何があっても Ⅲ
もう、こうして走るのも何回目だろう。
一度目は逃げ出したくなって、あの世界から逃げ出したくてひたすらに走った。
二度目は、自分の気持ちを伝えるために好きな人のもとへと全力で走った。
三度目、今度はその好きな相手が突然姿を消して、どうしたらいいかわからない俺はただ走った。大好きな人を探し出すために。
そうやって思い出してみると、四回目なんだ。こうやって走るのは。
昔の俺だったらこんなことは絶対にしないだろう。走る理由もないし、これくらいのことで必死になるのはなぜだろうなどと冷たい感情を持っていたことだろう。
でも、今は違う。
走るのに理由はあるし、その理由もくだらなくなんてない。どれだけのことがあったって、これだけは譲れない。好きな人のために――夏希のために必死になることだけは、譲れない!
大した特技も、努力して手に入れた技術もない俺は、全てが平均的で、甘ったるい学校での成績だけがまあまあだった。そんななんのとりえもない俺が、たった一つだけ譲れないなどと、まるで少年漫画の主人公のような感情を抱いている。
正直、今の俺でもこんなことは口に出したいとは思わない。何故かなんて、恥ずかしいからに決まっている。
けど、冗談でも嘘でもなく、ただ思ってしまった。だから、ごまかすことができない。
前のように平静を装うとしても、もう無理だ。そんな俺の人格は壊れてしまった。
今は、不安定で、自分自身が何をしたいのかもわからないけど、たった一人の人のために必死になることが取り柄の、カッコ悪くて、汚くて、馬鹿馬鹿しいのが俺なんだ。
フツーの男子高校生なら、こんなふうになったりするのだろうか? いや、そうそうなるものではないだろう。こんな、何もいらないから、誰かが欲しいなんて思う汚い人間に、簡単になるはずもない。
けど、それが何だというのか。フツーが何だというのか。
もう何がフツーで何がフツーじゃないかなんてわからないんだ。だからもう。何もかもがフツーじゃない。俺がやっていることも、ほかの人間がやっていることも、この世界で起こったことも、向こうの世界で起こったことも、何もかも。
何もかもが起きるはずがないと思うようなことを、俺は体験してきた。だからフツーだとか正常だとか、そんなものはもう考えられない。全てが――。
――普通なことなんてないんだから。
全てが狂ってて、すべてが異常で、すべてが汚く、それと同時に綺麗で、当然で、普通なんだ。
もう難しいことなんて意味がない。
この世界で起きたことは、覆りようがないのだから。どう嘆いても、それが起こったことなんだから。異常だとか、当然だとか、そんなものを気にしてるのが馬鹿馬鹿しくなるんだ。
誰もがとは言わない。けど俺は、そんな日常を過ごしてきた。この数日間、何が起こって何をするべきか、どんな結末が待っているかなんてこと、わからなかったんだから。
妹が抱えているもの、俺が友達に抱いていた気持ち、俺があの子に抱いていた気持ち。何もかもが、昔の俺からは想像できないものだったんだから。
夏希と過ごしてきた日常には、何も普通なことなんてなかった。
昔の俺も、何も普通なことなんてなかった。
今の俺も、昔の俺も、そして多分これからの俺も、皆普通じゃない。
だって、何を持って普通とするかなんて、誰も知らないのだから。
この先に何があるかなんて、誰も知りはしないのだから!
だから俺は諦めない、止まらない。絶対にこんなところで、先に可能性があるのに諦めたりしない。ホンの少しでも可能性があると思えたなら、そこに向かって走ればい。無理だとか、諦めろとか、そんなこと誰にも言えない、誰もそんなこと知らないのだから。
だから、俺は誰にともなく伝える。
――絶対に、待っててくれッ!
夏希に対して言った言葉ではなかった。なら、神様にでも言ったのだろうか。いや、それも違うだろう。だから、誰に言ったのかもわからなかった。
けど、俺の胸中で燃え始めたその言葉は一生消えないだろう。それほどまでに、熱い。
前を向けば、もう目の前には俺の目的地が見え始めていた。
今回は、今までのようにがむしゃらに走っていたわけじゃない。今回は、行くべきところがあると思った。だからそこに向かっていたんだ。
もし、俺が向こうの世界で、夏希と会っていなかったら――いや、俺は向こうの世界でどんなふうに暮らしていた? どこを拠点としていた?
夏希の家で暮らすよりも前、俺はどこで就寝していた?
そして、もし俺が夏希に受け入れられなければ、俺はどこにいたままだった?
そう、あのなんの変哲もない林だ。あの緑に囲まれるだけの殺風景な場所。俺はそこに向かって一直線に走っていた。
夏希も俺と同じようにしているのだとしたら、ここにいるはずだ。
――いや、同じじゃない。夏希は、ここにいるはずだ。ここに、隠れているはずだ。
いつか俺が見つけたように、今回も俺が、見つけ出すためにッ。夏希はそこにいてくれるはずだッ。
小さく、自分の顔に笑顔が浮かんだのがわかった。
夏希、今行くから、だから絶対に待っててくれ!
爆発しそうな思いを必死でなだめながら、俺は林の中に飛び込む。
探して、探して、探して。もう爆発した感情が自分の言う事を聞かなくなって、自分の目に映るものはただの背景。誰かがすぐに映るから、それは背景でしかない。
どこにいるのか、そんなことを考えてられない。ただ、目から入る情報でだけ動いているかのように、あたりを確認しながら走る。
荒い息を吐きながら、まるで自分が風にでもなったかのように林を駆け抜けていく。
見つけ出すんだ、そう思いながら走る。
見つけ出せる、確信しながら白い息を吐く。
夏希を見つけ出すために、俺は今まで使ったこともない何かを使っている気がした。いくら疲れようとも止まらない、動きを止めることを自分自身が許さない。そんな使命感のような、けれど絶対に違う何か。今までの時とは違う不思議なものが、俺の中にある。
ベタに考えれば、それは恋心とかそういったものだと解釈するのだろう。
けど、そういうものとは何か違うんだ。どちらかといえば、執着のような汚いものに近い感じがする。だから多分、これは俺の知っている感情じゃない。恋とか、そういった綺麗なものでもない。
俺は自分の胸をつかみ、その中でざわざわと騒ぐ何かをなだめようとする。
しかし同時に、そのざわめにき耳を傾け、理解したいとも思った。
少し開けたところに出た俺はそこで立ち止まり胸を抑えながらあたりを一周する。
胸のざわめきが、なぜか痛い。けれどどこか心地いい。不思議だ。不思議すぎる。
最近様々なものを感じてきたけど、今までとどこか違う。だから不思議だ。
わからない。だから、深く考えすぎない。
それは、夏希を見つけ出してからでもいいのだから。
俺はだんだんと視線を落としていたのに気づいて顔を上げる。そしてもう一度、辺りを見回す。
――視界の端で、なにか不自然なものが映った。
林の中ではない何かが、布のような何かが、揺らめいていた。
瞬間、俺は前に夏希を見つけた時のことを思い出した。あの時も、こんなふうに見つけたんだ。夏希のことを。
あの時は、自分を落ち着かせてゆっくりと歩よっていった。夏希が俺に気づいて逃げてしまわないように。神経質になっていたんだ。
あの時のことを思い出して、俺は一度息を吐き――。
――全力で駆け出した。
今度は、あんなふうに落ち着いて歩み寄るなんてことができない。もう、我慢できない。
何が我慢できないかと問われてもそれすらわからないが、我慢できなかった。自分を落ち着かせている余裕など、どこにもなかった。
俺は揺らめく何かが――夏希がいるそこへと走っていく。
そこまでの距離は、ほんの数十m。けど、そこまで十メートルもない勢いで俺は走り抜ける。まるで理性を失った獣のように。猪突猛進に。
そして、そこへと飛び込む――。
「夏希ッ!!」
――大好きな女の子の名を叫びながら。
感想、誤字脱字の指摘等ありましたらよろしくお願いします。