損益分岐点。
フィノ・ニーベルンが、自らのギルドを出たのは昼前だった。手にバスケットを持って、鼻歌を奏でるような軽やかさで門をくぐった。
「ふふっ。久々に一日、お休みが取れました」
大通りから職人街へ。
「リアン様、お元気にされていますかねぇ。立派な淑女になられる日が楽しみです」
なじんだ道のりを歩きながら、金髪翠瞳の少女に思いを寄せた。最初こそ、世界のすべてに怯えたように、自分の足下にくっついていたのに。
少女の視線は、日毎に職人の手先へ、職人自身へと移っていった。
そして、エリオットが森から帰還した日。折りしもジークハルトの旧友である、レティーナの葬儀が重なった。
「あの時は……。折れてしまったかと、心配しましたが」
次第に、その影も薄れているようだった。そこにはきっと、少し風変わりな、一途なエルフの存在があったに違いない。
「本当に、季節がひとつ移ろうだけで、ヒトは変われるものなんですね」
良い意味で、生命は変わる。
支えとなる目標がひとつ増えるだけでも、ぜんぜん、変わってくる。
フィノは、自然と足取りが軽くなっていくのを感じていた。
「まぁ、正直なところを言えば口惜しいなーと思うのも、ありますけれど」
身近な男性に、大事な妹を取られた、といったような感じだ――。とは言っても、まさかそのとおりに「手を出している」はずも無かろう。
リアンの方は、明らかに異性への好意として相手を見ているが、ジークハルトは彼女のことを「優秀な弟子」ぐらいにしか見ていない。失った恋人への喪失感を埋め合わせるには、リアンは幼すぎる。
「あと何年かしたら、どうなるか分かりませんけどねー」
いざ、その時を考えると、勝手ながらも嬉しいような、悲しいような気持ちになった。もしかすると「ダメですよ、結婚なんて早いですよ」ぐらい言うかもしれない。
「うーん、言っちゃいそうですねー」
誰がなんと言おうと、リアンはフィノにとって、大事な大事な妹分だ。
もやもやと思いながら。気がつけば、鑑定士の店まで辿りついていた。久しぶりにメイド服を着てきたので、どんな反応をされるか楽しみだ。
――カラン、コロン、カララン。
「こんにちは」
耳慣れた鈴の音を聞きながら、店の扉を抜けた。
「バカかおまえは! そんな格好でこっちに入ってくるなっ!!」
店内に入った途端に、いきなり店主の罵声が飛んできた。一瞬、メイド姿の自分のことを言われたのかと思ったが。
「だってだって! 着る服がないんだもんっ!」
廊下に繋がる扉から、慌てて羽織っただけの、白い長袖のシャツ。男物である。
その下には何も身につけていない、金髪翠瞳の美女が顔を覗かせていた。二人の視線が同時に、メイドの格好をしたこちらに向けられる。
「……フィノ?」
「フィー!」
店主の男は、いくらか驚いた顔で。後ろにいた美女は、ぱーっと明るい笑顔になっていた。
「フィー、ひさしぶ……、はわわわわわわっー!?」
うつ伏せに、盛大にすっ転んだ。
「リ、リアン、様……?」
フィノは反射的に、その天然ドジっぷりこそ、彼女がエルフの王女リーアヒルデであると悟った。膝上で中途半端にひっかかっていた、桃色のパンツも見覚えがある。彼女に買い与えたものであったから。
――――――――間。
「………………ご主人様、いえ、ジークさん?」
にっこり。
「ちょぉっと、よろしい " で す よ ね " ?」
フィノが、ジークハルトの方を見る。
曇り一点すら存在しない、完璧な微笑。
カツンと一歩近づくと、場末の鑑定士はとっさに一歩身を引いた。
『――【闇】を知る我、命ず。<冥界に住まいし黒狼の牙。我が手に生ぜよ> 』
呼応する。
フィノの両手に、唐草で編んだバスケットが床に落ち、中身が僅かにこぼれる。
気に留めず、感情のない紫の瞳を宿し、現れた黒鋼の手甲を店主に向けた。鋭く尖った牙は、触れさえすれば、何者をも噛み千切ってしまえそうである。
「……ジークハルト・ワーグナー様。簡潔に、かつ明確な説明を希望します。言い訳は不要です」
「わかった。わかったから、落ちついてくれ、たのむ」
じり、じり、じりっと、メイドと鑑定士との距離が縮まっていく。
「だ、だめでうっ! だ……ふみゃうっ!」
「お前は引っ込んでろ! 話がややこしくなるっ! あと、下になにか履けッ!」
「ジークさんッ! どこ触ってるんですかァァーッ!」
かくして、三すくみの闘いが小一時間ほど、小さな店内で繰り広げられていた。
屋根裏部屋にて、フィノは、己の主を問い詰めていた。
「もう一度お聞きしますよ。リアン様っ!」
「……」ふいっ。
姫君がベッドの端に腰をかけ、正面に立つメイドから視線を逸らす。
「リアン様っ、本当に、ほんっとぉ~に、ご自身から望んだんですねっ! ジーク様から強引に迫られたんじゃないんですねっ!」
「……」こくん。
「だからって、【時空】の秘術を用いるなんて無茶苦茶ですっ! 本当にもう!」
素直にうなずく王女に対しても、メイドは腕組みして叱りつける。少し目を離していた隙に、大きく見目の変わってしまった主に対して、なんども同じことを繰りかえしていた。
「いいですか、リアン様っ! 私が貴女をここに置いてギルドに帰ったのは、私が別の用件も抱えていて多忙であったこともありますが、なにより、貴女の成長になると思ったからでして――」
「……さい」
「え?」
ぼそっと言った。耳の先まで真っ赤に染まっている。ぷるぷると、両肩を小刻みに振るわせて、彼女は告げる。
「フィー、うるさい。わたし、どうして怒られなきゃいけないの?」
「は、はい?」
上目づかいに、細い眉を曲げる。
どこか煩わしそうに、リーアヒルデが、フィノに告げた。
「わたし、もう子供じゃない。身体だっておっきくなったし、ジークハルトの役にもたってるよ。わたしにアイテムの修理や、付与を頼みに来るお客さんだって増えてるんだから」
「リ、リアン様ぁっ!」
王女が拗ねたように唇をとがらせる。言われたメイドは、紫色の瞳を大きく見開いて、正直に「がーん」とショックを受けた顔をする。
「リアン様が反抗期だ……」
「ちがうもん。わたし、もう大人だもんっ! ジークと結婚だってできるんだから!」
「結婚ですって!? だめですよっ! リアン様は身体が大きくなっただけ! 体は大人で頭脳は【ちみっこ】ですっ! 結婚だなんて、この私が絶対に許しませんっ!!」
「なんでフィーの許可がいるのっ! おかしいよっ、フィーのバカっ!」
「そういうことをおっしゃっている間は、お子様なんですーっ!」
「子供じゃないって言ってうの~~っ!」
きゃあきゃあと、姫君とメイドが言い争っていると、どすどすと、階段を駆けあがってくる音が響いた。叩きつけるように扉が開く。
「うるせぇ! 商売中だ! 静かにしろッ!」
朝から起きた騒動は、フィノがリーアヒルデを連れて帰ったところで収まった。身支度の洋服や、その他、何から何までを買わないと気が済まないようだった。
尾根の向こうに陽が沈み、今夜は星がよく見えた。ぽっかり浮かぶ満月が、世界を薄く照らしている。
「そろそろ店を閉じるか」
表に出て、入り口の扉にかけたプレートを裏に返す。
「よぉ、ジーク。話は聞かせてもらったぞ」
「……エリオット」
短い蒼髪を揺らして、片手をあげる二枚目の男がいた。いつものように黒一色、そろそろ暑苦しいだろうロングコートを着て、腰元にも変わらず飾り気のない長剣を覗かせる。
「結婚式には呼べよ」
いきなりそう言った。脇に抱えていた紙袋の口を持ち、掲げる。
「久々に酒でも飲もうじゃないか」
「…………」
ジークハルトは無言で、店に戻らんとする。
「おいおい、せめて一言ぐらいあってもいいだろう」
「閉店だ」
「そう無下にするな」
「閉店だ」
「レアな年代のヴィンテージワインと、ツマミを持ってきたんだ。少しぐらい付き合えよ」
結局のところ、押しに負けて、ジークハルトは店内に戻っていた。
食事をする居間の机の上、波々と、二つのグラスの中に赤いワインが注がれる。
「さて、乾杯するか」
「しねぇよ」
厭そうに眉を寄せ、ジークハルトは一息に煽る。空になったグラスの中へ、机の上に乗った高級ワインを傾け注いでいく。傍らに広げられた燻製肉も噛みちぎるように食らった。
「少しは遠慮しろ。高いんだぞ」
「知るか、俺にとっちゃタダ酒だ」
エリオットが「まったく」とか言いながら、こちらはワインの匂いを嗅いだ後に、ごく少量を口付けた。優雅にワインを楽しむ男に苛立ちながら言葉を投げる。
「リアンはどうしてる」
「おっ、やはり気になるか?」
「うるせぇ」
つまらなそうに言ってのけると、エリオットは、一口サイズに切られたチーズを摘みながら、どこか楽しげに言葉を返す。
「安心しろ。うちのギルドにいる女たちが面倒を見ているはずだ。俺が夕方に城から戻ったときには、すでに着せ替えショーが開催されていた。状況を聞きたいか?」
「興味ねぇよ。それよりアイツ、フィノとは上手くやれてんのか?」
「あれはまぁ、仲がいいことの裏返しだな。そして俺はというと、まったくもって蚊帳の外なのさ……」
エリオットがしみじみ言う。ワインをさらに一口。
「ドレスを作る布が足りんから買ってこいだの、着飾るアクセサリーが無いから宝石店に予約してこいだの、ついでに調味料が切れたから一瓶買ってきてだの、便利に使われる始末だ。挙句には『そこに立ってると邪魔だから、どこか行っててください』と言われるんだな、これが……」
「だからってウチに来てんじゃねぇ。酒場にでも行ってろよ」
「一人で飲んでても寂しいのだ」
「知るか」
「いやいや、知っておくべきだぞ」
もう一口ぶん傾けてから、エリオットが突っ伏した。
「……俺だって、頑張ってるんだ、頑張ってるんだよ……」
「相変わらず酔うのはえーな」
「酔ってない。お父さんは頑張ってるのだ!」
「うぜぇ」
素直に吐きこぼしてから、高級なワインを水のように煽った。エリオットはふたたび背筋を伸ばし、やはり優雅にグラスを揺らすも、ペースは速い。
「おい、無理すんなよ」
「無理などしていないっ! 酒は俺を裏切らないっ!」
「テメェ、吐いたら叩きだすぞ」
睨んでから、ジークハルトもまた一息にワインを煽った。
「それより、森の探索の結果はどうなったんだ」
「それも難しいな。『精霊の泉』は発見したんだが……」
エリオットが苦い顔をして、深刻そうに漏らした。考え込むように口元へ指を添え、思案げな表情を浮かべる。
「予想通り、泉の水には魔力を奪う【逆転】属性――呪いが、付与されていた」
「解いたんだろ、てめぇの力でよ」
「まぁな。村にも【転移】の属性を施しておいたから、大型の【魔石】があれば、エルフの里まで一瞬で移動できるようになった。【水】を持ち運ぶのも容易だ」
「それで、なんか問題があんのかよ」
「あるんだ」
エリオットが頷いた。
「【逆転】の呪は解いたが、肝心の泉に含まれた【魔】が思っていた以上に薄い」
「……どういうことだ?」
「今までエルフ族と取引していた <精霊の霊薬> よりも、大きく効果が落ちている」
「他に源泉があるんじゃねぇのか?」
「いや、間違ってはいない」
エリオットは言い切った。そして酒を煽る。
「……あれでは、研究で練成された安物の効果しか期待できない。それだから大々的に泉の発見を街には伝えてないし、まだ流通もできていない。だから、だな……」
言葉を区切り、エリオットが言いにくそうに発した。
「俺たちは、泉に呪いをかけた術者の存在を見つけ出さねばならない」
「そいつが真相を知ってるから、ってか?」
「……たぶんな」
ふら、ふらと左右に軽く揺れながら、今度はちびり、と口付けた。
「だが、それが見つからないときた」
「捕らえたドレスの女は?」
「拷問官がやり過ぎて、口を割らせるまえに死んだと聞かされた」
「うさんくせぇな」
ジークハルトが、ハッ、と笑い捨てる。
「城にいるどっかの奴が、一枚噛んでやがるだろ」
「恐らくな、実は見当もついている。その男が今日になって言ってきた」
「なにをだ?」
エリオットが琥珀色の液体を一息で煽り、飲み乾した。最高に重々しいため息を漏らす。
「エルフの里を壊滅させたのは、あるいは、リーアヒルデ王女かも知れん、とな」
「……ふざけんな」
机の上に拳が落とされる。グラスが音を立てて机にこぼれた。
ジークハルトが、瞳を激怒の色に細める。
「あのアホが、んな事するわけねぇだろうがっ!」
「だが、そろそろ話を聞く必要があるだろう。街の経済にも関わっているのだからな」
「エリオット、てめぇ」
「睨まれても答えは変わらんぞ、ジーク」
殺気に近い覇気を向けられても、エリオットは平然としていた。むしろ口元を歪ませて、ほろ酔い加減を楽しんでいるようですらある。くくっと笑い、緑色の瓶を大きく傾け、互いのグラスに赤い液体を注いでいく。ワインはそれで空になった。
「おまえが、そこまで感情をむき出しにするとはな」
「っるせぇ」
最後は一気に飲みほした。顔がわずかに赤くなったのを見てみぬ振りをして、エリオットもグラスを傾ける。
「リーアヒルデは王城の連中には変わらず、ニーベルンのギルドで預かっていると通している」
たん、と空いたグラスが鳴る。
「しかし、さすがに連れてこいと言う意見が大半を占めてきた。正直、真っ向から反論もできんところだ。これ以上匿っていれば、俺たちのギルドが、エルフの王女を手篭めにして、泉の権利を独占するのだという総意になりかねん」
悪いが、俺にも守るべきものがあって。
そこには優先順位も存在する。エリオットは言った後で、席を立った。
「二日後、また来る。答えを出しておいてくれ」
一人、ジークハルトは暗くなった店内にいた。作業机のある表に戻り、天井にかかった明かりをつける。
リアンの力を持ってしても、巻き戻すことも、止めることも適わない。
死んだ人間が蘇らないように、世界を刻む時だけは戻せない。
「さぁ、どうする?」
残り二日で金と道具をかき集めて、二人で街から逃げ出そうか。
いや、そんな面倒なことはしなくていいのかと考えなおす。
「リアンを見捨てるのなら」
所詮は行きずりの関係に近い。短くも楽しい時間だったと思いさえすれば、自分はこの場でなんの問題もなく生きてゆける。人肌が恋しくなれば商館にでも通って、適当な女を抱けばいい。店主と客という間柄はとても気安くやりやすい。
掌が、腹を貫いた傷痕を抑えていた。あの日以来に定めた生き方は自分の性にあっていると思っていた。
「……なぁ、ワーグナのクソジジィ」
壁にかかった、赤ら顔の肖像画を見て、ジークハルトは呟いた。
「テメェは、どうして、俺なんかに声をかけたんだ」
なんの関係も、接点も無かった。
ナイフを振るい、血肉と、それを得るための金を求めていた少年に声をかけたのは、その老人だけだった。
『――ワシは、強欲じゃったからのぅ』
いつものように、酒場で飯を食らいつつそう言った。
『誰にも知恵を授けることなく、そのまま、逝けばよいと思っておった』
だが、不意に怖くなったと言った。
暗い地の底から這いずり出てきたような、死に瀕した少年と出会ったときに。
『似とると思った。ワシは知恵だけ重ねてきたが、その本質は五十歳も下のガキんちょと、大差ないのだと知ってしもうた。このガキんちょが、五十年後にワシのようになるのかと思うたら、なんかのー、救えんなーとか、思うてなー』
安酒の入った酒瓶をあおり、ふぇふぇふぇ、と笑った。ジークハルトの皿から肉を取りあげようとしたので、とりあえず殴った。
『手加減せい! えー、だからのー、結局のところ自己満足じゃよ。今までは自分の為に、ひたすら知恵を積み重ねてきた。そして最後に、その知恵を五十歳も下の小僧にさずけてやった。そんなところぢゃわぃ』
ぐっ、と親指を立て、もう少し言葉を続けた。
『――よきものは、より、よきものになる、その義務がある。ワシは思っておるよ』
カラカラと笑って。
『やはり、ワシはこの街が好きかもしれん。生きとりゃ、また会おう』
いきなりそう言って、そしていなくなった。以来、二度と姿を見ていない。
ただ、それで繋がりが切れたのだと思ったら甘かった。今までは、店主と客の間柄でしか無かった酒場のオヤジが、ジークハルトに向けて一通の封筒を差しだした。
「あのジイさんから、おまえにだ」
開けば、入っていたのは小さな鍵と、土地の権利書と、何故か得意げに親指を立てた、赤ら顔の肖像画。
『ゲイルフリート・ワーグナー・ツヴァイ より、ジークハルトへ』
つらつらと、土地の譲渡に関連する細かい事柄が、長文に分けて記されていた。ジークハルトは必死に目を通し、どうにか理解した。
『――ようするに、ワシの養子になりゃ、ここの土地をやるぞい』
用紙の一番下、空欄になっているところにサインした。
瞬間に、野良犬だった少年は「ジークハルト・ワーグナー」という称号と、帰る家を得た。一人、からっぽの門戸を潜った時に、ここに店を開こうと思った。
むかし、見捨ててしまった少女が、その生き方が似合うと教えてくれたから。どんなに金が欲しくても、もらった片眼鏡だけは手放せなかった。
「結局のところ、俺は……。なにひとつ、自分で決断して来なかったな」
誰かに救われ生きてきた。もしくは流されるように。
「俺は所詮、たいしたことのねぇ場末の鑑定士だ。けどよ」
今は自分の限界を、ある程度知っている。
故にこつこつと、わずかな水滴が、石に穴を穿つようになるまで歯を食いしばった。
一件も客が入らない日も珍しくは無かったから、盗賊まがいの仕事も兼業して食い扶持を稼いだ。しかし同時に、そんな自分が口惜しくてたまらなかった。そこから連れ出してくれた【光】が、
「リアン」
変われるかもしれない、と思う。
変わりたい、と思う。
「今度こそ」
己の意思を貫き通そう。
生も死も気品はあらず。魔都の代名詞であるその言葉。
ジークハルトは両手の拳を握りしめる。
「二日もいらねぇよ」