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08月31日 雨

 雨だった。去年もそうだったと思う。

 夏休みの最終日。いつもサクラが宿題を抱えてやってくる日。

 今年はない。来年もその次の年も。

 サクラはもう居ない。微かに聞こえる雨の音がそれを実感させる。

 

 

                    ☆  ★  ☆

 

 

 ドアを開けると予想通りモミジだった。

 両手に抱えたノートと問題集。泣きそうな顔。

 こんな朝早くに、どうしてモミジが私の部屋をノックしたのか。深く考えなくても十分に理解できる。

「何、どうしたの?」

 わざとらしく聞いてみた。

「あ、あのねあのね」

「モミジは偉いよね」

 言葉を遮って、優しく頭を撫でる。

 私の言葉が何を指すのか解らないのだろう。ぽかんとした表情を浮かべた。

「モミジも中学生だもんね。今年から一人で宿題頑張るんだよね」

 夏休み前にしていたモミジの宣言だ。

 小さく絶望的な声を漏らした。大きな瞳に涙が溜まる。

 その表情が可愛くて、もう少し意地悪したくなった。

「お姉ちゃんは、モミジが絶対頑張る子だって知ってるから」

 黙ってうつむいてしまう。

 妹の性格は解っている。

 手伝ってもらえないのが悲しいんじゃない。私の言葉に腹を立てている訳でもない。

 約束を守れなかった自分、期待に応えられなかった自分が悔しいのだ。

「ちゃんと計画立ててやらないとダメって言ったでしょ」

 小刻みに震える肩に手を置き、そっと抱き寄せた。

 モミジの体温を感じる。暖かい。

「ごめんない」

 消え入りそうな声。

 ちょっと意地悪が過ぎたかも。小さな罪悪感が生まれる。

「ちょっとくらいならお姉ちゃんが手伝ってあげるから」

「え、ホント」

 顔を上げた。

 涙が溜まった大きな瞳に、優しく微笑む私が映っている。

 いつの間にか、こんな表情ができるようになったんだと思う。

「ありがと、お姉ちゃん」

「でも、今年だけ。来年からは一人でちゃんとするのよ。約束だからね」

「うん。約束する」

「絶対だからね」

「うん。絶対!」

 去年も同じ約束を交わしてたのを思い出す。その時はサクラとモミジと私の三人だった。

 

 

 残っていた宿題は数学と理科だけだった。

 自由研究や工作、国語と社会は終わっていた。

 去年まで七割以上の宿題が手付かずの状態が普通だったのに。

 自分の言葉を守ろうと、ちゃんと頑張っていた。

 褒めてあげたくなるのは、私が姉バカだからかも知れない。

「読書感想文は書けてる?」

「うん。ちゃんと読んで、ちゃんと書いたよ」

 文字の並んだ原稿用紙を、自慢気に開いて見せた。

 内容的には思った事を箇条書きに並べているだけだが、読書嫌いのモミジの精一杯が見える。

「お姉ちゃんお姉ちゃん」

「ん、なに」

「お姉ちゃんの童話できた?」

「うん。あまり上手に書けなかったけど」

「見たい見たい」

「そんなことより、宿題しないと間に合わないよ」

「あ、そうだった」

 モミジが問題集を手に取る。

 会話の矛先を変えて逃げたのは卑怯だったかな。

 でも、自分の文章、それも創作となると見せるのは恥ずかしかった。

 それに完成していない。いや、今の私では決して書き終える事はできないと思う。

 友達を一途に求める妖精は、サクラの陰を追う私の分身だ。

 私がもう二度とサクラに会えないという現実がある限り、話の結末は決まっている。

 そして、その結論を書いてしまえば、自分の未来を見つめてしまう事になるのではないか。

 心の奥で感じている不安。それを認めてしまうのが嫌だった。だから……。

「お姉ちゃんお姉ちゃん」

「あ、ごめん。なんだっけ」

 モミジが私の顔を覗き込んでいた。

 いけない。

 思わず考え込んでしまった。これ以上、モミジに心配をかけたくない。

 私はお姉ちゃんなんだから、しっかりしないと。

 慌てて笑顔を作る。

「残りは数学と理科だけね」

「あのねあのね。どっちも問題集が半分くらい残ってるの」

「じゃあ、頑張ろうか。お姉ちゃんが見ててあげるから」

「うん。お姉ちゃん、ありがと」

 ノートを開き、懸命にシャーペンを走らせるモミジを見つめる。

 時々、手を止めて、ぶつぶつと呟く。

 ペースは悪くない。難しい問題にぶつかった時に、ちょっと助け舟を出してあげればいい。

 この調子なら夜までには終わるだろう。

 不意にモミジが顔を上げた。

 驚きと当惑の混じった色が浮かんでいる。

 嫌な予感。

 このシチュエーションでモミジの思考に何がよぎったのか、容易に想像できる。

「宿題、まだあった。どうしようどうしよう。間に合わないかも。間に合わないかも」

「落ち着いて。何が残ってるの。大丈夫。まだ時間はあるから」

「あのねあのね。お天気お天気」

 ちらりと窓に視線を向けた。どんよりと暗い。今日は朝から雨だ。

「雨がどうかした」

「お天気とか温度とか。つけておかないといけないの」

 思い出した。

 毎日、天気と気温を調べてグラフにする。何の意味があるのか理解できない宿題。

 私も中一の時に同じ事をやった。 

「どうしよう。昨日の天気くらいしか解らないよ」

 泣きそうになるモミジに、つい顔が緩んでしまった。

「お姉ちゃん笑った!」

 案の定、すぐに非難が飛んでくる。

「ごめんごめん。でも、ちゃんとやってないモミジが悪いんだからね」

「そうだけど。うう、でもどうしよう困ったよ困ったよ」

 適当に書けばいいとか、忘れた事にして放っておけばいいとか。

 そんな風に考えない所はモミジの長所の一つ。

 モミジの顔を見てると十分に反省しているのが解る。

 そろそろ助けてあげてもいいだろう。

「大丈夫。ちゃんと調べられるよ」

「え、どうやって」

「新聞に書いてあるから、大丈夫だよ」

 長期休みの間、ママは新聞を処分しない。こういう不測の事態に備えた大人の知恵なんだろう。

「そうなんだ。でも新聞って凄いんだね。テレビ番組以外も書いてあるんだ」

 今のモミジにとっては、新聞の価値なんてそんなものだ。

「お姉ちゃんが書いてあげるから、モミジは問題集を終わらせちゃって」

 新聞は居間にあるはず。

 腰を上げようとする私の手をモミジが掴んだ。

「自分で書くから。どこに載ってるか教えてくれたら、自分で書くから」

 真剣な目だった。

「私ね私ね。できるだけ頑張るから」

 自分でやれる分は、どれだけ時間が掛かっても遣り終えてみせる。そう言いたいのだろう。

「でもねでもね。解らない問題多いから、その時は教えて欲しいの」

「うん。じゃあ先に問題集を済ませちゃおうか。早くしないと、今日中に終わらないよ」 

「そうだね。頑張る頑張る」

 再びノートに向かうモミジの顔を見つめた。

 正直、泣きついてばかりだった妹の成長に驚いた。

 来年はもうないかもしれない。喜ばしいはずなのに、ちょっと寂しい気持ちになった。

 

 

 鍋の蓋をあけると、スパイシーな香りが広がった。

 お玉をくるりと泳がせる。

 角の取れたニンジンと柔らかくなったジャガイモ。タマネギは既に溶けてしまった。

 もう少し煮込めば完成だ。

「今晩はカレーか」

「パパ、お帰りなさい」

 いつもより早い帰宅に驚きつつも、笑顔を向けた。

「ただいま。いい香り、今日はカレーね」

 玄関からママの声。

「あら、パパ。今日は早かったのね」

「ママもお帰りなさい。もう少しでできるから」

 カレーはモミジの大好物の一つ。

 一生懸命頑張った、ささやかなご褒美。

「モミジは?」

 ネクタイを緩めながらパパが尋ねた。

「今、ちょっと部屋で寝てる」

 宿題が終わると同時にモミジは力尽きてしまった。

 夕食が出来たら起こすつもりだった。

「宿題で頭をフル回転させて、オーバーヒートしちゃったかも」

 私の簡単な説明に、ママが小さく笑った。

「で、モミジの宿題はどれくらい残ってるんだ?」

 どことなく嬉しそうなパパ。

 納得した。

 何故パパが珍しく早く帰ってきたのか。

 それは今日が夏休みの最終日だから。

 宿題に追われたモミジがドタバタと泣きついてくる日。

「娘が困ってるんだ。父親としてできる限りの事をしてやりたいじゃないか」

「パパは甘やかし過ぎ」

 半ば呆れつつも、ばっさり切り捨てる。

「モミジも、もう中学生なんだから。宿題くらいできるようにならないと」

 ママの言葉を背中に聴きながら、コンロの火を止めた。

「モミジの宿題はね」

 ミトンを手に付けて、炊き上がったカレーの鍋を持つ。ずしりと重い。

 ゆっくりもったいぶって振り返った。

 驚く顔が想像できて、つい頬が緩んでしまう。

「もう、全部終わったよ」

 予想以上だった。二人の、有紀風の表現だと鳩が豆を食べたみたいな顔。

「あ、パパママおかえり」

 丁度、寝惚け眼のモミジがやってきた。

「し、宿題終わったんだって?」

 パパの裏返った声。

 にんまりとモミジが笑って、ぴっとピースサイン。

「うん。もう終わったよ」

 二人の脇をすり抜けて、私に抱きついてきた。

 鍋を落としそうになって、思わず小さな悲鳴を漏らす。

「お姉ちゃんが手伝ってくれたから」

 私は少し問題の解き方をアドバイスしただけ。

 モミジが一人で頑張ったのに。

「あぁ! 今日はカレーだ! 私ね私ね。カレー大好大好き!」

 モミジにとっては、そんな小さなプライドどうでもいいのだろう。

 無邪気で真っ直ぐな妹がちょっと羨ましい。

「お腹すいた。お腹すいた」

「じゃあ、お皿準備して。パパとママも、御飯にしよ」

「うん」

 食器の準備を任せて、炊飯器の御飯を混ぜる。

「せっかく、早く帰ってきたのに」

 椅子に腰を落としながら、パパが呟いた。

「あ、それどういう意味」

 モミジの耳に届いたらしい。ぶうっと頬を膨らます。

「今年から宿題頑張るって言ったのに、パパは信じてくれてなかったんだ」

「あ、いや、違うんだよ。これは、その、なあ」

「ママもどういう意味か聞いてみたいわ」

 すがるような視線を受けたママが意地悪そうな表情を浮かべる。

 パパ、頑張れ!

 心の中で小さくエールを送った。

 

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