項目9:王女とメイドとの暮らし方。
その夜、ルーインの街は、バケツの水をひっくり返したような大雨に見舞われた。
表玄関の看板は、当然のように「閉店中」だと告げていたが、そんな時でも平然と扉を開けて入ってくる客がいる。
「よぉ! ジーク!」
鈴の音は強い雨音にかき消され、聞こえなかった。客は雨に負けじと叫ぶ。
「昨日ぶりだな!」
「表の看板が見えなかったのか!」
「雨が強くてな!」
ずぶ濡れになったエリオットの側には、連れが二人いた。共に暗色のローブを被り顔を隠していた。
「――夜分遅くにすみません、ジークさん」
連れの一人がフードを取り払う。昼に訪れていたフィノだった。両手に抱えた大きな荷物を、重たい音を立てて置く。
「ぁ、ぅ……」
さらに、フィノの足下にひっつく最後の一人。この場では頭ひとつぶん小さい。フードの下から覗くまぶしい金髪と、明るい翠色の瞳が、ジークハルトを恐ろしげに見上げていた。
「……おい。エリオット、こいつは」
「あぁ、リーアヒルデ王女だ。御身を一時、俺達が預からせてもらうことにした」
「どういうつもりだ。ここへ連れてくる必要はねぇだろうが」
「実は、少し気にかかることがあってな。俺たちのギルドも安全とは言い切れん」
「……だから? なんだってんだよ」
「明日には、俺も森の捜索で留守にせねばならん」
「知るかっ!」
「俺がいない間、王女の護衛を頼んだぞ」
「おいっ! ふざけんな!!」
殺意すら込めてエリオットを睨むも、
「ジークさん、私からもお願いします。さぁ、リーアヒルデ様も」
「……お、おねがい、しま、う……」
残る二人が揃って、ていねいに頭を下げてくる。一歩離れたところから「断れんだろう?」と、エリオットが得意気な顔を浮かべていた。
一夜が空けた。
朝が来るのと同時に雨は去ったのか、空は綺麗に晴れていた。
「……ねっみぃ」
茶の短髪をかきながら、マズいコーヒーを片手に、店の表に通じる部屋までやって来る。玄関に手をかけたところで、すでに鍵が開いていることに気がついた。
「ふん、ふん、ふふん♪」
鼻歌交じりに、店の前を箒で掃いているメイドがいた。城中や貴族の屋敷では珍しくも無いが、下街とも呼べる職人たちの住むところには、使いにでも出されない限り見ない姿だ。
「あっ! おはようございます。ジークさ――――ご主人様」
あろうことか、場末の鑑定士の男を、様づけ呼ばわりだった。まだ陽が上がりきらぬ早朝から妙な幻覚でも見てるのか。そんな顔をしつつ、ジークハルトは店の中へ取ってかえす。すると今度は、
「…………ぁ……」
廊下に続く扉の向こう。こっそり顔だけ出している、金髪翠瞳の子供と目が合った。
「ひぅ!」
ジークハルトの記憶では、背中までなびいていた金髪は、今は自分と同じほどに短く、耳元で切り揃えられている。着ている服はありきたりなシャツの上に、大工たちや、その使い走りの少年たちが着る作業用のツナギだ。頭は長い耳を隠すつもりか <たれ> のついた帽子を被っていた。
「フィー……。どこ……?」
「あのな」
ジークハルトが根負けしたように前に出る。途端に「ひっ!」と両肩を振るわせて、部屋の隅に走っていった。おどおどしながら謝った。
「……ご、ごめん、なひゃい……」
まるで母親から離された、力のないウサギ。ジークハルトがますます不機嫌そうに眉をしかめると、目の前の小動物はガクガク震えて、さっと作業机の影に隠れた。
「どうしろってんだよ」
思わずといった感じで呟いた時。
玄関の扉が、明るい鈴の音を立てて再度開いた。
「どうしたんですか、ご主人様?」
「フィ~~っ!!」
「あら」
エルフの少女が、全力で、弾丸のようにまっすぐ駆けた。ジークハルトの隣を抜けて、途中でこけそうになりながらフィノに抱きつく。受け止めたメイドは、箒を壁際において小さな頭を愛しそうに撫でてやる。
「リアン様、もうお目覚めでしたか」
「リアン? ――あぁ」
偽名かと納得する。それから仲睦まじく、抱き合う二人を見比べた。しかし少年に扮したリーアヒルデはともかく、フィノが、メイドの格好をしてる理由はよくわからない。
「フィー、どっか行っちゃったと思ったっ!」
「大丈夫ですよ。私はどこにも行きませんからね」
「えへ~」
幸せそうに、白いエプロンの胸元に顔を寄せる。そして、メイドに転職した知り合いは、紫色の瞳を細めて微笑んだ。
「ご主人様。リアン様が目を覚まされたようですし、食事の支度にいたしますね」
「……いいんじゃないか」
「かしこまりました。ご主人様」
恭しく礼をしてくるメイドに対して、ジークハルトは、すごく気まずそうな顔を浮かべる。何気なく手にしたコーヒーを煽れば、いつもより、苦い味わいが広がった。