得物を抜いて剣先をレギオルの前に突き出す。
「・・・・・・・・・」
レギオルは男の顔から剣先に視線を移すと、無言のまま今度は周囲を見回す。いつの間にか彼らを遠くからぐるりと囲むように人壁ができていた。
(おい、こりゃ見ものだぜ。暴虐のペックと亡霊レギオル、どっちが勝つんだ?)
(そりゃペックの旦那だろう。亡霊の方はまだ病み上がりだぜ。いくらなんでも無理だろ)
(いやいや、さっきの剣舞を見ただろ?案外わかんねぇぜこりゃ)
「ギャラリーもいつも以上に盛り上がってるようだな」
「ええ、なんたって旦那と話題の亡霊ですからね。ではそろそろあっしは賭金を集めてきやす」
「ああ、頼んだぞ。いつも通りにな」
「了解です」
両脇の男達がヘルムを逆さに持ち周囲の人壁に賭金を出すように呼び掛けると、あっという間に二人のヘルムは賭金でいっぱいになった。ほとんどが銅貨か銭貨で(クズ鉄を多く含んだ銅貨で、10枚で銅貨1枚)、稀に羽振りのいい奴が銀貨(大銅貨10枚、銅貨100枚)を入れていたが、中には金貨(銀貨10枚)も1枚入っていた。
「おい金貨だぜ!誰だ?」
「私です」
「!!これはイオニア卿じゃないですか。その宜しいので?」
「それは賭試合の事ですか?それとも金貨の事でしょうか?どちらも結構。続けてください」
「はい、わかりやした。所でこちらのヘルムでいいので?亡霊の方になりやすが・・」
「知っていますよ。だから賭けたのです」
「左様ですか。了解しやした」
「さぁさぁ!もう賭ける奴はいねぇのかい!?締め切っちまうぞ!」
「もうこうなったらやるしかないなぁ?亡霊さんよ」
「・・断る」
「なっ!?」
「俺は試合はしない」
「何だと?てめぇ・・・何言ってるかわかってんのか?俺を誰だと「悪いがお前が誰だろうと俺には関係のないことだ。試合をしたければ他を当たるんだな」
「ふざけるなよ!逃げられると思ってんのか!?」
「騎士団内部での私闘は厳禁じゃなかったのか?イオニア卿?」
「・・確かに試合は厳禁ですね。試合は」
「・・なるほどな・・」
「というわけだ、残念だな。お上は黙ってるってよ。お前が確認さえしなけりゃ只の試合ですんだんだがなぁ。亡霊も今日までってことだ、成仏するんだな。」
「・・・・・・・・・」
レギオルは一呼吸置くと、やはり沈黙したまま剣を静かに上段へと構えた。ペックも片手剣を前に突き出し、盾を構える。空気が一瞬にして張り付き、緊張した雰囲気が場を完全に支配した。
仕掛けたのはペックの方だった。勢いよく地を蹴ると、一気に距離を詰めて剣を突き出す。剣先は鋭い音を鳴らしながら空を斬った、レギオルは前に出た左の軸足をそのままに左へ半回転して紙一重でペックの突進突きを回避し、前のめりになった彼の巨体めがけて剣を振り下ろす、が、それを読んでいたかのようにペックはそのまま体重移動を利用した左回転を行い、左手に持った盾を頭上に掲げつつ右手の剣を脇腹めがけて振り上げる。レギオルは既に剣を振り下ろした後だったが、咄嗟に剣を離してこれを後方に回避、ペックの会心の一撃は空を斬り、彼の表情は驚愕と悔恨に歪んだ。その一瞬にレギオルは再度懐に飛び込み、がら空きの胴にひざ蹴りを放つ。くの字に悶える彼の腕を、己のひざを支点にしたテコで勢いよく折った。
「ぐあぁぁ!」
激痛が走る。肘はありえない方向に垂れさがり、手から剣がこぼれ落ちる。
レギオルは、ひざで腕を折ったのちその腕を引っ張って自分の側方に放り投げた。ペックは地面に転がされ、うめき声をあげながら何とか立とうとするが左手に持っていた盾を蹴り飛ばされ、再度突っ伏せてしまう。素早く剣を拾ったレギオルはペックの傍らに立って首に切っ先を突き付ける。
「・・・参った。俺の負けだ。こ、殺しだけはやめてくれ、頼む。まだ生きたいんだ・・」
「・・・・・・」
「・・頼む。本当だ。女がいるんだ。娼館で働いてる、また俺と会う約束をしてる。そいつの為に、これからは真面目に生きるって話して・・本当なんだ・・虫のいい話しなのはわかってる・・。頼む・・。」
ドカッ!!
ペックは蹴り上げられ顔が見えるように仰向けにひっくり返された。苦痛と恐怖によって顔面は蒼白であり、唇は僅かに震え、目には怯えの色が滲み出ていた。
「・・・・・・」
カラン
レギオルは剣を放り投げ、背を向けると自分の両手剣を拾い、再度ペックに向き直った。
カツン、カツン
ペックの傍らまで来る。全員が息を呑む。
カツン、
レギオルは彼を視界に納めることなく通り過ぎ、人壁の前まで来ると瞬時に剣を振った。
カキン!!
短剣が弾かれていた。
「困りましたね。彼は死なないといけないのですが」
「敗者の命をどう扱うかは勝者の権利だ」
「ですがこの場合は私闘になってしまうのでこちらも不都合なのです」
「こいつを殺すか、殺さないかは俺次第だ。それが戦場だろう?」
「・・・あなた達はまだ公式には軍ではないのですがね」
「ならば尚更だ。剣で奪われたものは剣で贖う。それが傭兵の掟だ。こいつの命は俺のものだ、こいつがももう一度俺に勝たないかぎり」
「やれやれ。どうしても殺したくないようですね。それとも臆したのでしょうか?」
「必要とあらば幾らでも斬る。俺たちは鎖のついた猟犬だからな。だが共食いは御免こうむる。飼い主なら飼い主らしく得物を与えてれ」
「なるほど。これは一本取られましたね。・・・わかりました、いいでしょう。好きにしなさい。あなたの健闘を称えて今回は目をつむります。」
「感謝する」
「いやはや、それにしてもすごい反射神経ですね。撃ち下ろしの途中で剣を離すとは。普通の人には出来ませんよ、そんなこと。騎士の闘いではないですが、実践で鍛え抜かれた臨機応変さがありますね。実に興味深い。(イットリウム卿を斬ったというのはあながちデマでもないかもしれないですね)」
「俺にはこれしかないので」
「謙遜するとは。常識もあるようですね。面白い。今度ゆっくり話しましょう。今日は良い報告ができそうです。」
「・・・・・・・」
「沈黙は汝の価値を高むる、ですか。また会いましょう」
イオニア卿は踵を返すと建物の中に入って行き、その背中はやがて見えなくなった。イオニア卿が去った後もしばらくの間静寂が訓練場を包んでいたが、やがてレギオルがペックに手を貸して立ち上がらせると、男達の割れんばかりの大歓声が辺り一帯に鳴り響いたのだった。