妹だったら 10
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……いつも? 一体どういうことだ? 確かに俺は七海のことをしつこく追い回していた……今は。
けど七海は『いつも』などという言葉を使った。いつもなんて言う言葉はここでは使われないはずだ。使えない言葉なんだ。たとえ今俺がしていたことがしつこくて、恐怖を植え付けてしまうようなことだったとしても、『いつも』ではないから。
そして、『いつも』という言葉から、俺は今まで感じたことのないほどの不安を感じた。夏希に感じた不安などとはまるで比べ物にならないほどの押しつぶされるような重圧を持った感情の流れに不安を感じた。
「七海。いつもって、どういうことだよ……」
俺はそう問いかけるしかできなかった。確証がない俺の推測。それは七海の言葉がなくては証明されない。だから七海自身の言葉で否定してくれればいいと思った。
だが、七海は俺の問いなど聞こえていない様子で、俺を怒鳴りつける。
「なんで……いつもいつも……! そうやって一方的に……そんなことするのよぉ……」
迫力は消えてしまっていた。そんなぼろぼろ涙をこぼした少女の涙声では、迫力などかけらもなかった。
七海はいわゆる女の子座りで、両手を地面について体を支えていた。瞳からあふれる涙を止めることも、自分の手で顔を隠すなんていう余裕もない。体の力が抜けてしまっている。恐怖で、震えているから。
俺はそのかわいそうな少女に差し伸べた手をそっと引く。
「七海、どうしたんだよ…………。話してくれよ」
こんな弱弱しい女の子に喋らせるのは、正直嫌だった。何が嫌って、七海が震えてる原因を本人から聞き出すなんて言うことをしたくはなかったからだ。
けど、俺には知る方法がそれしかなかった。仕方ないとかそんな言い訳はもうしない。だから俺は心臓を潰されるようなこの感覚を素直に受け入れる。
「……なんでよぉ……。 なんで、そんなこと…………」
俺に対する言葉ではなく、自分の中の何かに訴えるような譫言。
どうしてやればいい? 俺はここでどんな行動をとって、どんな言葉をかけるべきなんだ? まったくわからない。なんだよ、この役立たずっぷりは……ッ!
「……ぁ……ッぅ…………」
七海の嗚咽が、俺の耳に届く。
それだけで、俺はどうしたらいいのかわからなくて、けどいつも通り何も考えずに動けば七海を余計傷つけることになるってわかった。だから結局、その苦しげな嗚咽を聞いてもなお、俺は七海の涙をこぼす姿を見ることしかできない。
「七海…………ごめん…………」
俺の口から、その言葉だけが漏れ出す。
七海が苦しんでいる理由を知りたい。解決してあげたい。そう思っていても人の感情に敏感じゃない、対人スキルの低い俺は七海の気持ちを読み取ってやることができない。
「……たすけてよぉ………………」
「ッ!?」
俺は七海の顔を見る。七海の瞳はまっすぐと俺に向けられている。涙で濡れた瞳を俺に。
その助けてという言葉は、ここにいない誰かに行った言葉なのか、神様への願いの言葉だったのか、それとも俺へ向けられた言葉だったのか。そんなことを考えた。けど――
そんなのは関係ない、俺自身が動けばいいことだ。
涙がでそうになる。七海の瞳だけじゃなく俺の瞳からも。
もらい泣きなんていう言葉を聞いたことがあるが、こういうものなのだろうか。何かが違う気がする。この感覚とは違う気がする。
「……七海……。大丈夫…………」
俺は自分の中でできるだけ優しい声でそう囁く。
でも、言葉だけじゃ意味がない。言葉だけで簡単に震えを止めてあげることは出来ない。俺はそんなに口が上手くないんだ。だから行動に出さなきゃ無意味だ。
俺はもう一度、七海の前に手を差し伸べる。
「……約束する。……七海が嫌がることなんてしないって……」
俺は差し伸べた手の小指だけを立てる。これは約束をするための行動。
七海は俺の手を見て、小刻みに震えながら腕を持ち上げ、俺と同じように小指を立てる。
お互いの手が近づく。小指同士が触れた瞬間七海の手が引かれそうになる。だが、一瞬のためらいだけですむ。そのまま小指同士を絡ませる。
七海の震えは止まらない。むしろ強くなってしまってすらいる。けど、それを止めようとして、無理に俺が七海に触れてしまえば逆効果だ。だから、この小指だけ。
七海は俺と触れ合っている方の手を震わせながら、もう片方の手で瞳から溢れ出る涙を必死で拭い、嗚咽混じりに言った。
「……たすけ、てぇ……。……怖い、のぉ…………」
言葉で表された七海の心中。それは、か弱い女の子の非日常的で、日常的な、自分を助けて欲しい、守ってほしいという脆い願いだった。
「七海、大丈夫。……怖くないから」
おそらく実の妹にも言った事がないであろうセリフ。兄であれば当然のようなこんなセリフを今初めて言ったと感じる。そして俺のおかしなセリフで、すがるように俺のことを見つめる七海は、どうにもこうやってそばにいてあげたくなる不思議な存在感があった。
主人公に向かない脇役程度の人間が思うたった一つだけのヒーローのような願望。そんな願望を俺が抱いたって、文句はないだろう。俺が今ここで、七海のことを守りたいと思ったとしても、それは仕方の無いことだろう。
俺は七海と繋がっている小指に小さく力を込める。するとまるでダムが崩壊したかのように激しく泣き出す七海。俺は黙って七海の力の入らなくなった手を、小指で小さく温めてやることしかできない。
「うっ…………ぁッ……。ぁぅ…………。……怖、かったの」
七海が、嗚咽の中でそう切り出した。
「男の人に、追いかけられて……。いつも、気づくとその人が後ろにいて……。もう……嫌にッ、なって…………怖く……てぇ……」
それは、つまりどういうことなのだろうか。単純に考えればそういうこと、だが簡単にそう判断してしまっていいのか。いやまず、そんなことが起きることなんかないだろう。現実で、そんな、ストーカーなんていうものが。
「その人に、電車で話しかけられて…………。さ、触られそうになって…………ヤダぁ…………」
本当に、そんなことが起きるのか? そう思って仕方なかった。
けど、七海が言っていることは嘘でも冗談でもなく絶対に真実だと確信もできる。
矛盾したものが俺の中でかき混ぜられて、もう何がなんだかわからなくなっていた。
ただ、七海の今の言葉を聞いて、俺は一つだけ、口に出して叫んでやりたいと思った言葉があった。そのストーカー野郎に向かって、殺してやるって……!
そうだ、ストーカーという言葉、最近何度も聞いたじゃないか。俺の口からも何度も行った。お前のやろうとしていることはストーカーだぞとか、七海のことを何も考えない不謹慎なセリフばっかり言って。それで何度も否定してたじゃないか。ストーカーっていうその言葉を毛嫌いしていたじゃないか。
気づいてやればよかったんだ。男を目の敵にしているという点、それだけでも十分築けたはずだ。何が彼氏にフラレたとか馬鹿なこと言ってたんだよ俺は! そんなことで男全員を毛嫌いするようなことが起きるかよ! よっぽどのことがなけりゃそんなことはありえない。そう、それこそ犯罪的なことをされない限り!
七海は苦しんでたんだッ、なんで俺は気づいてやらなかったんだよ! 何が七海を落ち着かせるだ、落ち着いてなかったのはむしろ俺の方じゃないか。俺がもっと落ち着いて状況を整理して、七海のことを見てやれてれば、こんなに俺がまた、傷口をえぐるようなことは無かったはずなのに! こんなになるまで傷を深くして、何やってんだよ!!
「男の人なんて……居なくなっちゃえばいいのに、って……。恋してみたかったのに…………もう男の人なんか、好きになれなくて…………」
こんな華奢な女の子の希望を粉々にくだいて、何がしたいんだよ俺は!!
原因は俺じゃなくて、そのストーカーで痴漢の最低な男なのかもしれない。けど、そんなことじゃないんだ。原因なんかじゃなくて、七海を傷つけた奴は全員最低な奴なんだよ。俺も含めて、七海にとっては男全員が最低な人間なんだよッ。
「お姉ちゃんだって、あたしみたいに嫌な思いをするかもしれない……だから、男の人はもうみんな……誰も……近づかせたくなくて……」
分からなくもない。
見方のよっては自分勝手な自己満足に過ぎないかもしれない。けど、七海の気持ちは、七海にしか、七海と同じ経験をした人にしかわからない。だから、こんな身勝手に思えるような言葉でも、否定なんかできないししたくもない。文句を言う奴がいたら、殴ってやりたくなるほどに、七海がかわいそうだ。
「それなのに…………お姉ちゃんは全然嫌そうじゃなくて…………途中から、もう……わからなくなっちゃって…………。デートして、強引に手を引かれてたのに、全然嬉しそうで……」
七海は、崩壊すんぜんだったんだ。それなのに、俺と夏季が……いや、俺の行動が原因で本当に七海を壊して。俺が自分自身で、七海を壊して……!
「それに…………同じ部屋で寝てるのに、幸せそうだった…………」
「ッ!!?」
同じ部屋で寝てる? そんなの今までにあったのは一度だけ、昨日だけだ。
七海は、それを見てたのか? でも七海は気づいてなかったはずだ。気づいてたなら力ずくでも俺を外に連れ出していたはずだから。
いやまて、それ以前に、なんなんだ? そうだよ、なんなんだよ。七海は分からなくなったって言った。それでも、自分の体験したことから答えを出して、姉を守るという結論に達したのか? いや、違うんだろ。迷ったんだろ? 今でも迷ってるんだろ? 自分が何をしたらいいのか、自分でもわからないんだろ? それでも無理に今までどおりの態度でいようとしたから、こんなふうに壊れたんだろ? 無理して、疑心暗鬼になりながらも、夏季を守ろうとしてたんだろ? でもだったら……。
「七海…………俺は……お前にから見て、危険なのか……?」
そう尋ねるしかなかった。七海はフルフルと首を横に振って言う。
「……分から、ないの…………。危険じゃない、ハズなのに…………! どうしても、危険だって思うしかなくなって……もう、分かんなくなって……ッ!」
心の中が小さな光で温められたような感覚、それと同時に胸の奥深くに矢が刺さったかのような鋭い痛み。けど七海の傷とは比べ物にならないほどの一瞬だけの痛み。
「男の人なんて……みんな、そういう人だと思ったのに……あんたは違くて……。男の人じゃないみたいで…………お、兄ちゃんみたい、で……」
お兄ちゃんという言葉に、俺は大きな反応を示してしまう。わかってるさ、七海が今言ったお兄ちゃんは架空の人物像であって俺じゃない。そう頭では理解していても、どうしても俺は七海のお兄ちゃんだと思ってしまって……。
複雑に絡まってしまった感情をほどくのには時間がかかる。だから今はこのゴチャゴチャになった気持ちは後回し。七海の言葉を聞いてやらなきゃ。
「……あの男の人とは違って……。あたしだって、こんないい人と会えてたらって……!」
ヤキモチ。俺の前に行ったその言葉が蘇る。
あれは、ヤキモチで間違いではなかったんだ。ただ、姉と一緒にいる男に嫉妬していたのではなく、男のそばにいた姉に嫉妬していたのだ。つまり、俺という存在を近くに持っていた夏希に。
さっきからずっと考えてる、俺はどう声をかけてやるべきなんだろう。何か質問をされたわけでもしつこく話しかけられているわけでもない。見方によれば七海の一人ごとだ。
けど俺はここで何か言葉をかけてやらなきゃいけないと思っていた。この状況で声をかけないのは見捨てて逃げたことと何も変わらない、単調な相づちでもいい。けどそれだけじゃ嫌だ。だからといって優しい言葉をただかけるのも違う。俺は七海の気持ちを理解することなんてできない、だから軽々しく分かったふりをして慰めの、同情しているかのような薄っぺらいセリフを言いたくない。
「なんで……。あたしばっかりこんな……! もう、こんな人生イヤ…………」
優しくしなきゃいけないんだ。でも、ただ優しいだけの言葉は言えない、見つからない、見つけたくない。それに、だ。優しくして、七海のためになるのか? そうじゃない、七海のためになるんじゃなく、その場しのぎのそれこそペラペラなセリフだ。だったら、こういう時の俺が言う言葉は――。
「……自分だけが、なんて言うなよ……」
ただ優しい言葉より、今の状況を客観的に見ようと頑張る個人の言葉。
「……なによ……。普通に恋して、デートして、なんにも辛いことなんてないじゃない!!」
「そんなことないんだよ……。俺だって、誰だって辛いことくらいあるんだよ、信じたくないようなことが起こったりするんだよッ」
自分の感情優先になってしまうような不完全な人間の言葉。
けど、だからこそお互いの感情を言葉に変えてぶつけ会える。自分だって同じようなことが起きた人なら尚更だ。俺だって、信じられないことを体験して、あんなに壊れそうになったんだ。どんだけ信じたくなくなるかとか、辛くなるかとか、全部同じじゃないけど、少しくらいなら、少し七海の心に残る程度なら分かってやれる。理解じゃない、わかってやるんだ。感覚的に、頭での整理は必要ない
「自分だけがなんて言えるような立場じゃない、誰だって。夏希だって別に悩みがないとかじゃない、楽しんでるだけじゃないんだよッ。ずっとお前のことを心配してて、ずっとそんなことばっかり考えて、自分が潰れそうになってたんだよッ」
俺は繋いだ小指の約束の糸をそっと解く。そして今度は指だけじゃなく、その手全体を包み込むように、自分の手を七海の手に触れさせる。
「自分だけじゃない、みんな同じなんだよ。誰かが不安そうにしてたらそれを見た誰かだって不安になるんだ。苦しそうにしてたら苦しくなるんだよ。ちょっとくらいの変化でも分かったりもするんだよ。七海だけじゃない、一人だけじゃないんだよッ」
俺は七海の手を優しい、けれど絶対に弱いとは言わせない強さで握る。一人だけじゃないということを強調するように。
「……結局、そうやってお姉ちゃん優先で考えるんだ…………。あたしに、優しい言葉もかけてくれないんだ…………」
七海の諦めたような暗い声が聞こえる。
俺は一度息をすぅ、と吐いて七海の言葉の重圧に押されてしまわぬよう心構えをする。
「なにも、全部誰かを優先なんてできない。だから今は、七海でも夏希でもなく自分の意見を優先で話してる。夏希を特別扱いなんてしてない」
「じゃあこうやってお姉ちゃんがあたしみたいに泣いてたら今みたいに言ったの! 違うでしょ! お姉ちゃんには優しい言葉かけてあげるんでしょ!?」
「七海違う。優しい言葉っていうのは――」
「言い訳ばっかりしないで……! さっきから自分が正しいみたいに言って、結局男の人はそうやって自分勝手なの……!? だったらさっき言った言葉はもう取り消す……! やっぱり男の人はみんなキライ、あたしは男の人がキライ……!」
二度言う。良く大事なことは二回言うとかいうふうに言われるが、そんな風に軽く考えることは出来ない。
確かに、自分の言った言葉は最低なのかもしれない。けど、そうじゃないと信じたい。
自分勝手だけど、そう信じなくちゃ言葉の意味が、この俺の行動が本当に意味のないものになってしまう。
でも、七海はそう言いつつも、俺の手を振りほどこうとはしない。
まぁ、泣きながらだから力が入らないだけなのかもしれないが、そうだとしても俺には七海が離したくないと思っていると思えて仕方がない。
だから俺はほんの少し、手に力を込める。それで拒まれないなら――。
「なんでぇ…………う……。もぉ、やめてぇ…………」
七海がすがるように、俺に言ってくる。七海の手は、何かを求めるようにこわばっている。もちろんその手が握っているのは俺の手だ。
七海は、拒もうとはしない。言葉では嫌だなんて言っているけど、違う、自分のことに気付いてほしいだけなんだ。遠まわしで分かりにくいけど、ただ気付いてほしいから、自分で口にして説明するんじゃなくて、気付いてほしいからこうやってるんだ。
「七海、誰も気づいてないんじゃないんだ。だからやめてなんて言うなよ。一人じゃないって言っただろ? 夏希も俺も、七海のことを心配してるんだよ」
拒まれなかった俺の手は、俺の手よりも小さい七海の二つの手に包まれる。
「……素直に、心配してほしいって、言えなかったんだよな……?」
俯いて瞳から流れ出る涙をどうにか見せないようにとしているのだろうが、それでも無理、さっきだってずっと泣いていたようなものだし、何より、頬を伝って地面に落ちる涙が街灯の明かりに照らされて、きらきら光っているのだから。
「…………ぅッ…………ぁぁぅ……………」
嗚咽する七海をどうやってら落ち着かせられるのか、俺には分からない。
けど、ずっとわからないことだらけな俺でも、今は一個だけ分かってる。七海は、俺のことを危険人物だと、本気で思ってるわけじゃないんだ。最初の出会いが少し変だったから、七海の状況が特殊だったからその時は本当に思ったんだろう、危険だと。けど、違うと言ってくれた。七海はどうしたらいいのか分からなくなってただけだ。最初の態度がきつかった、けどちゃんと見れば危険じゃないという風にわかった。けど、後になっていきなり態度を変えて――どうやって態度を変えればいいのかわからなかったんだ。
俺はそんな七海の小さな体温を感じながら、七海の嗚咽が止まるまでじっとしていた。