35歳の私が異世界で「大丈夫」をやめたら、助けてくれた冒険者に愛されました
それは、本当に何の前触れもない出来事だった。
楠麻由佳、35歳。
どこにでもいるごく普通の会社員で、仕事はそれなりに真面目にこなしているし人付き合いも悪くない。
料理だって特別上手くはないけれど下手でもなく、これといって人に誇れるような才能があるわけでもないが人に嫌われることもそうそうない。
特別に美人というわけでもなく、何ならぽっちゃり体系がコンプレックスなくらいだ。
何となく日常を過ごしているだけの平凡な独身人生を歩む善良な日本人である。
ただ、人に甘えることだけは、昔から少し苦手だった。
「楠さん、この資料お願いしてもいい?」
「はい、大丈夫ですよ」
「悪いんだけど、これ今日中に確認してもらえる?」
「もちろんです。大丈夫です」
「ごめんね、ちょっと手伝ってもらってもいい?」
「は~い、お任せください!」
誰かに頼られれば笑顔で引き受ける。
困っている人がいれば手を貸す。
それが麻由佳にとっては、ごく当たり前のことだった。
頼られることが嫌なわけではない。むしろ、自分が誰かの役に立てるのなら嬉しいと思う。
けれど、自分から誰かに助けを求めることだけは、どうしても上手くできなかった。
「……あれ?」
ふいに視界が暗くなり、麻由佳は自分の机に手を伸ばした。
少し前から何度か眩暈のような症状が出ていたが、大丈夫だろうといつものように誰にも何も言わずに過ごし、何とか残業を終えて事務所に戻ってきたところだった。
会議が長引いているのか、戻ってきていると思っていた上司もいない。
「ちょっと、待って……」
足元から力が抜ける。
何かがおかしいと思った次の瞬間には、身体を支えていたはずの床の感触さえ消えていた。
そして、次に目を開けた時。
そこには見慣れたオフィスも、使い慣れた事務所机もパソコンのモニターもなかった。
「……え?」
突然のことに思わず周囲を見渡すが、高く伸びた木々が頭上を覆って太陽を遮り湿った土と草の匂いが鼻をくすぐっている。
どこからともなく鳥とも獣ともつかない鳴き声まで遠くから聞こえてくる。
「…なに、ここ」
麻由佳は呆然としたものの、何とか意識を持ち直してスマートフォンを取り出した。
圏外。
地図アプリを開いても海のど真ん中を示していて使えない。
電話も繋がらない。
電池だけは十分に残っていることが、妙に現実的で逆に怖かった。
「ふぅー…落ち着いて」
麻由佳は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫。大丈夫。絶対大丈夫だよ」
大好きだった漫画のヒロインが無敵のおまじないとして呟いていた言葉。
昔から不安があると自分も口ずさむようになっていたが、大人になった今でもその癖は残っている。
三十路も越えている大人なのだから、突然のことでパニックになって泣き出すなんて子どもみたいなことはしないようにしよう。
そう思いながら、深呼吸を繰り返す。
ふと最近よく読んでいる異世界召喚ものの小説が頭をよぎった。
異世界へ召喚された主人公が特別な力を授かり、王子様や騎士に見初められて夢のような生活を送るお話だ。
けれど、それはあくまで物語だ。
自分はもうおばさんと呼ばれるような年齢なうえ何の才能もない普通の会社員なのだから、そんな都合のいいことが起こるはずがない。
「…とにかく、人を探さないと。誰かに会えればきっと何とかなる」
そう自分を鼓舞して、麻由佳は森の中を歩き始めた。
ただ、アウトドアの知識などほとんどない麻由佳にこんな場所でできることは限られていた。
悪天候の時は山で遭難したら川を下ってはいけない。
それくらいの知識はあったが、そもそも川がどこにあるのかも分からない。
歩いても歩いても景色は変わらず、見たことのない植物が視界に拡がるばかりで、時間の感覚さえ分からなくなってくる。
移動しながら自分がつけていた印を見つけ、いつの間にか最初の場所に戻ってきてしまったことに気がついた麻由佳は、とうとう木の根元に座り込んでしまった。
「……もう、無理。どうすればいいの…?」
返事なんてない。
「帰りたい…」
その言葉を口にした瞬間、堪えていたものが崩れた。
涙が次々と溢れ、何度拭っても視界が滲んでいく。
「私、どうしたら……」
その時だった。
「――そこで何をしている?」
突然聞こえた低い声に、麻由佳はびくりと肩を震わせた。
顔を上げると、少し離れた場所に無精ひげを生やした一人の男が立っている。
1本の剣を背負い、ファンタジー世界の冒険者とも魔術師ともみえるような衣装に身を包んでいた。
銀色に近いブルーグレーの髪が僅かな木漏れ日に淡く光り、鋭い印象の深い緑の瞳がこちらを見つめていた。
怖いと思った。
けれど、それ以上に人を見つけたことへの安堵感が胸を満たしていた。
「……人、ですか?」
「そうだ」
男はこちらを怯えさせないようにしてくれているのか、剣に手をかけることなく一定の距離を保っている。
「警戒しなくていい」
「でも……」
「大丈夫だ」
その声は低いのに、不思議なくらい穏やかだった。
「俺はあんたを傷つけない」
「……」
「一人か?」
「……分かりません」
「分からない?」
「気がついたら、ここにいて…何も分からなくて……」
また涙が零れそうになるのをグッと堪える。
男は少しだけ眉を寄せ、それ以上は何も聞かなかった。
「そうか」
短い返事だけれど、その声には困惑よりも心配が滲んでいるように感じた。
そしてしばらく彼女を見つめたあと、ゆっくりと近づき手を差し出した。
「立てるか?」
「……たぶん」
「なら、掴まれ」
大きな手だった。
知らない人だし、本当ならもっと警戒するべきなのだろう。
それでもその人の声を聞いていると、どうしても縋りたくなった。
「……大丈夫、ですか?」
「何がだ?」
「私……」
何を言いたいのか、自分でも分からなかった。
ただ、この世界で何も知らない自分をこの人に預けてもいいものか尋ねたかった。
そもそも本人に聞くのもおかしな話なのだが、この時の彼女はそんなことを考える余裕もなかったのだ。
男は一瞬だけ目を細め、それから迷いなく答えた。
「大丈夫だ。俺に任せろ」
その言葉を聞いた麻由佳は、無意識にその大きく無骨な手に自分の手を重ねていた。
次の瞬間、ぐんっと腕を引き寄せられたかと思えば身体がふわりと浮いた。
「え……?」
「歩けそうにないだろ」
「ちょ、ちょっと待ってください、私、歩けます!」
「さっき座り込んでいただろう」
「……」
言い返せない。
正直パンプスで森を歩き回ったせいで脚は限界だった。
男は麻由佳を横抱きにしたまま、何事もなかったように森を進み始めた。
「重くないですか?」
「重くない」
「でも……」
「気にするな」
「……すみません」
「謝る必要もない」
その人の名前は、ジルフォード。
37歳の未婚男性で、グランウェル・ローズベルト辺境伯が治める領地で活動するソロのB級冒険者だった。
本来ならA級、それもS級に近い実力を持っていて、剣も魔法も使いこなし一人で高難度の依頼をこなせるほどの腕前らしい。
だがジルフォードは、拠点にしている辺境の街を治めるグランウェル以外の貴族から指名依頼を受けることを嫌っている。
そのため、面倒な貴族との縁を増やさないために、あえてソロのB級冒険者でいることを選んでいるようだ。
けれど、この時の麻由佳が知っていたのは、彼が何者なのかではない。
「大丈夫だ」
森の中で聞いた、耳触りの良いどこか優しさを感じるその声だけだった。
***
「……渡り人」
街へ連れ帰られた麻由佳は、役人からこの世界では稀に異世界から人間が突然現れることがあり、その人々を「渡り人」と呼んでいるのだと教えられた。
その言葉を聞いた時、麻由佳は少しだけ期待してしまった。
自分と同じように突然この世界へ来た人が過去にいるのなら、元の世界へ帰る方法があるのではないか。
そう思ったのだ。
けれど、続けて告げられた言葉に、その淡い期待はあっけなく打ち砕かれた。
「確かに過去に渡り人が現れた記録は多数あります。ただ、他国の公開記録を含めて元の世界へ戻れたと確認できた方は今のところ存在しません」
「…帰れた人は、いない?」
「はい」
正直その後どのような話をしたのか曖昧だった。
手を引かれるままにジルフォードが手配してくれた宿に向かい、気が付いた時には麻由佳は一人で布団にくるまり、声を殺して泣いていた。
帰れない。
その言葉が頭から離れなかった。
日本に置いてきた家族や友人、慣れ親しんだ街、当たり前だと思っていた日常だけでなく、恒例行事のように毎朝起きる度に行きたくない働きたくないと冗談交じりにぼやいていた会社でさえも今は恋しい。
それらすべてが、もう二度と手の届かない場所になってしまったのかもしれない。
そう思うと、絶え間なく溢れる涙を止めることができなかった。
「……帰りたい」
そう呟いても、返事をしてくれる人はいない。
大丈夫だと自分に言い聞かせようとしても、この時ばかりはその言葉を口に出すことができなかった。
手続きや今後のことを考えるのはもう少し落ち着いてから、3日後にしようとなったがその間も麻由佳は夜になると一人で泣いていた。
昼間はできるだけ笑って心配をかけないようにしていたけれど、部屋の扉を閉めて一人になると寂しさと不安が押し寄せてきた。
それでも朝になれば涙を拭いて、何事もなかったように笑う。
「大丈夫です」
そう言ってしまうのは、この世界で生きていくためにも泣いてばかりはいられないと思ったからだった。
***
せめて知っている人物、ジルフォードがいるこの街で生活することを決めて居住登録をするため再び役人を訪ねた。
彼女の名前である「麻由佳」は、この世界の人間には発音が難しいらしい。
「マニュカ……?」
「うーん、発音しづらいですね」
「マリュー……」
隣で何度か口にしてみたジルフォードが、少し考えるように黙り込む。
「……マリューシカ、ならどうだ」
「マリューシカ?」
「ああ。元の名前とは少し違うが、この世界の人間でも呼びやすいだろう」
「ふふ…可愛い名前ですね」
思いがけない提案と自分には可愛すぎるのでは?と思える響きに顔がほころびそう口にすると、ジルフォードは小さく微笑み頷いた。
「なら、それでいいな」
たったそれだけのやり取りだった。
けれど麻由佳の胸には、じんわりと温かなものが広がっていった。
自分はこの世界の人間ではない。
突然現れて、帰る場所さえ失ったここでは異物のような存在なのだと思っていた。
だからこそ、自分の名前をこの世界の人が呼びやすい形にしてくれたことが、妙に嬉しかった。
「ここにいてもいい」と、そう言ってもらえたような気がしたのだ。
「……ありがとうございます、ジルさん」
「何がだ?」
「なんとなく…嬉しくて」
自分でも上手く説明できず、麻由佳は照れたように笑った。
ジルフォードはそんな彼女を少し不思議そうに見つめたあと、何も言わずに頷いた。
こうして麻由佳は、この世界では「マリューシカ」ないし「マリィ」と呼ばれることになった。
***
「リュシー、こっちだ」
「はい、ジルさん」
そんな何気ないやり取りを繰り返すうちに、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
いつからか、ジルフォードだけは彼女を「リュシー」と呼ぶようになった。
ジルフォードは、右も左も分からない麻由佳の生活を何かと気にかけてくれた。
街を案内し、食べられるものを教えギルドの仕組みを説明し、時には料理まで作ってくれた。
「……すごい」
「何がだ」
「ジルさん、料理上手ですね」
「普通に作っただけだ」
「私より上手なのでは?」
「なら、覚えればいい」
「……教えてくれます?」
「ああ」
そうやって甘やかされているうちに、麻由佳は少しずつこの世界での生活を覚えていった。
そして同時に、いつまでもジルフォードに頼っているわけにはいかないと思うようになった。
「もう大丈夫です」
「何がだ?」
「私、一人で生活できます」
「……そうか」
「宿舎も用意してもらいましたし、ギルドでの仕事も紹介してもらえましたから」
「無理はするな」
「していませんよ」
麻由佳は笑った。
「私、もう35歳ですよ?」
「それがどうした」
「子どもじゃないですから」
「知っている」
「だから、自分のことくらい自分でできます」
ジルフォードは何か言いたそうにしたが、結局それ以上は口を出さなかった。
「……困った時は呼べ」
「はい」
麻由佳は笑って頷いた。
けれど、「助けて」と言うその言葉を実際に使うことはなかった。
ギルドで働き始めてから、麻由佳は必死だった。
異世界で生きていくため、誰にも迷惑をかけないため、もう誰かに助けてもらわなくてもいいようにするため、頼まれた仕事は笑顔で引き受け、少しくらい疲れていても「大丈夫です」と答えた。
「マリィ、この書類お願い」
「はい」
「助かるよ」
「いえいえ」
「最近忙しいけど大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
いつも笑顔でいつも滞りなく当たり障りのないように。
いつも大丈夫。問題ない。
そうしているうちに、身体も心も少しずつ限界へ近づいていたが麻由佳自身は気がついていなかった。
そして休みをもらった日の夜、部屋で立ち上がった瞬間に身体がふらついた。
「……あれ」
ピントが合わない視界を閉じてベッドに手をつく。
「ちょっと疲れただけ…」
そう思った。
けれど翌日になっても身体は重く、昼を過ぎる頃には熱っぽさまで出ていた。
それでも麻由佳は誰にも連絡できなかった。
「寝てればきっと明日には治るはず…」
布団に潜り込む。
けれど、寒い。
身体が震える。
頭がぼんやりする。
この世界特有の病気だったらどうしよう。
このまま誰にも気がつかれなかったらどうしよう。
そもそも、ここには自分を気にかけてくれていた家族も友人もいない。
そうだった、日本に帰る方法さえ分からないんだ。帰れないんだ。
「……こわい」
ぽろりと涙が落ちた。
「……さむい」
布団を頭まで被る。
「こわい……さみしい……」
誰もいない。
当然だった。
自分から誰にも頼らなかったのだから。
「……たすけて」
溢れ出る涙を止めるすべさえ知らない小さな声は、静かな部屋の中へ消えていった。
***
翌日の出社時間になっても、麻由佳はギルドへ姿を見せなかった。
「……マリィ、まだ来てない?」
受付の職員が時計を見ながら呟いた。
「来てませんね」
別の職員も入口を見る。
「昨日と一昨日は休みでしたよね。今日は出てくる予定だったはずですけど」
「ああ。マリィが連絡なしで休むなんて」
「寝坊……という感じでもないですよね」
「うん。あの子、寝坊はおろか遅刻何てしたことないもの。それに何かあれば必ず連絡があるだろうし」
職員たちは顔を見合わせた。
「宿舎に様子を見に行った方がいいんじゃないですか?」
「そうだな。でも、今日は人手が足りなくて……」
そこへ、依頼掲示板を確認しに来たジルフォードが入ってきた。
「ジルフォードさん」
声をかけられ、ジルフォードが振り返る。
「どうした」
「少し、お願いしたいことがあるんですが」
「俺に?」
「はい。……マリィのことで」
ジルフォードの表情が僅かに変わった。
「リュシーがどうした」
「今日、出社していないんです」
「休みじゃないのか?」
「休みの予定は昨日までで、今日は出てくることになっていました」
「今朝連絡は?」
「ありません」
「昨日までに誰かに連絡は来てないのか?」
「それもありません」
ジルフォードは黙った。
「ご存じだとは思うんですが、無断で休むような子じゃないんです。むしろ、多少具合が悪くても『大丈夫です』と言って出てくるくらいなので…」
「……それなのに、今日は来ていない」
「はい」
別の職員が不安そうに続けた。
「私たちも一度宿舎へ行こうかと思ったんですが、今ちょうど受付を離れられなくて…」
「合鍵は?」
「もしもの時にと、管理側から預かっているものがあります」
職員が鍵を取り出した。
「渡り人は身寄りもいない状態なので、マリィには緊急時にはこれを使うことがあると事前に説明はしてあります」
「貸せ」
「はい」
ジルフォードは鍵を受け取った。
「……ジルフォードさん」
「なんだ」
「何かあったら、すぐに知らせてください」
「ああ」
「その……マリィ、最近少し疲れているようには見えたんです」
「どういうことだ?」
「仕事中は普通でした。ただ、ここ最近は『大丈夫です』と言う回数が増えていて…」
その言葉に、ジルフォードの眉が寄る。
「いつも言っていただろう」
「そうなんです。でも、最近は聞くたびに少し無理をしているように見えて」
「……そうか」
「だから、体調を少し崩しているだけで大事ないならいいんですが」
「分かった。様子を見てくる」
それだけ言うと、ジルフォードはギルドを出た。
***
宿舎へ着き、扉の前に立つ。
「リュシー」
返事はない。
もう一度、ノックをしてから少し強めに声をかける。
「俺だ。ジルフォードだ。いないのか?開けるぞ?」
鍵を使って扉を開けても物音ひとつしない静寂が返ってくる。
嫌な予感がした。
直ぐに奥の部屋へと向かう。
「リュシー!」
部屋の中へ入ったジルフォードの目に飛び込んできたのは、床にうずくまって倒れている麻由佳の姿だった。
ベッドから落ちてしまったのだろうか、駆け寄り身体を抱き起こす。
「……っ……おい、リュシー」
身体に触れた瞬間、異常な熱さに気がついた。
「こんなになるまで……」
麻由佳を抱き上げてベッドへ横たえる。
「医者を呼ぶ」
一度ギルドへ戻って手配しようと傍を離れようとした、その時だった。
「……いかないで」
か細い声とともに服の裾を弱々しい力で掴まれたのが分かり、ジルフォードが動きを止める。
「リュシー?」
「……ひとり、やだ……」
辛うじて開かれた瞳からは涙が溢れて息も荒いが、麻由佳は彼の服を離さない。
ジルフォードは目を見開いた。
彼女はいつだって笑っていた。
何を頼んでも「大丈夫です」と言い、困っていることはないかと聞いても「大丈夫です」と答え、右も左も分からない状態を受け入れ、できないことさえできるようになるまで一人で頑張っていた。
そんな彼女が今、初めて出逢った時のように涙を流して自分に縋っている。
「……分かった」
ジルフォードはもう一度ベッドへ腰を下ろし、麻由佳の身体をそっと抱き寄せた。
「大丈夫だ」
背中を撫でる。
「どこにも行かない」
「……ほんと?」
「ああ」
彼は空いた手に魔力を集めた。
淡い光が小さな鳥の形へ変わり、窓から飛び立っていく。
医師を呼ぶための伝令魔法だった。
「……さむい」
「大丈夫だ」
「こわい……」
「大丈夫だ」
「……たすけて」
「ああ。大丈夫だ、俺がいる」
医者が来るまで、ジルフォードは何度でも同じ言葉を繰り返した。
麻由佳が「怖い」と言えば「大丈夫だ」と答え、寒いと言えば毛布を重ね、震えれば抱き寄せ、眠りながらも「行かないで」と呟けば「ここにいる」と返した。
やがて医師が到着し、診察を終える。
「大きな病気ではありません」
「本当か?」
「はい。高熱は出ていますが、日々の疲労と心労が重なったことが原因でしょう。身体だけでなく、精神的にもかなり無理をしていたようです」
「……そうか」
「しばらく安静にさせてください。食事と水分をきちんと取らせて、眠らせることです」
「分かった」
「付き添いの方は?」
「俺がいる」
即答だった。
その日から、ジルフォードは麻由佳の看病を続けた。
薬を飲ませ、水を替え、食事を作り、熱を確認し、眠っている彼女の額に手を当てる。
そして眠りながら「こわい」と呟く麻由佳を抱きしめ、何度でも「大丈夫だ」と頭を撫でた。
眠る彼女を見つめながら、ジルフォードはようやく理解した。
彼女はずっと、一人で頑張っていたのだ。
誰にも迷惑をかけまいとして、弱音を吐かず、ジルフォードを頼ることすらしなかった。
森で初めて出逢った時はあれほど怯えていたのに、少し慣れた頃には「もう大丈夫」と笑っていた。
街で暮らし始めてからも、何かあるたびに「大丈夫です」と言っていた。
けれど本当は、ずっと怖かったのだ。
寂しかったのだ。
それでも一人で生きようとしていた。
「……リュシー」
眠る彼女の頬にかかった髪を、ジルフォードは指先でそっと払った。
熱は少しずつ下がってきている。
それでもまだ顔色は悪く、時折苦しそうに眉を寄せる姿を見ていると安心するには早いと思えてならなかった。
「もう、放っておけないな」
小さく呟いた声は、眠っている彼女には届かない。
けれど、その言葉を口にしたことで、ジルフォード自身の中では何かがはっきりと決まった気がした。
最初は、ただの「渡り人」の1人でしかなかった。
見知らぬ森で途方に暮れていた、人畜無害そうな女。
それが危なっかしくて、放っておけなかっただけだと思っていた。
街へ連れ帰った後も、右も左も分からない彼女が困らないように生活に必要なことを教えてやっただけだった。
文字を覚えるのを手伝ったのも、街を案内したのも、食事を作ってやったのも、異世界へ突然放り出された人間なら当然必要なことだと思っていた。
けれど、今になって思えば自分でも気が付かないうちに少しずつ理由が変わっていたのだろう。
彼女が「ジルさん」と呼ぶ声を聞くのが好きだった。
自分を見つけると安心したように笑う顔が好きだった。
何かを教えると嬉しそうに頷き、失敗すると少し悔しそうに眉を寄せる姿を見るのも好きだった。
そして何より、どれだけ疲れていても「大丈夫です」と笑う彼女を見ていると、なぜか胸の奥がざわついた。
大丈夫なわけがない。
そう思っていたのに、分かっていた筈なのに本人がそう言うのだからと、無理に踏み込むことはしなかった。
彼女には彼女の生き方がある。
そう思っていたからだ。
けれど、今は違う。
目の前で震えながら、自分の服を掴んで「行かないで」と自分に縋った彼女を知ってしまった。
「……一人で大丈夫なわけがないだろう」
眠る麻由佳の手を取る。
その手は、普段よりずっと小さく感じられた。
「こんなになるまで我慢して……」
怒っているわけではない。
むしろ、自分自身に対する苛立ちだった。
もっと早く気がつけたはずだった。
もっと強引にでも頼らせればよかった。
彼女が笑っているからと、それを「大丈夫」だと判断してしまった自分が悔しかった。
「……もう、無理をさせるつもりはない」
返事はない。
それでもジルフォードは、眠る彼女へ言い聞かせるように続けた。
「俺を頼れ」
彼女の髪をゆっくり撫でる。
「困ったら呼べ。寂しいなら、そう言え」
それは今まで何度も言おうと思って、言えなかった言葉だった。
「……俺は、お前が思っているほど頼りない男じゃない」
少しだけ苦笑する。
「だから、少しくらい俺に任せろ」
それから数日。
麻由佳の熱はゆっくりと下がっていき、ようやく目を覚ました。
「……ん」
ぼんやりと天井を見上げ、麻由佳は何度か瞬きをする。
身体は重いままだけれど、あのひどい寒気はなくなっていた。
「あれ……」
「起きたか」
聞き慣れた声に顔を向ける。
そこには椅子に座ったジルフォードがいた。
「……ジルさん?」
「ああ」
「……ずっと、いたんですか?」
「そうだ」
あまりにも当然のように答えられて、麻由佳は目を瞬かせる。
「お仕事は……?」
「休んだ」
「えっ」
思わず身体を起こそうとすると、ジルフォードがすぐに肩へ手を添えた。
「まだ起き上がるな」
「でも……」
「医者からも言われている。しばらく安静にしていろ」
「……はい」
大人しく横になる。
けれど、麻由佳は尋ねずにはいられなかった。
「…仕事を休んだんですか?」
「そうだ」
「どうして……」
「お前の方が大事だからだ」
その言葉があまりにも迷いなく出てきたため、麻由佳は言葉を失った。
胸の奥が、妙にくすぐったい。
「……そんなこと、言わないでください」
「なぜだ?」
「困ります」
「俺は困らない」
「そういう問題じゃなくて…」
麻由佳は視線を逸らした。
自分は三十路をとうに超えた大人だ。
それに日本から突然この世界へやって来た、ただの渡り人。
特別な力があるわけでもなく、美人でもないし若くもない。
そんな自分に向けられる純粋な優しさを、どこまで受け取っていいのか分からなかった。
「……私、35歳ですよ」
「知っている」
「この世界の人間でもありません」
「それも知っている」
「美人でも若くもないし……」
そこでようやく、ジルフォードの表情が変わった。
「リュシー」
「……はい」
「俺が何歳に見える?」
突然そんなことを聞かれて、麻由佳は戸惑いながら彼を見る。
そう言えば彼の年齢など気にしていなかった。
「……少し年上、くらい?」
「その通りだ」
ジルフォードは少しだけ眉を上げた。
「俺も若くない」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「なら、何が問題なんだ?」
麻由佳は言葉に詰まった。
自分でも、何が問題なのか上手く説明できない。
ただ、自分には物語の主人公のような恋愛なんて似合わないと思っていた。
若い女の子ならともかく、自分はもうおばさんと呼ばれてもおかしくない年齢なのだから。
異世界へ来たからといって、突然人生が輝き始めるわけではない。
そう思っていた。
「……私、普通ですよ」
やっと絞り出した言葉に、ジルフォードは静かに彼女を見つめた。
「料理だって特別上手じゃないし、魔法も使えないし、冒険者みたいに強くもないし」
「必要ない」
「え?」
「そんなものは、お前を好きになる理由にも、ならない理由にもならない」
低く穏やかな声だった。
「俺が好きになったのは、お前だ」
麻由佳の心臓が大きく跳ねた。
「……え?」
思わず聞き返す。
けれど、ジルフォードは視線を逸らさなかった。
「お前が何歳だろうと関係ない」
一言ずつ、確かめるように言う。
「渡り人だろうと関係ない」
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「俺が好きになったのは、今目の前にいるリュシーだ」
胸がいっぱいになって、何も言えなくなる。
嬉しい。
けれど同時に、怖かった。
こんなにも真っ直ぐな気持ちを向けられた経験などない。
どう返せばいいのか分からない。
「返事は今すぐじゃなくていい」
「…いいんですか?」
ジルフォードはそう答えた。
「お前は今まで、ずっと一人で抱え込んで頑張ってきたんだろう」
その言葉に、麻由佳は黙り込む。
「だから、お前が落ち着いて俺を見てくれるまで待っている」
「……ずるいです」
「そうか?」
「そんな言い方されたら……」
言葉が続かない。
涙がまた目の奥に溜まっていく。
するとジルフォードは困ったように息を吐き、手を伸ばした。
「泣くな」
「泣いてません」
「泣いている」
「……ジルさんのせいです」
「そうか」
怒るでもなく、困るでもなく、ジルフォードはただ優しく彼女の頭を撫でた。
その手の温かさに触れていると、また胸の奥に溜め込んでいたものが少しずつほどけていく。
「……俺を頼れ」
「……」
「今までのように一人で頑張る必要はない」
「でも……」
「でも、じゃない」
少しだけ強い声だった。
けれど、その声に怖さはなかった。
「お前が困っているのに、俺が何もできない方が嫌だ」
「……」
「だから、甘えろ」
「甘えるの、苦手です」
「知っている」
「…どうしたらいいか分からないです」
「なら、これから覚えればいい」
ジルフォードはそう言って、少しだけ腕を広げた。
「まずは、俺に寄りかかるところから始めろ」
麻由佳は目を瞬かせた。
「……それだけ?」
「ああ」
「簡単すぎません?しかも物理」
「お前には、それくらいでいい」
その言葉に、麻由佳は思わず小さく笑った。
笑いながら、少しだけ身体を起こす。
そして迷いながら、彼の胸へ身体を預けた。
大きな腕が背中へ回る。
それだけで、不思議なほど安心した。
「……ジルさん」
「なんだ」
「大丈夫って、言ってください」
ジルフォードは一瞬、驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに目を細め、その瞳にどこか愛おしむような色を浮かべた。
そして、森の中で初めて彼女へ手を差し出した時と同じ声で答える。
「大丈夫だ」
背中をゆっくり撫でる。
「俺がいる」
麻由佳は目を閉じた。
その言葉を聞いていると、今まで胸の奥に張りつめていたものが少しずつ溶けていくようだった。
もう、一人で頑張らなくてもいいのかもしれない。
何もかも全部自分で背負わなくても、誰かに頼ってもいいのかもしれない。
そう思えるようになっただけで、胸が少し軽くなった。
「……じゃあ」
しばらく黙っていた麻由佳が、小さな声で言う。
「甘えても、いいですか?」
ジルフォードは答える代わりに、彼女を抱く腕へ少しだけ力を込めた。
「ああ」
耳元へ落ちてくる声は、どこまでも優しい。
「いくらでも甘えろ」
その言葉に、麻由佳は自然と顔がほころんだ。
森の中で一人きりになった時には、こんな未来が待っているなんて思わなかった。
自分はもう大人だから。
異世界の人間だから。
特別な力なんて何もないから。
そんな理由を並べて、恋なんて自分には関係のないものだと思っていた。
けれど、恋は年齢や生まれた場所を選ばないのかもしれない。
誰かに頼ることも、甘えることも、もう遅いと思っていた。
そんな麻由佳の前に現れたのが、何度でも「大丈夫だ」と言ってくれる人だった。
「リュシー」
「はい?」
「明日は仕事を休め」
「えっ」
「まだ本調子じゃない」
「でも、もう熱も下がりましたし……」
「駄目だ」
「……ジルさん」
「なんだ」
「過保護です」
「そうかもしれない」
「困った人ですね」
「お互い様だろう」
そう言って笑う彼の胸元で、麻由佳も久しぶりに心から笑った。
一人で頑張ることしか知らなかった彼女が、この世界に来て初めて誰かに甘えることを覚えた日。
そしてジルフォードが、彼女をもう二度と一人にはしないと決めた日。
それが、二人の恋の始まりだった。
***
そして、この世界では発音することが難しかった「麻由佳」という名前を、ジルフォードが何度も何度も練習している姿を見かけるのはもう少し先の話。
「……マ…ユ…カ」
最初はぎこちなく、何度も言い直しながら。
「マリュカ……いや、マユ、カ」
それでも諦めずに練習する彼を見て、麻由佳が絆される日がきっと来るだろう。
そして「マリューシカ」と「麻由佳」――二つの名前を愛おしそうに呼びながら、これから先の未来を共に歩いてほしいとジルフォードが告げる日が来るのも、近い未来のことかもしれない。
けれどその時の彼女はきっと、もう「私はここにいていいのだろうか」なんて迷うことはないだろう。
だって、彼の隣こそが自分の帰る場所になっているのだから。
最後までご覧いただきありがとうございました!
なろう小説にどハマりしてしまい、日々読み漁りまくっているうちに自分でも書きたくなってしまいました。
二次創作で台詞のみのなんちゃって小説を赴くままに書いたことはあるものの
一次創作で書き上げたのは初めてで、拙い部分も多いと思いますが自分が読みたい内容を詰め込めて満足しています。
少しでも愉しんでもらえると嬉しいです。




