【FOR LOOP】;
翌朝に、さっそく事件は起きた。
二階にあがって眠りなおし、ふたたび目を覚ました時だった。
「……ん?」
焦げた匂いが鼻をついた。二日酔いに痛む頭を抑え、台所へ降りる。白いエプロンといつもの帽子を被ったリアンがいた。
「ういやゃぁーっ!」
気合い一閃。
手元から、ぐぉぉっ! と紅い炎が燃え上がる。フライパンに蓋を落とせば、隙間から黒い煙が立ち込めた。
「なにやってんだ……」
「あっ、ししょー、おはようございまうっ!」
「状況を説明しろ」
ジークハルトが睨みつける。リアンが嬉しそうに言った。
「朝ごはん、作ってまう!」
「メシ……?」
「あい! ししょーのは、先に作っておきまひたっ!」
それです、それっ。とばかりに指さした食卓の上。
消し炭となったトースト、焦げたウインナー、ブラック目玉焼き。
唯一に瑞々しいのは、まっぷたつにされ、じわぁ……と、汁を垂れながす、トマト。
「コレを食えってか」
「あい!」
断言された。迷った末に、ジークハルトは消し炭トーストを口に運んだ。
「…………」
予想通り、いや、それ以上に悲惨な味。
消し炭特有の苦さと、妙な甘さが、口の中で絶妙にブレンドする。
その秘訣は砂糖とハチミツである。大さじ何杯振りかけたのかしれない固まった砂糖が、口の中でゴリゴリ音を立てた。
甘ぇ――。
顔面が歪むのを通り超えて硬直。その口元を手で覆いかくす。正面には、なにかを期待する瞳があった。
「ど、どーでうか?」
「…………」
おまえは俺に、この食物を練成した成果を、褒めて認めろと要求すんのか。
ふざけるな。本当にふざけるな。
「おいしくない?」
「…………食えなくは、無い」
「えへ~」
精一杯の譲歩だった。後は容赦しない。
「どけ。料理は俺が作る。おまえはそこで見てろ」
ジークハルトはヘラを取り、黒こげになった玉子を退けた。新しく二つを割って、フライパンに落とす。塩とコショウを小量に振って、手早く丸め、オムレツを作っていく。
翠の瞳がキラキラ輝いた。
「すごいでう! ししょーは、お料理もできるんだぁ!」
「お前よりはな」
――本日は晴天なり。
最初、店に訪れた客は、朝食を終えて一時間ほど経った頃だ。特有の鈴の音が鳴って、店内に大男と小男のペアが踏み入る。
「兄さんよ、また来させてもらったぜ」
「ん、まだ生きてたか」
「そいつぁご挨拶だな、おい」
二人の仕草は変わらず粗野なものだったが、その表情は、旧来の知人に会ったかのように和やかだった。
「今日はこいつを見せに来たんだ」
「おっ」
ジークハルトは一見しただけで、小さな感嘆の声をあげていた。淡く金色に輝く宝石のブローチだ。さっそく片眼鏡をつけてみれば、輝きは増していた。
「どうだ。今回は正真正銘、中層の途中で発見したもんだ」
「当たりだな。質の良い【魔石】を加工した細工だ。職人の名も予想がつくぜ」
「一目見ただけでかよ」
「まぁな。ただ、見たところ、本来の力が若干薄れてはいるようだがな」
「あー、兄さんよ。そりゃ、付与師の修理が必要かい?」
「鑑定ついでに直していくか?」
『へ?』
二人の表情が、そろって間が抜けた風になる。
その言葉が意味するところは、付与師がそれだけ稀有な存在ということだった。ジークハルトが振りかえると、扉の先に、びくびくと怯えたリアンがいる。
「…………兄さんよ、あんたの子か? ちいせぇなぁ」
「違――」
「ちいさうないっ! お子さまでもないんでうーっ!」
突然大声を出して、リアンが否定する。
「リアンは、ジークの弟子だもんっ!」
ぷんぷん怒って、大股でやってくる。どかっと、高い位置に置かれた椅子に座り、乱暴にブローチを取りあげる。
「お、おい嬢ちゃん!」
「嬢ちゃんじゃありまへん! リアンでうっ!」
キッと睨んだ翠色の瞳には、存外鋭い瞳の色が浮かんでいた。
王女オーラを発散させて、そして一言「簡単っ」と告げてから、【魔】を唱えた。
二人の職人が、一つ屋根の下で暮らした。自由鑑定士だけでなく、貴重な付与士の子供も現れて、しかも両人ともに腕が良い。噂は少しずつ広まって、客足は伸び、店で働く時間は増えていた。忙しい日々だったが、ジークハルトにとっては平穏な「日常」だった。
やがて、咲き乱れていた花が枯れ落ち、雨季に入る。
その日は、連日の雨で客足が途絶えていた。早々に店を閉め、二人の職人は作業机で手を動かしていた。
「ししょー、油とって」
「ほらよ」
機械油を渡す。精密に計算された、真新しい時計の部品へ抽送される。
「いけそうか?」
「あい、大丈夫でう」
「それにしても、リアン、随分と器用になったな」
「ししょーのおかげー」
垂れのついた帽子の下から、嬉しそうに、ほころぶ顔がある。
組立作業は終わり、リアンが金色の懐中時計の蓋を閉めた。色の薄い、クリーム色の掌が、久しぶりに大きく震えているのを見る。
「動かして、いーい?」
「あぁ」
片眼鏡をつけたジークハルトの見ている隣で、リアンがゆっくり、懐中時計のリューズを巻く。針が回って時刻をさした。
――カチ、コチ、カチ、コチ。
鳴った。響く針音が小さな店内にこだました。片眼鏡を嵌めた二人の瞳には、時計から漂う【魔】の気配が、うっすら見えている。
「……でき、た?」
「よくやったな」
リアンの頭に、ジークハルトの掌が乗せられた。短く切り揃えていた金髪は、今では首を隠すぐらいまでに伸びている。
「合格だ、付与された【属性】も問題ないみたいだな」
「あいっ!」
「こんだけ出来りゃ、魔具専用の職人を名乗っても、問題ねぇな」
「にゃあ! めずらしく褒められたぁーっ!」
うわーいと、両手をあげる。そしてすぐ、なにかに気がついたように真顔になった。
「ししょー、もしかして、遠まわしに出ていけって言うてまう?」
「は? なんでだ」
「だって、これ卒業試験でしょ。完成しちゃったら……」
不安そうに見あげてきた。初めて顔を合わせてから数ヶ月の間に、身長の差はいくらか縮まっていた。リアンの服装は相変わらず青い作業着だったが、胸がわずかに膨らんでいたりして、もう少年に見るのは難しい。
「安心しろ、今日、明日に追い出すような真似はしねぇよ」
「ほ、ほんろ?」
「本当だ。っていうかおまえ……。相変わらず、妙に訛るよな」
「あい、なおりまへんっ!」
外の雨はいくらか弱くなってきたらしい。心地よい雨の音を聞きながら、屋根裏にある自分の部屋、ベッドの上で、リアンは幸せそうに転がっていた。
「えへ、えへへ、えへへへ~」
組み立てた懐中時計の針音を聞きながら、足をパタパタ泳がせる。「それはおまえが持っていろ」と言われた時計の表面を撫でたり、キスをしたり、胸に抱いたりしながら転がっていた。
「わたし、認められたんだぁ……」
どうしても、顔が緩んでしまう。嬉しい、嬉しいなっ、と言って転がっていると、
「はごぁ!?」
ベッドから落ちた。それでも「にヘヘ……」と笑ってしまうのだから、もう末期だった。起きあがり、カチ、コチ、と、針が刻む音を耳にする。
「うれしいな……」
自分が作り上げた時計を、リアンはじっと見つめていた。満面の笑みだった顔は、次第に穏やかなものから、少し辛そうな感じへ移る。
「……レティーナ。キレーな、ヒトだったなぁ……」
一度だけ、顔を合わせたことのある女性は美しかった。
心情を明かさない店主が、彼女の墓前にいる間はいつにも増して無言になった。何をするにも手際のいい男が、花を添えて立ち去るまでの時間は、ただ、長かった。
トクベツな、ヒトだったんだよね。
わたしの知らない、ジークハルトを知ってるんだよね。
ぎゅっと。時計を抱いた。
針音よりもゆっくり進んでいた心臓の音が、同じぐらいになり、早くなり。
「胸が痛いよ……」
頬は赤く、早鐘のように急いた。
自分の髪を撫でてくれた掌と言葉を思い出す。
それは温かったけれど、きっと、特別というには至らない。
「わたしは、お客さんと同じなのかな……」
レティーナのギルドに所属していた子供たちは、時折この店に訪れた。ジークハルトは料金を取らなかったし、また「こいつはお節介だが」などと言って、詳しい助言を述べたりもした。さらにエリオットと、そのギルドもまた、残った子供達の支援を続けた。
そうして少なくとも、子供らが今すぐ路頭に迷うことは無くなった。
陽が落ちれば、無事に帰れる家が残ったのだ。
「レティーナって、すごいな」
死してなお、彼女の意志は生きている。
「生も死も、さして気品はあらず……」
魔都の現状をあらわす、その言葉。けれど彼女の意思は、死した後も気高く在った。意思を引き継いだ者が生きてゆけば、この先、さらに変化が生じるかもしれない。
それは、未来へ続く道だ。より良き可能性だ。
「……変わりたい……」
ふと窓を見る。夜の窓に映ったリアンの顔は、美しくもあり、幼くもあった。
エルフは長寿の種族だ。深い森のなかに住んでいるせいで、時間の流れに無頓着なところがある。けれどこの時ばかりは、ひどくもどかしくて、仕方が無いような顔になる。
今すぐに、この想いが冷めてしまわぬうちに。
「……もう少しでいい」
すぅと夜気を吸いこんだ。暖かな吐息に変えて零した。
「お願い、あのヒトの近くに在りたいの……」
呼応する。
精神を司る精霊と、大気の精霊が結びつく。
『――其の概念を【時空】と定義。具現化を喚起するは黄金、光の色』
想像上の【属性】が生成される。物理法則と呼ばれる概念自体が、意志を持つ。
概念が質量を手に入れる。この世界で【魔】と呼ばれる力に置き換わる。
リアンは命じた。
『――時空を知る我、命ず。時の流れを【加速】せよ』
魔術の完成。発動する。
リアンの内にある【魔】を代償として、時計の内側にある【魔石】へと結びつく。
<時計> というアイテムが持つイメージと、ヒトが願う <意志> が接続する。
道具は応じる。術者の、担い手の願いを叶えるべく。
力が蓄えられるまで、 <概念質量> を一途に増した。
< 属性付与・限界突破 >
発動した【魔】は加速する。
時計の針が狂ったように、ひたすら回る。回り続ける。
「……っ」
キンッと甲高い音。針が振りきれた。想いの力が、古代の理論と法則の壁を超越する。
限定的な空間のみ、光の速度を上回る。
【時空】を歪め、新しき概念に則り、世界が変わる。
「―――ッッ!!」
声にならない悲鳴が千切れ跳ぶ。
リアンは、じたばた手足を動かして、もがいていた。
「ん、ん、んううううううううぅーっ!」
高く澄み切った声。二回り小さくなった服が、とても窮屈で仕方なかったのだ。
「はうううぅ……」
とりあえず、服をすべて脱いでみた。いつのまにか外の雨は止んでおり、窓からこもれる月明かりが、彼女の体を照らしていた。
「成功したっぽい?」
卵の殻をやぶったばかりの雛のように、リアンは危うげに立ちあがった。
深い森のなかでも輝きそうな、まばゆい金髪が引きあげられる。スラリと伸びた華奢な背中を覆いつくすほどに長い。
「服、先に脱いでればよかったぁ」
リアンは脱ぎ捨てたネグリジェに一瞥くれた。いつもの、伸縮に乏しい革の作業着であれば、膨らんだ胸がつぶれていたかもしれない。それから静かに手元を見る。
「……時計、また壊れちゃった」
ほっそりした五指と繋がった掌には、ついさっき修復したばかりの懐中時計があった。しかし針は三つとも吹き飛び、根元の部分も不安定に揺れていた。おそらく中の歯車も焼け焦げて、ショートしているだろう。
「ごめんね。またすぐに直しまう」
静かに、ベッドの側にある棚へと乗せた。
空いた手を自分の胸に乗せ、小さく息をこぼす。
「おみず、のまなきゃ……」
今でも彼女のことを「リアン様」と呼んでくれる、たった一人の従者がいる。その彼女が店に訪れたときに、必ず置いていってくれる【水】を。
「【魔】が、たりない」
求めるものは一階の居間、二人で食事をする部屋に置かれている。
どこか虚ろに彷徨いながら。部屋から出ようとした。
「…………」
扉のノブを掴み、なにかを想って引きかえす。ベッドのシーツを剥ぎ取って、くるくる身体に巻きつけて。
頬にたっぷり朱を乗せて。リアンは部屋を後にした。
ジークハルトは薄手のシャツとスボンに着替え、二階にある自室の椅子に座っていた。机には古い書物が広がっており、その内容に目を通していく。
すべてに理解は及ばなかったが、ある程度予測のつく箇所は、別の羊皮紙に羽ペンを走らせる。びっしりと、紙面に隙間なく文字が覆われたところで一息ついた。
「こんなもんだな、そろそろ寝るか」
ペンをインク壷に置いた。ジークハルトを淡く照らすのは、机の端に置かれた【火の属性】を揺らめかせる燭台だ。それが不意に、大きく左右に揺れ動いた。
「ん?」
ふと天井を見上げる。階段を降りてくる足音が聞こえる。
「リアンか。喉でも渇いたのか」
安易にそう呟いて。本を閉じ、目を閉ざしてから燭代の【火】を吹き消した。闇に目を慣らしておくのは、もはや馴染んだ習慣だった。その直後に、
『ジーク』
扉の先から声がした。
『……ねぇ、入っても、いい?』
「どうした?」
少しの間。躊躇するように、ゆっくり扉が開いた。
現れたのは、南西の森に住んでいた、エルフ族の生き残り。
「……リアン?」
「うん」
美姫、リーアヒルデ王女だった。絶世の美貌が、薄いベッドシーツだけを身体に巻きつけて、歩みを進めてくる。さすがに驚き、目を見開いた。椅子から立ちあがる。
ジークハルトの胸元に届くかといった程度の背丈が、今は、さほど変わらないところまで伸びていた。
「―――ジーク」
妖艶に。女の気配を漂わせ、微笑んだ。
両手を伸ばす。しなやかな、柔らかい肢体を持って抱きついた。
「おまえ、その身体どうし、」
「抱いてください、な」
言葉の途中で、唇を重ねてきた。揺れる。ベッドの中に落ちていく。
「ん……っ」
身体を申しわけない程度に覆っていたシーツが、そっと床に落ちていく。
「ばっ、離せっ!」
ジークハルトが抵抗する。抱きつくも、所詮は女の細腕だった。両の手首は抑えられ、成熟した身体は逆に倒される。ギシッと音を立ててベッドが軋む。
職人の頬に、姫君の細い五指が添えられる。
「……して、くれる?」
「ッ! なんだかよく分からんがっ、とりあえず服を着ろっ!」
「やだぁ……」
蕩けたような声がきた。
甘い、ミルクをたっぷり孕んだ紅茶のような裸体から、目を逸らした瞬間だった。
リーアヒルデが枷から外れ、もう一度、抱きついた。
「喉が渇いたの。ジークが欲しい」
背中に両手を回し、朱色に染まった頬が寄せられる。暗がりの中で、金の髪と、翠の瞳もまた淡く照る。
「おまえ、【魔】が尽きかけてるだろっ、ひとまず落ちついて、水を――」
「わかってる。でも、貴方がいい。ジークハルトじゃないと欲しくない」
大人の女性の中に、ワガママな子供の声が混じる。身体が重なって、果実のように膨らんだ乳房が押し当てられた。唇が触れる寸でのところ、息さえ届く間近で告げる。
「ずっと、ずっと一緒にいて……」
嗚咽が混じる。
「もう、一人はやだ。一人きりでいるのは寂しいの」
姫君の全身は、ゆっくりと、職人のもとへ沈んでいった。
「私は、貴方に抱きしめてほしい。貴方は、私に、生きる手段を与えてくれたから」
「……バカが」
互いの全身が小刻みに震える。両手の中に受けとめる。
「おまえ、俺なんかのどこがいいんだ」
「…………え?」
潤んだ眼差しが持ちあがる。ぱち、ぱちと、瞬きする。
相対する職人の顔にも赤味が差した。なにか急に、ものすごい失言を吐いたような気がしたという様子。その気持ちは、同じ屋根の下で、一つの季節を過ごしただけの間柄でも通じたらしい。
「えへへへへ~」
「笑うな」
苛立つように、強く抱きしめる。
ここまで生きて、手にしてきた力で、強く、強く。
今度こそ、離してしまわないように。