第1話 治らない現実
織理にとってあの日々は正直大したことがなかった。最後の最後に弦が動けなくなったこと以外、割と本気で。
結菜の意味のわからない因縁は、織理の人生において何度も味わった物であるし、寧ろそれを庇って……庇っていたのか? 在琉が態々自分の恋人を名乗ってしまった事に少し喜んだくらいだ。それは在琉が恋人になったからではなく、大勢の前で庇ってくれた事実に対しての喜びだが。
攪真のことも正直気にしていなかった。何かを間違えたから悩ませていたのかもしれないが、攪真本人の気持ちを全て測ることはあまりに難しい。好きだから信じる、いつも一緒にいるのだから外では束縛しない。それの何が間違っていたのだろう。ただそのせいで弦が怪我を負ったのはかなり心苦しい。
――自分が間違えたから、弦さんがあんな事に……。それはずっと頭にある。動けなくなった彼は食事を共に摂ることもないし、部屋からも出てこない。
正直に言ってしまえば寂しかった。会いに行けばいつも通りの彼がいるからまだ心に余裕が持てるだけで。
そして彼にはもう一つ、それ以外にも若干残っている蟠りがある。
鏡の中に映る自分。貧相な体、平均身長よりやや低く、筋肉のない体だ。顔の良し悪しはわからない、だがこれまで『女みたい』だと言われて来た以上男らしさはないのだろう。眼帯を外す、空っぽの左目は窪んでいて、その周りには黒い痣がある。とても汚く見えて、織理はこれが嫌いだった。ただたまに外してじっと見る、少しは跡が消えないかと期待しながら。
織理はまた眼帯を付け直した。別に女の子に見える、と言う言葉をいつまでも気にしている意味はない。弦にも匠にもそう見えないとは言われた。それでいい。
ただ自分の見た目に少し自信がなくなった。元々ないけれど、彼らと並んだ時に自分はどれだけ見窄らしく見えているのだろうと、他人の目が気になり出した。これまで全く気にならなかったのに。
織理はとりあえず鏡から目を外し部屋の外に出る。
リビングに向かうと在琉だけが居た。何か本を読んでいるようだった。
「弦さんと……攪真は?」
「自室。攪真は罪滅ぼしだが何だかで付き添ってる」
なるほど。織理は頷き在琉の隣に座る。
弦が動けなくなってから攪真は殆どの時間を彼と過ごすようになった。完全に罪滅ぼし、せめてもの介抱だ。
本当は織理もやりたかったが、攪真があまりにも罪悪感に潰れかけていた為、無理しないようにだけ言ってその席を譲った。自分でやらかしたことの始末くらいつけたいだろう。織理だってそれくらいわかる。
ただ攪真の能力の後遺症が簡単に治るとは思えなかった。
洗脳とは無理矢理に脳に指令を送るのだ、自分の意思と関係なく手足を奪い、思考を奪い、誘導する。その支配は加減を間違えれば簡単に人を廃人にすることも、都合よく記憶を書き換えることも出来る。織理にとってもそれはよく知っている使い方だった。
自己評価の低い織理だが、能力の使い方に関しては少しだけ自信がある。自信があると言うか、明らかに攪真の能力は自分よりも幅は狭いくせに制御も出来ていないと言える程度に。もちろん撹拌に特化している為適当に使っても人を混乱させられるのが攪真の能力の良い点だが、それを無作為に垂れ流すなら話は変わる。これに関してだけは本当にちょっとウザいとすら思っていた。アレは織理に対しての執着が形として見えていたから余計に。
「弦さん……治るかな」
「さぁ。治らなくても織さんが操れば? お前そう言うの得意でしょ」
「人を何だと……。出来るよ、自分の代償さえ気にしなければ永遠に」
そう事実上、織理の能力は完全に相手を操れる。流石に脳の回路を繋げ直す、となると長時間は厳しいが記憶喪失くらいなら治せるし、嘘の記憶にすり替えることも出来る。当然四肢を操るなんて簡単なことだ。ただ代償さえ気にしなければ。
「ならいいじゃん。いざとなったら織さんが支えられる、お前そう言う風に頼られるの好きそうだもんね。簡単に自己肯定感上がるでしょ」
嫌な言い方。でも否定できなかった。弦を助けられるのならば、使ってもいいかなと思ってしまう程度には、織理は彼に情がある。代償が出ようと、ある程度までは耐えられてしまうくらいに。
「……そんな風に使いたくないけど。そうじゃなくても、弦さんのそばに居ると……自分が人に見えてくるから」
「……ふーん。織さん、やっぱり道具扱い嫌なんだ? 人になりたいの?」
「在琉からのは別にいい。……在琉のその、よくわからない支配……嫌いじゃないし」
織理は顔を俯かせてボソボソと返す。言いながら恥ずかしくなってくるが本当にそう思っているから誤魔化せない。
「前から思ってたけど織さんってマゾヒストだよね。自覚ある?」
在琉はあけすけに言った。彼の中にもそう言う俗っぽい知識はある、知識だけはあるのだ。
「酷い、在琉だけなのに……」
織理は不服そうに顔を顰めた。その発言も大概だが、在琉にとっては少し気分のいい言葉だった。
はっ、と鼻で笑いながらその言葉を受け流す。
「お陰で俺は攪真からサディスト扱いされてんだけど」
「それは事実じゃないの……?」
在琉の言葉に何言ってんだ、と織理は思った。
この家の中で彼らの距離は1番近いだろう。お互い嫌い合っていた頃から始まっているせいか取り繕う意味がない。何より痛い思いをさせられた事で、皮肉にも1番気楽になってしまった。織理にとって暴力は日常茶飯事で、逆に攪真の熱烈な愛や弦のように包み込まれる方が非日常でしかない。
「……弦さん、大丈夫かな」
結局織理はその考えが戻ってきた。やっぱり攪真に任せていてはいけないのではないか、だって壊したのも攪真なんだから。
「ほんと、織さんって弦さんのこと好きだよね」
そこには一切の嫉妬はない。拗ねた様子もない。ただ事実を在琉は述べる。
「……在琉の事も好き、だよ」
「知ってる。別に嫌いでも関係ないけどね。……オレも織さんのこと大好きだよ、大切な玩具だもん」
また在琉はそんなことを言って、もし弦がここにいたらそう窘めてくれたのかもしれない。でも、その玩具扱いが嫌いじゃない。
「うん、それが良い……気楽だから」
そう微笑むと在琉は少し困ったように笑った。
「……先に壊れるのはオレなのかもね」
その言葉の意味はわからなかった。
――――
夜になると攪真は一階に降りてきた。その顔はどこか暗く、覇気はない。あの日から彼はずっとこうだ。
「辛気臭い顔」
「……在琉か。夕飯、貰ってくわ」
在琉の言葉にさして反応も返さず、攪真は食卓に並んでいた皿をお盆に乗せる。
「……弦さん、調子はどう?」
「暫くは……戻らんやろな。ここに連れてきたとこで、腕も動かんし……」
織理は俯く。箸を一度置き、手を握りしめた。やっぱり洗脳してでも動けるようにした方が良いのだろうか? それで弦は救われるのか。あの人はきっとそれを望まない気もする。
――あぁ、もっと攪真の思いを受け止められていたら弦さんは壊れなかったのに。自分が彼らに甘えたからこんなことになったんだ。
攪真のせいだと責める気持ち、それと同時に発端は自分であることへの後悔と自責。可視化できない人の情愛、それがどれだけ面倒臭いのかを痛いほど知った。
「……最初から、こんな生活しなきゃ良かったのかな」
ぼそりと呟いた言葉に攪真の顔が歪む。
「……やめてくれやお前まで。俺のことだけ責めとったらええんや、俺さえ、やらかさなければずっと……」
攪真は逃げるように部屋に戻って行った。どこかどんよりとした空気、悪い方に考えてしまうと気持ちがそちらに傾いて行く。
ただ在琉だけが呆れた様に溜息を吐く。
「……めんどくさいなぁなんか。辛気臭すぎて。なんで被害者の弦だけが前向きなのかわからないくらいに織さんも攪真も後ろ向きすぎ。なんか背後にあるのかよってくらいに」
「在琉はなんで平気なの」
「だって俺は織さんにしかそんなに興味ないし……いや確かに弦さんが良い人なのは分かってる。俺も好きだよ、あの人。でもそれだけ。人間として好ましいけど、人間は簡単に死ぬでしょ。その時一瞬は悲しいかもね、でも風化していく。そう言うものじゃない」
在琉の言葉はどこか遠くの話のように聞こえた。
思えば確かに在琉が自分以外に、進んで付き纏っているのを見たことがない、ふと織理はそんなことを思った。他の友人の影を感じたこともない。
同居しているから攪真や弦とは話しているがもしかしてそうでなければ話すこともなかったのかな、と。そう思うくらいにこの男の素性が知れなかった。
「きっとあの人は心配されたくてやってない。だから放っておく」
在琉はそう言うと残りの夕食を食べ進める。
それを聞いて織理はなんとも言えなかった。本人の意向を勝手に想像するのも、本人の望みを無視するのもどちらも選び難い。――でも確かに、弦さんは言葉にしてくれるのだ。良いも悪いも、言い難いことも。だから大丈夫と言う言葉を信じてあげなくてどうするのか、『あの人が言うなら大丈夫』そうやって織理は不安に蓋をすることにした。そうしないと本当に洗脳してしまいそうだったから。




