二人の世界は Ⅳ
清水家へ帰ってきた俺たち二人はいつものように夏希の部屋へと入った。
当たり前のように、それも自分の家のように俺も堂々と入っていく。
流石に夏希のお父さんがいるときにはできないが、俺のことを知っている人だけがいる時ならば変に緊張しなくてもいいので、向こうの世界のようにいられる。
ただ、向こうの世界のようにと言うと少し語弊がある。向こうの世界とは、もう違うんだ。人に関心が持てない機械のような俺ではなく、今は不器用でも他人を見ることができるようになった俺なのだから。
俺は手に持っていたコンビニのレジ袋を夏希の机の上に置く。
先ほどコンビニに寄って買ったのだが、もちろん俺の金で買ったわけではなく、夏季が金を払っている。
レジ袋が立てる小さな音を残して、沈黙が訪れる。
俺自身も何を口にしていいのか分からず、夏希からもどこか戸惑っているような雰囲気を感じる。
俺はいきなり夏希のワガママを実行するのは焦りすぎだと思い、何かいい案はないかと模索する。けれど、何も考えが浮かんでこない。
「…………」
「…………」
二人のあいだに気まずい沈黙が流れる。しかしだからといっていい考えが浮かぶわけでもなく、かと言って俺自身がなにか行動に移してしまっていいものかと悩むところもある。いや、こうやっていたらいつまでたってもこのままだろう。
俺は意を決してなにか話題をふろうとする。
「な、夏希。…………」
しかしどうしても続きの言葉が出てこない。俺はこんなやつだったのか。すごい奥手な人間じゃないか。いや、それもそうか、俺は今まで人としっかり接してこな方んだから。
そんな俺がいま、目の前にいる好きな人に対してこんな風にしゃべりかけようとしている。人と話すのなんかに興味がなかった俺が、などと今更言うのもバカバカしいが、そう思ってしまう。
夏希は俺の言葉を待つように不安そうに俺を見つめている。
このままじゃいけないよな。こういうのってフツーは、男がリードしてやったりするもののはずだからな。
「……ありがとな」
だから俺の口から出たのは、そんな言葉だった。
不器用な俺なりに何を話すべきか、考えた結果がこれだったんだ。
夏希は不思議そうな顔で訊ねてくる。
「なんで、お礼なんていうの?」
全く心当たりがないといった態度に俺は笑みがこぼれそうになる。
「なんか、さっきお前にゲームしたいって言われたとき、すげえ嬉しかったんだよ。なんかよくわかんないけど。だから、ありがとう」
本当はいつも気を使っていた夏季が自分のやりたいことを言ってくれたということが嬉しかったというしっかりとした理由があるのだが、それはもう先ほど伝えた。だから、もう言わない。
「あたしも、ありがとう。好きだって言ってくれて、ありがとう。頑固で、自分勝手で、悠喜を困らせたり、イライラさせたりしたと思う。けど、好きだって言ってくれたから。本当は、怖かったの。だから、見たくなかった。悠喜と風美が一緒にいるところ。……ごめんね。言いたいこといっぱいあり過ぎて、変な言葉になってそう」
自嘲気味に微笑む夏希はほんのりと頬を紅潮させていた。
と俺はここでそういえば、と思い出す。
「夏希、悪いんだけど、答え聞かせてもらえないか?」
「え?」
「俺の言葉に対する答え。まだ言ってもらってなかったからさ」
「……それって、返事の、こと?」
夏季が上目遣いに俺のことを見上げてくる。俺は無言で頷き、言葉を待つ。
「……げ、ゲームは? 先にやろうよっ」
が、夏希は焦ってごまかすようにそう言ってくる。やっぱり夏希は赤面している。これはつまり、そういうことなのだろう。夏希は恥ずかしいんだ。
「わかった。……じゃあ、これな」
俺はチョコ菓子の袋を開けて夏希にいっぽん差し出す。夏希はそれを指先でつまんで受け取る。だが、すぐに口へと持っていこうとはしない。しばしそれを見つめた夏希は俺の方をちらっと見るとまた俯くように目をそらしてしまう。
「やらないのか?」
俺は夏希のよくわからない態度に戸惑い、そう聞いてみると、夏希はしばらくお菓子を見つめてから、恐る恐るといった感じで口へと持っていく。そしてそれを咥えたまま真っ赤な顔で俺のことを見つめる夏希。
俺はそれに応えるために少し姿勢を低くして目線の位置を夏希に合わせる。視線が交差した瞬間、夏季がまた目を逸らそうとしたが今回はそういうわけにもいかないのか、なんとか自制することに成功したらしく、視線だけを一瞬そらすだけで済んだ。
「…………」
ゲームを始める前に、なにか言葉をかけたほうがいいかとも一瞬思ったが、うまい言葉が思い浮かばず何も口にしないまま俺は菓子の反対側を咥える。
目の前に夏希の顔だけがある。背景もなにも気にせずにただ夏希だけが見える。
前に風美とやった時とは明らかに違うこの感覚。胸の鼓動がどんどん加速していき収まらない。だがそれと同時に胸が締め付けられるような感覚も襲ってくる。
目の前にいるのに触れ合えていない。その事実がいま、かすかな苦しみとなっているのだろうか。なら、それでいい。そうならば時間が解決してくれる。
俺は僅かな音を立てて菓子を食べる。夏希が少し戸惑ったような驚いたような顔をしたが、それも一瞬で、おずおずと夏希も一口食べ進める。
そう、時間がこうやって距離を縮めてくれる。心の距離なんていうロマンチックなものではないけれど、物理的に縮めてくれる。俺たちを触れ合わせるために。
また、俺の方から食べ進める。何度もそれを繰り返す。順番は必ず俺が先。
あと少し、あと少しだと分かっている。それは数秒先のことだと分かっているのに、それだからこそ焦れったくなる。今すぐに触れ合いたい。そう、俺は今ものすごくわがまmになっているんだ。夏希に我が儘になっていいと言ったのは、自分が我が儘なのを少しでも隠したかったからなのかもしれない。
目の前の夏希は真っ赤な顔で目をキツく閉じ、俺が前歯で菓子を噛んだ音を頼りに食べ進めている。
これは、嫌がっているのではないはずだ。嫌じゃないから逃げ出さないんだ。前の俺のように。だったらこれは、続けていいはずだ。
そう思うのに、なぜか夏希を傷付けてしまっているような気がして、少しづつ戸惑いが生じてくる。もし夏希が、また気遣いだけで俺に合わせて無理をしていたらと思うと。
そんな不安に駆られていると、いつの間にか俺は食べ進めることをやめてしまっていた。
いきなり止まってしまった俺を不思議に思ったのか、夏希は固く閉じていた瞼を開く。
と、俺は夏希と目が合って初めて気づく。俺は今、とても戸惑っている表情をしていたのではないだろうか。いつも冷静を取り繕うことばかりしていたのに、今はそんなふうに自分の表情が変わっていてしまったのではないかと心配になる。
そして、その心配は案の定だったようで、夏希も少しだけ表情を暗くしてしまう。
まただ。またこうやって、俺は人を傷つける。
今すぐに言葉にして心配するなと伝えたい。けれども今ここで口を離してしまっていいのかとも思う。
そうやってまた俺は戸惑ってしまう。そしてそのせいか俺の視線が自然と夏希から逸れてしまう。これもまた、失敗だ。
そう思った瞬間、俺は唇に伝わる僅かな振動で視線を戻すことになる。
視界に入った夏希を見ると、先ほどよりも俺に近づいてきていた。
夏希の方から、食べ進めたのだ。
俺は僅かな驚きと戸惑い、そして極大の安堵と喜びでまた自分から食べ進めようとする。
だが、そうしようとした矢先、またしても夏希が食べ進めてくる。そして俺が驚いているあいだにまた一口、また一口と、一瞬の間にどんどん俺に近づいてくる夏希。
恥ずかしそうに頬を染めながらも必死で近づいてくる夏希。
もう夏希には、止まるという言葉も意思も何もないようで、そのままノンストップで俺へと近づいてきて、
「……んッ」
夏希の方から俺に、してくれた。
俺が驚きで動けないあいだに、夏希は普段の夏希からは想像できないほどの積極さで、俺へと唇を重ねてきた。
唇が触れた瞬間、俺は今まで感じたこともないような言いようもない感覚が自分の中にあふれていくのを感じた。柔らかく優しい、ほんのりとチョコレートの味のする唇。だがそれ以上にほかの甘さが味覚ではなく、他の所。胸や脳へと直接伝わっていく。
触れ合ったのは一瞬のできごとだった。だが、俺の思考がフリーズしていたせいも有り、明確にその感覚が伝わってきた。
唇を話した夏希は、真っ赤な顔のまま、
「…………バカ……」
不満を訴えてきた。
「途中、止めようとした……。あたし、してほしいって言ったのに……また、そうやって変なことしようとした……」
「そ、それは…………ごめん」
俺の口から女々しい言い訳が飛び出そうになったが、それも無意味だと気付き、声に出さずに終わる。夏希の表情が苦しそうだったから。などということを言ったとしても、それはただ俺自身が臆病だったということにほかならない。もっと男らしく、堂々としていれば、こんな風に夏希を不機嫌にするようなことはなかったのに。
唇を尖らせる夏希を見て、自分の失敗を悔やむ。
せっかく夏希がわがままを言ってくれたのに、それを怖がって台無しにしてしまった。夏希が頼んだことなら、戸惑うことなどなかったはずなのに、俺はまた臆病になって、また大切な人を……。
いや、そんなふうに考えるのはやめよう。こうして暗くなっていてはさらに空気を悪くするだけだ。それに、もう起きてしまった過去は変えることなどできないんだ。
なら、その続きを、いいものに変えていくしかないのだから。
「夏希」
俺は目の前にいる少女の名を呼び、彼女が振り返るのと同時にその頬へと手を添える。
これで正しいのかは分からないけれど、何もしないよりはましだと信じたい。それに、さっきは夏希からした。なら今度は、俺からする番なんだ。
俺は夏希の紅潮した頬を優しくなでる。そして夏希が驚いている隙をつくようにして、今度は俺から唇を重ねに行く。
「ん!?」
驚きのあまり声を出そうとする夏希だが、明確な声は出ない。俺が夏希の唇を塞いでいるのだから。
俺も先ほどのように一瞬のキスで終わりにする。
夏希の顔を見ると、どうも俺のこの行動はあまりに予想外だったらしく固まっていた。
「夏希?」
俺がその名を呼ぶとビク、と反応を示してから俺の方を向く。だが、俺と目が合うとすぐに逸らしてしまった。
「……夏希?」
「…………だよ……」
俺が再度夏希のことを呼ぶと小さな声が聞こえてきた。俺は訳が分からず頭の上にクエスチョンマークを浮かべることしかできないでいると、夏希が俺から目を逸らしながらも、真っ赤な顔で言ってきた。
「……悠喜、卑怯だよ……」
上目遣いにこちらの様子を伺いながら、夏希が言う。
「いつもは、こんなことしない人なのに……ずるいよ……」
途切れ途切れに言っていく夏希は、自らの胸に手を当てながら、だんだんと声を小さくして言う。
「すごい…………ドキドキ……した……」
そう言って逃げるように俯く夏希がたまらなく愛しくて、自然と顔がにやけていってしまうのは仕方のないことだった。
「……夏希。大好きだ」
俺は、こんな風におかしくなってしまっている。だから、こんな状況じゃないと恥ずかしくて言葉にできないようなことを今のうちに言っておきたい。恐らくこんな言葉は後日思い返してみると恥ずかしくて死にたくなるだろう。だからこそいま、言いたかった。
俺の言葉を聞いて、夏希はより一層頬を染める。
そして、とても小さな声をさらに小さくしながら、俺のことを見つめて言った。
「あ、あたしも、悠喜のこと……大好き……」
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