08月02日 晴
暑さはピークに達している。
ここ数日の気温は観測史上初めての記録らしい。
こんな日は空調の効いた図書館でゆっくりと過ごす。
今日はモミジも珍しく一緒。二人で出かけるのはいつ以来だろう。
☆ ★ ☆
藤見野市営図書館は、やや老朽化し蔵書量もイマイチだが利用客はそれなりに多い。
簡素なテーブルとイスが並んだ無機質な空間は、私にとっては心休まる場所の一つだ。
「ほら、寝てないで」
隣で船を漕ぎ始めたモミジの肩を優しく揺すった。
「ふぇ」
間の抜けた声を漏らしながら、ふわふわと視線を泳がせる。
「そっか、図書館だ図書館」
モミジは本が苦手。漫画すら滅多に読まない。
そんなモミジが私にくっついて図書館まで来たのは、夏休みの課題としては定番の読書感想文の為だ。
小説ならば何でも良いという事なので、挿絵が多く文章も読みやすいティーンズ向けの本を選んであげた。
それでも活字の並んだページはモミジの手に余るのだろう。数枚進んでは、うつらうつらを繰り返している。
再び本に戻ったモミジの目に、あっという間に目蓋が落ちてくる。
義務感で読む本ほどつまらない物はない。大きくなれば、自然と本も読むようになるだろうに……。
そう考えると、あらすじだけを教えて適当に済ませてもいいと思うのだが。
「今年から中学生。お姉ちゃんに頼らないで、宿題くらい一人で出来るようになるもん」
と、言っていたモミジの気持ちに水を差すのも。
あれこれ迷った挙句、眠ると起こすを繰り返していた。
「ほら、モミジ。寝てる」
「ふぇ。そっか図書館だった」
目を擦りながら、欠伸をかみ殺す様子を気にしながら、自分の作業に戻る。
私の前には数冊の絵本と、まだ白い原稿用紙。
現文の課題はオリジナルの童話。
問題集を終わらせた私にとって、残りの課題は創作や研究といった時間の掛かる物だけだ。
それにしても。
いくつかの童話絵本を読んでみて、定番のパターンは理解できた。しかし、いざ書く段になると首を捻ってしまう。
どう書けばいいのか。正直、手に余る。
こういう課題を出す教師のセンスは素晴らしいが、出される方の立場は厳しい。
白紙のままの原稿用紙の前でクルクルとペンを回すのに、もう一時間以上を費やしていた。
「モミジ」
半開きの口からヨダレがこぼれかけていた。
目を覚ましたモミジが慌てて口元を拭う。
「はふぅ、全然眠いよ。ねえねえ、お姉ちゃんの方はどうどう?」
「あんまり芳しくないかな」
二人揃って、大きく溜息。姉妹だからできる絶妙のタイミング。
「なんかお腹すいたかも」
「そうだね。お昼だし、今日はこれくらいにしよっか」
「うん。私ね私ね。とりあえずこれ借りて、夜に夜にね。読んでみる」
ベッドの上で本を開いたまま、幸せそうに眠るモミジが想像できた。
つい頬が緩んでしまう。
「なになに? おねえちゃん」
「なんでもないの」
そんな私にハテナマークを浮かべるモミジの頭をそっと撫でる。
「お昼はハンバーガーでも食べて帰ろっか」
大きな瞳をキラキラさせて何度も頷く。
モミジは食べるのが大好きで健康的。しかも、少しくらい食べ過ぎても肉にならない恵まれた体質。
体重計の乗る時は、いつもドキドキする私にとは随分と違う。
貸出カウンターまで並ぶ列に加わるモミジの背中を見送ると、テーブルの本をまとめて返しに向かう。
絵本を戻し、出口に向かっていた私の足が止まった。
目の前の棚には、ホラー小説や怪奇雑誌といった胡散臭い物から、宗教や文化について書かれた分厚い表紙の本が並んでいた。
オカルトというカテゴリーでまとめられた本棚。
「サクラ」
サクラからの電話は、一日に十分だけのあまりにもささやかな奇跡。
常識ではありえない現象をすんなりと受け入れているが、疑問は一杯ある。
まずサクラはどこから、どうやって電話を掛けているのか。
次に十分という制限。もっと長く話す方法はないのだろうか。
それだけじゃない。電話ができるのだ。もう一度、もう一度だけでも、会える方法があるかも知れない。
それらの答えが、いや何らかのヒントが記されているとしたら。
近寄って私の身長よりも遥かに高い本棚を見上げる。
並んでいる背表紙はどれも怪しい、とりあえず死後の世界を連想させるタイトルに手を伸ばす。
ハードカバーの冷えた感触。
ピタリと指が止まった。
もし、もしも書かれている内容が私の最も恐れる物だとしたら。
この世に永遠はない。全てに終わりが訪れる。
この小さな奇跡が、いつか終わる事を知ってしまったら。
私は……私は……。
「あの、大丈夫ですか」
すぐ近くからの優しい声で我に返った。
伸ばしていた手を慌てて引っ込め、視線を向ける。
驚いた。
「顔色、良くないみたいですけど。大丈夫ですか」
「石嶋」
細面の比較的整った顔。ノーメイクのせいか普段のキツイ印象が柔らかくなっているが、有紀に間違いない。
淡い色のサマーセーターに、大人しめのスカート。丸い帽子を頭にのせている。
これも普段から想像できない格好だ。
「えっと、どこかでお会いしましたっけ」
小さく首を傾げる。
ゆったりとした話し方。有り得ない。
まさか。化粧をすると人間性が変わるとか。
バカバカしい妄想を浮かべてしまう。
「あの、ひょっとして姉と……」
合点がいった。
有紀が双子の妹が居ると言っていたのを思い出した。
記憶を手繰り寄せる。
「ひょっとして、早百合さん?」
「はい。正解です。実は双子でした」
何処となくずれた答えをしながら。
「良く間違われるんです」
と嬉しそうな表情を浮かべる。
有紀に比べてかなり柔らかい性格のようだ。
心持ち下がった目尻。帽子からのぞく長い黒髪。
初見のインパクトが落ち着くと、やはり別人だと解る。
「あの……」
遠慮がちな話し方は好感が持てる。
馴れ馴れしい有紀に、ホンの少しでもこういう部分があれば。
大人しい雰囲気で、うつむき加減で話す有紀を想像する。
不気味だ。らしくない。有紀はいつも騒がしくバカしていてくれないと困る。
「大丈夫ですか」
「え、あ、うん」
ぼんやり考えてしまった。心配そうな早百合に急いで返事を投げた。
「よかったです」
ほっと胸を撫で下ろす。小さな仕草が、ゆったりとした優しさを感じさせる。
「ひょっとして、秋野 楓さんですか」
いきなり名前を言い当てられて驚いた。
「やっぱり。お姉ちゃんが聞いてます」
何をどう伝えているのか解らないが、ろくな物じゃないだろう。
どうリアクションすべきか迷っている私の前で、いきなり姿勢を正し深々と一礼する。
「初めまして石嶋 早百合です。よろしくお願いします」
「あ、え、こちらこそ。秋野 楓です」
後を追うように頭を下げた。
「あの、お姉ちゃんとは、その、うまくいってますか」
顔を上げた私に唐突な質問。
そう聞かれるとちょっと困る。
根本的に有紀とは性格が合わない。いさかいを起こす事はなくなったが、それが良好な関係と言えるだろうか。
「まあまあだと思う」
結局、曖昧な答えを選択した。
「あぁ! そうなんですか! それは良かったです」
ぱっと明るい表情になった。意地悪さが漂う有紀よりも、素直で透き通った笑顔。
有紀もこんな風に笑ってくれれば、ちょっと前と同じような事を考える。
「じゃあ、あの事は、もう」
あの事?
「ちょっと心配してたんですよ。お姉ちゃん、いつも元気なフリしてるけど、ずっと悩んでるみたいだったから」
有紀が気にしている?
話が良く見えない。
「何の事か解らないんだけど」
私の疑問に、意外そうな顔になる。
「春の事です。友人だったて聞いてますけど」
「友人?」
「はい、聞いてないですか?」
春。友人。嫌なキーワード。
「名前が確か……」
もごもごと言葉を噛む。記憶を検索しているようだ。
「確か、や……」
「早百合、いつまで待たせんのさ」
聞きなれた張りのある声に振り返る。
「ん、カエデじゃん、暑いね。汗かくし、ヤな季節だと思わない?」
薄く施した化粧に、大きく胸元を開けた派手な色のブラウス。
体格や顔立ちはそっくりでも、対照的な印象の姉妹。
「早百合、本見つかったの?」
「え、あ、ごめん。ちょっと待って」
早百合が並んでいる背表紙に、あたふたと視線を走らせる。
「なんていうか、のんびりした子でさ」
やれやれと溜息を溢した。
「しかし、ちょっと意外だな」
本棚を見上げて、意地悪そうな色を浮かべる。
「カエデがオバケを信じてるなんて。いつも理屈っぽくてって。どしたの、顔色悪いよ」
「石嶋、何か私に話す事があるんじゃない?」
「ん、なにそれ」
「春の事で、私に話さなければいけないことがあるって」
有紀が凍った。今まで目にした事のない表情に、かなりの動揺が見て取れる。
「な、なにそれ。良くわかんない事言ってさ」
「今、早百合さんから聞いたの」
「アンタ、また余計な事!」
首を竦ませて、早百合が小さくごめんなさいを漏らす。
「何の話なの。聞かせて」
「別に、その、わざわざ話すような事でもないよ」
「ウソだ」
心に浮かんだ言葉が口から出ていた。
「ウソだ、ウソだ」
「なんでアンタにウソつかないといけないわけ。今日のカエデ、ちょい変だよ。怖い顔しちゃってさ」
薄っぺらい笑いを作る有紀を、強く見つめ返す。
有紀の視線がやや下に、私の目から逃れるように動いた。
「話して。私に話さないといけないんでしょ!」
疑惑が確信に。質問が詰問に変わる。
「春の事って! 友達の事って! それって! それって!」
有紀の両肩を掴み、ガクガクと揺する。
「落ち着いて」
「ジャマしないで!」
割って入ろうとする早百合を一喝。
小さく悲鳴を漏らし、数歩下がる早百合を視界の端で確認する。
「友達の事って、それって、それって」
次の言葉が出てこない。
そうであって欲しくないという願望と、おそらくはそうであろうとう予想が、喉を締め付けていた。
「違う」
有紀が左右に小さく首を揺らす。
「あれは事故。事故だった。悪くない。私は、私は悪くない」
「サクラの事ね」
サクラという単語に、有紀が跳ねるように顔を上げた。
大きく見開かれた瞳からは涙がこぼれそう。
「お姉ちゃんお姉ちゃん!」
モミジの声。反射的に、左後方を振り返る。
「お姉ちゃん、どうしたの」
出口のすぐそばにモミジの小柄な姿があった。
「カエデ、ちょっと落ち着いて」
有紀に視線を戻す。苦しそうな顔。
両手に信じられないくらい力がこもっていた。指が肩に深く食い込んでいる。
慌てて手を離した。その反動でバランスを崩し、有紀の細い身体が後ろに倒れる。
「私は、ただ石嶋の話を……」
聞きたかっただけ。
誰にするでもない言い訳を呟く。
うずくまったまま、両肩を抑える有紀。しゃがみ込んで、耳元で声を掛けている早百合。
私は話を聞きたかっただけ、暴力を振るう気なんて無かった。
私はただ話を……。
有紀が、早百合が、モミジが。私に無言の非難をぶつけている気がした。
その空気に耐え切れず。そこから逃げ出したくて。
踵を返した。
走ろうと重心を移す私のすぐ前に、モミジの顔があった。
いつの間に、こんな近くに。
ぶつかる!
足を止めようと。でも。止まらなくて。
モミジが驚いて、目を丸く。慌ててブレーキを掛け。大きく仰け反った。モミジの小柄な身体が。
咄嗟に、自分の身体を庇おうと。
ダメ!
手が伸びて。ずしりとした感触が。
突き飛ばされたモミジが。ふわりと。スロービデオを見てるみたい。緩やかな弧を描き。
本棚が揺れた。ゴツン。鈍い音。
並んでいた本が落ちる。次々と。モミジの上に。
今日はモミジと図書館に来た。夏休みの課題をする為に。
モミジは読書感想文。私は童話を書かないと。
本が苦手なモミジは寝てばかりで、私もどう書いて良いか解らなくて。
パン。
乾いた音。頬にじんわりと痛みが広がった。
「ボケッとしてる場合じゃないでしょ」
「私とモミジは夏休みの課題で」
視界がわずかに揺れ、逆の頬に痛みが生まれる。
「しっかりして!」
「石嶋?」
「早百合、頭打ってるみたいだから、動かさないで」
「うん」
モミジの上に落ちた本をどけている早百合に声を掛けた。
本の下から覗くモミジは、ぐったりと手足を投げ出している。
「アンタは救急車、早く!」
有紀の言葉に急いで携帯を取り出し、ボタンを押す。
「どうしました!」
集まってきた係りの人や他の利用者に、有紀が何か話している。
電話が繋がった。落ち着いた女性の声。
「あの、あの、あの、妹が、妹が」
「お姉ちゃん」
無気力に漕いでいたブランコを止め、ゆっくりと顔を向けた。
いつの間にか太陽は赤くなって、地平線に半分くらい隠れていた。
「モミジ」
頭に巻かれた包帯。胸がずっきりと痛む。
モミジの運び込まれた病院のすぐ隣は、児童公園だった。
連絡を受けたパパとママが到着すると、私は病院を抜けてここに来た。
全て私の責任だ。でも、私にはそれを受け止めるだけの強さがなくて。待っているのが辛かった。
「モミジ」
「特に問題ないって。コブが出来ただけだって」
てへへと笑い、私の隣のブランコに腰を下ろす。
「あのね、モミジ、その」
思いをどう言葉にすればいいのか、迷ってしまう。そんな私より先に。
「お姉ちゃん、ゴメンね。心配かけて」
モミジがそう口にした。
「私がね私がね。走ってたから」
「違う。悪いのは私。私が……」
「でもねでもね。パパもママも酷いんだよ。落ち着きが無いから、バチが当たって言うんだよ」
ぶううっと頬を膨らます。
「パパとママね。あっちで待ってる」
公園の入り口近くで寄り添って立つパパとママにちらりと視線を向ける。
「それとお姉ちゃんの友達の二人は先に帰ったから。お姉ちゃんによろしくって」
石嶋姉妹は、病院まで付き添ってくれた。
私一人じゃ、オロオロするだけでどうにも出来なかっただろう。それは素直に感謝している。でも。
「夏休みが終わったら、気持ちの整理がついたら、ちゃんと話すって伝えといてって」
「うん」
気持ちの整理がついてないのは自分の方だ。
「えっと、なんて言っていいのか解んないんだけど」
そこで言葉を切った。やや目を伏せて思考を巡らせる。
「なに」
ふわりと続きを促す。
小さく息を整えて、モミジが顔を上げた。
「お姉ちゃんは、サクラ姉ちゃんが大好きだったんだよね」
意外な言葉に心臓が跳ねる。言葉を返そうと、でも私の唇は震えるだけで。
「今でもお姉ちゃんの一番は、サクラ姉ちゃんなの?」
サクラはもう居ない。なのに私の心は居ないサクラだけを見ている。
「サクラは、サクラは私の大切な存在だった。それは今でも変わらない」
そしてこれからも。私はずっとサクラを、記憶の中のサクラを見て生きていくのだろう。
自分でも情けないと思う。しかし、どうにもできない感情なのだ。
「そっか、お姉ちゃんとサクラ姉ちゃん仲良かったもんね」
「ごめんね」
小さな謝罪は誰に対しての物なんだろう。
「私ね私ね」
ぴょこんとブランコから跳んで、モミジが前に回る。
「私ね、お姉ちゃんが大好き」
「モミジ」
「いつも優しくて、いつも暖かいお姉ちゃんが大好き。いつもいつも優しく微笑んでるお姉ちゃんが大好き」
「モミジ……」
「私はサクラ姉ちゃんの代わりにはなれないけど。でも、頑張るから。いっぱいいっぱい頑張るから」
「あたしはバカで迷惑掛けてばっかかも知れないけど。でもさ、カエデに迷惑掛けないように頑張るからさ」
いつか聞いたサクラの声が重なる。
「だから。笑って」
ブランコが揺れる。
無意識に私はモミジを抱き寄せていた。
ぎゅっと力を込めるのは、泣いてる顔を見せたくないから。
「ありがと。私も頑張る。ずっと笑顔で居られるように頑張るから」
あの時、サクラに返したのと同じ言葉。
「お姉ちゃん」
顔を上げるモミジに微笑む。止まらない涙に負けないように。今の私の精一杯で。




