09月17日 雨
いきなりの話でまだ驚いている。
ハッキリ言って信じられない。
サクラに報告しないと。きっと喜んでくれると思う。
でも、私にできるだろうか。まだ弱いままなのに。
☆ ★ ☆
有紀達に小さく手を振って、教室を出た。
今日の夕食当番は私。冷蔵庫の材料を思い出しながら、メニューを考える。
昨日は揚げ物だったから、今日はあっさりしたのにしよう。
パパのお腹も危険領域に近い。レパートリーの少ないモミジなら仕方ないが、私なら色々と工夫できる。
「秋野さん」
優しく澄んだ声に足を止めた。
振り返った私に、包み込むような暖かい微笑みを向ける。
肩より少し伸びた艶やかな髪。細面の顔にバランス良く配置された、ぱっちりした目とすっと通った鼻、微かに紅を差した唇。
同性の私から見てもドキッとするくらいの美人。
現文担当の早瀬先生だ。
「呼び止めてごめんなさい。今、ちょっといい?」
「え」
先生は見た目に似合わず厳しい。必要とあれば躊躇せずに愛の鞭を振るえる、事なかれ主義の多い先生達の中では珍しいタイプ。
にも関わらず多くの生徒達に慕われているのは、理不尽さのない行動と、常に私達の側に立つ姿勢を持っているから。
先生は二十代半ばくらい、私もこんな素敵な人になりたいと思う。
「ちょっとお願いしたい事があるだけだから」
怒られるような覚えはないのに、少し身構えてしまった。
そんな私に苦笑を漏らす。
日直当番の日誌を届ける以外で、職員室に入るのは初めてだった。
整然と三列に並んだデスク。その上に積み上げられた書類や参考書。スチール製のロッカーと本棚。
広さは教室と変わらないはずなのに、まったくの別世界に思える。
放課後という事で、すでに帰宅した先生も多いが、やっぱり緊張してしまう。
「ちょっと座ってて。お茶入れるから」
一番奥の列、窓側の席。勧められるまま、椅子に座る。
どうやらここが早瀬先生の席みたいだ。
綺麗に整理された机の上と淡い色のペン立てが、イメージに合っていると思う。
「秋野さんは、何か部活やってる?」
いきなりの質問に驚く私の前にコーヒーの入った紙コップを置くと、空いている椅子を引き寄せ向かい合う様に座る。
「いえ、その、特には」
「うちの学校は色んなクラブがあって楽しいわよ」
「そういうの、苦手だから」
中学の頃、私はソフトボール部だった。サクラが居たから。サクラがソフトボール部に入ったから。
もうサクラは居ない。私が入るべきクラブもない。
「機会があれば見学してみるのも悪くないと思うわよ」
「はあ」
「まあ、今日はそんな話じゃなくて」
気乗りしない返事に表情を曇らせる事もなく、さらりと話題を変えた。
「夏休みの課題で秋野さんが書いたお話、読ませてもらったわ」
童話の課題を出したのは早瀬先生。集まった課題には目を通すだろう。当然と言えば当然。
しかし、自分が初めて書いた創作作品について触れられると恥ずかしくなってしまう。
「いくつかの童話を繋ぎ合わせたり、模写したりして済ませちゃうのが殆どなんだけど、ちゃんと自分でお話を作って書いてくれたのよね」
「一応は。えっと、その、あまり上手くできなかったですけど」
「ううん。良く書けてた。自信を持って私が書いたんです、って言ってあげて」
自分なりに一生懸命書いた作品が、好意的に評価されるのは嬉しい。でも、ちょっとくすぐったい。
「秋野さんは、この学校に演劇部があるのは……」
ちらりと言葉を止めて、私の表情を探る。
「う〜ん、やっぱり知らないか」
頷く私に、小さな溜息を溢す。
「それなりに部員も多くて、知る人は知るなんだけど。私が顧問してるの」
気を悪くさせてしまっただろうか、なんとかフォローしないと。
でも良い言葉が見つからなくて……。結局。
「ごめんなさい」
消え入りそうな声で、そう言うのが精一杯だった。
「あ、別に責めてるんじゃないから。もっと頑張ってメジャークラブにしようと、ささやかな決意をしたの。今、この瞬間に、ね」
澄んだ声と柔らかな表情が不思議な安心感を与えてくれる。
「演劇部は文化祭で舞台をするの。もちろん来月の文化祭もする予定よ」
「きっと素敵な物になると思います」
「ありがとう。人数は少ないけど、できる限り良い舞台にするつもりよ」
お世辞じゃない。素直な気持ちだった。
先生が顧問をしているのだ。きっと皆が一生懸命に頑張るだろう。
「で、ここからがお願いなんだけど」
「はい」
「秋野さんが書いた童話を、今度の舞台で使わせて欲しいんだけど」
いきなりの話に頭が真っ白になった。
「すっごいじゃん!」
興奮したサクラの声が耳元で跳ねた。
「すっごい! すっごいよ! 流石、あたしのカエデだね!」
特に他意はないのは解っている。でも、あたしのという言葉に胸が高鳴った。
「ちょっと落ち着いて」
これは自分に向けた言葉だ。できるだけ平静に普段どおりに。
「むふぅぅぅ」
大きく息を吐くのが聞こえる。
真っ赤な顔で頬を膨らましているサクラが目に浮かんだ。
綺麗な景色を目にしたり、素敵な映画に出会ったり、可愛い子猫を見つけたり。いつもサクラは大袈裟なほど興奮していた。
素直に自分の心を表に出せる。純粋なサクラらしい、私の大好きな部分の一つ。
「もう大丈夫! 完璧に落ち着きます!」
「全然、ダメだよ。言葉変だし」
笑い声が重なる。
「ね、どんな話か聞かせてよ」
「え、でも、恥ずかしいし」
「聞きたい聞きたい。聞かせないと化けてでるぞ」
「いいよ。サクラなら怖くないし」
むしろ、幽霊でも会いたい。一目でいいから、一瞬でいいから。
「ねえ、聞かせてよ。お願いだから」
あの話は私とサクラをモチーフにした話。それを聞いたサクラはどう思うだろうか。
「どうしてもダメ?」
「ううん、いいよ。ちょっと意地悪しただけ」
沈んだ声に反射的に答えてしまった。
「やったぁ」
「でも笑ったりしないでね」
「うん。早く早く」
「あのね。ずっと昔の、ずっと遠い国の話なの」
消えた親友の影を追い求める小さな妖精の話。
サクラの打つ相槌に言葉が弾む。簡単に粗筋だけを伝えるつもりだったのに、気が付けば今日の十分を殆どを一人で喋り続けてしまった。
「すっごく良いお話だね。あたしも見たいな」
「見たいって?」
「舞台になったら、どんな感じになるのかなって」
「それは」
嬉しそうに話すサクラに少し迷った。言わないといけないのに。
「あのね、……あのね、サクラ」
「あたしはやってみるべきだと思う」
息を呑んだ。
何も言ってないのに。どうして。
「カエデの事なら、どんなことでもバッチ解るんだよ。ま、超能力みたいなもんかな」
えへへと照れくさそうな笑いを漏らす。
「大丈夫、カエデならできる」
早瀬先生が言うには、話を演劇の台本に書き上げるのは、演劇部員の人がやってくれるらしい。
演技はもちろん部員がするし、舞台作成や効果、道具や衣装も全て部員の手で準備できる。
ただ、彼らにできない事が一つだけある。
そして、それはこの世界で私にしか出来ない事。親友を求める妖精の運命を決める事、つまりこの物語を完結させる事だ。
だから、少し考えさせて欲しいとしか答えられなかった。
「でも……」
「大丈夫だよ。カエデなら」
諭す様に繰り返す。
「うん。私、やってみる。直ぐには書き上げられないと思うけど。頑張ってみる」
サクラがそう言ってくれるなら私はやるしかない。
妖精は私の分身。物語を完結させるのは、自身の心と向き合う事になる。
でも、サクラの想いに応えないわけにはいかない。
ぎゅっと拳を握った。




