項目6:不足の事態。主に金銭的な意味で。
如何に優れた財宝でも、心から欲し、求める者の手に届けねば輝くことはない。財宝に価値を持たせるには、正しく、宝の真贋を見極める手が必要だ。
職人街の一角にある、小さな鑑定店。
「……ふぁ」
昼前、眠たげな欠伸を浮かべて、ジークハルトは部屋の扉を開けた。コーヒーを入れたマグを手に、整然と物が置かれた店内を歩く。表玄関の鍵も開け、看板を『営業中』へと裏返す。
昨晩に着ていたスーツ姿ではなく、量産品のシャツに黒のベストを重ね着して、下は作業ズボンというラフな格好だ。
「飯は……。後でいいか」
店内に戻り、壁にかかった時計をちらと見て、椅子に座る。
コーヒーのマグを傾けると、熱くて苦い味わいが、口の中いっぱいに広がった。
「さて、仕事だ」
手袋を両手に嵌め、右目の上に片眼鏡を乗せる。鑑定するのは、昨晩ドレスの女から盗んだ薬の小瓶。透明なガラスの内側に漂う、なんらかの【水】を見据える。蓋を開き、手で扇ぎながら慎重に匂いをかいだ。
「無臭か。ただの水ってこたねーよな」
昨晩、この水を飲まされた姫君は、まるで洗脳されたかのように、ぼんやりしてしまっていた。
「……まぁ、口にさえ含まなけりゃ大丈夫、か?」
あとはじっと、片眼鏡越しに向き合う。すると道具に秘められた【魔】が呼応し、【水】に秘められたイメージをジークハルトに伝えてくる。
液体は次第に血のように赤く染まっていく。赤い色は、使用者に対して害意を与えんとする意味合いが強い。
「毒か、あるいは一種の媚薬か」
思考を続けながら見据える。
「エルフは【魔】に強いはずだしな。精神を惑わし、乱される状態にはなりにくいはずだ。それなら、エルフに特別な効果をもたらす薬ってこともある、か……?」
あきらめず、さらに赤くなった液体と向き合う。無味無臭で、成分を詳細に確かめられない以上は、片眼鏡の力だけが頼りだった。
「……ん?」
ジークハルトが顔を近づける。
「なんだ?」
浮かんだのは【白い風】のイメージ。
それが、小瓶の口元へと吸い込まれていく。
「こっちのイメージは……。俺の、片眼鏡か?」
解明する、明らかにする――白。
未知の物を究明したときの開放感――風。
それが小瓶の中に吸い込まれている。と理解した時に、不意に視界がぼやけた。正しく言えば、水が赤く見えなくなった。
「なっ!?」
慌てて小瓶の蓋を閉ざす。それから再度、凝視するも、
「おい……」
一切の反応が消えていた。
試しに他の鑑定済みのアイテムを見ても、まったくイメージが浮かんでこない。
「…………嘘だろ?」
呆然としつつ、ジークハルトの頭脳は働いていた。目の前にある【水】は乾きを癒すためのものではない。あらゆる他より【魔】を吸収すべく、本質を【逆転】させられた液体だった。有用性など一切あろうはずもない。
「クソッ!」
アーティファクトは総じて高価だった。品によっては家が一つ建ってしまうほどだ。ジークハルトの片眼鏡も安くはなかったし、修理をするには、専用の付与師と呼ばれる職業が存在するのだが、その料金もまた高い。
「ふぅ」
大きくため息をこぼしたジークハルトの口元には、無意識らしい笑みが浮かんでいた。しかし、鋭い瞳だけは笑ってない。
「この野郎」
小瓶を掴んで振りかぶる。
『短気は損気じゃぞぅ』
しかし、寸でのところで動きが止まった。
小瓶を投擲しかけた斜線上。棚の近くに、一枚の老人の肖像画が見えた。
三角帽子とローブを身に着けた格好。その手にはビールジョッキ。顔はやたらと赤く、右下には小さなサインで『ワーグナー』とあった。
「クソジジィ」
肩の力を抜いて、手にした小瓶を机に戻した。何気なく指折り数えると、
「もう、四年も前になんのか……」
空には少し、雨曇が浮かびはじめていた。
窓の外を見つめながら、ジークハルトの右手は腹部に添えられる。若い店主の顔に、じわりと、古傷が痛んだような表情が生まれていた。