妹だったら 7
ホームレスになってから今日で三日が過ぎた。とうとう今日からは四日目、一週間の半分を経過したところだった。
ここでもちろん悠長に考えている余裕などありはしない。俺はさっさとこの状況を打破するために夏希に協力してもらい、俺の元いた世界に帰らなくてはいけないのだ。……だが、今の俺にはそんなことよりも重大な――というほどではないが、元の世界に帰ることよりも優先しなくてはいけないであろう出来事が起こっていた。
昨日の出来事、何気ないフツーの高校生がするであろう誰かと遊びに行くということをやっていた時だったのに、そんな日常的なことだったのに、いきなりまた、全然違う世界に飛ばされたかのような感覚を味わったんだ。
夏希の妹――七海が壊れた、という表現では説明できない。狂ったという風でもない、もっと違う、何かが違うことが起きたんだ。俺の何も考えないデリカシーの欠片も感じさせない言葉のせいでそれは起きた。自分でも何がいけなかったのかなんてまだわかってはいない。でも原因が、俺の言葉、行動のどちらか、またはその両方であることは明らかだった。なぜなら、俺に向けられていたのだ、あんなこの世では体験できないかのような恐れを抱いてしまうほどの殺意が。
だから俺は今、自分の置かれた状況よりも、そんな他人のことを気にしてしまっていた。
確かに、この世界に来て俺は確実に変わってきているだろう。前の変わった人と呼ばれていた自分が少しずつ薄れていく気がしないでもない。人とか関わりたい、誰かに信じてもらいたい、自分と会話してほしい、そんなことを心の中で思い始めている。
ただ、それで劇的に変わったわけじゃない。俺だって少しくらいはそんな気持ちはあった、前はただ、受け身で待っていただけだったということだ。それが変わっただけ。だから七海のことを気にしているのはそんな、自分が変わったからなんて言う理由を附けなくてもいいくらいに、本心からなんだ。
いつだか夏希が言っていた。困っている人をほっとけないと。一語一句このままの言葉ではなかったが、そんなニュアンスの言葉だったと思う。
俺の今の感情は、それに近いのかもしれない。
だから俺は今、清水家の前に歩を進めていた。
ここまで来て今更言い訳などしない、俺は自分の意志で、ここにきて、会いたいと思った。この家に住む、二人の女の子に。
俺は迷わず指先のインターホンを押す。
ピンポンという音が家の中からかすかに聞こえ、しばらくしてドアが開く。
「あら? あなたは確か……」
そんないつだかと同じように話しかけられる。ドアを開けたのは俺の求めていた姉妹二人のどちらでもなく、その生みの親の母さんだった。
「おはようございます。あの、夏希と七海、いますか?」
俺がそう簡潔に問うと夏希の母さんは不思議そうな顔をして問い返してきた。
「学校にいると思うけど、合わなかった?」
「あっ…………」
そうだ、昨日は休日だったからよかったが今日は平日、月曜日なはずだ。フツーの高校生や中学生はもちろん学校にいている真っ最中だろう。そこまで考えが回らなかった自分に苦笑しながら俺はテキトーな言い訳をする。
「……俺のこの制服、夏希の行ってる学校のと似てますけど、違うんです。もっと違う場所の制服なので、俺は学校に行ってないんです」
言い訳にもなっていない言い訳を言いながら俺は返答を待つ。
「……その学校は、今は秋休みか何かなのかな? それでお祖父ちゃんお祖母ちゃんの家に遊びに来た、ということ?」
「はい、そんな感じです。……今は二人とも学校で……いつごろ帰ってきますか? 二人は部活とかやってるんですか?」
俺は夏希の母さんの解釈に縋り付き、新たな指摘をされる前にと、少し早口に質問をぶつける。
「そう遅くはないはずよ、夏希は部活はないし、七海は美術部だけど、あまり活動が活発じゃないから」
そういわれ、俺はこの後どうするか考える。この後俺が林に帰ったとする、だが、どのタイミングでまたここを訪ねてくればいいのだろう。四時を過ぎれば帰ってくるとは思うが、俺には今現在時刻を知るための道具がない。太陽を見て時間を確かめるなどと言ったことがそういう知識の乏しい俺にそう簡単にできるわけもなく、かといって一日中この家の前で立っているということをするわけにもいかない。
あまり夜遅くなると俺も訪ねにくくなるし、迷惑になってしまうだろう。夏希はおそらくそんなことはないというだろうが。
「……とりあえず、家に入って待ってる?」
「え? …………いいんですか?」
さッ、っと現れた助け舟に乗る許可を得る俺。もちろん帰ってくる言葉はYESだった。
こういうところは変わらないんだな、元の世界と。
しみじみと俺が感傷に人るという自分らしくもないことを瞬間的に体験し、すぐに返答を出すために口を開く。
「すみません、お邪魔します……」
ニコッ、っと言う表現がふさわしい笑顔で夏希の母さんは俺を招き入れた。
これでこの世界の清水家に上がるのは何度目のことだろうと思い返してみる。二、三回目だろうな、と大雑把な推測をして、しっかりした回数も確かめずに俺はそこで打ち切る。
俺が案内されたのはリビングダイニング。この家には客間などというものは設置されていないので昔――元の世界の時からお客さんを内に入れるときはいつもここだ。
俺は前に来た時のように椅子に座らせてもらう。そしてテーブルを挟んだその向かいの椅子に、夏希の母さんが腰を下ろす。
「……ちょっと、おしゃべりしない?」
そう言った母さんにはいと答えてから、既視感を覚える。
前もこんな風に話して、夏希がどんな娘なのか、どんな娘だったのかを教えてもらった。あの時は元の世界に帰るためだった、今は、特に何も目的の無いおしゃべりだ。
「あなたは、夏希の彼氏さんなのよね。……夏希、きつい態度とったりしてない?」
まず根本的に、俺は夏希の彼氏じゃないわけだが、まぁ、この際どうでもいいか。
「別に、初対面の時の警戒してるのが解けたおかげでフツーですよ」
今思えば、夏希は初めて会ったとき、ものすごくツンデレみたいな態度をとってたっけ。言葉も行動もツンデレそのままみたいな感じで、あれが本性だと思ってたな。
けど、少しずつ打ち解けていくと、ただ俺のことを半信半疑で、警戒していたからあんな少しきつい態度だったということもあり得たわけだ。そこまで考えがはたらなかったんだ、俺は。
「そう、よかった。あの子、ちゃんとした言葉を言わなかったりするから、もしかしたらまた苦い思い出になっちゃうんじゃないかって、ね」
窮すにおちゃっぱを入れ、ポットのお湯を注ぎながらそう答える専業主婦。
お気遣いなく、という男としてももう遅いので俺はその作業が終わるまで黙っていることにする。
「……あの子は、あなたにちゃんと好きだって言った?」
お茶を注ぎ、俺の前に差し出しながら言う母さん。
俺はすこし返答に困りながらも正直に言うことにする。
「そういうことを、言う仲ではないので……」
「恋人なのに?」
そう問い返してくる母さんにちゃんと説明しなくてはいけないと思いながら口を開こうとする。だが寸前で母さんの声が割って入る。
「私、こういう恋愛事のお話が大好きでね、娘にもちゃんと恋をしてほしいって、願ってるの。ちょっと身勝手なお願いなんだけど、恋をすれば、あの子も変われると思うから」
そういう母さんの瞳には、何が写っているのだろうか。夏希のうれしそうな姿だろうか。そしてその隣にいるのは、だれだろうか。
俺は母さんが一口お茶を飲むと、俺が言うべき言葉を言う。
「……じゃあ、ちゃんと相手を見つけないとダメですね。俺は夏希の彼氏でもなんでもないんですから」
俺はそう言い終わるとお茶を少し口に含む。
「じゃあ、夏希のことは好き?」
「ん!? ッカホゴホッ」
あまりにストレートすぎる質問に飲んでいたお茶を吸い込んでしまい盛大に咽る俺。
フツーそういうことを聞くか? こんなにストレートにッ。
「ふふ、素直じゃない二人が一緒になるのは、時間がかかりそうね」
「ふぅ……。違いますよ、べつに好きとかそういうのじゃなくて。フツーに友達、みたいな感じで。恋愛的なことは何もないですよ」
自分を落ち着かせるために一呼吸おいてからいつも通りの口調で言う。
俺と夏希の間には恋愛的な感情はない。友情とも少し違う、協力関係というべき一時的なものだが、それを説明するのは面倒臭くなってしまうので簡単な『友達』というありふれた単語を使って説明した。
「そう? 私は二人は付き合ってるのかと思っていたけど……違ったみたいね」
何かを言おうとしたのか、一度口ごもってから俺の言葉を信じてくれた。
母さんは、変わらないんだよな、元の世界の俺の母さんと。
容姿はもちろんのこと、性格も全く一緒だと思う。少しくらいの違いはあったとしても、大きな部分、自分の子供の感情的なところに敏感だということは同じだからな。
母さんのそういうところは、生まれて十六年間そばで過ごしてきた家族だから知っていることだろう。多分風美あたりはしらないだろうな、この世界の風美も。
「じゃあ、夏希じゃなくて、七海の方がタイプなの?」
「いや、別にそういうわけじゃなくてですね、夏希も七海も俺の友達みたいな感じで、別に恋愛対象として見ているというわけでは――」
ここまで口にしてはっ、と気付く。生みの親に向かって娘のことを『恋愛対象として見ていない』などというのはとてつもなく失礼なことなのではないだろうか。恋愛対象として見ていないということは、夏希と七海のことを女――女性として見ていないと公言しているようなものなのではないだろうか。それに……。
「恋愛対象じゃないの? 私が言うのもなんだけど、二人はちょっと変わったところもあるけど、れっきとした女の子よ?」
そう、完ぺきに眼中にない、などと言えないのだ。七海は妹として見ていると言えるが、夏希の場合はそうともいかない。夏希は俺からしたら他人だったわけだ。けどそんな女の子と信頼関係を築こうとしている。
それに、だ。夏希のことは何度かかわいいと思ったのだ。確かに赤面癖は突然起こって困るし、頻繁に起こるので一緒に居ると結構気を使うというのは本心だが、そんな部分があっても、それすらもかわいいと思う時があった。ペットとしての――愛玩動物に対する感情のようなものだとか言い訳しいたが、実際そんなはずはない。ただ単に、可愛いと思っただけなのだ。
「……フツーですよ。フツーの高校生としての仲です。お互い、特別なことは何もなく」
そう平然といつものように言う。けど俺の内心は結構危なかった。夏希のようにすぐに戸惑いが表情に出るようなタイプなら相当大袈裟な反応をしていたと思う。
「フツーの仲、なのね。これ以上はあんまり質問しないほうがいいかしら?」
なぜか違和感のある言い方、まるで俺が無知な子供のように何にも気づけていないかのような、そんな感覚に襲われる。
「いえ、別に俺は構いません。家に上げてもらっているんですから、ほかにも手伝いでもなんでもしますし」
だから俺は反発するように反射的に答えてしまっていた。
気に食わないとか、そんな感じのことではないのだろう。もうちょっと違う、何か相手の言葉を深くまで探ろうとしてしまった自分に呆れているような感じ。
「そう、じゃあもう少しお喋りの相手をしてもらおうかしら」
俺は母さんの微笑みに頷き、再度他愛もない世間話が始まる。
「最近野菜とかの値段が上がってるでしょ? あれって困らない?」
「すみません、そんな主婦の井戸端会議にでも出そうな話題が来るとは思いませんでした」
「献立考えるのだって材料が限られちゃうと困っちゃうしね」
「あの、この会話はいつまで続くのでしょうか?」
「今日の献立は何にするの?」
「そうですね、個人的には……。っていう風にノったら取り返しがつかなくなりますよね?」
「それとも夏希が作ってくれるのかしら?」
「そんなわけないじゃないですか……」
「じゃあ頼んでみたら? 夏希は断らないと思うわよ?」
「……いいですよ、夏希に悪いですし…………」
いつも通りの冷静な口調で答える。最初は世間話という名の井戸端会議のような会話だったのだが、すぐさま変わって俺の夏希に対する思いを探るかのような言葉を使ってきた。母さんはこういうところは抜かりがないんだよな。
ただ、俺だってそんな元の世界の母さんに同じようなことを聞かれたような気もするので焦らず、冷静に返すことができる。だが――。
「夏希にそっくりね。素直じゃないところが特に」
そんな風に言われてしまう。夏希にそっくりだと言われたところもなんとも否定したかったが、それよりもその次の言葉だ。
「素直じゃないって言われても、俺は思ったことをそのまま口にするタイプですよ?」
それで今まで何回言葉の選択肢をミスったことか。数えきれないほどだ。
「それに夏希も素直じゃないなんてことありませんよ。見てればすぐわかるじゃないですか」
「あなたはそれだけ夏希のことをよく見てるのね」
「違いますよ。一緒に居る時間が多いだけです」
「そうなの? 一緒に居るのはあなたが一緒に居たいから。夏希もあなたと一緒に居たいから。そうじゃないの?」
「確かにそうですけど、一緒に居るから必然的に夏希を見てる時間も多くなるんですよ」
「……ふふ、素直じゃないのね」
また、さっきと同じ言葉を口にする母さん。
この人は、何か違うものが見えてる。そんな妄想に取りつかれてしまう。
俺本人ではなく、俺の中身、心、魂を見ているような感覚だ。こんな感覚、今まで一度だって感じたことはない。いったい、この人には何が見えてるんだ?
「じゃあ、私からの質問は終わりよ。ほかには何かある?」
そう俺に問うてきたが、残念ながらその問いに答えることはできない。
目の前にいるこの女性は、俺の中の奥深くまですべて見透かしている。そんな気がしてならない。いったい、なんでそんな風に思ってしまっているんだ……。