音蟲地獄
十月下旬。冬の足音が少しずつ聴こえ始めたある日。
一週間の取材旅行から帰った私は、庭で祖母が倒れているのを発見しました。
慌てて駆け寄り、肩を揺さぶって呼び掛けます。
「おばあちゃん! しっかりして下さい!」
ここ最近耳が遠くなった祖母に向かって、何度も何度も呼び掛けます。しかし、反応が返ってくる事はありませんでした。
雪で固めたように白くて冷たい肌が、永遠の眠りを物語っています。
私は、どうにかなってしまいそうな心を何とか押し止め、このままでは不憫だと、祖母の身体を抱き起こして家の中へ運ぼうとしました。
その時、祖母の耳から黒い点のようなものが出て来ました。目を凝らして見ると、それは虫でした。ざっと数えて三十はいます。
咄嗟に嫌悪感が沸き上がり、払い落とします。死臭を嗅ぎ付けて……そう考えた瞬間、私は天涯孤独になったのだと気付きました。
* * *
私、柳風助は、しがない物書きとして生計を立てておりました。我が家を訪ねて来るのは編集者か旧知の友ぐらいで、普段はほとんど人に会う事はありません。
遠くまで連なる山々。川のせせらぎ。澄んだ空気。田畑の土や稲穂の匂い。時の流れと共に彩なす季節の風景――そんな、辺鄙だけども自然に囲まれた心癒される地に、二十年余り暮らしています。成人すると都会に上京する若者が多いのですが、私の中で、祖母との思い出が詰まった家を離れるという選択肢はありませんでした。
私が産まれてまもなく病で他界した両親に代わり、ずっと私を育ててくれた祖母。そのたった一人の肉親も昨年亡くし、よりいっそう独りが浮き彫りになった私は、心が孤独で錆び付き、塞ぎ込む日々が続きました。
でも、そんな私を寂漠の海から救い上げてくれたのが、虫たちの奏でる音楽なのです。
築百五十年の古い平屋建ての家屋。その縁側で今日も私は独り、耳をそばだてます。薫風に乗って、夏を賑わす蝉や鈴虫、螽斯の鳴き声が耳に届き、心を和ませます。
しばし虫たちの合唱に寂しさを忘れ、酔い痴れる――いつしかそれが日課になっていました。
祖母というかけがえのない支えを喪って独りで過ごす夜は、それはもう長く、地獄に等しい虚無でした。あまりの静けさに心が凍え、寝床に潜り込んで震えながら、ひたすら朝になるのを待ちました。
しかし、夏は日も長い為いつまでも明るく、夜は虫たちの演奏する音楽で夢の中へと誘われ、いつの間にか朝の光が優しく私を出迎えてくれるのです。
世間から隔絶された世界で独り生きていると、時折、自分はもうこの世の人間ではないのではないかという錯覚に陥ります。でも、私はまだ現世にいると、虫たちが報らせてくれているように感じるのです。
永遠に季節が夏のままなら孤独感に苛まれずに済むのにと、私は願わずにはいられませんでした。
「お前さん、よくこんな騒々しい環境で物が書けるな」
真夏の昼下がり、旧知の友である更科惣次郎が訪ねて来ました。首に手ぬぐいをかけ、団扇で顔を扇いでいます。坊主頭に浅黒い肌。意志の強そうな力強い眉。いかにも夏が似合う外見にもかかわらず、彼は夏を最も苦手な季節と断言しています。
こうしていつも唐突に顔を出しては、大した用件もなく昼寝をして帰る事もしばしば。
私は原稿用紙から顔を上げて、縁側に座る友を見て答えます。
「少々騒がしい方が、落ち着いて書けるのだよ」
「少々ねぇ……。しっかし、幾ら仕事とはいえ家に篭りきりは身体に悪いぞ。相も変わらず線が細いし、日にも焼けとらんしな。ところで、この家は来客に茶も出さんのか?」
惣次郎が物欲しげにこちらを窺います。
「やれやれ、せっかく筆が乗り始めたというのに……」
私は文机に万年筆を置き、嘆息を吐いてから立ち上がると、台所に向かいました。湯を沸かし、古びた欅の戸棚から茶筒と茶菓子を取り出します。
そして、盆に湯呑みと茶菓子を乗せ、自分も一服するつもりで居間に行きました。
障子を開けると、惣次郎は自分で座布団を敷き、その上で胡座をかいて私の書きかけの原稿を読んでいました。
「感想は?」
私は座卓を挟んで彼と向かい合って座り、書評を訊きます。
「暇潰しにはちょうど良いな」
「そうか」
彼なりの褒め言葉に、私は口元を綻ばせました。
「時に風助、耳の具合はどうだ?」
惣次郎は原稿を置き、茶菓子として出した羊羹を爪楊枝で突き刺し、一口で納めます。
「ああ、今は鳴りやんでいる。心配ない」
私は手で軽く耳に触れ、薄く笑みを浮かべました。一月前から時々耳鳴りがしていたのですが、どうやら彼は気に病んでくれていたようです。
「やかまし過ぎるせいじゃないのか? 油蝉が暑苦しいったらないぞ」
惣次郎は忌ま忌ましそうに外の景色に視線を遣ります。開け放した障子の向こうに見える木々の中で、蝉たちが儚い命の音を響かせています。地上を焦がす太陽に負けないぐらい活気ある声で。
「私には快適な居場所だよ。元気をもらえる。それより惣次郎、仕事、今日は入っていないのか?」
私は茶を啜り、問いました。惣次郎は便利屋を営んでいて、朝、昼、晩、不定期に仕事の依頼が舞い込むのです。
「おっと、のんびりしてる場合じゃなかった。じゃあ、おれはこれで退散するとしよう。このまま留まっていたら、こっちの耳が壊れかねんしな」
惣次郎は茶を一気に飲み干すと、そそくさと立ち上がり、下駄を履いて去っていきました。まったく、何処までも風来坊な男です。
段々と虫たちの鳴き声も弱々しく嗄れていき、後ろ髪を引かれる想いで騒がしかった夏は過ぎていきました。そして、涼やかで物寂しい秋が深まり始めた頃、私の耳に異変が起きました。
ジジジ……ジジジ……。
そんな音が、微かに耳の奥から聴こえるのです。
また耳鳴りかと思い、しばらく放っておきました。執筆の締め切りに追われ、連日徹夜が続いていたので、疲れているせいだと言い聞かせて――。
しかし、一週間経ってもその音が鳴り止む事はありませんでした。その上、最初は囁き程度だったものが、確かな響きを持ったざわめきに変調したのです。
ジジジジジジ……ジジジジジジ……。
その音は、虫が翅と後脚を擦り合わせて出すような、螻蛄の鳴き声とよく似ていました。
堪らず耳を塞いでも音は萎まず、逆に膨張しました。咀嚼音がそうであるように。
つまり音は、私の体内で鳴っているという事です。
その内、耳にこびりついて離れなくなった音は耳から徐々に移動し、頭の方に這い上がっていきました。
まるで、外界の音を餌として喰らい、成長しているかのように生命力を感じます。
頭ノ中ニ虫ガ湧イテイル――。
嫌な想像が脳裏をかすめました。けれども、虫の存在が振動となって感じられるのです。脳内を這いずり回るむず痒い感触、翅の摩擦音、かさこそと歩く足音ですら耳障りに聴こえてくるのです。
あまりの五月蝿さに眠れない日々が続きました。
それでも私は、唯一抱えている連作小説に穴を開ける訳にはいかず、放置しました。
鬱陶しくて無意識に頭を叩いたり殴ったり掻きむしったりしましたが、虫の音は執拗に鳴り響きます。
やっと執筆が終わった頃には、動く事もままならなくなってしまい、私はいよいよ気が触れてしまうのではないかと恐怖しました。
そんな時、
「どジジジだいジジジジジジかジジジ」
頭を押さえてのたうちまわる私に誰かが呼び掛け、肩を揺すります。見上げると、惣次郎の顔がありました。でも、その頃には自然な音はおろか、人の声でさえ虫の音に掻き消されてほとんど聴き取れなくなっていました。
とにもかくにも、私は惣次郎に背負われて山を下り、村に一つしかない病院へ行き、医者に診てもらいました。
そして、診断の結果、確かに頭の中に虫がいる事が判明したのです。
私は、早速手術をしてくれるよう嘆願しました。このままだと、虫が奏でる殺人的な旋律に耳を潰され、頭を破壊されると恐れたのです。
* * *
「柳さん、聴こえますかな?」
私は、久しぶりに鼓膜を震わす人の声で目を覚ましました。白髪に白い口髭を蓄え、白衣を纏う初老の医師の姿が見えます。
「聴こえます。ああ、よかった。手術、成功したのですね」
私は心の底から安堵の声を漏らしました。
「大手術でしたので、経過を見つつ、しばらく入院してもらいますよ。頭の包帯も当分取れませんから、触らないように。外出も控えて下さい。それと……」
老医師が、私の眼前に透明な容器を持ってきます。その中には、黒く光る大豆程の小さな物体が二つありました。六本の脚に四枚の翅、二本の触角――粘液に絡まっていますが、それは虫の形をしています。
「いやはや、このような症例は初めてですよ。噂には聞いた事があるんですがね、まさか実際に存在するとは……驚きですな」
「噂?」
「この土地に古くから伝わる奇談なんですけどね。昔、音蟲病という奇病がありまして、何でもその病は、脳内に虫の形をした腫瘍ができるそうです。初期症状は耳鳴り、悪化すると頭の中でけたたましく虫の声に似た音が鳴り響き、仕舞いには腫瘍が破裂して死に至る。虫の形をした腫瘍で虫の鳴き声に似ているのが、音蟲病と呼ばれる所以だそうです」
私は怖気立ち、思わず顔をしかめます。あのまま放っておいたら、私は確実に音蟲に殺されていたでょう。
でも、おぼろげながら今の話を耳にした覚えがありました。幼い頃、祖母が話してくれた昔話――寂しき心が虫を呼び寄せ、孤独を消す音を響かせる……。
「こりゃ失敬。不安にさせてしまいましたな。大丈夫、虫はちゃんと取り除きましたから心配いりません。この虫は今後の研究材料として役立ちそうです。ああ、お薬ちゃんと飲んで下さいね。では、お大事に」
そう言うと、老医師はどこか曇りがちな笑顔を残して病室を後にしました。入れ代わりに惣次郎が入って来ます。果物の大きな盛り合わせを手に持って。
「死活問題だからって倒れるまで書く奴があるか」
惣次郎は粗雑に椅子に腰掛け、果物籠の中からりんごを取り出します。
「面目ない。感謝しているよ。君が来てくれなかったら、危うく死んでいたかもしれない」
「ほぉ、そんなに重い病だったのか。って事は、おれは命の恩人という訳だ。一つ貸しが出来たな」
惣次郎は得意満面な顔で、見舞いに持って来たはずのりんごを豪快に丸かじりします。
私はそんな友に苦笑しながらも、虫の音に依拠し過ぎていた己の弱さを恥じました。心の隙が、虫を呼び寄せたのです。
それにしても、以前どこかで目にした記憶があります。あの腫瘍である、音蟲を……。
その晩、私は久しぶりに熟睡しました。私の部屋は防音になっているらしく、静寂にくるまれて眠る事ができました。
以前は寂漠とした孤独に恐れを抱いておりましたが、今は無音が無性に心地好いです。
ところが、三日目の夜、異変が起きました。
ジ……ジ…………ジ……。
私は眼をかっと見開き、覚醒しました。
歪な音の振動――あの虫です。あの虫の鳴き声が、再び耳の奥から聴こえて来たのです。
しかし、神経が毛羽立ち、些細な音に対して過敏に反応しただけかもしれません。
私は確かめる事にしました。そっと両手で耳に蓋をします。
耳の奥で、か細い鳴き声がしました……。
翌日、私は老医師を問い質しました。
「音が、聴こえる?」
眉間に皺を寄せ、怪訝な顔をする老医師。
「はい、あの虫の鳴き声が」
「まさか……きっと幻聴でしょうな。手術は成功したんですから。耳に音が残っているだけですよ。薬もちゃんと飲んでおられるし、大丈夫です」
老医師は、すぐに剥がれ落ちそうな取り繕った笑顔を作ります。
「でも、まだ虫が頭の中にいるのではないかと不安で……」
私は額に手を当て項垂れます。
「柳さん、しっかりして下さい。まだ虫が、腫瘍が残っていたら、こうして会話など出来ないぐらい五月蝿くて堪らないはずです。気のせいなんですよ。薬を飲んでいれば、幻聴も聴こえなくなりますから」
老医師は私の肩にそっと手を置き、優しい声音で宥めます。まるで、言いくるめるかのように。
当然、私の心のもやが晴れる事はありませんでした。
老医師が、私の心の琴線に触れぬよう慎重に言葉を選び、配慮している機微が、ひしひしと伝わって来るのです。
その夜、私はなかなか寝付けませんでした。
老医師は何かを隠している……そんな気がしてならないのです。
私は上体を起こし、頭を手で撫でます。包帯の柔らかい感触がありました。顔を上げると、部屋に備えつけてある鏡が目に入り、その中にいる私と視線がぶつかりました。消灯を過ぎ、窓からの月明かりだけが部屋の輪郭を浮かび上がらせているせいか、顔が妙に青白く翳り、包帯の白が鈍く光って見えます。
私は蒲団を剥いで寝台から降り、吸い込まれるようにして鏡に近づきます。
本当に、手術は行われたのでしょうか? あの老医師が見せてくれた虫は、私の頭から取り除いた虫なのでしょうか……?
懐疑的な感情が渦巻き、私の手が頭部に伸びます。
手術をしたならば、手術跡が残っているはずです。
私は留め金をはずすと、ゆっくりとした動作で包帯を解き始めました。
もし残っていなければ、それは何を意味するのでしょうか……。
白い包帯は何重にも巻かれていて、なかなか中身が見えてきません。
もどかしい想いがひた走り、知らず巻き取る手が速くなります。
私は、狂っているのでしょうか。虫の音を聴き過ぎて、拠り所にし過ぎて、頭の中に居もしない虫を存在させてしまったのでしょうか。だから老医師は私を安心させる為に、ありもしない虫の手術をしたと言ったのでしょうか。
……私に、私が狂人だと悟られないように。
もう二度とあの踊り狂った音を聴きたくないと思う一方、どこか心の片隅で孤独を紛らす虫の声を求める狂った自分――。
冷や汗が垂れ、息遣いが荒くなり、心臓が痛いぐらいに自己主張を始めます。
ようやくすべての包帯が巻き取られ、頭皮が露出しました。
鏡の中には……縫った傷跡がくっきりと映っていました。
張り詰めていた気持ちが瞬時に萎み、私はその場にへたり込みました。
愚かしい思索をしたものです。幻想でも妄想の産物でもなく、本当に虫はいたのです。実態を持って。
私は狂ってなどいませんでした。老医師の言った通り、頭の中で残響していただけなのです。
しかし、安心したのも束の間――。
ジジジジジジジジジ……。
今度は、はっきりと聴こえました。私を嘲笑うかのように鳴り響きます。
しかも、規則的な旋律に混じって不規則に縮れた音が複数。
「どうして……どうしてまだ音蟲がいるんだ……」
そう呟いた瞬間、記憶の断片が舞い降りてきました。溶けかかった不安が再び恐怖で固まっていきます。
祖母が死んだ日。遺体を運ぼうとして、耳から這い出て来た虫がいました。老医師に見せてもらった音蟲と、同じ色形をした虫が……。
あの時は、死体にたかっているものだと思っていましたが、そうではなかったのです。
それでも、妙です。音蟲は生きていました。祖母の病気が音蟲病だったのだとしたら、腫瘍が破裂したのが死因のはず。
ただ、あの音蟲は私のものと比べ、大きさはごく微小でした。そう、まるで、産まれたてのような――。
全身にさあっと鳥肌が立ちました。
腫瘍である音蟲が本来の虫と変わりなく産卵するとしたら、この無数の鳴き声にも合点がいきます。
老医師は、虫は取り除けたものの、音蟲によって巣と化していた脳内から、卵を取り除く事はできなかったのではないでしょうか。そこにへばり付いた卵を切除しようとすれば、脳自体を損傷してしまう恐れがあります。だから、断念せざるを得なかったのでしょう。
渡された薬。あれは恐らく、卵の孵化を防ぐ沈静作用をもたらすもの。しかし、それが効力を発揮する事はなく、薬物治療は失敗に終わってしまいました。老医師は焦ったでしょう。だから隠したのです。これが私に露見すれば、私は……。
口元が緩み、掠れた笑い声が零れます。
可笑しくて仕方ありません。
それは、次第に乾いた哄笑へと姿を変え、部屋中に谺しました。
もうすぐ、もうすぐやって来るのです。永遠の夏が――。
もうすぐ賑わいの季節ですね(^_^)




