障害排除。
深い、夜の時間がおとずれた頃。
ざあああぁぁぁっ……と。
森の深淵にある木々の梢が一本、大きな音を響かせた。だが、それに追従する音は聞こえてこない。波のようにおだやかに、静かに凪いでいく。
暗闇の装束に身を包んだ盗賊は茂みのなかに身を置いていた。音を立てることのないよう立ちあがり、腰の後ろに携えていた短刀を抜く。
『――炎を知る我、命ず。< 灯火よ生じ、我の側を照らしだせ > 』
握り手に秘められていた【魔石】が呼応する。
柄のついた短刀が一対。それぞれの剣先に、生み出された【炎】が灯る。
揺らめく炎が周囲を照らす。
「行くか」
ジークハルトは一歩を踏みだした。正面には、扉をつけ忘れた入り口のように、虚を開けた大樹が並んでいる。となりあった大樹は、つり橋のように枝葉を絡め、渡り廊下のように行き来できる、自然の構造をつくり上げていた。
(……見張りがいねぇな? エリオットの話だと、騎士団が巡回してるって話だったが)
【炎】の属性が付与された短刀を手に、ジークハルトは大樹がならぶ森の小道を進む。時折、避けられない下草が音を立てる程度に、音が響いた。
生き物の気配がない。鳥や動物、小さな虫さえも。
静寂の森を歩き、やがて、とりわけ巨大な、大樹の正面に立った。
開けた虚の深部へと、踏みこもうとした時だった。
「――――たす、けて、くれェェッッ!!」
虚の奥から反響するような悲鳴が来た。とっさに身を離し、残る片手を、別の短刀へと添える。耳をすますと、水の音が聞こえてきた。
大樹の深部。
地底より、こうこうと湧き上がるようにして、水があふれていた。
天然の泉はとりわけ深く、中央は底が見えぬほどの様相を保っている。
「――レ、レンデル隊長ォッ! た、たす、たすけっ……!」
「沈め」
騎士の鎧をまとった男の眼前にて、下級兵士の一人が足掻いていた。水の飛沫が多量にあがり、愚かにも溺れているように見える。
「い、やだ……。消える、消えちまう……! 『俺が、消えるッ』!」
泉の水、それ自体に意志が含まれているかのように下級兵士の粗末な鎧の中を通り抜け、四肢を包み、体の隅々をひたしていく。開いた口から腹の中、臓腑に落ちていく。
『――水と、時空、すべてを知る我、命ず。その効果を <逆転> せしめよ』
呼応する。
レンデルの持つ、青い刀身の剣が光る。
喉をうるおし、生命の維持に必要不可欠たるものが、本質を歪められる。
その効果を【逆転】させていく。
「……あ、あ、あ、あぁぁ……ぁ……ぁ…………!」
兵士であった男の肉体を、精神を、時間を、存在と呼ぶべき概念、そのすべてを。
【水】 が、一滴残らず吸いつくした。
後に残った剣と鎧だけが、泉の底へと沈みゆく。それを見やる騎士隊長は、白い瞳をよせた後に、忌々しそうに吐き捨てる。
「ザコでは絞りカスにもならんか。やはり、王女でなくては……」
「――クソ野郎が」
レンデルの背後から声がした。間髪いれず【風】を纏った、投げナイフが飛来する。
「…………ガ……ッ!?」
突き刺さる。引き絞られた強弓のように。鎧を貫き通し、肉を刺す。
ぐらり、と体が傾ぎ、飛沫をあげながら膝をついた。
背後より、迫る。
泉の水を蹴散らし、柄のついた短刀を持ち、疾る。
レンデルもまた、血を吐きこぼしながらも剣を抜く。
「蒼毛の手の者かァッ!」
「知る必要なんざねェッ!」
かがり火のように、【炎】の剣閃が二刃、舞う。
【水】の色と揺らめきを宿した長剣が、それを受けた。
「ク、ソガァッ!!」
決死。大きく横になぎ払った斬撃。
「!」
ジークハルトが押され、かろうじて、受け流す。
その僅かな間に、レンデルが立つ。
白眼が猛る。長剣を泉の中へ突き落とし、
「こ、んなところで、終わってたまるかァッ!!」
吼える。
『――【水】を知る我、命ず。<凍れッ! 爆ぜろッ!> 』
呼応する。
足下に満ちた【水】が波紋を広げる。一瞬で轟音をあげ、吹き上がる。
凍てついた【氷の矢】と化し、前方の空間すべてを包み込まんと、襲いかかった。
「ぐ!」
ジークハルトは身を引いた。凍った矢の幾本かに穿たれる。
単発の威力は低いが、【逆転】された【水】は、肌に触れるだけで正常な意識を惑わせる。
「……!」
不意に意識が揺れ、さらに、
「オオオオオオオオアアアァッッ!!」
「チィッ!」
飛沫をあげた先より、現実の白刃が来る。
豪腕から放たれる一閃が、頭上より落ちてくる。
短刀を交差。
盾のように掲げ、正面より相対。
――――――!!!
三本の白刃が、閃光として交わった。
鋼鉄は摩擦を起こし、其処より火花が爆ぜる。
「死、ねェッ!」
「テメェがなッ!」
鍔迫り合い。
手負いの騎士と、盗賊の力は拮抗していた。
勝負を決するは、次なる一手。
『――【水】を知る我、命ずッ! 氷柱と化し、敵を穿てッ!!』
『――【炎】を知る我、命ずッ! 火球へ転ぜ、焼き払えッ!!』
呼応する。
【魔】が、具現化する。
宿る精霊、世界に満ちる精霊。共に接続し、武器が、使い手の命を聞き届ける。
質量と本質を変貌し、敵を破壊せんと、牙を剥く。
「――ガ、アアアアアアアァァッッッ!!」
「……ギ、ッ!」
短刀に秘められた赤の魔石が、放たれた火花を増幅し、レンデルの顔に直撃。
同時に、ジークハルトの足下からは、先端を尖らせた氷柱が伸び、脇腹を貫いた。
「っ、ぜぇッ!」
突き刺さった【氷柱】を、【炎】を纏いし短刀で叩き割る。レンデルもまた、【水】の力を変化させ、顔を覆う【炎】を打ち消した。
『…………ッ!』
互いが一歩身を引き、距離を取る。
両手に持った双刀はさらに炎を帯び、苦痛に歪む二人の男を照らし出していた。
「忌々しい……ッ!」
「そりゃ、こっちの、セリフだ――【火球】っ!」
ジークハルトが先手を取る。
ふたたび、空間を飛翔する【火球】に対し、長剣はなぎ払われた。
「っざかしいわァッ!!」
【火球】を、水の長剣が二つに叩き割る。だが、
「……なっ!?」
一呼吸おかずして、ジークハルトは、自らの手にある短刀を投げていた。
かろうじて斬りかえし、短刀を弾くも。
「ッ!」
体制を崩したところへ、さらに、残る一刀を。
「―――――グ!!」
まっすぐ眉間に迫ったそれを、首を捻るごとで回避する。が、
避けきれなかった。
ブシュッ、と抉り取れる音。頬を裂き、レンデルの耳を斬り落とした。
『ア、ア、アアアアアアアアアァァァァッッ!?』
絶叫が迸る。レンデルが千切れた耳元を押さえ、両膝をつく。
不意をついた時に受けた背中の傷も、じわりと、染みを広げていく。
「……ッ!」
精製された【氷柱】で貫かれた脇腹を抑え、ジークハルトは、さらに懐に隠し持っていた一振りを抜き放つ。刀身が漆黒の、一切の光を反射しないナイフだった。
そのとき、ふと。気がついた。
レンデルの残る片耳が、尖っている。
魚のようだった白眼に、わずか「翠の色」が混じっている。
「テメェ、まさか……」
思わず言葉を漏らしていた。騎士の悲鳴が止み、
「……ク、クク、クハハハハッッ!!」
箍が外れたような、己を嘲笑するようなものに、変わる。
「醜いだろ、醜いよなァッ! 俺の父はなァ、すべてにおいて最低のクズだった!!」
ゴフッと、口から鮮血があふれる。
「欲深く、浅はかで、泉の噂を聞きつけ、死に瀕し、それでも、変わり者、のエルフに出会い、命を救われたのが運の尽きだ。お互いのなァ……ハハハハハッ!!」
立ちあがる。延々と狂気に満ちた、笑いを湛えながら。一歩を進んだ。
「この国は腐っている。貴様も、そう思わんか?」
一瞬、戸惑った。
「ヒトも、エルフも、悪しきに過ぎんッ! この国を、変えねばならんのだッ! 悪しき冒険者と、王城の老害どもを排し、この俺が王となるッ! 国を変えるッ!!」
血走った瞳で、レンデルが【水】に、長剣を突き刺した。
『――【水】を知る我、命ず! < 愚かな生命を、すべて、飲み乾せッ!! > 』
【水】が渦を巻く。闇の中に浮かび、巨大な渦を巻きあげ、大口を開けるようにして、ジークハルトの頭上に落ちてくる。
「死ね! 死ね! なにもかもなァッ!」
「……っざけんな……」
漆黒のナイフを一閃。
【水】が、ジークハルトのいた周囲に、滝のように降り注ぐ。刹那、
『――【時空】を知る我、命ず。<彼方へ通じる扉、此処に生ぜよッ!!> 』
【魔】を唱え、その姿を消していた。
瞬き一つの時間で、墜ちてくる洪水から逃れる。
「――テメェの見てる世界は、」
「なッ!?」
空間を超越。放った短刀を拾う。
駆ける。
「今までと、なにひとつ変わっちゃいねぇよッ!」
「黙れェェッ!」
相対。
水の長剣は空を斬る。
鋼の短刀が、斜め一閃の軌跡を描く。
首筋に触れる。
皮を斬り、肉を断ち、血の通う頚動脈をまとめて裂いた。
散華する。血が吹き荒れる。
「……ぁ、が、ァ……」
ばしゃん、と。
その巨体が泉のなかに落ちた。泉の一箇所に、まっかな花が広がっていく。レンデルの体もまた、本質を変貌させた【水】へ溶け込んだ。
「……クソッ」
膝をつく。脇腹に受けた裂傷を抑える。
ぬるりとした血が滲み、赤く広がっている。
深い。膝をつきそうになるのを堪える。
【魔】を使いすぎたのか、意識が朦朧としはじめていた。
「はやく、ここから、でねぇと……」
ちゃぷ、ちゃぷ、と。
足下の【水】が波打っていた。
――生体のリソースを確認……。
「…………あ?」
なにか、どこからか声らしいものが聞こえた。同時に、ざわざわと、足下の【水】が波紋を広げていく。湧き上がった。
『――――ジグ――』
甘く、優しく、澄みきった、女の声がやってきた。
懐かしい、艶を含んだ声だった。
一瞬、痛みすら忘れ、呆けたように応えていた。
「…………レティーナ?」
応えてしまったとき、【水】がきた。膝上に達し、身を包まれる。
我に返り、短剣を持つ手に力を込める。抵抗せんとするも、遅かった。
(―――っ!?)
ジークハルトの口中へ向かい、生ぬるい【水】の気配が染みこんできた。