残された物の意思。
いわゆる番外編
私たちはもう人間では無い。
ガタガタ、ガタン。
揺れる馬車の音は、どれほど居心地が悪くとも眠気を誘った。これからどうなってしまうのか、考えるのが恐ろしくて、想像を眩ませたくて、一時の忘却に浸っていた。
「……おねーちゃん」
「大丈夫よ」
すがってくる妹の頭を撫でる。血が繋がっていることを示す、アンバーの虹彩。少し赤味を帯びた髪の毛。一つ歳の離れた妹だったけれど、私たちはまるで「双子のようだ」と言われるぐらい、そっくりだった。
「――ひゃっ!」
馬車が大きく揺れる。積まれていた荷の一部が大きく動く。
古ぼけた幌を留めていた糸も少し解け、隙間から外の景色が見える。
「わぁ」
妹の声は明るい。
蒼い空、白い雲、稜線、緑の尾根。
うららかな春の日差し。すーっと、気持ちの良い風がたなびいた。
両足を閉めた枷が無ければ、今すぐあの世界へ駆けていくのに。いや、
(無理よね。どうやって生きていけばいいか、わからないもの)
ガタガタ、ガタン。
眠たい。意識が落ちていく。
景色の中に一人、この空と同じ色の男性が見えたような気がした。
にぎやかな声が聞こえてきた。街に着いたのだろうと、ぼんやり思う。
「――荷を確認させてもらうぞ」
足音が近づく。幌をまくられると、その先にいたのは鋼の鎧を着た、小太りした衛兵の男だった。ふん、と鼻で一つ笑い飛ばされる。
「ずいぶんと小せぇのも混じってやがんな」
「隣国の没落した貴族ですよ。この先にある小国で売り払おうと思いましてね」
痛む傷もない。あっても気がつかない振りをすればいい。
忘れよう、忘れようと、言い聞かせる。
この先にはもう、希望もなにも無い。
「おねーちゃん」
「うん……」
でも、まだ私には妹がいた。
男の子みたいに、やんちゃで、私がしっかりしないといけなくて。
「ローゼおねーちゃん」
「どうしたの? アデラ」
「私の鎖、取れてる」
「えっ?」
「お姉ちゃんのも、取れてる」
「……え」
私たちの両足。
何かの【魔】を秘められていた足鎖が、パキン、と二つにわかれていた。
現実感が足りない。これが、壊れていたら、どう、
「おねえちゃん! ほら早くっ!」
「あ、うん……」
アデラが私の両肩を掴む。前後に揺さぶられて、やっと気がついた。
「見て、ほら。馬車、ちょうど門を抜けたみたい!」
「で、でも……」
「『せんざいいちぐー』のチャンスだよっ!」
「ま、待ちなさいよ! アデラっ!」
にこりと笑う。私たちは手を取りあって、飛び降りた。
短い自由を得て、少しだけ心が躍った。
ただ、うっすら陽が照らした街並みに陰りが落ちた時、すぐに胸の中に暗鬱としたものが広がっていった。
夜が恐ろしい。
やはり逃げ出すべきじゃ無かったと、ふたたび諦念が押し寄せてきた。
「おねえちゃん」
「うん……」
だれか、たすけて。
寒くて飢えていた。夜の街で、空き地の一角に身を寄せ合って、ほんの少しの暖を取るしかできない。
「……さむぃ……」
「アデラっ!」
妹が震えていた。頭に手を乗せると、熱い。
熱がどんどん、ひどくなる。
何もない。ただ抱きしめることしかできない。ぎゅぅと、精一杯に。
「……おねーちゃん……」
「うん」
妹の後ろ、整備などされてない石畳みの合間から、一本の花が咲いていた。
どこにでもあるような、小さな白い花。
「……おねー、ちゃん?」
「眠ってて」
妹の頭を優しく撫でた。拾った布を被せる。手を繋ぎ合わせ、指を絡め、願った。
神様。あなたという存在が本当にいらっしゃるのでしたら。
どうか、妹だけは――
「――違う」
今、役に立つのは、このカラダだ。それを用いる私の意志だ。
頼るな。祈るな。何者にも願うな。
私が、妹を助ける。花を契る。
夜空を見上げれば、今にも雨が降ろうとしている。周辺に映る世界もまた、暗鬱としたものだったけれど、全身は怖さと寒さで震えていたけれど。
「人は、護るものがあれば、強くなれる」
戦場で散ってしまった、頑固で生真面目な父の口癖を重ね合わせた。
口元にほんの少し、笑みが浮かんだ。覚悟は決まった。
最初に、私の前に通った人に声をかけよう。
目を閉じて、耳をすませる。
足音が近づいてきた。一歩を踏み出す。
「……あのっ!」
「うん?」
「私を、一晩買ってくださいっ!」
「…………え?」
一拍の間があった。おそるおそる、顔をあげてみると、そこには、
「――あ」
隻眼の、けれど非常に整った顔立ちをした、黒髪の『女性』がいた。
無骨な皮鎧とズボンを纏う。スラリと伸びた背。腰元にはわずかに反りの入った東国の長剣が吊り下げられている。くす……っと表情を綻ばせた。
「私、こう見えても、女よ?」
「あっ、いえ……」
「それとも、そういう趣味?」
「ち、違いますっ!」
「じゃ、もう一つ忠告しといてあげる。追い剥ぎするなら他所でやった方がいいわよ?」
「えっ?」
予想外の返答に戸惑った。時だった。
ダッ、と。路面を駆ける姿があった。
「やあああああぁッ!」
いきなり、近くの茂みから飛び出した影。
尖った石を振り被ったのは、
「アデラ!?」
「お粗末ねぇ」
女性はひょいと首を傾げるだけで、避けた。
「ほら、奇襲が失敗したなら、素直に逃げるが吉よ」
「うるさい! おねーちゃんに手を出しちゃ……っ!」
「アデラッ!」
両手を広げる。見下ろすその女性と対峙した。
「さて、どう落とし前つけてもらおうかしら」
「そういうつもりは無かったんですっ! 本当ですっ!」
「そんなこと言われたってねぇ」
細くなった黒瞳で、にこりと笑った。
「そっちの娘、放っておいたらマズそうよ?」
細い指先が楽しそうに、とん、とん、と刀の柄を叩いた。
側まで歩いてきて膝を折る。
『――この人』
強い。
私の父は武人であることを良しとしていた。
女でありながら、基本程度に武芸を仕込まれていたから、なんとなく分かる。
目の前の女性が刀を翻せば、自分たちの命は、紙切れのように散ってゆく。
「な、なんでもしますっ! だからっ、許してくださいっ!」
乞うしかなかった。ひたすらに。低身低頭で頭を下げた。
「――なんでもするのね?」
「は、はいっ!」
「料理、炊事、洗濯」
「え?」
「できる?」
頭をあげると、月夜に照らされた彼女の口元は、ほんの少し笑っているように見えた。
「ある程度なら……」
「私はできないわ。さっぱり、全然できないわ」
「えっ……」
「ついて来なさい」
「あ、の?」
「別に、取って食ったりはしないわよ。あぁそうだ。貴女の名前を聞かせてもらえる?」
「……ロ、ローゼ・フォン・アイリスです。こっちは妹のアデラ・フォン・アイリス」
「ふぅん。貴族ね?」
「一応は……」
さらりと興味なさそうに、その人は告げた。
「南の方で、下級民たちが反旗を起こしたと聞いたわ。一応は鎮圧したそうだけど、貴族側にも随分と被害が出たそうね。人の上に立つ人間って、クズばっかりなのかしら」
「父は違いますっ! 父は……っ!」
「詳しくは聞いてあげないわよ」
「……っ!」
「ただ、選択肢をあげる。ついて来たいなら、好きになさい」
ひらりと手を振って、その人は軽やかに歩き出した。
私はアデラを背負って、その背中を追いかける。
それから、私達姉妹は、古い名前を捨て、この『魔都』で暮らすようになった。
特別に裕福なわけでは無かった。
だけど私たちは、本当に恵まれていた。幸福だった。
あの時の路地を同じように歩く。
「――レティーナ様、先ほどの男性も冒険者ですか?」
私が告げると、誰よりも強いその人は、ふと、こちらを見た。
「昔はね」
短く応じた。
眼帯に覆われていない方の瞳は、いつにも増して、優しさに満ちていた。
「あの、レティーナ様」
「なにかしら?」
「良いことが、あったんですね」
進んでいた足が止まる。自身を指で示されて「わたし?」と聞き返された。
「はい」
「どうして?」
「だって、嬉しそうですよ」
言えば、もう一段、愛らしい笑顔を浮かべられた。
その仕草もまた、普段と異なっていて、不覚にも少し見惚れてしまう。
「ロゼ、大人をからかうのもいい加減になさい」
そう言って振りかえった横顔は、とても可愛らしい感じでした。