指先のひとひら
***
そのときまで、私は盲目だったのでしょうか。
あるいはそのときまで、私は生まれていなかったのでしょうか。
その感情を知ったときから、私の世界は一変したのです。私の心臓を稲妻が貫き、微睡みにも似た優しい闇が喪われました。そして私の目は、これまでよりも鮮やかで烈しい景色を映すようになったのです。
すべては、あなたと出逢った瞬間から始まったのです。
決して触れられない額。決して届かない唇。あなたと私は遠く離れてしまいました。けれどあなたのくれた世界は、私の眼前に広がっています。
私は山の上に結ばれた草庵から、ふもとの灯りを見下ろします。この灯りのどれかがあなたの住む場所なのでしょうか。
私たちは再び相見えることはないでしょう。だからこそ私は祈ります。あなたの幸福を、そしてあなたを取り巻く世界がいつまでも優しくありますようにと。
夜が更けていきます。私はため息を漏らしました。
今、私の魂は満たされています。
あなたがそこにいてくれて、あなたに出逢えて、あなたを愛することが出来たから。
***
あの人と私は山のふもとの小さな屋敷に住んでいました。彼は少しばかり名の売れた人形師で、私たちの周りにはいつも沢山の人形がありました。私は、ともすれば寝食も忘れて仕事に熱中する彼の世話をしながら生活していました。
「ありがとう」
文机の上に湯呑みを置くと、彼が私に微笑んでくれました。それだけで舞い上がってしまいそうになります。殆ど外に出ることもなく生きてきた私にとって、彼こそが世界だったのです。胸に熱いものが広がっていき、私はため息を漏らしました。
私は至上の幸せを噛みしめていました。彼が次の言葉を発するまでは。
「そういえばね、君を貰ってくれるという人がいるんだ」
私は驚いて彼の顔を見つめました。彼は口を手で押さえて何度か咳をしてから話を続けます。
「町外れの山の上に住むお坊さんなんだけれど、きっと大切にしてくれると思う」
どうしてそんなことを言うのですか。私はあなたの傍にいたいのに。そう言おうとしても、声にはなりませんでした。私の意思など通るはずはないのです。もう彼が全てを決めてしまっていて、私は何も口を出すことは出来ないのです。彼は雪のように白い手を私に伸ばしました。そしてとても優しい手つきで、私の長い髪を梳きます。
「明日、その人が君を引き取りに来てくれるから」
思った通り、この決定は覆すことが出来ないのです。私は静かに頷き、彼の部屋をあとにしました。
私は彼が人形を保管している部屋を寝室としていました。とはいえ、その部屋にはもう一体も人形がありません。全て他の人に貰われていったのです。ですから、明日には彼と別れなければならない悲しみを癒してくれるものは何もありません。私は窓から射し込む月明かりの下で、涙を流さずに泣きました。
全てが急すぎることでした。
ずっと彼の傍にいられると思っていました。
体がばらばらになってしまいそうなくらいに痛みます。沢山の気持ちが私の体を突き破っていくようにも感じます。私は蘇芳色の長羽織の胸元を掴みました。
どうして、私とともに生きてはくださらないのですか。
悲しみと寂しさ、そして彼に対する怒り。今までにないほど強い感情が胸を渦巻きます。私は呪いました。けれど彼に対する愛情は消えるどころか、憎しみを養分にしてどんどん膨れ上がっていくのです。そして膨れ上がった愛情は、新たな苦悩を呼んでいきます。
嗚呼、何ということだろうか――この無間地獄は。
彼を愛さなければこんな気持ちを知ることもなかったのに。私は一晩中、声を出さずに泣き続けました。
夜が明け、私を引き取りたいという老僧が屋敷にやってきました。
その肩書きの通り、穏やかで優しそうな人でした。人形師である彼とは違う雰囲気を持っています。彼は物腰こそ柔らかいものの、職人らしく頑固で神経質なところがありました。しかし老僧の方は、もっと大らかな気配を纏っています。
きっと私を大切にしてくれるのでしょう。けれども、私の想いは狷介なあの人の方にあるのです。私は彼の後ろに立ち、蚊絣の着物を纏った華奢な背中を見つめ続けていました。彼は何度か咳をしてから、老僧に向かって微笑みました。しかしその笑顔はどこか引き攣っているようにも見えます。
「彼女を、宜しくお願いします」
「ええ、大事にしますよ」
老僧は彼よりも遥かに自然な笑みを浮かべ、そっと私の手を握りました。その手は暖かくて、私は泣きそうになりました。私はついぞ、あの人に手を握ってもらったことなどなかったように思います。
胸に何かがつかえているような気がしました。
どうして私は彼を愛してしまったのでしょう。
苦痛が憎しみの刃に変わり、私を突き破ろうとします。あなたを愛さなければ。あなたと出逢わなければ。あなたがいなければ。そんな感情を込め、最後に彼を見つめます。
「……さようなら」
彼は殆ど消えてしまいそうな声で、そう言いました。
その目は秋の空のように澄んでいて、けれどとても悲しそうな色をしていました。そんな目をするくらいなら、私を傍にいさせてください。私はそう叫び出したくなる衝動を堪えました。彼との別れは既に定められたことだったからです。
本当は知っていました。別れは必ずやってくるということを。そして、彼が私を手放した理由も。それでも彼を、この運命を呪ってしまうのは、彼を愛していたからです。そしてその愛は別れの運命などとは比べものにならないくらいに、逃れられないものだったのです。
私は何も言わず、老僧に手を引かれるままに歩き始めました。住み慣れた屋敷を離れ、町外れの山の上にある草庵へ。けれどもやはり振り返って、もう一度あの人の姿を目に焼き付けます。
さよなら――私は心の中で呟きます。乾いた風が吹いて、あの人の少し長い髪を揺らしました。
***
老僧に引き取られてから、幾つかの季節が巡りました。
離別の苦しみは、時が薄れさせてくれました。それが幸せなことなのかは、私にはわかりません。私は真夜中にこっそり縁側に出て、ふもとの町を見下ろしました。沢山の灯りが見えます。あのどれか一つにあの人がいるのでしょうか。それとも、いないのでしょうか。
「随分寂しそうな顔をしているね」
優しく芯の通った声が聞こえました。老僧のものです。老僧は私の横に腰掛け、ゆっくりと言葉を続けました。
「彼のことを考えていたのかな?」
私は老僧からそっと目を逸らしました。この草庵で暮らすうちに、仏の教えについては多少の知識を得ていました。愛は悩みや苦しみを生む。だから愛する人を作るのはおやめなさい。そんな言葉があったはずです。それは私も痛いほどわかっていたのです。しかし中々、その想いから離れることが出来なかったのです。
「いいのですよ。愛から離れることは難しい。だからこそ『愛する人をつくるのはやめなさい』という教えがあるのです」
私にはどういうことかわかりませんでした。老僧に体を向けると、彼は凪いだ海のような声で話を続けます。
「肝要なのは、彼に対する愛をより高い次元へと昇華していくことですよ。わたしに言えるのはこれだけです」
皺だらけの手が、私の長い髪を梳きました。一陣の風が木々の梢を揺らすと、眼下に見える町の灯りが幾つか消えていきます。
「この季節はまだ冷えます。早く部屋にお戻りなさい」
老僧はそう言って、ゆっくりとした足取りで私から離れていきました。私も彼の言う通りに自室に戻ろうとしましたが、ふと足を止めました。彼に言われたことを考えていたのです。「愛をより高い次元へと昇華する」とはどういうことなのでしょうか。私は月を見上げながら、そのことについて考え始めました。
空に浮かぶのは朔日を過ぎたばかりの二日月。引っ掻き傷のような月は、どこかあの人と同じような雰囲気を纏っていました。柔らかいのにどこか冷たい光。
嗚呼、と私は目を瞑って嘆息しました。
――不意に、意識がふわりと浮き上がったように感じました。視界が黒に染まっていきます。
暗闇の中で、誰かが私に触れています。井戸の水と同じくらい冷たい手。その手は慎重な手つきで私の腕に着物の袖を通します。肌触りから言って、これは長襦袢でしょう。そしてその上から、少し重い着物を着せられました。あの人が好んでいる備後絣の着物でしょうか。こんな暗闇では、それも判断することが出来ません。腰の辺りを紐や帯で締められます。少し息苦しいですが、背筋が伸びるような気もしました。
私に着物を着せていた誰かが、詰めていた息をそっと吐き出す気配がします。その人は何度か深い呼吸を繰り返してから、今度は私の顔に手を伸ばしました。
綿のようなものが頬に軽く押しつけられ、やがて離れていきます。次に唇の上を細い筆のようなものが這いました。他人に顔を弄られているけれど、不思議と嫌だとは思いませんでした。
私には一つの予感があったのです。
『嗚呼、漸く出会えた』
そんな声が聞こえると同時に、急に視界が開けました。
見えるのは秋の空のように澄んでいて、どこか寂しそうな漆黒の瞳。そして蚊絣の着物を纏った細身の男性。私の胸の中に紅が滲んでいきました。数多の感情が溢れ出します。
それは今までにはないことでした。私はそれより前にどんな景色を見ていたかも思い出せず、ただ鮮やかに広がる新しい世界を全身で享受していました。
こんな喜びも、幸福も味わったことはありませんでした。
私は唐突に思い出しました。私はあの人に出逢った瞬間に生まれたのです。愛情から生まれる喜びも寂しさも、全てあの人がくれたのです。
月に向かって、私は再び目を開きます。そして彼がくれた光を、彼がくれた幸せを噛みしめました。
ありがとう、私は虚空に向かって呟きます。
今頃彼は眠っているのでしょうか。現在は人形すらいない家で、一人で生活しているのでしょうか。願わくば彼が健やかでありますように。彼を取り巻く世界が穏やかなものでありますように。月明かりを浴びながら、私は心の底から祈ります。
心は今までに無いくらいに凪いでいました。
私は彼の存在によって生まれたのです。それ以上の幸せが、この世の中にあるというのでしょうか。これよりも深い愛が世界にあるというのでしょうか。
もう決して相見えることはないでしょう。それでも私は構わないのです。
――そのとき、一片の雪が天から舞い降りてきました。
季節は冬の終わり。名残雪にしても少し遅すぎるような気がしました。私はその雪に向かって腕を伸ばします。
雪は重力を無視したように悠然と舞い、私の指先に触れて溶けていきました。
◇◇◇
冬が終わり、春が訪れようとしていた。
僕は紺色の中羽織を肩に掛け、屋敷にある小さな庭に出た。真夜中に外に出るのは体に障るのはわかっている。しかし、今日は何故か外に出たいと思ったのだ。
庭に出ると町外れの山が見える。彼女は今あの上にいるのだろう。
僕は彼女を愛していた。狂おしいほどに。
だからこそ僕は、彼女との別れを選んだのだ。
僕は口に手を当てて咳をした。喉に鉄の味が絡みつく。体を折ってもう一度咳をして、口から黒ずんだ血を吐き出した。
彼女を手放してから、幾つかの季節が巡った。あのときの予想よりは生き長らえている。けれどももう潮時なのかもしれないとも思う。自分が弱っていく様子を、死ぬ瞬間を、彼女に見せたくはなかった。
――何故なら彼女は僕と違い、老いることも、死ぬこともない絡繰人形なのだから。
どうして彼女を愛してしまったのだろうか。初めて作った絡繰人形だからだろうか。表情が変わらない人形のはずなのに、彼女には何故か感情があるように見えた。それは僕が彼女にそれを見出したに過ぎないのだろうか。決められた通りにお茶を運ぶだけの存在に、人間らしさを求めてしまっていたのだろうか。
考えても、僕にはわからない。
彼女と過ごしていた時はとても幸福だった。本当に穏やかな日々だった。彼女を作れたからこそ、僕はこの世界に生きていて良かったと思えたのだ。この愛が成就することはない。僕は人間で彼女は人形。その壁は厚い。あのまま一緒に暮らしていたとしても、僕の想いが叶うことはなかったのだ。
それでも構わない。たとえ届かなくても、彼女がこの世に存在していることこそが僕の幸福なのだ。
だからもう、ここで死んでも悔いはない。
僕はゆっくりと夜の空を見上げた。
引っ掻き傷のような二日月が浮かんでいる。月が彼女の白い横顔と重なった。僕は嘆息してそっと目を瞑る。
不意に、一陣の風が吹く。微熱に冒された体をそっと冷ましてくれるような優しい風だ。
僕は目を開く。その瞬間、天から白いものが降ってくるのが見えた。雪だろうか。でも、もうすぐ春だというのに。
よくよく目を凝らしてみると、それは桜の花弁のようだった。殆ど白に見える薄桃色。近くに桜の木なんてないはずなのに。漆黒の空からふわりふわりと降りてくる花弁は、どこか彼女を彷彿とさせた。
僕は空に向かって手を伸ばす。
一枚の花弁が僕の中指の先に止まり、夜の風に攫われていった。
古風でありながら、細かい部分は色々とぼかしました。
人形師の病気、時代等は読者のご想像にお任せしたいと思います。
抽象的なお話として捉えて頂ければ幸いです。
歌詞をモチーフにした小説って難しいですね……。
深山瀬怜