08月03日 曇
サクラの夢を見た。怖い夢だった。
昨日の今日、気持ちが整理できてないからだろう。
目を覚ますと、いつものモミジが居た。
今はモミジに支えられている。もっとしっかりしないといけない。
☆ ★ ☆
見慣れたドア。これは自分の部屋のドアだ。
ノブに手を伸ばす。カチリと金属音を残し、すうっとドアが開く。
中はもちろん私の部屋。
いつもの部屋。何も変わらない。
ベッドに本棚。クローゼット。あちこちに置かれたヌイグルミ。
デスクの前に後ろ姿があった。
短く切り揃えられた、少し色を抜いた髪。
まさか。
中学のセーラーから覗く、小麦色の肌。
間違いない。
ずっとずっと見ていた、ずっとずっと好きだった。
でも、どうして。
くるくると景色が回りだすような錯覚を覚える。自分がかなり混乱してるのが判った。
「カエデ」
ややハスキーな声。久しぶりに耳にする生の声に、身体が震えてしまう。
「サクラ」
驚くほど、小さな声しか出なかった。
だが、サクラには十分届いたのだろう。ゆっくりと背中が揺れる。
振り返ろうとする動きに、サクラの笑顔を重ねる。
私の心を暖かく照らしてくれる。何よりも大切な私の宝物。
「どうしたの。バカみたいな顔して」
尖った言葉が凍り付いていた私の胸に刺さった。
「どうして」
私の前にあったのは、冷え切った目をしたサクラだった。
「なにが」
「どうして」
「なんで、いつも愛想良くしてあげないといけないの」
「なんでって、そんな……」
私はサクラに嫌われるような事をしてしまったのだろうか。
早く謝らないと!
焦る心とは裏腹に、言葉が上手く作れない。
嫌な汗がじんわりと浮かぶ。
「まだ、半分くらいしか溜まってないじゃん」
デスクに置かれた砂時計、サクラがくれた大切なプレゼント、を無造作に手に取った。
「こんなペースじゃ、間に合わないよ。どういうつもり?」
どう答えていいのか判らなくて、つい目を伏せてしまう。
「ね、笑ってよ」
「そんな、いきなり言われても」
「早く。ほら、簡単でしょ」
「無理だよ。そんなの、急に」
私の返事に大きく溜息をついた。
「ホント役に立たないね。カエデってさ」
意味が理解できなかった。
それなのに。
心臓が。胸が。心が。ぎゅっと締め付けられる。
サクラを失望させている自分が。
苦しくて。悔しくて。悲しくて。涙がこぼれる。
「サクラ、サクラは私の事、私の事が」
躊躇った。
出かかった言葉を呑み込もうとする心と、吐き出そうとする想いがぶつかる。
「私の事が嫌いになったの?」
結局、後者が勝った。それは私という存在、全てをかけた問い。
サクラの口元に笑みが浮かぶ。
私の記憶にあるのとは違う。軽蔑を込めた表情。
でも、ようやく笑ってくれた。それだけでも、少し気分が軽くなる。
私なんてどうでもいい。サクラは、サクラだけはどんな時でも、笑顔で居て欲しい。
そんな事を考える私の前でサクラの唇が動く。
諭すように、ゆっくりと。
「カエデを好きだって思った事なんてないよ」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
揺れる視界にモミジの顔が飛び込んできた。
「モミジ」
私を揺さぶっていた手を止めて。ほっと息をついた。
「よかった。すっごくうなされてたから」
「夢。見てた」
自分を納得させるように呟く。
それにしても残酷な夢だった。
冷たいサクラの瞳。切り裂くようなサクラの言葉。
今、思い出しても。
恐怖から逃げるように上体を起こし、時計を確認した。針は十一時を回っている。こんな時間まで眠っていたなんて。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
パジャマの裾を掴んだまま、モミジが心配そうな目を向けている。
「うん、すごく怖い夢だった」
「それって、それって、そのあの」
サクラ姉ちゃんの夢なの。
その疑問を口にしていいか迷っているのが判る。
また、モミジに心配を掛けている。約束したばかりなのに。
そっと頭を撫でた。
昨日、図書館でできたコブに触れないように、慎重に。
「すっごく大きな虫に追いかけられる夢見ちゃった」
モミジが意外そうな声を漏らす。
どんな理由があっても嘘はいけない。ママの口癖だ。でも。今だけはいいよね。
「そう、すっごく大きくて。モミジなんて、あっという間に食べられちゃったんだから」
「うぁ、それってすごい嫌な夢」
虫が苦手なモミジが、心底不愉快そうに顔を歪めた。
「でも、夢でよかった」
精一杯明るく微笑んで立ち上がる。
「お昼はお姉ちゃんが作るね」
「え、いいの?」
今日の当番はモミジのはずだ。
お礼というのはあまりにささやかだが、少しでも気持を形にしたかった。
「何かリクエストある?」
「うんとね、うんとね」
目を輝かせて、次々とメニューを口にする。
そんなに食べられるわけないのに。
嬉しそうな顔を見てるだけで、頑張ろうって力をくれる。
モミジ、ありがとう。
遊びに行くモミジを玄関まで見送ってから、片づけを済ませ自室に戻った。
残っている課題を終わらせたいが、どうも気が乗らない。
調子の悪い日だってある。
半ば強引に自分を納得させると、ベッドに身体を投げ出した。ぼんやりと天井を眺める。
外を走る車の音が時折聞こえるだけ、静かで穏やかな時間。
目を閉じた。
このまま眠って、目が覚めれば全部夢だったらいいのに。
昨日の事も。サクラの事故も。
全部夢で。無かった事で。
サクラの笑顔が照らしてくれる世界があって。
「殺すのは酷くない?」
私の話を聞いたサクラが、ぶうっと頬を膨らます。
そんな平凡で、愛すべき世界に戻ってる。
もし、そうならどれほど嬉しいだろう。
軽快なリズムが思考を遮った。
去年流行ったこの曲は、サクラがいつも口ずさんでいたお気に入りだ。
これが聞こえるという事は。
半ば眠りに落ちかけていた意識を強引に引き戻し、慌てて携帯を掴む。
【非通知】
サクラからだ。
昨日はサクラの電話は無かった。
色々あっていつの間にか寝てしまったし、電話があっても普通に話せなかった。
そう考えると、サクラに余計な心配させずに済んで有り難いと思える。
「カエデ、おはよ」
「おはようって、もうお昼過ぎてるよ」
「ダメダメ。そんな常識に縛られてたら、立派な芸人になれないよ」
「別に目指してないし、なりたくないし」
私の言葉にサクラが笑いがついてくる。
どこも変わらない、私の知っているいつもの、私の大好きなサクラだ。
心の温度が上がる。全身が暖かくなる。これが幸せなんだろうって思う。
「昨日は電話できなくてゴメンね。なんかさ、電波の調子が悪くてさ」
「ううん。私も昨日はドタバタしてたし」
図書館での有紀の態度はおかしかった。
サクラの事故と有紀に何らかの接点が合ったのは間違いない。
「もうすぐ夏祭りだね。今年も花火やるのかな。やっぱさ、花火ってどーんと派手なのがいいよね」
「ね、サクラ」
「ん、なに」
そこをどうしても知りたい。
無意識に話を遮っていた。
「あのね」
ここまできて躊躇った。
サクラにとっては辛く苦しい話題になる可能性がある。
「ううん、なんでもない。えっと、お祭りの話だっけ」
やはり聞くべきではない。努めて明るく話題を戻そうとする。
「あたしとカエデは友達だよね」
いきなりの言葉に心臓が跳ねた。少し抑えたトーンに、今朝の夢がよぎる。
「何か聞きたいんだよね」
遠慮や内緒はしない。サクラと私が長い年月をかけて決めた暗黙のルール。
「変に気遣われたりするとさ。なんていうか、ちょっと寂しいな」
あ、でも無理には聞かないよ。と、付け加えて言葉を止めた。
私の反応を待っている。
話すなら自然に聞いてくれるだろうし、沈黙が続くならお祭りの話に戻るだろう。
そっと時間をくれる、サクラらしい優しさ。
「嫌な事を聞くかもだけど、いい?」
念を押した。それは自分の覚悟に対する確認でもある。
電話の向こうで頷く動きを感じる。
「サクラが事故にあった日。あの日、石嶋と何かあったの?」
真っ直ぐに聞いた。
サクラの死についての話題。ずっと禁忌としていた話題。
どんな答えが返ってくるか。
「あの日さ」
緊張で喉の奥が張り付く、携帯を握る手が震える。
「ユーキと駅でばったり会って、話しながら少し歩いたかな」
あっさりとした、あまりに自然な口調に拍子抜けした。
「ユーキが何か言ってた?」
「え、そういうワケじゃなくて……」
図書館でのやり取りを掻い摘んで伝えた。
「よく分からないけど、別に思い当たる事ないよ」
再び気の抜けるリアクションを返す。
有紀がサクラの死と関わりがあると思ったが、そんな大きな話じゃないみたいだ。
安心すると同時に罪悪感が生まれる。
今度会った時に有紀に謝らないといけないな。
「結構良いヤツでしょ」
「え、誰の事?」
「ユーキだよ」
思わず首を捻った。
石嶋有紀という人間を評すると、騒がしく身勝手、不真面目でだらしないとなる。
良い人間には程遠い。断言できる。間違いなくサクラの勘違いだ。
でも。
「悪い人間じゃないかもって気がしないでもない」
サクラが大きく笑う。
確かに変な言い方になってしまったが、それほど爆笑する事だろうか。
「でも安心したよ。ユーキとカエデって相性悪そうだしさ」
「仲は良くないよ。私、石嶋って好きじゃないから」
「あはは。お互いにそう言ってそうだね。ま、でもそれも友達のスタイルだよ」
サクラの声があまりに嬉しそうで楽しそうで、ついつられてしまう。
だから、ちょっと反抗的に頬を膨らませて、不満そうな声を上げた。
「ホント、良かった。心残りが一つ減ったよ」
小さな呟きが引っかかった。寂しい色を含んだ、無意識にこぼれたような言葉。
「そうだ。砂時計の砂はどれくらいになった?」
明るいいつもの声に戻っていた。
有紀の事もそうだが、どうも考えすぎる感があるみたいだ。
「ね、どれくらい?」
「えっと半分ちょいくらいかな」
ベッドから身体を起こし、デスクの上に置いてある砂時計を手に取った。キラキラと砂が踊る。
「もう、半分か。快調なペースだね」
「サクラ、もし砂が」
以前、口に仕掛けた疑問。
もし砂が落ちたら、サクラが消えちゃうなんてないよね。
サクラはウソをつかない。どんな事でも正直に答えてくれるだろう。
「もし、砂が全部落ちたら、どうなるの?」
だから、曖昧な聞き方になった。
「砂が全部落ちたら、カエデが笑顔を取り戻したって事だから。きっとあたしが居た頃のカエデに戻ってるよ」
「そうじゃなくて、そうなったらサクラは……」
怖かった。サクラが居なくなる事が。
「……大丈夫だよ。絶対に大丈夫だから」
「うん」
大丈夫。
ずっと側に居て、ずっとこうして声を聞かせてくれる。
これからも変わらない。そう言ってくれている。
サクラの言葉を信じよう。




