09月22日 雨
暗い部屋で目が覚めた。身体が重い。頭が痛い。
何もかもが辛かった。どうにもならない。どうしようもない。
ごめん、サクラ。もうダメかも。
何もかも放り出して、うずくまる事しかできないよ。
☆ ★ ☆
雨。ぽたぽたと続く音。それ以外、何も聞こえない。
闇。締め切った部屋。薄暗くて、何も見えない。
ベッドの上に座り込んで、携帯だけを握っている。
ディスプレイに浮かぶデジタルの時刻は、もうお昼。
体調が悪い。
パパとママにそう伝えて、学校を休んだ。
遅刻ギリギリまでドアを叩いていたモミジの心配そうな声が、まだ耳に残っている。
有紀がサクラを殺した。車道に突き飛ばした。
頭を振る。
私に近づいたのは、塞ぎこんでる私を笑うつもりだったのか。
それとも、誰かの言う通り罪滅ぼしのつもりだったのか。
頭を振った。
「この! 人殺し!」
投げつけた言葉。
衝撃で凍りつく有紀が、力なく座り込む有紀が、泣きながら訴える有紀が。何度も浮かぶ。
「助けて。サクラ、助けて」
鳴らない携帯を強く握る。
どうして、電話をくれないの。
どうして、声を聞かせてくれないの。
「そんな事、あるはずないじゃん」
そう言って笑ってよ。
凍りついた心を溶かしてよ。
どうして、助けてくれいないの。
こんなの酷すぎるよ。
「ごめん、サクラ」
私、もうダメかもしれない。サクラの居ない世界は、私には辛すぎたよ。
これ以上は無理だよ。ごめんね、サクラ。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
モミジの声に顔を上げた。
手の中の携帯に目を落とす。時間が進んでいた。もう、夕方だ。
「入っていい?」
「ダメ!」
回りかけたノブが途中で止まった。
「今は誰にも会いたくない!」
怒鳴っている自分に驚く。
凍りつくモミジが想像できた。
「あのねあのね」
「放っておいて!」
きつい言葉を止められなかった。
「お姉ちゃん、私ね私ね」
ドアが動いた。
廊下から差し込む電気が、室内の闇を剥がしていく。
「来ないでって言ってるでしょ!」
ガツンとぶつかる音。ドアが揺れる。
モミジが向こうで息を飲むのが聞こえた。
半ば反射的に、掴んでいた物を投げつけていた。
「ごめんなさい」
震えるモミジの声が胸を締めつける。
小さな音を立てて、ドアが閉まった。
転がった薄い光が、微かに部屋を照らす。
ゆっくりと立ち上がった。身体のあちこちが痛い。
拾い上げる。
白とピンクの。サクラと色違いの。私とサクラを繋ぐたった一つの。大切な、何よりも大切なはずの。
携帯電話。
ボディの一部が割れて、ディスプレイに大きな傷が走っていた。
落ちていた破片を合わせるが、着くはずがない。
亀裂を指先でなぞっても、消えるはずがない。
私は何をしてるのだろう。
モミジを傷つけ。電話を壊して。
涙が落ちた。
不意に携帯が揺れた。割れた音が軽快な音楽を奏でる。
割れたディスプレイには文字が浮かばなかった。
きっとサクラだ!
サクラは私を見捨てたりしない。
慌てて耳につけた。
「サクラ!」
「カエデ……」
いつもの声と違う。
「落ち着いて」
サクラじゃない。
「ね、カエデ、落ち着いて聞いて欲しいの」
この声は!
心臓が跳ねる。どろどろとした感情が心の底から湧いてくる。
「い、石嶋……」
「待って! 切らないで。私の話を聞いて! お願いだから」
強い声が、私の指を止めた。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
耳を当てたまま、じっと待った。微かに有紀の呼吸だけが聞こえる。
小さく浅い音が時折途絶え、その度に身体を硬くして身構えた。
随分長くそうしていた。実際には数秒だったと思う。
「あの日、会ったのは偶然だった」
唐突だった。前置きも何もなかった。
でも、有紀が何を話そうとしているのか。瞬間に理解できた。
有紀はただ事実だけを伝えようとしている。
目を閉じて有紀の言葉に意識を集中した。
あの日、サクラに何が起こったのか。ずっと逃げていた真実が私に追いついてきた。
☆ ★ ☆
スーパーを出た私はすこぶるゴキゲンだった。
理由は冷凍食品の特売。冷凍食品は我が家の生命線だ。安く大量に買い込めた日はテンションも上がる。
しかも、大好物のリンゴも安かった。今日はついてる。
軽い足取りで交差点を横切る。信号待ちもない。やっぱり今日はついてる。
ショッピングセンターに差し掛かった辺りで、見慣れた後姿を見つけた。
短く切りそろえた色を抜いた髪。小麦色の健康的な肌。デニムの上下というラフな格好。
「サクラ」
「お、ユーキ」
声を掛ける私に、振り向いてにっこりと笑った。
弥生 桜は小学校からの友達。それなりに友人の多い人生を歩んでいるつもりだけど、長い縁が続いているのはサクラだけだ。
「機嫌よさそうじゃん」
「今日は冷食の特売だったから。これで当分は楽できるよ」
「揚げ物ばっか食べてると、ぶくぶく太っちゃうよ」
「サクラ、良い事教えてあげるよ。私みたいなキュートな女は脂肪つかないんだよ」
「ってワリに、ちょいヤバな感じだね」
「こら! お腹つまむな」
じゃれ合いながら、二人で帰路につく。
駅前からの国道沿いに下った住宅街に私達の家がある。この時間は車も少ないので、おしゃべりに集中できる。
話題は新しい学校の話に移った。私が春から通う事になる県立藤見野高校は、サクラと同じ学校だ。
「ユーキが合格できるとは」
「それはサクラも一緒だろ」
サクラの志望校を聞いて、ちょっぴり頑張ったのは内緒。
「ふふふ。私には最強の助っ人がいたからね」
「またカエデの話?」
「またって言うな」
そう言って笑った。
秋野 楓。サクラの口から、何度名前を聞いただろう。
「今度、入学祝いでプレゼント交換するんだ」
手に持った袋を見せてくれる。中には可愛くラッピングされた包みが入っていた。
「どんな物なら喜んでくれるかって、柄にもなくあれこれ考えたよ」
「ふうん」
嬉しそうなサクラを見てると、ちょっともやっとした気分になる。
同性に対し嫉妬するなんて、らしくないとは思ってるけど。
サクラに悟られないように、感情を笑顔の裏に隠した。
「きっとサクラのプレゼントなら、何だって喜んでくれるんじゃない」
「そうかな。そうだよね。うん、そうだよ」
何度も頷く。
サクラにとっての一番は、いつも秋野 楓だ。
多くの友人に囲まれたサクラにとっての特別な存在。
去年から同じクラスなのに、まだ話した事はない。
いつもサクラと一緒に居るのを、ちらりと見る程度。
その他大勢に属する私とは違って、きっとすっごく素敵な子なんだろうな。
「今度、ちゃんと紹介するよ」
「あ、うん、まあ機会があればでいいよ」
「でもなんか二人の相性は悪そうな気がするんだよね」
サクラが居る限り、相性はきっと最悪だよ。
そんな風に思う自分はやはり嫌な人間なんだろう。
小さく溜息が漏れる。
「サクラ、これあげるよ」
スーパーの袋からリンゴを出して、ぽんっと投げる。
「うわお、ありがと。ちょうど、お腹が空いてたんだよ」
シャツの裾で軽く拭いて噛付く。
「リンゴってのはこうやって食べるのが、いっちばん美味しいよね」
幸せそうな表情を浮かべる。
「太ってもしらないよ」
言いながら、袋に手を入れる。
美味しそうに食べるサクラを見てると、私も食べない訳にはいかない。
これは勝負みたいなもんだ。
リンゴを一つ、シャツで拭いて……。
サクラが、残っていた半分くらいを一気に口に入れた。
「はんひょふれす」
頬を精一杯膨らませてもふもふしながら、唖然とする私にピースサインを作る。
ごくりと飲み込んだ。
「ふう、美味しかった」
私の手のリンゴをチラリと見て、
「完食です。この勝負、あたしの勝ちだね」
得意気に胸を反らした。
「なんの勝負だよ。まったく」
呆れながらも、笑ってしまう。
それにしても凄い顔だった。人間のほっぺはあそこまで広がるもんかな。
手を動かしながら、ぼんやり考えてしまったからだ。シャツに引っかかって、リンゴが逃げた。
慌てて掴もうとするが、逆に指先で弾いてしまった。
赤いリンゴがころころと転がる。
反射的な行動だった。リンゴを追って車道に出た。
クラクション。あまりの大きな音に驚いて、顔を向けた。
この時間、車なんて通らないと想っていた。
信じられない程の近くに、トラックが迫っていた。
身体が動かない。すごい引力で足が地面に張り付いたみたい。
ゆっくりと、信じられないくらいゆっくりと近づいてくるのに、どうする事もできない。
運転してる人が大きく叫びながら、ハンドルを回しているのが見える。
両手で身体を庇う。こんな物が何の役にも立たないのは解っている。でもそれが私の精一杯だった。
目を硬く閉じる。
悲鳴に近い叫び。サクラの声だ。
身体に衝撃が走った。バランスを崩して、大きく前に倒れ込んだ。
引き裂くようなブレーキ。続いてガツンと鈍い音が響いた。
ゆっくりと目を開ける。
車道の真ん中だった。全身が痺れている。足が、膝が痛い。
でも生きている。助かったのだ。良かった。
「私、生きてる。大丈夫!」
振り返る。そこに居るはずだったから。
でも姿がなかった。視線をふらふらと彷徨わせる。
トラックのすぐ後ろ。うつ伏せに倒れていた。
何をしてるのか解らなかった。いや、解りたくなかったのだ。
立ち上がるのも忘れて、這ったまま近づく。
デニムがどす黒く染まっていた。健康的な肌がべっとりと濡れていた。
「サクラ!」
抱き寄せる。顔に大きな痣ができていた。額から赤い液体が流れている。
「サクラ! サクラ!」
ぐったりとした重さ。全身から力が抜けいる。右手と左足がありえない方向に曲がっていた。
アスファルトにシミが広がっていく、赤い、黒いシミが!
「しっかりして! サクラ! サクラ!」
ポケットからハンカチを取り出し、サクラの身体から流れる液体を懸命に止めようとする。
「サクラ! サクラ!」
小さな呻きが聞こえた。はっとして顔を覗き込む。
ゆっくりと目蓋を開けて、私に視線を向けた。焦点の定まらない弱々しい目。
「良かった! サクラ!」
抱きしめる両手に力がこもる。
いつの間にか溢れた涙が、ぽたぽたとサクラの頬に落ちた。
「……」
サクラが微かに声を漏らした。
聞き取れなくて口元に耳を近づける。
「エデ……泣かないで……笑って………」
いつものサクラから想像できない細い声に、胸が締め付けられそうになる。
「カエ……ごめ……笑って……大丈夫……だから……」
サクラが見てるのは私じゃない。秋野 楓だ。
ショックだった。悔しかった。
「サクラ、しっかりして。私だよ!」
今! 近くに居るのは私なんだよ!
強く身体を揺する。
「ユーキ……?」
腕を止めた。目には少し生気が戻っていた。
私がサクラの命を繋ぎとめた。
秋野 楓じゃない! 私が繋ぎとめたんだ!
「サクラ、しっかりして! すぐに救急車呼ぶから」
ポケットの携帯電話を手に取る。
「すぐだから! 絶対助けるから!」
小さくサクラが咳き込む。口の端から赤い液体が零れた。
震える指でボタンを押す。いつもはどんなメールだって簡単に打てるのに。
思ったように動かない。わずか三つの数字を押すのに、何度も間違えそうになる。
ぐっと手首を掴まれて、はっと顔を上げた。
「聞いて……」
信じられないくらいの力だった。
鈍い痛みに驚きながら頷く。
「あたしが……居なくなったら……カエデ、悲しむから……だから……」
「何言ってるの!」
「だから……カエデが……笑顔で……いられるように……」
カエデをお願い。
最後まで言葉にならなかった。真っ青になった唇を懸命に動かす。
「バカ言わないで! そんなの絶対許さないよ!」
カエデをお願い。
唇だけで言葉を紡ぐ。
「来週、遊びに行こうって約束したじゃない!」
カエデをお願い。
「死ぬなんて許さないから!」
カエデをお願い。
そうか。そうなんだ。
カエデをお願い。
私の言葉はもう届いてないんだ。
カエデをお願い。
色を失っていく顔が、サクラの命が尽きかけている事を告げていた。
カエデをお願い。
「わかった。わかったよ」
頷くしかなかった。
掴んでいた手が緩む。ゆっくりと目を閉じて、安心したような表情を浮かべる。
それはサクラがこの世に残した最後の笑顔だった。
☆ ★ ☆
受話器の向こうで大きく息をついた。
「これで全部だよ」
掠れて揺れる声が、有紀の心情を雄弁に告げている。
サクラは有紀を庇って事故にあった。
大きな意味では有紀がサクラを殺したとも言えるかもしれない。でも。
「サクラが死んだのは私のせい。私が殺したのようなもんだ」
「違う」
反射的に言葉が出た。
「違わない。私が車道に出なかったら」
「違う! サクラは……サクラは……」
「カエデが私を憎むのなら、好きなだけ憎めばいい。私が許せないなら、仕返しでもなんでもすればいい。でも、サクラの、サクラの最後の願いだけは守って欲しい」
「サクラの願い……」
ね、カエデ、微笑んで。
カエデ、笑ってよ。
あたしね。そうやって優しく微笑んでるカエデが好きだな。
うん。カエデの笑顔が一番のプレゼントだよ。
サクラの声が心の中で響く。何度も何度も。
「じゃあ、私が伝えられるのは、これで全部だから」
「待って!」
有紀が息を呑む。受話器を通して、緊張が伝わってくる。
このまま電話を切ったら、私達は憎しみ合うだけになりそうだった。
それはサクラが一番望まない結果だ。
今しかない!
「あの、あの」
でもどう言えばいいの。サクラ、助けて!
カエデはいつも考えすぎ。気持ちをそのまま口にすればいいんだよ。
サクラ、ホンの少しでいい! 勇気を、少しだけ勇気を貸して!
目を閉じて、深呼吸。太陽のように微笑むサクラが目蓋の奥に浮かぶ。
大丈夫。きっと大丈夫だよ。
心が少し温かくなる。
大丈夫。大丈夫だから。
「サクラは石嶋を助けた。それだけだよ。サクラの死は……」
慎重に言葉を捜す。
「サクラの事故は、誰のせいでもない。誰のせいでもない。誰のせいでもないよ」
有紀がサクラを殺したんじゃない。サクラは有紀を助けたんだ。
私が有紀を憎んだら、サクラの心を、命を踏みにじる事になる。
泣いていた。涙が頬を伝って、ポタポタと落ちる。
「カエデは、カエデはそれで満足なの? それでいいの?」
「いいの! 私が人を憎むなんて、サクラは望まないから」
私が笑顔でいられるように。
私が誰も憎まず、悲しまずに、日々を重ねていって欲しい。サクラが居た頃のままであって欲しい。
それがサクラの願いだったはずだ。
「なんで一番だったのか、ちょっと解った気がするよ」
小さな呟きは意味が解らなかった。
「なんでもない。私はやっぱりカエデを好きになれないなってコト」
「私も、私も石嶋なんて大っ嫌いだよ」
声を出して笑った。すぐに有紀の声が追っかけてくる。
涙を拭きながら笑った。有紀もそうだったに違いない。
携帯を切って、電気をつけた。
明るい光に目が眩みそうになる。
欠けたボディとディスプレイのヒビを指で撫でる。
私の身代わりなったようで痛々しい。
足音を殺してドアに近づく。ゆっくりとノブを回し、いきなり開け放った。
「おねえちゃん!」
やっぱり。ドアの前でモミジがうずくまっていた。
私がいきなり部屋から出てきたので、かなり驚いたようだ。ぱっちりした瞳が二回りくらい大きくなっていた。
「心配掛けてごめんね」
できる限り優しく微笑む。そっと頭を撫でると嬉しそうに目を細めた。
「もう大丈夫だから」
「うん」
「御飯の支度しよっか。モミジ、手伝ってくれる?」
「うん」
これで良かったんだよね。サクラ。




