第2話 猫にお刺身を与えるべからず
「ただいま~、織理。ほらお刺身だぞ~」
弦は帰宅するなり織理の前に鮪の切り身を指につまんで差し出す。すでに在琉が部屋に閉じ籠り、攪真が一旦クールダウンに向かっていた頃の事だ。
差し出された切り身に目を輝かせた織理は、そのまま弦の指から切り身に噛み付く。ぺちゃ、と僅かに鳴る水音と、猫の様にザラザラになった舌が見えて弦は興味深く見ていた。
「美味しい? 舌ざらざらしてるねぇ、可愛い」
はむはむと切り身を食べ終わった織理は、そのまま弦の指を舐める。ぺろ、ぺろ、と僅かに目を伏せながら舐める様に弦も頬がひくついた。
「あー!! 可愛いねぇ! 織理! ほらもっとあげるからね~!」
この仕草は猫を可愛がるタイプの人間にとって毒でしかなかった。好きな人が、猫のような仕草を携えてくる……それだけで理性を溶かすには充分だと言うのに。
――と言うか食べ方まで猫になってるのは良くないのでは……? そんな考えが頭の中にはあるのだが、目の前の可愛い生き物を見たらそれは些細な……些細な事にならない。
「ごめん、織理……普通に猫みたいにやっちゃった……。椅子座りたいよね」
弦は刺身をダイニングテーブルに置く。しかし織理は床に手をついたまま、それを見上げるだけだった。
弦は椅子をポンポンと叩く。
「織理、ほら座って。寿司もあるから」
「……にゃ」
とてとてと椅子に座る、座るがすぐに降りた。どこか落ち着かない様にそわそわとする織理は弦に擦り寄る。
「ぁ……すわ、るの変……さっきみたいに……、ください」
恥ずかしそうに目を伏せ、どこか泣きそうな声でそんなことを言ったのだ。流石の弦だって頭がおかしくなりそうだった。猫への可愛がりと織理への情欲が掻き立てられる。
弦は深呼吸した。
「可愛いねぇ、織理。全部食べさせてあげるからねぇ」
弦は織理をこの瞬間だけ猫だと思う事にした。そうしなければこのまま織理を部屋に連れ込んで抱いてしまいたくなるのが確実だったからだ。と言うかすでにどうにかなりそうだったが、まだ理性を手放すわけにはいかない。
一枚ずつ、手のひらに乗せて差し出せば織理の鼻先が当たる。たまに感じる舌の感触、ぴちゃぴちゃと響く水音……ただの食事が妙に性を掻き立てる。
しかし弦は顔にも出さない。この男は本当に理性の化け物だった。猫の前では崩れるが、それでもここまで持っているのだ。これが攪真ならもう抱いてる事だろう。
一頻り食べ終わった織理はやっぱり弦の掌を舐めた。両手で手を包みながら舐めしやすい位置に持ってくる。チロチロと見える赤い舌が目に毒だった。
「……織理、明日は何食べたい?」
「にゃん、でも……嬉しいです、よ?」
「じゃあ明日はカツオのカルパッチョにするね」
暫くは魚尽だな、きっと温かすぎるものは食べにくいだろうし。そんなことを弦は考えて居た。食べ方まで猫に近付いているとなると、他の習性も染まっているのではないだろうか。
「……このあとはどうする? お風呂一緒に入ろうか?」
下心よりも親心、この様子では一人でお風呂に入れないのではないかと気を利かせての発言。完全な猫になっていればお風呂も何も要らなかっただろうが、織理は耳と尻尾以外人間だ。流石に風呂に入れないのは可哀想。
「お風呂……」
弦の提案に織理は小さく頷いた。
――――
浴室に入れば織理の変化もよくわかった。シャワーを出せばぴくりと肩を振るわせる。
「にゃ……、っ!!」
多分逃げたいのだろう、それは弦に伝わった。だが織理は駆け出しては行かなかった、そこが人間性との乖離だろう。お風呂自体は入りたい、でも水が怖い。
「弦、さん……!」
織理は弦に体を寄せる。尻尾は無意識に弦の足に巻き付いた。――怖いから、そばにいて欲しい。織理は恥も見聞も投げ捨てて弦に縋る。
「は、はは……オッケー、怖くないからねぇ。ぎゅってしててあげるから頑張ってお風呂入ろうね」
弦は耐えた。正直反応したくて仕方なかったが、それでも自分に言い聞かせる。
少ないながら、能力が自己暗示的効果であるが故の幸いだろう。ある程度は自分を制することができる。もっとも能力の性能が低い為気持ち程度だが。
無心で織理の体を洗う。ふるふると震えながらも弦を信頼してかピッタリとしがみつく織理。滑らかな肌が、弦の素肌を滑る。そして耳がへにゃ、と畳まれたまに鳴き声が溢れる。水が怖いと。
そんなお互いが別の意味で拷問の様な時間だった。




