10月23日 晴
サクラは消えてしまった。
ささやかな奇跡は終わってしまった。
日記を書くのは、今日で最後にしよう。
それでいい。それでいいと想うから。
☆ ★ ☆
妖精の鏡はとうとう割れてしまいました。
人間の町。大きな町の空気は、妖精の住む森とは違いすぎたのです。
粉々に割れた鏡の破片を掻き集め、妖精は泣きました。
どれだけ泣いても、どれだけ破片を並べても。鏡は戻りません。
辛い長旅で、小さな羽根はボロボロになっていました。
か細い身体は疲れ果てていました。
これ以上は、旅を続ける事はできない。
もう、森に戻る力もない。
せめて最期に友達の顔が見たい。太陽な笑顔に会いたい。
高い場所からなら。森の木より大きい建物からなら、見えるかもしれない。
残った力を掻き集めて、妖精はその町で一番高い建物の上まで飛びました。
風が邪魔をされて、妖精の小さな身体は何度も何度も落ちそうになりました。
ようやくてっぺんまで辿り着いた時には、大きな月が空に掛かっていました。
綺麗な月。それは友達と一緒に見ていた月と同じ優しい光でした。
ここからなら。
かすむ目を何度も擦って、あちこち探しました。
でも、どこにも見つけられません。
ここまで来たのに。こんなに頑張ったのに。
会う事はできなかった。
がっかりして、妖精は横になりました。
疲れて動くのも辛かったのです。
そのまま、ゆっくりと目を閉じました。
木の匂いがしました。川のせせらぎが聞こえました。
ずっと育った森に戻ったような気分。
暗い闇の中に、友達の顔が浮かびました。
いつもの優しい笑顔でした。心が暖かくなりました。
「やっと会えた。ずっとずっと飛んできたんだよ」
次の日、妖精は動かなくなっていました。
割れた鏡を胸に抱いて、身体を丸めたまま。
疲れ果てた顔には、幸せそうな小さな微笑が浮かんでいました。
☆ ★ ☆
早瀬先生は少し困った顔をしていた。何が言いたいのか察しはつく。
紙コップのコーヒーを一口含む。苦味がじんわりと後を引いた。
「続き読ませてもらったわ」
「はい」
文化祭が近い事もあり、職員室には殆どの先生が残っていた。時折、荷物やプリントを持った生徒が出入りしている。
「読ませてもらったんだけど」
「はい」
「どう言えばいいのかな」
探すように言葉を揺らした。
「あの、ハッキリ言ってもらっていいです」
つまらない結末にがっかりした。
そう言われても仕方ない。でも、考えてみると最初から無理な話だったと思う。
「きつい言い方になるかもだけど、ちょっとがっかりしたわ」
「やっぱり私には……」
「ちゃんと仕上げるって約束してくれたのに、どうして途中で投げ出しちゃったのかなって」
「私は……」
私は私なりに精一杯仕上げたつもりです。
そう答えられなかった。
「これは秋野さんの物語。だから悲しい結末でも楽しい結末でも、ありだと思う。でもね、どうでもいいやって、途中で投げ出すのだけは、してほしくないの」
優しい言い方だった。
妖精より先に、結末に辿り着いたのは私だった。
自分が悲しい現実を認めてしまった時、妖精の羽根は空を飛べなくなった。
だから。全て無かった事にして終わらせよう。
逃げ出すような気持ちで、とりあえず最後まで書き上げた。
「先生は」
「ん、なに」
「先生はどんな最後なら満足できる結末になると思いますか」
卑怯な質問。
この期に及んでも逃げようとする自分が、本当に嫌な人間だと思った。
「そうね。妖精は解ってたんじゃないかな。でも、それを信じたくなくて」
思考を巡らせるように、ゆっくりと間をおいた。
「だから、追いかけたかった」
見抜かれたような気持ちだった。
サクラが居なくなって、それが信じられなくて、ずっと逃げていた自分。
もう二度と会えない。奇跡はいつか終わる。それは解っていたはずなのに。
「でも、それなら…。それなら! 私はどうすれば!」
立ち上がって、声を荒げてしまう。
そんな私に包み込むような柔らかい表情を向ける。
「友達が妖精に残した想い」
サクラが私に残した想い。
「友達が妖精に託した願い」
サクラが私に託した願い。
「答えは秋野さんの中にもうある、と思うんだけど」
答えはもう私の中にある。
「辿り着いた答えを素直に見つめてあげて」
そう言いながら、私の書き上げた原稿用紙の束を差し出す。
「月曜なら間に合うから、もう一度書いてみて」
「でも」
「ね、気が向いたらでいいから」
小さく頷く。
自分の答えを、自分の心を素直に見つめてみよう。
ずっと微笑んでいて欲しい。
最後までサクラはそう言っていた。
だから私は笑って、辛くても笑顔で。
重い足を動かして教室に戻る。
夕日の差し込む薄赤い中、有紀一人が私の席の隣に座っていた。
「まだ、風邪治らない?」
不機嫌そうな声。
「う……ん」
「じゃ、私、帰るから」
鞄を手に、私の横をすり抜ける。
「待って」
私の声に、有紀の背中が止まった。
「あの、えっと」
深く考えずについ声を掛けてしまった。
「私、私は……」
ちゃんと微笑んでいるか。サクラが望んだ笑顔の私でいるだろうか。
聞きたい事は解っているのに。どう聞けばいいか解らない。
「ずっと泣いてるみたいだよ」
有紀の言葉にドキっとする。
「カエデ」
振り返った。薄く化粧を施したいつもの顔。いつもと違う真剣な目。
「何かしてしてあげられる事ある?」
「ううん」
十分だった。後は私の問題。自分自信で乗り越えないといけない。
「そっか」
有紀が小さく溜息をついた。
「ま、よく解んないけど頑張れ」
にっと笑った。有紀らしい表情に、ホンの少し気持ちが軽くなる。
「じゃ、また明日」
そう残して、教室を出ようとする有紀に、
「あの、石嶋」
「ん?」
「その、えっと、ありがとう」
ようやく一言届けられた。
「やめてよね。らしくない事言うの」
背を向けたまま、小さく手を振る有紀を見送った。
そして……。
私一人になった。
いつも騒がしい教室が、こんなに静かになるなんて。
ずっと微笑んでいて欲しい。
サクラの残した言葉。その意味は解っていた。
からっぽの笑顔。こんな寂しい微笑みを望んでいた訳じゃない。
解っていたはずなのに。
自分の中の答えから逃げて、空虚な日々を送っていれば。心配したサクラが、また電話を掛けてきてくれる。そんな期待をしている自分。卑怯でずるい自分。
「ごめん」
鳴らない携帯をぎゅっと握る。
「ごめんね」
精一杯に生きていく。そう約束したのに。
「ごめんね、サクラ」
何度挫けても頑張る。そう決めたのに。
自分はまだサクラの影を追っている。サクラの死という現実は、私の現実になっていない。
じゃあ、どうすればいい。
窓から外を見る。真っ赤になった空。
答えは出てるはずだ。自分の中に。素直にそれを受け止めないと。
決めた。
鞄を手に、急いで教室を出る。階段を駆け下り、廊下を走りぬけ、校門を潜った。
慣れない運動に心臓が跳ねる。息をする度に胸が痛くなる。
急がないと!
時計を見た。大丈夫。まだ間に合う。
あの場所しかない。
サクラに別れを告げよう。ちゃんと自分の言葉で。自分の想いで。
それだけを心の中で繰り返し、ひたすらに走った。
石段を駆け上がる。
足がもつれた。
辛うじて手をついて転倒を防ぐ。
手の平と手首、膝にじんわりとした痛みが広がった。
振り返る。
赤い太陽は地面に飲み込まれつつあった。
急がないと。
重い身体をどうにか引き起こした。
今日しかない。
明日になったら、きっと私はまた同じ殻に閉じこもってしまう。
だから、今日しかない。
視線を前に戻す。続く石段。
市境の山は、それほどの高さじゃないのに。今は恐ろしい程の大きさに思える。
微かに見える鳥居。その向こう側に立つ小さな神社。
大きく息を吸って吐く。少し力が戻った気がした。
大丈夫。まだ走れる。
お堂を迂回して裏に進む。分厚い壁の隅にある扉を開けて、外に出た。
フェンスで囲まれた小さな空間。
夏よりも優しくなった夕日が、藤見野市を柔らかな朱に彩っていた。
窓やビルにキラキラ反射する光が綺麗。
フェンスに沿って移動する。
私の家の方向。
あの日、サクラと見たのはここからだ。
輝く町を見ながら、呼吸が整うのを待った。
「サクラ……」
言葉が詰まる。
サクラとの別れを、口にするのが怖かった。サクラの死を受け入れるのが怖かった。
携帯電話を手に取る。
私とサクラを繋いでくれた。傷だらけになった。大切な携帯電話。
ぎゅっと握る。
小さくて弱い私にホンの少し勇気をくれる。
大きく息を、胸が一杯になるまで息を吸う。
「サクラ! どうして死んじゃったの!」
一気に言葉を吐き出した。普段出さないような大声に、自分自身がくらくらする。
「ずっとずっと! ずっと一緒だって約束したのに!」
視界が歪んだ。目が、頬が熱い。
「いきなり居なくなっちゃうなんて! 酷いよ!」
溢れた涙を手の甲で乱暴に拭う。
「酷い、酷いよ。酷すぎるよ」
「ごめん、カエデ」
後ろからの声に大きく心臓が跳ねた。
少しハスキーな声。聞き覚えのある、ずっと聞きたかった声。
まさか! ありえない!
これは私の脳が作る都合の良い幻聴だ。
身体が震える。
振り向くと、そこに。
解ってる。そんなはずがない。
居る訳がない。それが現実。解ってるのに。
でも動けなくて。
「ごめんね、カエデ」
さっきより、はっきりと聞こえた。
私のすぐ後ろ。
神経を集中する。
誰かが立っている。そう思えた。
違う。誰かじゃない。
サクラが!
サクラがそこに居る。そう感じた。
胸に手を当てて、大きく息を吸う。
ホンの少しだけ、心が落ち着いた。
ゆっくりと首を、後ろに。声のした方に。
止まった。音が。風が。時間が。全ての感覚が凍りついたみたい。
差し込む夕日の中に立っていた。
Tシャツにデニムの上下、ラフで動きやすそうな格好。
健康的な小麦色の肌。色を抜いた髪。
「会いに来ちゃった」
サクラはそう言って、笑った。
心を照らす太陽のように。私がずっと見たかった笑顔だった。
「ここから見る景色はいつも綺麗だね」
「うん」
硬く手を繋いだまま、フェンスから外に視線を向ける。
暖かい体温を感じる。サクラはここに居る。間違いない。
「小学校の頃にさ、UFOの写真撮りに来たの覚えてる?」
「うん。帰りに迷って、遅くなって、パパとママにすっごく怒られたんだよ」
「そうそう、あたしさ、怒られて泣いちゃったよ」
「私も、かな」
街並みは変わっても、キラキラと宝石のような輝きは変わらない。
あの日みたいに、ただ町を見つめた。
話したい事は一杯有った。有り過ぎて、あまりに有り過ぎて。だから、何も言わずに町を見つめた。
ここが二人の始まりの場所だった。
そして……。
「カエデ、あたしを許してくれる?」
「許すって?」
「あたし、約束守れなかった。入学したら一緒に学校行こうって約束してたのに、モールができたら一緒にクレープ食べに行こうって約束してたのに」
「サクラ」
「ずっとずっと一緒に居ようって約束したのに。あたしは守れなかった」
私の方を見た。その瞳は真剣だった。
「ね、あたしを許してくれる?」
未練を遺した人間は成仏できない。そんな言葉が浮かんだ。
サクラをこの世に束縛しているのは、ひょっとして。
それなら、もし、私がサクラを許さなければ。サクラはずっと私の傍に、ずっとずっと私の傍に。
「バカ言わないで」
サクラが小さく息を飲む。
「サクラとは一緒に学校に行ったし、クレープだって食べに行ったじゃない」
「カエデ」
ポケットから携帯を出して見せる。
「サクラが居なくなっても、サクラとの想い出は、サクラの心は……」
握っていたサクラの手を、そっと私の胸に置く。
「ずっと、ここにあるよ。これからもずっとずっと一緒」
「カエデ」
「ね、だからサクラが気にする事なんて何もないんだよ」
微笑んだ。
「うん、ありがとう、カエデ」
サクラの身体が柔らかい光に包まれる。神秘的な七色の輝きの中に、徐々にサクラの輪郭が溶けていく。
「お別れだね」
私の言葉に小さく頷いた。
「あたしさ、もっともっと一緒に居たかった。ずっとずっとカエデと一緒に。」
サクラの瞳から涙が零れた。大粒の涙は頬を伝い、次々と空気の中に消えていく。
「遊んで笑ってケンカして、美味しい物食べて。したい事も行きたい場所も一杯あったのに」
肩を震わせるサクラをそっと抱き寄せる。サクラの存在を感じる。それが次第に希薄になっていくのが解る。
精一杯の力を入れて抱きしめた。サクラの腕にも力がこもる。ぎゅっと。ただ、ぎゅっと抱き合った。
永遠に思える数秒。ささやかな奇跡の時間だった。
腕を解いて、流れていた涙を拭う。
サクラの目は真っ赤だった。私もそうだろうと想う。
離れたくない。その気持ちは同じだから。
ずっと私を照らしてくれたサクラ。ずっと私を支えてくれたサクラ。何よりも大切な、掛け替えの無い存在だったサクラ。
「ね、サクラ」
泣きながら。でも。微笑んだ。サクラの為に、私のできる精一杯。
「カエデ……」
「ね、サクラ、笑って」
サクラが私に残した想い。
「私はサクラの笑顔が大好きだよ」
サクラが私に託した願い。
「太陽のように笑ってるサクラが大好きだよ」
私はもう失さないから。
涙を拭いながら、サクラが何度も頷いた。そして、いつもの笑顔を見せてくれる。
心を照らしてくれるような笑顔。
七色の光はどんどん強くなり、サクラのシルエットが溶けていく。ゆっくりとゆっくりと。
心の奥に最後のサクラを、最後のサクラの笑顔を焼き付けた。




