二人の世界は Ⅴ
お互いの好意を口にして、もう何もかも投げ出してしまってもいいと思える瞬間を過ごした俺たちは翌朝、同じ部屋で目を覚ます。
同じ部屋とは言っても同じ布団で寝たわけでもなく、夏希はベットで、俺はその横で布団を敷いて眠った。誓って同じベットではない。
俺は目を覚ますと上体を起こし、まずはとなりのベットに寝ている夏希の様子を見ようと視線を横へと移す。だが、そこにはもうすでに目を覚ましていた夏希がいた。ベットに寝転がったまま俺のことを微笑みながら見つめている夏希に俺も微笑みを返して言う。
「おはよう」
「……うん、おはよう」
嬉しそうに目を細めながら挨拶を返してくる夏希は、どこか満足げに思える。
俺は久々に着替えてから寝たので、今は黒主体の寝巻き姿となっている。俺の学ランは洗うわけにはいかないのでハンガーにかけてあるだけで、処置としてはスプレーくらいのものだが、Yシャツの方はしっかりと洗濯してもらっている現状だ。
俺は自分の使っていた布団を片付けながら夏希に言う。
「夏希。俺は夏希が学校に行ってる間、ここにいていいのか?」
俺がそう言うと、夏希はきょとんとした顔になっていう。
「今日は休日だよ? 学校はないから、心配しなくても大丈夫だよ」
そう言われてなぜか違和感がある。休日が何故か多い気がする。
こちらの世界に来てからカレンダーもろくに見ていないせいだろうか、今が何日なのかもよくかかっていないし、少し前、夏希とショッピングへ行った日が土曜日だったということ以外は曜日の感覚もない。
どこか変な感じがしたが、この世界に来て気が動転していたため、狂ってしまったんだろう。そう結論づけて考えを終わらせる。
「だから、今日は悠喜が元の世界に帰るための方法を探そう。最近ずっとやってなかったから」
「あ、ああ……」
夏希の提案に、俺は少し口ごもる。
俺は今現在、さほど元の世界に帰りたいと思っているわけではないのだ。
風美の一件のおかげで自分の気持ちがどこに向いているのかわかったというのもあって、俺は今、元の世界に依存しているわけではなくなった。風美を好きだと思い込んでいた、言い訳にしていたときの靄はもうなくなった。だから俺はこの世界に居るまでもいいと思ってしまう。この世界には、夏希がいるのだから。
元の世界に帰ればそこには俺の求める人、夏希はいない。この世界で恐らく俺の立ち位置に位置する夏希は、向こうの世界では純粋に『俺』であろうからだ。だから、この世界に俺が存在しなかったように、向こうの世界には夏希は存在しない。
俺がこの世界から下の世界に帰ってしまえば、もう二度と会えなくなるのだ。
まあしかし、仮に帰れたのならばなのだが。
「ほかにすることもないからな。そうするかな」
俺は自分に言い聞かせるように言ってたたんだ布団を部屋の角へと持っていった。
「でも、いろいろ考えてたけど、原因もわからないし変える方法もさっぱりなままだからな……どうすればいいかとかも……」
俺がそう呟くと夏希も少し考えるような素振りを見せてから、
「……外出ていろいろ見たりするのはどう? 今まであんまり外に出てなかったから、前に買い物に行った時はそういう話全然しなかったから……どうかな……?」
積極的に提案してくれる夏希。俺のことを思ってくれているのが真っすぐに伝わってくる。だから俺は夏希に同意するように頷いた。
「それじゃ、着替え終わるまで外にいるから、終わったら声かけてくれよ」
「うん、わかった」
夏希の声を背中で受け止めて俺は廊下に出た。
――なんか、すっごく嬉しそうだよな。
まるで昨日の苦しそうな涙が別に世界の出来事であったかのように今日の夏希の顔は晴れやかだった。
もしそれが、俺と一緒に出かけることに少しでも関係しているのであれば、俺自身も嬉しいと思う。夏希が笑顔になる理由の一つに、俺がいてくれるのなら。
俺は夏希の部屋のドアを見つめながら胸の奥が暖かくなっていくのを感じた。
といきなりガチャッ、と俺の目の前のドアが開く音に顔を上げた。
「…………」
目の前には睨みつけるようにして俺のことを眺めるパジャマ姿の女子中学生に俺は心のなかで叫んだ。自分は無罪だと。
「……なんでこんな時間にいるのよ」
ツンと突き放すような、不機嫌ともとれるその声に自分が無罪を証明するのは極めて難解だと悟る。
どう言い訳したとしても逃れることはできないと悟ってしまったからには、無駄な言葉など何も出ては来ない。俺はただ時間が止まったように硬直しているだけだ。
「……ねぇ、聞いてるの?」
「あ、いや、はい……」
どうも不自然な声が出てきてしまう。動揺しているからだ。
七海の睨むような視線に全身が硬直してしまう。
「……なにか疚しい事でもあるわけ……?」
「いや、そういうことじゃないけど」
「じゃあ別に正直に言えばいいじゃない」
正直に言えば恐らく七海の怒鳴り声が響き渡ることは明白だった。
だがしかし、姉のことになると妙に鋭いこの妹にこんな対応をしていてはとてもごまかしきることなどできないわけで……。
「……お姉ちゃんと何かあるわけ?」
嘘をついてもおそらく意味がないであろうと思った俺はまたしても硬直するだけ。
そんな俺の反応で何かを読み取ったのか大きく目を見開いて興奮したように問い詰めてきた。
「ま、まさかお姉ちゃんに何かしたんじゃないでしょうね!」
「いやいや、何もしてないから!」
反射的に言った言葉は嘘ではない。だが、それで俺が逃げるすべを確実に失い続けている。
「じゃあ何よ、こんな朝早くから。また一緒に寝てたわけ?」
「ちょ、お前朝から何言ってんだよ!」
いきなりの大胆発言に動揺してしまう。前までの七海からは到底想像できなかった言葉だ。あまりに動揺しすぎて焦ったような口調になってしまう。
「なによ、別に前もやってたじゃない」
「いや、そういう問題じゃ……ってまて、お前それ認めるのかよ?」
「なにがよ。別に事実じゃない」
「いや、そうだけど……」
ものすごい違和感がある。今までの七海ならばこんなことを自ら言うなんてことは絶対にない。ましてや、それを素直に認めて俺を罵倒しないなどもっとありえない。
「それより、なんでこんな時間からここに居るのよ」
「あ、いや……」
いきなり話題が戻り口ごもってしまう。そうだ、七海相手に話題を変換しようとしても勘の鋭いこいつはそれに気付いて阻止されてしまうのだ。
そして勘が鋭いからなのか、簡単に思っていることを言い当ててくる。
「もしかして、お姉ちゃんとデート、とか?」
「ッ!」
「図星なわけね」
はぁ、とため息をつく七海。あれ? なんかやっぱりいつもと違う。
「……七海、怒らないのか?」
「はぁ……。なんで何で怒るのよ」
呆れたようにため息をつく七海。まるで七海が姉であるかのような錯覚を覚えてしまうほどの立場の逆転だ。
「いや、だってさ、いつものお前ならふざけるなくらいは言うだろ?」
「あたしは一体どんな人なのよ」
「シスコンの甘えん坊で泣き虫な男性恐怖症の中学生」
「今すぐにあんたを殴りたくなったわ」
「すみませんでした……」
俺が謝ると七海はもう一度ため息をついて、言った。
「さっきも言ったけど。あんた、なにか疚しい事でもしたの?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
「なら堂々としてなさいよ」
どうも調子が狂う。七海がどうも普段と違って冷静すぎる。というか、おかしすぎる。
「……お前、それでいいのか?」
「何がよ」
「いや、だってさ。俺は獣だとか言われてたけど、そんな奴が夏希の近くにいてお前は耐えられるのかって話なんだけど」
「そんな奴が近づいたら包丁でも投げつけるわよ」
血の気が引いていく。これはおそらく忠告なのだろう。もしも俺が変なことをしたら俺を殺すという、宣戦布告。
「……でもあんたは違う」
「へ?」
いきなり耳へと入り込んできた摩訶不思議な言葉に脳が一瞬で白紙に戻される。
一体今何が起きたのだろう。理解できないままに七海は続ける。
「あんたはそういう人じゃない。だから別に何も言わない。私は、お姉ちゃんが幸せならなんでもいいから」
「……え? つまりどういうこと?」
訳が分からずに聞き返す。最後のは言われなくても分かっていたことだがその前がさっぱりわからない。要約するとどう言う意味になるのか見当もつかない。
七海はまた小さくため息をついてから――。
「あんたなら、信用できるってことよ」
つんと顔をそらしながら言った。
……なんだろう。はっきりとその意味を理解できたわけではない。まだ頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。なのに何故か心の奥が暖かくなっていく。
信用できると言われて、嬉しいと感じているのがわかる。
最初は様々な罵倒を受けてきた。変態だの犯罪者だの、姉に近づかせないために監視するなんて言ったことだってあった。それなのに今は、信用できると言ってくれた。
「……七海も、結構丸くなったな」
昔の七海からは想像できないことだ。自分の姉を他人に、ましてや男に任せようとすることなど、天地が逆転してもありえないことだ。
「……そう言うあんたも、笑ったりするようになったじゃない」
「前は顔に出なかっただけだ」
「じゃあ、変わってきてるじゃない」
「……まぁ、な」
そうだ、俺の身には様々な変化があった。この世界に来てからというもの、今までの自分からは考えられないことをたくさんしてきた。女の子と一緒に買い物に行ったり、妹のために感情的になったり、好きな相手に好意を伝えたり、どれもこの世界に来る前の俺にはできなかったことだ。この世界に来て、人と触れ合って、様々なことを感じたから俺は変わっていくことができたんだ。
まだこの状態が最上級でないことは言うまでもないが、それでも確実に変わった。
何もかもに無関心だった俺は、今はいない。
「なんか、ありがとな」
ふいに、そんな言葉が声として現れていた。
「何言ってんの? バカみたい。忠告しておくけど――」
呆れたような口調からまた突き放すような刺々しい口調になると、
「――お姉ちゃんを泣かせたら言い訳なんて聞かないから」
真性のシスコンの少女は、まるで微笑んでいるかのように緩んだ顔でそう言ったのだ。
「分かってる」
俺も同じように微笑みながら頷いた。
もう夏希の涙は見たくない。だから俺は二度と間違えたりしない。
「お待たせ悠喜ッ。…………どうかしたの?」
「……いや、なんでもないよ」
着替え終わって出てきた夏希は状況を理解できずに不思議そうな顔をしている。
俺は彼女と一緒にいるんだ、だからもう――元の世界に帰らなくても、構わない。
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