二人の世界は Ⅺ
「夏希ッ!!!!」
視界からようやく鉄の塊が離れ、瞬間俺は叫ぶ。
慣性に逆らって道路へと飛び出し、夏希の姿を探す。
灰色の道路に白い横断歩道の線、ガードレールに信号機。電柱に標識。関係のないところにまで視線が暴れる。
焦りながら必死で、狂ってしまいそうなほどにさがす。
「悠喜!!」
と、不意に腕を惹かれ俺は歩道へと強制的に引き摺り下ろされる。いきなりのことで俺はうまく受身が取れずに尻餅をついてしまう。瞬間、俺の目の前を乗用車がクラクションを鳴らしながら通り過ぎる。
危うく俺が惹かれるところだった。失念していたが信号が表示している色は赤なのだ。それなのに車道に出れば、当然そのようなことが起きる。少し考えれば――いや、考えなくてもわかるはずだ、常識の範囲内として。
けど、そんなことに知ら頭が働かないほど、俺はおかしくなってしまっていた。
「夏希……は……?」
つぶやくように小さな声で風美に問いかける。風美は少し焦ったような、心底心配したような表情にクエスチョンマークで上書きをする。
「夏希? 誰、それ?」
「…………えっ?」
それしか、声が出なかった。
驚きで、言語機能を失ってしまったかのように、そんな音しか発せられなかった。
「ねぇ悠喜、大丈夫? 悠喜?」
風美が、呼びかけてくる。心配そうな表情で。
けど、そんなのも気にできないほど、俺は冷静を保ってはいられなかった。
「ねぇ、はる――」
「夏希だよッ!! さっきまで一緒に歩いてただろ!」
最低なことをしたと、思うことすらできなかった。
女の子に大声を上げて、驚いているその子の肩を握りつぶすほどに掴んで、それに気づけば冷静になれて当然なのに、俺の頭は熱くなったままだった。
「……夏希……」
呟きながら立ち上がる。
もう一度辺りを見回して、俺の求める人を探す。
車道は少ないながらも車が行き来し、もう飛び込むなんて真似はできない。第一、こんな状況の中、夏希が車道にいる可能性はゼロだ。
もし今なお車道にいるのであれば間違いなく事故が発生している。轢き逃げにしたって誰かが道路で倒れていたら車を止めるはずだ。だから、ここに夏希はいない。
「悠喜……?」
風美が俺の名を呼ぶが俺の聴覚はそれを受け付けなかった。
俺は足に力を入れ、走りだす。
あそこに夏希はいない。ならば、どこかにいるはずだ。どこかに、必ずッ。
思いながら、願いながら。俺はただひたすらに走っていく。どこかなんてわからない。まっさきに向かったのは学校だった。なぜかなんて分からない。なぜか、学校に向かった。多分、そこに行けば夏希がいると思ったのかもしれない。夏希がいなくとも、夏希のことを知っている人がいると思ったのかもしれない。
ゆっくりと歩く生徒たちを追い抜いて学校へと向かう。ただひたすらに。刺すように吹き付ける冬の風も感じないほどに、必死に。
学校に飛び込むなり、俺は上履きに履き替えもせずに靴を脱ぎ捨てて靴下のまま階段を上る。そして俺のクラス――夏希のクラスのドアを勢い良く開け放つ。
「はぁ…………はぁ…………」
息を切らしながら教室を見渡す。
黒板から向かい側の窓、後ろの壁に貼られてあるポスター。順に目に入るが肝心の人がなかなか目に入らない。いや、本当は見えている。けど、信じたくない。
生徒の視線は一人残らず俺の方へと向けられている。しかしながらそこに俺の求める人は見つからない。それどころか、その生徒たちの反応が信じられない。
前も同じようなことがあったが、その時は俺のことを転入生だとかなんだとか言っていた生徒たちが、今はそんな言葉も呟かずに俺のことを不思議そうな目で見ている。
小さく聞こえてくる声の中には「どうしたの」や「何なに?」といった疑問文が並べられるが、その中に俺の名を口にする人もいた。「清水、どうしたんだ?」と。それが無性に俺のイライラを刺激した。
俺は踵を返し校舎から飛び出す。
踵を踏みながら無理矢理に靴を履くと俺はまた走り出す。今度は、どこに行く気か、俺自身もわからない。ただ、探さなきゃいけないと思った。だから走るしかなかった。
「はぁ……はぁ……」
自身の荒い息使いを聞きながら俺は今来た道をそのままに逆走していく。
先ほど追い抜いた生徒たちとすれ違いながら俺は全力で突っ走っていく。
「夏希ッ……夏希ッ……」
自然と自分の口から出た大好きな人の名前。それを自分が狂おしいほどに求めていると実感する。真っ白だった頭が次第に埋まっていく。夏希という言葉で、夏希という人の顔で、夏希という人との思い出で。
不安げな顔笑った顔照れた顔傷ついた顔泣いた顔。
今まで見てきた夏希の顔がこれでもかというほどフラッシュバックする。
でもまだ足りない。まだ全然見れていない。たったそれだけ、思い出すほどしか夏希の表情を見ていない。まだ全然足りてない。
そう思えば思うほど俺の足には無駄な力が入り、動きにくい足へと変わっていく。しかしそれでもなお俺の足は減速を許さずに走っていく。
走り続けて息苦しいと思い始めた頃に足を止めたのは夏希の家の前だった。
何も躊躇うことなく玄関をくぐりさっきと同じように靴を脱ぎ捨てる。
「あら、悠喜どうしたの? 何か忘れ物?」
そう聞いてくる母さんを無視して俺は二階にある夏希の部屋へと飛び込む。
ドアを開けながら入ったその部屋は、黒を基調としたシンプルな部屋だった。
見慣れないその部屋は一体どこのものだろうと俺の思考を停止させる。夏希の部屋じゃない。夏希の部屋はシンプルという面では同じでも白を基調としていた。それを間違えるなどありえるはずもない。
それにこの部屋。黒を基調としてポスターもなにもカレンダーくらいしか貼っていないシンプルというよりも何もないと表現売るほうが的確なこの部屋はまるで――。
「ッ……!」
俺は半回転して部屋を飛び出す。
今見たものは幻だ。存在しないただの頭の中の記憶に過ぎないと言い聞かせる。
無駄なことは考えない。今は夏希のことしか考えられない。家には夏希はいなかった。ならば今度はどこへ行けばいい。どこへ行けば夏希に会える、夏希を見つけられるッ。
焦りに焦った俺は考えもまとまらないままにまた外へと飛び出す。
行くあてもないはずなのにそれを無理やりにでも見つけて走り出す。
今度は線路沿いに走って行って、何時だか夏希と買い物に行ったあの商店街へと向かう。
夏希のことが、溢れ出して止まらない。なんでこんなにも止まらないんだろう。なんでこんなにも夏希が隣にいないことに不安を感じてしまうんだろう。
不安で不安で仕方なくて、ただひたすらに走り続ける。その不安をかき消すために。
しかし一駅分の距離とは言え走っていくには少々無理がある。普段から運動を人並み以上にしているわけでもない俺が、学校までをほぼ往復で走った後に一駅分の距離を全力で走り抜ける。
どう考えたって無理だ。長距離走のように走るならともかく、全速力でなどもってのほかだ。
しかし、俺の足はなぜか減速という言葉を知らなかった。
筋肉が悲鳴を上げ、関節が叫ぶのも聞かずにただひたすら走る。もう俺の意思など関係ないかのように、使命感に駆られ走り続けた。
肺の酸素がほぼゼロまで吐き出され、冬だというのに汗まで吹き出てくる。
自分の喉から出る吐息が熱風のようにすら感じる。
体中が静止を呼びかけているが、全くそんなものは聞き入れないまま、俺は隣駅の商店街へと駆け込んだ。
商店街のど真ん中を、周囲を見回しながら走り抜けていく。ここにもいない、そこにもいない。そう思えば思うほど焦りと不安が置きくなる。
――夏希、どこにいるんだよッ。
だんだんと怒りにも似た何かがふつふつと湧き上がってくる。けれどそれがなんなのか俺にはわからない。ただ俺は、夏希を探すことしかできないのだから。
「夏希ッ、夏希ッ、夏希ッ」
どこに行けば会える、今どこにいる、どうしたら会えるッ。
頭の中がゴチャゴチャで自分が今何をやっているのかもわからなくなってくる。
――夏希今どこだ、いるなら出てきてくれッ。
いるのなら、という言葉に胸が締め付けられる。
それは、夏希がもしかしたらいないのではないかと、自分自身が思っているのかもしれないから。この場所にいるなら、そう思うのではない。いるのならと思ってしまった。
いないのかも、とも思ってしまった。
でも、必死に探す。どうしたらいいかわからなくて、今やっていることを止めることができない。一直線に突き進む猪のように。
けど、行動とは裏腹に、自分自身がある仮定を作ってしまったことを消せない。
もしも、夏希がいなかったら。もしも、この世界に夏希がいなかったら。
この世界なんて言葉が俺の中から出てくる時点で、俺は半分――いや、理解しているのだろう。夏希がやったことの意味を。
夏希は、あの時の再現を、今日やった。ただ、違ったのは、あの場に夏希がいたこと――。
いや、そんな党回しなことはやめなくちゃいけない。もう俺自身、気がついているのだから。
そう、あの日――あの夢と違ったのは、俺が引かれずに助かったということ。
夢では引かれる寸前で目が覚めたが、あれは間違いなく惹かれていた。俺自身が動けなかったし、助けてくれるような人はどこにもいなかった。
ただ、今回は違った。俺が動けなくても、動けた人がいたのだから。
夏希は、多分どこかで俺が元の世界に変える方法に気づいたんだ。それを俺にはなさなかったのはなぜかわからないけど、ただ、夏希が気づいたのは事実だろう。
……そういえば、あの時夏希が言っていた言葉。
――今日は、、十一月二十七日だよ。
もしかしてあれが、今回の夏希の行動理由なんじゃないだろうか。そう、俺が夏希とクリスマスの話をしていたときのこと。あそこで俺がふと日にちのことを言ってしまった。だから夏希が気づいたんだ。
夏希は自分の世界の日にちをしっかりと把握している。だから、俺の言葉ですぐに気づいたのだろう。俺が引かれた日のことを。
俺だって、ずっと違和感を感じてきた。日にちの流れ方に納得がいかなかった。その時点で俺がしっかりと確認をしていれば、こんなことにはならなかったんじゃないだろうか。
……いや、そもそも、俺が自分の気持ちをしっかりと伝えていれば、こんなことにはならなかったのではないだろうか。しっかりと、元の世界に帰りたくないと伝えていれば。
俺は夏希に好きだと伝えたあの時からずっとそう思ってきた。けれども、それを言葉にしたことは一度もなかった。いや、行動にすら出していなかった。
夏希が最後に元の世界に変える方法を探そうといったとき、それを否定していれば、少しは俺の気持ちが伝わったのかもしれない。夏希の言葉に従ってただ頷いてしまったから、夏希は勘違いしてしまったんじゃないだろうか。俺はあの世界に行った時と変わらず、元の世界に帰りたいと思っている、と。
予測でしかない仮定がどんどん膨れ上がって、俺を内側から圧迫する。
もしかしたら夏希は、俺を元の世界に戻すために、あんなことを……。なら、一言いってくれれば――。
そう思って、思考が停止した。
もし、夏希が今回の考えを俺に話していたとしたら、俺は夏希になんて言ったか。
当然、やめろといったはずだ。俺に夏希への恋心がなくとも、命の危険と対峙するようなことはやめろと、そういったのではないか。
だとしたら、夏希はそれを恐れて、あえて言わなかったのか? 成功させるために……。
でも、それだとまるで、夏希は、俺のためにこんなことを……。
いや、違う。違う違う違うッ。夏希と合えばわかる。夏希に合わなくちゃわからないッ。だから夏希を探し出すまではそんな可能性は無視しなきゃいけない。
いや、仮にそうだったとしても、それは夢だ。ただの妄想、幻だ。
夏希が俺のために犠牲になったように見えたのは、ただの幻。本当はそんなことなく、少し経てばいつも通り夏希に会えるはずだ。この悪い夢が覚めれば。
引かれるという夢から覚めたら夏希と会えた。なら――。
なら? 今度はどうしたら会える?
いやそれどころか、もしかしたら――。
――夏希と過ごしたことのほうが夢だったのではないか。
いや、そんなことはない。夏希と一緒に過ごしたのは幻なんかじゃない、現実だ。
しかし、そう考える方がフツーなのも確かだ。引かれる夢から覚めたら別の世界にいたではなく、引かれる寸前に見えた走馬灯のようなものから覚めたら、間一髪のところで助かっていた。
どちらも信じがたいようなことだが、どちらが現実味があるかと言われれば、後者だ。
あの夏希との日々は、ただの妄想。
そう考えると、自然になる。
第一、別の世界に飛ぶなんていうことが起きるなんて、天地がひっくり返ってもありはしないそれこそフィクションの中だけのことなのだから。だったら、あれは長い妄想、空想、幻だったという方が自然な流れになる。
夏希と過ごした日々が、幻だったという方が。
そう思った瞬間、俺の足から急速に力が抜けた。
俺は地面に膝を付きながら停止し肩で息をしながら正面を見る。
気づけば、俺はどこかの田んぼのど真ん中にいた。はぁはぁと荒い息をしながら歯を食いしばり、地面についた手で大地を鷲掴みにする。
「夏希ッ…………な、つき、ぃ……ッ!」
ここにいない少女のことを思い浮かべながら、俺は狂ってしまった自分の頭を正すこともできずに、流されるままに思ってしまった。
――今までのことは、全部嘘だったんだ。
感想、誤字脱字の指摘等よろしくお願いします。