第15話 親愛と恋愛の境界に関して
夕食を終え、各々が部屋に戻った夜中。攪真は弦の部屋を叩いた。最早最近は日課となりつつある介抱のため、彼の部屋に行くことに躊躇いはない。
ただ今は介抱のためとは言い切れなかった。静かに扉を開けて中に足を踏み入れる。
部屋の中は真っ暗で、もう寝ようとしている事が伺えた。廊下の光を背に浴びて部屋に自分の形の影が落ちる。――寝ようとしてる相手に話しかけるのか、自分勝手な悩みで。その事実に後ろめたさを感じたが、でも今聴いて欲しい。言葉にならない自分の悩みを。
「なぁ、弦……相談に乗って欲しいんやけど」
口を吐いたのは自分でも笑いたくなる程の震えた声。一歩踏み出すと丸くなっていた毛布が動いた。そして部屋の主人と目が合った。
「どうしたの、攪真……。ほら、こっちおいで」
その震える声に只事ではないと思い、弦は手招きした。上体を起こし、ベッドの縁にスペースを開ける。
誘われるように攪真はベッドの縁に座る。ただ座ってからは少しの沈黙。
弦はただ話し出されるのを待った。暗い部屋の中では攪真の表情を窺い知ることもできなかったが、その丸められた背中からは重い雰囲気を感じる。
「……俺、自分の気持ちがわからん……織理が好きやったはずなのに、前ほどの感情が湧かんのや……あんな、アンタを壊してまで欲しかったはずなのに」
先ほど在琉に言われた言葉がずっと尾を引いている。否定したいのに否定できない。そして相談できるのは結局弦しかいない。弦なら笑わないで聞いてくれる確信がある、それどころか優しく包んでくれるのではないかと言う下心すらある。こんな事だから在琉に鞍替え云々と言われるのだろう。
――思い返すはあの嵐のような日々、他の人間に嫉妬して、織理には嫉妬して欲しくて。けれどそれも叶わなくて。
弦になりたかった、在琉が邪魔だった、織理に自分だけを見て欲しかった。そんな激情に包まれた日々。それが嘘のように今は落ち着いてしまった。織理は自分の物にならなかったと言うのに、まるで何かを手にした後かの様に落ち着いてしまった。
――もしもあれが一時的な気持ちだとしたら、自分はなんで最低な男なのだろう。織理の選択肢を奪うために同棲を切り出したのに。それによって初期は織理も追い詰められていたと言うのに。更には一時の激情で弦に重い後遺症を負わせたのに。
攪真の頭には自分への失望が浮かんでいた。せめてどれかをやり切って仕舞えばこの感情も納得できたと言う物を。行動全てに一貫性がない。何も得ていないのに、より悪い方へと結果は出ている。そう彼は思ってしまうのだ。
思い詰めたように手を握りしめる攪真の頭に、弦は手を伸ばす。そのままゆっくりと自身の肩へともたれかからせた。
甘いシャンプーの香りが攪真の鼻を擽る。脳裏に織理がちらつく。
「……なぁ……俺は弦のこと、好きになってしもうたんか? だから織理に飽きて……?」
在琉に言われた「弦への鞍替え」。それを笑い飛ばせないくらい、確かにと思ってしまったのが事実だった。こんな面倒くさい彼女の様なやり取りを、この男に向けている時点で否定できないこともわかっている。でも否定して欲しかった。そうじゃないと言って欲しい。
だが返された答えは欲しいものと少し違った。
「それは知らないけど……。ただ、攪真は優しいし、責任感がある子だから……俺のこの状態見て、織理への欲を抱けるほどの余裕がないだけなんじゃない?」
その言葉に攪真は無意識に唇を噛み締める。それはどこまでも攪真を悪者にしない答えだった。寧ろ優しいと言ってのける。――嬉しいのに、苦しい。
「弦……アンタは、なんでそう……」
もっと拒んで欲しい。攪真のせいでこんな体になったと責めて欲しい。もしくはそれでも俺を好きだからと世迷言でも垂れてくれたなら行き場があるのに。
弦からすればこの答えは間違っていないと思っている。言ってしまえば罪悪感から始まった関係。あの日から攪真が織理との距離を測りかねていることなど当然知っているし、だからと言って自身に好意を寄せているわけではないことも分かっている。要は吊り橋効果の様な物だ。――攪真は責任感が強いし面倒見が良い。関わりすぎると相手に情を持ってしまうのは誰でも一緒だが、その中で情の区別が付いていないのだろう、と。
恋愛感情を持たれている、とは思えなかった。どちらかと言えば親に対する甘えに近いのではないかと思える。同じ愛でも質が違う。ただそれがどこから何処までを恋愛感情とするか、は結局本人次第になってしまうのだろうか。弦はその難しい区分に、言語化は避けた。ただ分かっていることだけを言葉にする。
「大丈夫、攪真……攪真は自分の欲よりも人への心配を優先できているだけ」
ぽんぽんと背中を軽く叩く。攪真は姿勢を変えて弦の胸元に顔を押し付けた。そうでもしないと叫んでしまいそうだった、泣いてしまいそうだった。
「俺が元通りになれば、攪真は織理のことまた追えるようになるよ」
背を軽く叩きながら弦は優しく心掛けて伝える。その声は子供を寝かしつけるかのように落ち着いていた。
――元通りになれば。でも本当に元に戻れるのだろうか。まるで全部の原因を自分に作るかの様な弦の物言いに顔を顰める。何一つ否定されない、このみっともない姿すら受け入れようとしてくれている。
「弦……アンタは優しすぎる。だから……、俺はアンタを代わりにしてしまうんや」
「代わりにできるならすればいい。でも……攪真はきっと、織理の前では格好つけて居たくて、弱さを見せられないから辛くなっているだけだと思うよ。織理に嫌われたくないから、俺に全部吐き出してるだけ」
攪真は黙る。なんでも見透かしてくるこの人に、ただ体を預けるしかない。攪真の心を、攪真本人よりも分かっているかの様に言葉にする彼に甘えてしまう。
――織理の代わりにしていい、だから自分は織理に対しての情を向けてしまっているのか? そんな都合のいい考えが頭に浮かぶ。弦は自分を肯定してくれる。自分の欲しい言葉を、こうして掛けてくれる。そこに計算も何も感じられず、この人の本心なのだろうと思わされるから余計に苦しかった。
自分の心がわからない、だから弦の言葉が本当に自分の心なのかも判断はつかない。ただ、優しいとか責任感があるからと言うのであればそうでありたいと願うし、そう思われている事に喜びはある。でも、それを信じられるほどは余裕がなかった。
「何も、わからん……ほんまにアンタを代わりにしてるのかも……織理、織理のこと、……好きな筈、なのに」
泣き言のように溢して腕の力を強めた。言葉通りに何もわからない。だからもう縋るしかなかった。弦はそんな攪真を抱きしめ、ゆっくり頭を撫でる。
きっと言葉では伝わらない、納得しきれない。それを弦は察した。間違えたとは思わないが、原因は自分にあるのだと少し溜息を吐く。ただ焦ったところで体はすぐに治らない。それは分かっていたが、弦は口にした。
「待っててね、すぐ治すから。攪真が安心して織理を求められるように……」
――なんでこの人は、織理を独占しようとすらしないのだろう。なんで敵に塩を贈るようなことを言えてしまうのだろう。思えば在琉も弦も、もう張り合おうとすらしてこない。自分だけが最後まで織理を独占しようとしていたのだ。その結果がこれならば、自分は何のために……。
攪真はそのまま目を閉じた。今はこの心地いい言葉と香りに逃げたかった。




