蝦蟇の油油売りby僕
革堂くんが精神的にいたぶられます(笑)
さて、僕は今、保健室のベッドで横になっている。
顎に蹴りが入るって、格闘技でも結構危ない怪我だと思うんだ。だから、ヘタレとか貧弱とか言わないで欲しい。
アニメなんかだと保健室にはやたら巨乳な保健の先生がいて、誘惑してくる淫乱か、よく転ぶ天然かの二択なんだが、現実はなんと残酷なことでしょう。
「骨にはギリギリ異常ないわ、転んだにしては絶妙な具合だこと。誰かが丁度良い力加減で蹴ったみたいじゃない」
タラコのような唇から見事なダミ声で紡がれる台詞は、なかなかに的を得ていてギョッとした。問題にされると面倒なので愛想笑いで誤魔化す。
「ま、アンタは多分大丈夫ね」
「はい?」
薬品を棚に戻しながら、先生が言う。その背中に向けて尋ねると、山のような肩がゆっくりと動いた。
「この仕事が長いとね、生徒の人間性……みたいなものが、なんとなくわかるようになんのよ。ちなみに保健の先生じゃなくて養護教諭ね。アンタは誰かに否定されて生き辛くなったら、自分が消えるよりは相手を消すタイプよ。だから大丈夫」
「教師の台詞ですか、それ?」
アタシは養護教諭だからね。先生はそう言って器具を片付け終えると、おもむろに僕の布団を剥がした。
「幼なじみかっ!!」
「何を訳のわからない事言ってるの。骨には異常無いって言ったでしょ?ボクサーじゃあるまいし、脳震盪を起こしたわけでもないんだから湿布で十分!」
「痛ぁっ⁈」
貼り方!!
効果音をつけるとしたら、べしっ、だったと思う。湿布を一枚顎に貼り付けられ、保健室から蹴り出された。
「保健室で休みたいなら、もう少し儚げな美少年になってからにしな!」
本音の後、ピシャリと扉が閉められた。
それでも教師か!
と思ったが、そうか、養護教諭ね。
それでも、彼女なりに励ましてくれたらしい事はなんとなく感じた。
昼間とはいえ、静寂が支配する廊下を一人で歩くのは結構怖い。最近の幽霊はTPOなんて気にしないしさ。幽霊も現代人化してるからなのかな?
なんてしょうもない事を考えながら時計を見れば、授業が終わるまであと15分だ。
「あら、中途半端」
このタイミングで授業に戻ると悪い意味で目立つ。だけでなく、せっかく今日のまとめに入ろうとする先生に無用の手間をかけさせてしまうだろう。何事も中途半端というのはよろしくない。
「よし、サボ……もとい教室で待機していよう」
決意して顔を上げれば、こちらへ向かってくる人影があった。顔はよく見えないが、どうやら女子の制服を着ている。
(あの娘も病弱系かな?授業を抜けてくるとは、中々の上級者と見た)
と、次の瞬間、身体中の毛穴が一斉に開き、心臓が締め付けられる。
……これはヤバいやつだ。
冴えない僕の第六感が久々にフル稼動して危険を伝えてくれたのだが、僕の身体は靴底から杭を打ち込んだように動かない。おかしいな、脳内には元来た道を戻って保健室に逃げ込むビジョンがはっきり浮かんでいるのに、両脚がそれを実行しようとしない。
いや、両脚だけじゃない。両腕も、声帯までも僕の思い通りには機能していなかった。かろうじて動く眼球で足元に視線をやる。
動けないわけだ、僕の膝は信じられないくらいに笑っていた。両腕は電池の切れかけた玩具のようで、むしろ滑稽に映る。
恐怖。それが僕の膝で爆笑ライブをやっているものの正体だと気付いた頃には、視線すら足元を見たまま動かなくなった。
一歩、また一歩と近付く足音。手足は動かないのに、汗腺だけは律儀に働いている。僕に出来るのは、広がる汗の水たまりを眺めるくらいのものだった。そして、
「……くん、革堂くん」
それ以来、革堂くんの姿を見かけた者は誰も……じゃない。水たまりの先にローファーが顔を出し、聴き覚えのある声が僕の名を呼んでいる。
いつの間にか身体の自由も戻り、顔を上げる事が出来た。視界に現れたのは、やはり見覚えのあるショートカット。
「ひ、平野……?」
「うん、平野だよ。それよりどうしたの、その汗⁈熱でもあるの?」
確かに尋常じゃない量だ。未だに額からは汗が流れ落ちているし、ワイシャツもぐしょぐしょで気持ち悪い。
「熱があるって事で帰っていいかな?シャワー浴びたい……。それより委員長はなんでここに?サボり……なわけないか」
平野さんってば病弱どころか、明るく元気なクラスの中心じゃないですか。薄い本で酷い目に遭えばいいのに。
「お昼休みに阿部くん達とその……あったでしょ?痛そうにしていたから気になって」
「そっか……心配してくれたみたいで、えっと、ありがと。でも、よくそんな理由で授業を抜けられたな」
委員長ですから。
そう言って悪戯っぽく笑う平野に思わずドキリとする。リア充組だと思っていたのであまり話した事は無かったが、なるほどクラスの中心になるわけだ。
整った目鼻立ちに、明るいが五月蝿くはない声、誰だって自分の側に居て欲しいと無意識に思ってしまうだろう。僕だってもう少し自分に自信があれば、ここらで気の利いた台詞でも言いたいところだ。
「ふぅん、そう。あぁいうのが好みなんだ」
今度は汗腺が一斉に働かなくなった。何故かって?驚き過ぎたのさ。
誰も居なかったはずなんだ、1秒前までは。僕の背後、耳元で囁く声にもまた聴き覚えがある。
「じ、じじじ、陣貝さん⁈いつから居たの⁈」
気持ち悪いくらいに上ずった声で振り向くと、やはり彼女だ。髪を結い上げ、制服の上に白衣を着ている。そういや化学の授業だったな。
「ついさっき。革堂くんが鼻の下を伸ばしてる辺りから」
野原家のお父さんか!
まぁ、伸ばしていなかったのかと訊かれたら……ちょっと伸ばしてました。
「陣貝さん、私、そういうつもりじゃなかったの!ただ、革堂くんが心配で……。それだけなの、何にもないよ?」
どうした訳か、血相を変えて説明を始めた平野。ちょっと顔色悪くないか?
「どうしてそんなに怯えてるの?私何か言った?無表情なのは自覚してるけど、怒ってるように見えてる?それとも……」
なにか後ろめたい事でもあるの?
その一言で平野は言葉を失い、泣き出しそうな顔で走り去って行った。
陣貝さん、言い方が良くないよ。あれじゃ僕らがまるで恋人同士で、陣貝さんが嫉妬してるみたいだ。
僕なんか今日初めて君の存在を知ったってのに、そんな風に真顔で質問責めにしたら…….あれ?
ていうか、うちのクラスって、そんなに人数多かったかな?
「革堂君、次の授業は日本史だよ。時間通りに席に着いてないと、間宮先生がうるさいと思うけど」
時計を見ると、とっくに前の授業は終わり、本日最後の授業まであと3分だ。
日本史の間宮ね、確かに僕も一度怒られたよ。廊下の端にぶん投げられた靴を取りに行ったら授業に間に合わなくて、理由を説明する気も無い僕は平謝りのスキルを手に入れたんだ。
回想を終えると、時計はあと2分を切っている。
「走るの嫌いなんだけどなぁ……。ていうか、陣貝さんもう居なくなってるし」
駆け出した僕は、さっきまで巡らせていた思考の事なんてすっかり忘れていた。
体育館裏じゃないって?
まぁまぁ、そう焦ってはいけません。楽しみは後に取っておくものですよ、旦那。
あまり取っておきすぎると腐りそうなので、次は行ってもらうとしましょう。