項目1:掟と制約
この世界に満ちた概念を、大方知り尽くした男がいた。
「――峠越えは気分がいいな」
晴れた昼下がり。これから西に落ちていく太陽が、雲の波間に浮かんでいる。
春先の蒼天だった。足下は、人が何百年もかけて踏みしめた畦道が続き、両脇には背丈の低い野草と、幾色かの花が咲きほこる。
「そろそろか」
空を見上げ、片手で陽をかざせば、一羽の鳥が目に留まった。気持ち良さそうに眼下に広がる森へ降りていく。その森から辿ってきた川の流れに沿って、街が栄えていた。
「さて……」
風が吹く。ざわざわ、野に生えた小さな花が種子を飛ばす。それもまた青空を昇って、導くように街へ向かう。
「故郷は、少しは変わったか?」
男は前を向き、ふたたび歩きだした。
街へ至る道は、申し訳ない程度に均されていた。男の隣を、荷馬車が通り超える。色褪せた幌の隙間から、暗鬱とした瞳の少年少女が垣間見えた。
「……奴隷か」
足がわずかに止まる。
「最近、南の方で、農民による革命があったな……」
なれば、没落した貴族の子供かもしれない。
苦いものを味わった顔で足を進ませる。城壁の一角に辿りついたのは、先ほどの馬車が通り抜けた直後だった。門番が振りかえる。
「ん、なんだ貴様は」
「普通の旅人だが」
鋼の鎧を着た門番は、男を疎ましそうに睨んだ。ジロリと眺めた後で、白銀の篭手に覆われた手を伸べてくる。返答の代わり、木製の割符を取りだし見せつける。
「関所もきちんと通ってきた。『魔都』に入れてくれないか?」
「そんな物はどうでもいい。銅貨二枚だ」
「は?」
「最近できたばかりの法律なンだよ。ごちゃごちゃ抜かすな。代わりに一撃くれてもいいってんなら、釣りはいらんぜ?」
拳が握り締められる。門番は、たっぷりと贅肉のついた顎を緩め、卑下した。
「……わかった」
一拍の後に応じた。小さな革袋より、銅貨二枚を素直に取りだして払う。
通りぬけようとした時に、門番の視線が男の指先で止まった。
「おい、ちょっと待ちな」
「まだ何かあるのか?」
「あるぜ、いくらでもな」
銅貨を奪い、ニヤニヤと、嘲りの色合いが増していく。
「今思い出したんだが、この魔都に入るには、持ち物を一つ置いてかねぇといけねぇのさ」
「……中々に斬新な法律だ」
「そうだろう。とりあえず、その指に嵌めた指輪を渡しな。見たところ黄金だろ、そいつはよ」
明らかな脅し文句。対し、男の口元にも笑みが浮かぶ。
「目敏い豚だな」
「あ?」
「確かに、こいつは貴様の命より価値がある」
「おい。指ごと落とされてぇのか?」
「そうか」
瞬間、風が切り裂かれる音がした。
門を抜け、男はふらふら、街を歩いていた。
空が雨雲に覆われはじめ、ひたひた、近づく雨の気配を感じとる。
「厭な気分だ」
太陽が、尾根の向こうに消えていく。辺りは急速に色濃く、夜の足音が近づいていた。その中にあっても、喧騒あふれる声は騒々しい。確かに活気はあるが、派手な彩りの影にある貧富の差は隠せない。虫食い穴のように目立ち、匂ってくる。
「なにも変わっていないのか」
道を少し逸れてみた。ゴミに満ちた路地を歩けば、
「………して、やる……」
黒ずくめの少年が、壁に背を預けて死にかけていた。
腹部からドス黒くなった血を吐きだし、どんより曇った空を、一心に睨みつけている。
男はたいして気に留めず、横切ろうとする。
少年もまた、同じ言葉を続ける。
「…………殺して、やる…………」
呪詛の声。
ひたすら、ひたすらに、呪う。
男の足が止まった。愉快そうに口端を歪め、正面から見下ろし言い切った。
「おまえは、もうすぐ死ぬ」
ぴくり、と少年の眉が動く。瞳が苦痛に震えながらも、わずかに焦点が定まり、ギラついた表情で男を見上げた。
「……死んで、たま、るか……」
「無理だ。数えて百も経たないうちに、おまえは死ぬ」
「…………………ッ」
血を吐いた。
それでもまだ飽き足らないように、黒ずくめの少年は言霊を紡いだ。
最期の一音まで、憎悪の言葉を、殺意を、たっぷり吐きこぼした。
なにひとつ、救いを求めなかった。
呪って呪って、死んでいった。
「そうだな。この世界に救いは無いな」
空に浮かぶ暗雲の気配が、急速に広がった。
世界を色濃く覆い、雷鳴が轟く。地上に落ちた雨を受け、男が笑う。
「少し、変えてみるか」
口端を吊り上げる。膝を折り、指輪を嵌めていた側の手を伸ばす。乾きつつある返り血が激しい雨で流されていく。
「俺の【力】を分けてやる。少年、足掻いてみせろよ」
言葉に呼応するように、黄金の指輪が輝いた。
闇の中。指先にだけ、淡い光が満ちていく。