二人の世界は Ⅷ
「ウソ……だろ……?」
俺の口から、自然とそんなつぶやきが漏れた。
夏希には、兄がいたんだ。清水悠喜という名の。
それが一体何を意味しているかなんてことは、正直わからない。今の俺にどんな関係があるのか、これからの出来事にどんな関係があるのか、そんなことはわからない。全く関係ないただの出来事なのかもしれない。だから、深く考えなくてもいいはずだ。
そう、自分に言い聞かせるように心の中でつぶやく。しかし、それを俺自身が否定してしまっている。これは、答えにたどり着くためのヒントだと。
「そうかい? 嘘のような話でもないだろう。君が悠喜と同じ名前というだけのことだ。同じ名前の人がいるなど、さして珍しいことでもないだろう?」
そう、そうだ。何も気にすることはない。
この世界にも清水悠喜がいた。ただそれだけのことじゃないか。
清水家で暮らしている、七海の兄で、俺と同じ家庭環境で……。
――そんな偶然があるはずがない。
一体、どうやって否定しようというんだろうか。これが偶然だと、どうやったら証明できるのか。
いや、無理だ。もう俺の中で、確定してしまっている。
この世界にいる清水悠喜は、俺が元の世界に帰るためのカギだ。
俺がこの世界に来た理由、原因。それを握っているのは、清水悠喜だ。
「……あの……その、夏希の、お兄さん、なんですよね……?」
何が、と問い返したくなるような主語の抜けてしまった質問。けど、それ以上の説明などこの会話には不要だということもわかる。
「兄といっても、双子だがね」
とても静かに、穏やかに、しかしとても真剣な表情で。
「その……お兄さんは、どんな人、ですか?」
俺と同じような人でないことを祈りながら、願いながら口にする。
父さんは自分を落ち着かせるように一つ息をついてから言う。
「……知りたいのかい?」
そう問われて、俺はためらってしまう。
当然のことだが、俺はこの家の人と親密な関係ではない。家族ではないのだ。別の世界では家族だったとしても、この世界ではそんなことは関係ない。俺は他人なのだ。
そんな人間が、家族内のことをそうやすやすと聞いていいわけがない。そんなことは分かっている。
そして同時に、自分自身が聞きたくないと叫んでいるのが分かっている。
だが俺は、なぜか――。
「……お願いします」
と、言ってしまったのだ。
父さんは低い声で「わかった」とつぶやき。席を立つ。
テレビの隣に設置されている棚から、一冊の少し大きめの赤茶色をした本を取り出す。
夏希の父はそれを持って席に再び座りなおすと、おもむろに本を開きそこにある写真を指差しながら言った。
「ここに写っているのが、清水悠喜。この家の長男だ」
俺が見やすいように方向転換させられた本には、文字などは一切なくただ様々な写真が貼り付けられてあった。
アルバムだ。
この家のこれまでの軌跡を記録してある、アルバム。この家の団欒風景の集合体。
俺はそれを理解しながら、父さんの指差した写真を見つめる。
写真に写っているのは二人の大人と二人の子供の、笑顔の写真だった。
父さんと母さんは走り回る子供を見て微笑み混じりの苦笑いを浮かべ。母さんの後ろ隣には走り回る子供と同じくらいの歳の女の子が不安そうに隠れている。おそらくだが、この少女は夏希なのだろう。かすかながら面影が見て取れる。ということは――。
無邪気そうに笑いながら芝生を走る少年が、清水悠喜だろう。
子供特有の無邪気さを携え、活発そうに笑う少年。
――俺とは、真逆だ。
昔のことなど全く覚えていないが、今の俺から考えればこんなの少したりとも想像できない。だが、確証もない。
子供の頃の写真を見たところで、何もわからない。
「……ほかには、ありますか?」
失礼だということは分かっていたが、どうしても確かめたかった。この世界の清水悠喜が、一体どんな人間なのか。
父さんに了承を得て、次のページへと目を向ける。
そこには、同じような写真が数枚貼りつけてあった。
俺はまた、次のページへと進む。時間を積み重ねるように。ページをめくる。
そして、しばらくそれを繰り返し、アルバムの三分の二を越えたあたりから、少年の写っている写真がなくなった。
「……あの……すみま――。ッ!?」
不思議に思った俺が顔を上げると父さんは、とても苦しそうな表情をしていた。
今にも泣き出してしまいそうな、こちらまで心をえぐられるような、とてつもなく苦しそうな、切なそうな表情を。
俺の視線に気付いた父さんは不意に笑顔を作り、綻びだらけのその表情のまま俺に聞く。
「悠喜の写真、だよね? すまない。それ以上の写真がないんだ」
そうだということは、すぐにわかった。けど、父さんの表情が理解できない。
一体何で、そんな顔をするんだろう。俺は不思議に思うのではなく、不安に思った。一体なぜかは、よくわからないが。
「……あの、今、この人は、どうしていますか?」
聞いては、いけなかったのかもしれない。
だがしかし、俺は聞いてしまったんだ。人を傷つけるような好奇心で。
「……悠喜は…………昔、事故にあったんだ」
「ッ!!?」
事故にあった。そのワードだけで理解できてしまった。
ある一時期から先の写真には存在していないことと、何度も訪ねたこの家で一度も遭遇していないこと、そして昔事故にあったという父さんの言葉。それはつまり――。
「悠喜は、十年ほど前に、亡くなった」
父さんは目尻に涙を貯めながら、ぼろぼろの笑顔で言った。
俺は、何も言えなくなってしまった。一体どうすれば、この過ちを消すことができるか。そんな現実逃避な考えが浮かぶほどに、逃げ出したかった。
父さんの、こんな弱々しいところを見てしまった。それが、たまらなく申し訳なかった。その原因が俺自身にあるとわかっているから。
「夏希も覚えていないだろうが、悠喜は夏希を助けるために事故にあったんだ。夏希が道路に飛び出したのを跳ね飛ばして、自分から……。悠喜は――」
「もういいです。……すみません、こんな……」
申し訳なさで、俺の方が泣いてしまいそうになった。
発言を気を付けなくてはいけない場面だったのに、迂闊にも知りたいなどと言ってしまった。今まで何を学んできたのかと問いたくなるほどに、考えなしに。
「……いや、こちらこそすまない。君に気を遣わせるようなことを言わせてしまって」
「いえ、悪いのは、俺ですから」
なぜ俺はここまで馬鹿なのだろう。この世界に来て、変わったと言っていたのに、思っていたのに。そんなもの、幻だったかのように消え去ってしまった。ただの妄想だったかのように、跡形もなく。
「……暗い話になってしまったね。もうこの話は終わりにしよう」
「はい、すみませんでした。こんなことを聞いてしまって」
苦笑いをかろうじて作りながら答えた。笑顔を作った父さんとそのあと何を話したかは、動転してしまった俺の頭では、記憶することができなかった。
父さんが部屋に戻ったあと。俺は椅子に座ったまま虚空を見つめていた。
暖房も付けないまま、寒さで足が痛くなってくるのも無視して、ただ俺は考えていた。
――俺は、なんでこの世界に来たのか。
俺はこの世界で、何をすべきだったのか。何をすれば、こんな後悔を残さずに、もっといい結末へと持って行けたのだろうか。
父さんのあんな顔は見たく無かった。怒った表情のままでもいいから、そのままでいて欲しかったのに。俺は……。
「……馬鹿だ……」
俺の吐息に混ざったその声は、吐き出した白い息と同様に虚空へと消えてしまった。
俺は立ち上がり、深呼吸をする。
知ってしまったことはもうそのままどうにもならない。忘れることはできない。ならばそれを引きずっていても仕方ないと自分に言い聞かせる。
しかし、それだけでは完全に忘れることはできなかった俺は、気分を変えるためにダイニングテーブルの隅に置かれていた本を手に取る。
花言葉と書かれたその本は一発で母さんのものだとわかった。
これは一度、向こうの世界にいた時にも読んだ記憶がある。することが何もなかった時に、今と同じようにふと置きっぱなしのこの本を手にとったのだ。
俺は本を開くなり、誕生花の欄に目を通す。
なぜか、今は他人のことを考えていたかった。だから誰かの誕生花を見て、どうでもいいことを考えていたかった。
まず俺が見たのは七月六日。七海の誕生日だ。
誕生花ははまゆう。花のことはよくわからないので説明文は読まずに、大きく書かれている花言葉のところだけを読み取る。浜木綿の花言葉は。
――汚れがない。
それを見たとたん、いつだか七海が言っていた言葉を思い出した。
――ストーカーするのはやめて!!
七海からしたら思い出したくもない記憶かもしれないが、俺の頭には少しも色褪せることなく残っている。
ストーカーなどという非現実的な存在に出会ってしまった七海。必死に逃げて、男を軽蔑して、震えて、最後には立ち向かった。自分の言葉を、相手に伝えて、終わりにした。
あのまま七海が一歩踏み出さなければああはならなかっただろう。もしかしたら、最悪の結末を迎えてしまったかもしれない。七海はそこで、成長したんだ。
「…………」
俺の顔に、小さく微笑みが生まれる。
あの出来事は、全てが全ていいものだと断言できるものではない。七海は嫌というほど傷付いていたし、家族みんな七海のことを心配していた。心が抉られたのは七海一人ではない。
しかし、最後にはよかったと思えた。七海自身が、成長できたと思ったから。七海自身が、笑顔を見せてくれるようになったから。
なんて、少し偉そうなことを考えながら俺はページをめくる。
今度は七月三十日。これは風美の誕生日だ。
誕生花はにちにちそう。花言葉は……。
――友情、楽しい思い出。
これはそのまま的を射ているような気がした。
楽しい思い出かどうかは置いておくとして、友情という言葉に関しては、大正解だと思った。
俺と風美の絆は友情という言葉で表していいかどうかはわからないが、少なくとも、それに酷似した何かだとは思っている。本当の意味での絆だと。
俺は静かなため息をつきながらページをめくる。
このままの流れならば本来、夏希の花言葉を調べるのだが、あいにく俺は夏希の誕生日を知らない。もしかしたら前に教えてもらったのかもしれないが覚えていない。
俺は仕方なく、自分の誕生花を調べることにした。
俺の誕生日は七月三日。
そこで俺はふと気付く、全員七月生まれではないかと。
俺だけでなく七海も、そして風美まで七月生まれだ。これは一体どんな偶然か、と思い苦笑を浮かべながら七月三日の誕生花が記されているページを開く。
少しづつ気分が軽くなった俺は、警戒心というものがなかったのだろう。何も身構えず、真正面から見てしまったら、衝撃を受けてもおかしくはなかったのに。
もちろん予想などできるはずもない。なにせ逃げるためにこの本を手に取ったのだから。
しかし、ついさっき間違いなく始まっていたのだ。俺がこの世界の清水悠喜を知ってしまった時から、俺にとっての、最悪な奇跡が。
ただひたすらに無防備だった俺に、この言葉は重すぎた。ただの花言葉に過ぎないとしても、こんな言葉が記されてあったら動揺してしまうのも無理はなかったのだ。
たった一つの言葉で、俺とこの世界の清水悠喜が繋がってしまった気がしたんだ。
七月三日。誕生花はたつなみそう。
花言葉は――。
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