09月21日 曇
来月の頭は体育祭。末には文化祭がある。
それぞれの準備に向けて、慌ただしい空気になってきた。
いつもと違う活気に少し戸惑ってしまう。
私も自分のすべき事をしなければいけないな。
☆ ★ ☆
「ありがとう。秋野さんなら先生のお願い聞いてくれると信じてた」
早瀬先生は小さく手を叩いて喜んでくれた。
思った以上のリアクションに嬉しくなる。
放課後の職員室、私は先日の返事を持って先生を訪ねた。
「あの、まだ最後まで話はできてないですけど」
「出来上がってる部分から練習を始めるつもりだし。そうね、文化祭は来月の……」
デスクの隅に置かれた卓上カレンダーを引き寄せる。
可愛い子犬の写真。早瀬先生らしい。
「来月の二十九日からだから、まだホンの少し余裕があるわね」
「ちゃんと、ちゃんと仕上げますから」
「うん。期待してるわ」
先生だけじゃない。サクラとの約束でもある。破るわけには行かない。
職員室を出て教室に向かいながら、なんとなく校庭に目を向ける。
ランニングする運動部員に混じって、大きな荷物を抱えてグランドの隅を移動する生徒が見えた。
来月は藤見野校のイベント月間。体育祭と文化祭がある。どちらも全校生徒の参加が必須。
準備に入ったクラブやクラスも多く、少しずつ慌しい空気が流れ始めていた。
イベント好きのサクラなら、張り切っていただろう。
ドタバタとハイテンションで駆け回るサクラが居て、その後を懸命に追いかける私が居る。
きっとそうだ。ずっとそうだったから。
「カエデ、ここの文化祭ってすごいらしいよ」
「らしいね」
「すっごく楽しみ!」
「その前にテストがあるんだけどね」
「うわわ。それは言わない約束でしょ」
「ダメ。学生の本分は勉強だよ」
私の心が作り出す幻のサクラが、不服そうにぶぅっと頬を膨らませた。
「わかってるよぉ」
情けない声を漏らすサクラが可愛くて、私はつい笑ってしまう。
すぐにサクラの声が重なる。今まで何十回も何百回も続けてきた、幸せな時間。永遠に失われた時間。
「ね、カエデ、文化祭は一緒に回ろ」
「うん。絶対だからね」
「約束約束。楽しみだな」
不意にサクラの姿が滲む。
溢れそうになる涙をハンカチで拭った。
目を開けるとサクラは消えていた。
所詮は私の脳が作り出した都合の良い幻覚に過ぎない。
心が少し重くなる。
階段を上りきった。一番奥が私の教室だ。
今日の家事当番は夕食の片付けだけ。少し時間の余裕がある。
何をして過ごそうか。モミジもテストが近いはず、たまには勉強を見てあげてもいいかな。
意図的に思考を切り替えて、辛い現実を心の隅に押し込めた。
教室のドアに手を伸ばした所で、
「桜だよ。弥生 桜」
ピタリと止まった。
どうしてサクラの名前が。
教室に入るべきか。いや、迷う必要はない。
立ち聞きなんて悪趣味にも程がある。
気になるなら、ちゃんと中に入って聞けば良い。
解ってるはずなのに。
動かなかった。違う。動けなかったのだ。
指先がドアに触れるか触れないかの状態で、私の身体は石のように固まった。
じっと耳を澄ます。いけない事なのに。
跳ねる心臓が、浅く繰り返す自分の呼吸が、信じられないくらい大きく感じられた。
「親友だったんでしょ」
「すっごく仲良かったらしいよ」
「いつもどこ行くのも一緒だったって」
「あのカエデがねぇ。ちょっと想像できないな」
私とサクラの話みたいだ。
「じゃあ、やっぱ酷い事言っちゃったよね」
「でも、ちゃんと謝ったし、また蒸し返すのも、逆に悪いじゃん」
聞き慣れた数人の声。軽く息をついた。
噂話が好きなメンバーだ。当人が居ない間は、その人間の話題で盛り上る事も多い。
それにしても、まだ気にしてるなんて。少し申し訳ない気分になる。
「中学ん時は有紀もクラス一緒って聞いたよ」
「それで、しつこく誘ってたんだ」
「まあ、塞ぎ込んでるの、見るに耐えなかったんじゃない」
「有紀らしいね」
友達になって欲しいなんて思ってた訳じゃないのに。
いつもの無駄話。こそこそ立ち聞きしてる自分が馬鹿らしい。さっさと中に入ってしまおう。
「でもさ。それだけじゃないのかもよ」
「なになに?」
「罪滅ぼしじゃないかって」
聞きなれない単語。
「どういう意味?」
「噂で聞いたんだけど」
声のトーンが低くなった。
ドアに触れた手をそっと戻して、再び耳に神経を集中する。
「桜ってさ、交通事故で死んだんだけどさ。その時、有紀も一緒に居たんだって」
「え、そうなの」
「有紀も桜って子と仲良かったからね」
それは知っている。私が知りたいのは……。
「でさ、ここからはホントに噂なんだけど……」
少し間を取った。
苦しい。胸元に手を置いて、弾けそうになる心を抑える。
浅く繰り返す呼吸を、出来る限り大きく深くしようと努力した。
「ホントに噂なんだけどさ。有紀が車道に突き飛ばしたんだって」
「マジ? それってマジ?」
「ふざけてて、そんな風になったって。あくまで噂だけどさ」
コロシタ? サクラハコロサレタノ?
冷たい声が頭の中に響く。
「何してんの、そんなトコでさ」
ダレニ? イシジマユウキニ?
「お〜い、カエデ。何ぼけっとして……」
肩に触れられて、反射的に振り向いた。
薄い明るめの化粧に、ボタンを開けただらしない格好。
キツイ印象の目が、少し大きくなった。
「石嶋」
「どうしたの。顔真っ青だよ。気分悪いの?」
コイツガ、サクラヲコロシタ。
「大丈夫? 保健室いく?」
両手を肩に置いて、顔を覗き込んでくる。
コノテデ、サクラヲツキトバシタ。
違う。有紀がそんな事するわけない。
「か、カエデ?」
動揺していた。微かに声が震えている。
自分の腕と私の顔を交互に見やっていた。
「ごめん。痛かった?」
有紀の手首がうっすらと赤くなっている。
無意識に手を振り払っていたのだ。それもかなり乱暴に。
「とりあえず、保健室に行こ」
ワタシカラ、サクラヲウバッタノハ、コイツダ。
違う。何かの間違い。ただの根も葉もない噂。
シタリガオデ、ワラッテイタ。
心配そうな顔で、近づいている。
ソウヤッテ、シンセツブッテ、チカヅイテクル。
小さな悲鳴が上がる。
「痛たた」
有紀が尻餅をついていた。
伸ばされてる自分の腕に気づく。
私が突き飛ばしたの?
ドアが中から開いた。
沈黙。重苦しい空気がじっとりと、まとわりついてくる。
倒れた有紀と、見下ろす私の間を、皆の視線が慌ただしく行き交うのを感じた。
「ね、聞かれてたのかな」
誰かから小さな声が漏れた。
「あ、あのさ。カエデ、さっきの話は……」
そこまで言って黙り込む。
全員が顔をうつむけて、目を合わせようとしない。
「なにがあったの?」
腰をさすりながら立ち上がる有紀に視線を戻した。
ごめん。そんなつもりじゃないの。
コイツガ、サクラヲウバッタ。
違う! そんなのあるはずない!
だって! だってサクラは、そんな事言ってなかった。
コイツガ、サクラヲコロシタ。
「石嶋が……サクラを……」
頭の芯がじんじんと痛む。耳の奥が麻痺したみたい。何も聞こえない。
自分の声すら遠く微かな物に感じられた。
石嶋が小さく頭を振った。両手を大きく広げて、何かを言っている。
両目に溜まった涙が、懸命に何かを伝えようとしてる。
でも聞こえない。
コイツガ、サクラヲウバッタ。コイツガ、サクラヲコロシタ。
自分の気持ちが、自分の心が抑えられない。
唇が意思に反して動く。言いたくもない言葉を紡ぐ。
「ずっと、私を騙してたんだ」
コイツガ、サクラヲウバッタ。コイツガ、サクラヲコロシタ。
止めて!
「ずっと、馬鹿にして。ずっと、笑ってたんだ」
コイツガ、サクラヲウバッタ。コイツガ、サクラヲコロシタ。
勝手な事を言わないで!
「この!」
コイツガ、サクラヲウバッタ。コイツガ、サクラヲコロシタ。
助けて! サクラ!
「…………!」
有紀の動きが止まった。力が抜けたように、ペタリと座り込む。
違う。私じゃない。私は私は。
泣いていた。有紀は泣いていた。
それでも。それでも涙を拭いながら、何かを私に伝えようと懸命に叫んでいる。
聞こえないよ。聞こえないの。
有紀の視線が、皆の視線が、怖かった。
そんな目で私をみないで。
目を閉じて耳を塞いで、私は駆け出していた。
どこをどう走ったか覚えていない。
気が付けば、私はベッドの上に居た。見慣れた自分のベッドだ。
有紀に投げつけた言葉を思い出して、ぞっとする。
心を深く切り裂いた言葉。
サクラ、助けて。
携帯電話を強く握る。
鳴らない。
硬く目を閉じた。あっという間に意識が闇に飲まれていく。
怖かった。全てが夢だと思いたかった。




