二人の世界は Ⅶ
夏希の寝息が聞こえ始めると俺はかけていた布団ごと体を起こして部屋を出た。
なるべくもの音を立てないように静かにドアを開き、一度夏希に振り返ってから部屋を出た。夏希が寝ているのを確認する意味と、なぜだかわからないが行ってくるという意味を込めて。
階段を下りる時も音を立てないようにゆっくりと降りる。
父さんに呼び出されたのは夜。時間指定などは一切されていない。だから夏希がいない時間、おそらく深夜なのだろうと俺は判断した。これでもし夕食の時間帯にん月と一緒に買うということだったら大変なことだが。
一回に降りてリビングへと入っていく。まだ電気はついているが中に入ってみると誰も見当たらない。
とりあえず父さんが来るのを信じて、俺は待つことにした。
「……早かったな」
と、俺がそう決意したとき、背後から聞きなれた大人の男性特有の低い声が聞こえた。
振り返るとそこにいたのはもちろん俺の――夏希の父親その人だった。
「……まぁ、座りなさい」
父さんは俺の方に歩いてくるとまず俺をダイニングテーブルとセットになっている椅子に座らせ、続いて俺の向かい側に父さん自身も腰を下ろす。
スウェットに身を包んだその格好は、普段のキッチリとしたスーツ姿との差もあってか少し新鮮に感じる。元の世界ではこんな光景飽きるほど見てきたはずなのに。
遠さんはダイニングテーブルの上に肘をつけて手を組むと、何かを見定めようとするかのような目つきで俺のことを睨む。俺はそんな視線に少し怯えながら一瞬目をそらしてしまった。
「……先日はすまなかった」
「……え?」
俺はとっさに聞き返してしまっていた。
その言葉は今の雰囲気から考えられる言葉ではなかった。俺はてっきり何か圧力のある言葉での質問が来るとばかり思っていた。父さんの表情もそんな雰囲気を醸し出していたというのに。今父さんの方へと視線を戻してみれば、眉尻は若干下がり、少し細められそらされた瞳からは後悔の色が少なからず見て取れた。
俺は混乱した頭を必死に動かそうと自分の口へと命令を伝える。
「あ、あの……どういう――」
生かし俺が聞き返そうとしたのを遮るように父さんは言う。
「先日、君がうちに来たときのことだ。何も知らなかったとはいえ、私は君にとても失礼なことを言ったと思う。だから、謝罪をしたかったんだ。すまない」
かしこまった父さんを見るのは初めてと言えるほどに珍しく、俺の頭は自分の命令どおりしっかりと冷却された。フリーズという形で。
「ただ、分かってほしい。私にも耐えられないことがある。君にとっては気軽に口にした言葉だとしても、それが許せない場合もあるということを」
硬い口調の父さんはおそらく、日頃真面目に働いているからこそ染み付いた人間性なのだろうということが伝わってくる。今までの怒っている感じとも違う硬い態度。それが俺に向けられているということが無性にい心地が悪くなり、俺は口に出していた。
「やめてください、そんなこと……。非があるのはこっちです。俺があんなふざけたことを言ったのが悪かった。それは充分理解しています。だから、あなたが謝ることは何もありません。もう、謝らないでください」
俺は偉そうにもそんな言葉を口にしていた。これではどっちが上かわからなくなる。その証拠に父さんは「ありがとう」と言って頭を下げている。それをしなくちゃいけないのは俺の方だというのに。
「……まぁ、今のは別に対したようではないんだが……今更ながらこんなことを親が口出ししていいのかと思えてきてな。少し戸惑っている、ははは」
苦笑いで自分の焦りを隠そうとする父さん。そんなの俺には筒抜けだ。今までずっと一緒に暮らしてきた父さんと、大きな違いはない、同一人物とも呼べるべき相手なのだから。
「……あの、変に気を使わないでください。自分は止めてもらっている身ですし、そんなにかしこまられても。……できれば、自然体でお願いします」
これまた上から目線ともとれる偉そうな発言。正直こんな言葉は口にしたくない。しかし、この何とも言えないい心地の悪さを感じ続けるのは俺にとっても、父さんにとっても苦に違いないと思った。
「そう言ってくれると助かるよ。……じゃあ聞こう。君も大体予想はついていると思うが、君と夏希のことに関してだ」
そうじゃないかとは思った。いやむしろ、それ以外の可能性が考えられなかった。この世界の父さんと俺との間に共通の話題なんてそれくらいしかないのだから。
「私自身も野暮なことをしているというのは分かっているんだが、どうも気になって仕方がないんだ。過保護、とも言えるかな」
自嘲気味の苦笑を漏らす父さん。それが娘のことを心の底から思っていることの裏付けになるように感じた。
「それで……単刀直入に聞くが、君は夏希の何だ?」
「恋人です」
何の為らいもなく、俺は事実を口にする。
ここで照れて口ごもっていてもまた変な誤解を受けるだけだ。それならばこんな時くらいは堂々と男らしく、言ったほうが絶対にいい。
「……そうか。うん、いや、信じてなかったわけじゃないんだが、どうもな……。夏希が男友達を連れてきたことすらなかったから、なんというか、な……」
頭の後ろを掻きながらいう父さん。
その顔は、苦笑の中からでもわかるほどの嬉しそうな笑みだった。
「いや、親として恥ずかしいな。でも、まぁ、良かったよ、君で」
「え? なんで……」
そんな風に、と聞き返そうとする前に父さんは説明する。
「確かに、あの時の君の行動を見ていただけならば私だってこんなことは言わないさ。大人をからかうようなことを言って、わけのわからない行動をするような男に娘を預けたくはないからね」
ごもっともだ。一切口を出すところが見つからない。
「……しかし君は、そう言った人ではなかった。母さんから聞いた。七海がずいぶんお世話になったみたいだな。よくわ分からないが、七海のために一生懸命になってくれたと聞いている」
「それは……」
何故かなんて、自分でもわからない。ただ、そうしないといけないと思ったから……いや、そうしたいと思ったから、ただそれだけ思ったから、こういった結果になっただけなんだ。だから俺は――。
「別に、特別なことなんてしてません。七海が自分で解決したことです」
それは紛れもない真実だ。俺は何もしていない。あれを乗り越えたのは全て七海自身の力だ。七海が自分で一歩踏み出したから、ああなったんだ。
「それでも、見ず知らずの女の子にそんな風に接してあげられることは、素晴らしいと思う。だから君でよかったと思った」
それはただ妹という存在があったから、と口に出そうとしたが、父さんの顔を見るとそれも無意味に思えてきて、俺は素直に喜ぶことにした。
「夏希は、大変かい? 少し癖のある子だとは思うが――」
「いえ、全然」
俺は父さんが言い終わる前に即答する。
「夏希は、まぁ確かに欠点はあるかもしれませんが、それはイイところが空回りしてなる感じなんで、そこは気になりませんし、一緒にいて楽しいです。何より――」
人を想いすぎるから自分を抑制しすぎるところとか、欠点を挙げるとすればそういったところのみとなるだろう。少なくとも俺が知っている範囲ではだが。
まぁ、欠点なんていうものは、たった一つのことで吹き飛んでしまうものだ。
そう例えば――。
「夏希は、あんなに可愛いんですから」
――こんなバカみたいな理由で。
俺は少し頬が熱くなるのを感じながら、緩んでしまう頬を引き締めることができなかった。それは、ノロケと呼ばれるものだろうか。そうだとしたら、何も否定はできない。俺は確かに夏希のことが好きで、こんなにも触れ合いたいのだから。
「まったく、君はとことん直球だな」
「そうでもないですよ。夏希の前だと、こんなこと言えないですよ」
「そんなことはないだろう。奥手な夏希に彼氏ができるくらいなんだから」
「夏希は、奥手なんかじゃないですよ。ただ、気を遣いすぎるだけで――」
「それが行き過ぎて、奥手に思われるんじゃないかな?」
「…………まぁ、そうかもしれませんね」
苦笑いで答えると父さんも笑う。そうまるで、少し昔の父さんとの会話のように。
「あ、そうだ……」
不思議な懐かしさを感じていると、父さんがふと思い出したように声を上げた。
俺が頭上にクエスチョンマークを浮かべていると、「ところで」と切り出した父さんは少しいいにくそうな顔をしたあと、笑顔になって言った。
「君はなんで悠喜のことを知っていたんだ?」
「…………今……なんて……?」
とっさに、震える声で聞き返していた。
何かの聞き間違いではないか。そう思った。そうであって欲しかった。
「ん? 君はあの時、清水悠喜と言っていただろ? なぜそれを知っていたのかということなんだが……母さんにでも聞いたのか? いや、あの時母さんとは初対面のようだったし……。どうしてなんだ?」
ドクンドクンと、心臓が暴れ始める。
何かが、何か知ってはいけないことを知ってしまったような感覚。
突然言われたその言葉の意味は俺にはわからない。分かりたくない。
それを知ってしまったら、何かが溶けていってしまいそうで。
ここで過ごしたすべてのものが、なくなってしまいそうで。
夏希との出来事が、消えてしまいそうで……。
「……そういえば、君の名前を聞いていなかったな。君の名前は?」
清水夏希と清水悠喜。
二人は似ても似つかない同一人物。そう思ってきた。性転換した俺なのではないのか。年齢も一緒なのだからそう考えるのが一番自然だったんだ。だから、そう俺は思い込んで、けど、俺は夏希を一人の女の子としてみたんだ。もう一人の俺ではなく。
しかし、今の言葉がもし、俺の頭と同じことを意味しているのであれば、それは。
それが指し示すのは――。
「俺は……清水、悠喜って言いま、す……」
俺は震える声でそう言った。なぜかわわからない。そう思い込みたかった。けど、頭の中で一度見えてしまった答えは完全消滅など不可能だった。
「そうか。じゃあ、君が言っていたのは本当のことだったんだな。すまない、私はてっきり――」
耳を塞ぎたくなる。スムーズに話が進んでしまう。そんな気がした。
せっかく好きな人と思いを伝え合うことができたのに、もしかしたらそれが、無意味になってしまうかもしれないと。
なぜなら、俺がこの世界に来た理由がわかってしまう気がしたから。
それが分かってしまったら、変える方法も、見つかってしまう気がした。
俺は、帰れなくたっていい。夏希のそばにいられれば。
けれど現実は無情にも、俺に真実を突きつける。
「――夏希の兄のことを言っているのかと思っていたよ」
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