【幕間】龍人モンド3
ジグの大森林の古樹が織りなす緑陰の下で、モンドは血塗れの剣を握り締めながら荒い息を吐いていた。樹皮に刻まれた無数の爪痕が、この森の恐ろしさを物語っている。頭上を覆う幾重にも重なった葉叢からは、わずかな陽光しか差し込まず、森の奥は常に薄暗い黄昏に包まれていた。
この森は、我程度の実力で挑める場所ではなかった。
すまぬ、母上。おそらく我はここで死ぬ。
何度もそう思うほど、中層に棲む魔獣たちは強大だった。三つの頭を持つ地竜の咆哮は大地を震わせ、影狼の群れは月光さえも喰らって闇夜を這い回る。我が生き残れたのは、ただ運が良かっただけに過ぎない。もしくは、母の仇を取るという執念が、死神の鎌をかわす幸運を引き寄せたのかもしれない。
白い鱗に覆われた我の身体には、無数の傷痕が刻まれていた。黒龍人族でありながら白い鱗を持つ異端者として生まれた我は、常に里の者たちから蔑まれてきた。だが今は、その過去の苦痛など些細なものに思えた。この森で味わう絶望的な恐怖に比べれば。
2ヶ月ほどが過ぎ、乾燥した肉と木の実で繋いできた命も、ついに限界が近づいていた。食料袋の底を探っても、もはや数日分の食料しか残っていない。絶望が胸の奥で冷たく脈打つ中、森の奥深くで奇跡が待っていた。
結界の張られた水場。
透明度の高い泉は、まるで鏡のように空を映していた。水面には淡い光の膜が張られており、聖なる力が辺り一帯を守護しているのが分かった。ここなら安全だ。我は震える手で水を掬い、喉の奥まで染み渡る清らかさに、思わず涙がこぼれそうになった。
その水場の傍らに、簡易的な小屋を建てて拠点とした。枯れ枝を組み合わせ、大きな葉で屋根を葺いた粗末な造りだったが、それでも嵐風を防ぐには十分だった。夜毎に聞こえる魔獣の遠吠えも、結界の外からは決して侵入してこない。
この聖なる水場は、中層から深層、そして立ち入ることが不可能だと言われる霊峰の麓に位置していた。戻ろうとすれば魔獣の群れに襲われ、逃げるためには更に奥へと進むしかなかったのだ。まるで何かに導かれているかのように。
母上。もしかして、あなたが我を守ってくださっているのですか。
水場の近くには、人の背丈の何倍もある巨大な一枚岩がそびえ立っていた。その表面には古代文字が刻まれており、それが迷宮であることは一目で分かった。岩肌に触れると、指先に微かな振動が伝わってくる。まるで大地の心臓が静かに鼓動しているかのように。
意を決して中に足を踏み入れると、迷宮内部は驚くほど広大な草原が広がっていた。青空が頭上に広がり、そよ風が頬を撫でていく。外の薄暗い森とは対照的な、牧歌的な世界がそこにあった。
入口のすぐ近くに、角の美しい鹿の魔物が現れた。警戒心を解いて草を食む姿は、まるで普通の鹿と変わらない。
この鹿たちのお陰で、食料に困ることはなくなった。迷宮の難易度もそれほど高くなく、少しずつ奥に進み、徐々に強くなる魔物を相手に経験を積んでいく日々が始まった。剣技は確実に上達し、魔力の扱いも以前より巧みになっていった。
だが、迷宮の奥深くには不吉な予感が潜んでいた。一定以上進むと、黒い霧に覆われたエリアがあることが判明したのだ。その霧は生き物のように蠢き、時折その中から魔獣の唸り声が響いてくる。
これ以上進めば死ぬ。
20年近くの冒険者としての経験が、そう警告してくる。血の匂いを含んだ風が霧の向こうから吹き付け、我の本能が全力で逃走を命じていた。
しかし、強くなるため、そしてミンドを殺すためには、あの黒い霧の中の魔獣を倒す必要があった。母上の仇討ちという使命が、恐怖を上回って我の心を支配していた。
今後の方針を決めるため、一度拠点に戻って考えを整理することにした。粗末な寝床に身を横たえても、寝つきは悪くなかった。肉体の疲労が精神の不安を上回っていたのかもしれない。
しかし、疲れが完全に取れない身体を起こして朝の鍛錬をする日々は変わらなかった。剣の素振り、魔力の練成、体力の維持。すべてが母の仇討ちのためだった。
汗を流し、そろそろ昼にするかと思った、その時だった。
未だ感じたことのないほど強大な神性魔力が、霊峰全体に蔓延した。
それは嵐のように激しく、津波のように圧倒的で、我の全身を金縛りにした。この神性魔力を感じた魔獣たちはおろか、神獣と呼ばれる高位の存在さえもが一目散に逃げ出していく気配が伝わってくる。森が総毛立ち、鳥たちの絶叫が空に響き渡った。
しかし我は、あまりに強すぎる神性魔力に当てられ、身動き一つ取れなくなってしまった。まるで巨大な手に掴まれ、地面に押し付けられているかのように。呼吸すら困難で、肺の奥で空気が凍り付いていく。
これほどの神性魔力を発することができるのは、使徒程度では到底不可能だろう。ということは、誰かが迷宮を攻略して神の封印を解いたということに他ならない。
迷宮に神が封印されているというのは、この世界の常識だった。だが、迷宮の封印を解いた者は歴史上二人しかいないとされている。それほど困難なことなのだ。神ならざる身で神の封印を解くというのは。
また、神には及ばずとも亜神と呼ばれる存在もこの世界には存在する。その亜神でさえ、迷宮攻略は不可能なのだ。
神性魔力に当てられてから数時間が経った今でも、身体の震えが止まらない。我は、こんなにも弱かったのか。母の仇であるミンドを討つことなど、本当にできるのだろうか。
そんな絶望に支配されかけた時、何者かが近づいてくることに気づいた。それも、もうすぐそこまで来ている。足音は聞こえないが、神気の波動が徐々に強くなっていく。
扉を叩く音が響いた。何か話しかけているようだが、恐怖で身体が硬直し、全く動くことができない。声を出そうとしても、喉が痙攣するばかりだった。
そして、扉が開かれた。
入ってきたのは、神そのものだった。
金色の光を纏い、その存在だけで空間が歪むような圧倒的な威圧感。我は無我夢中で命乞いをした。声にならない声で、必死に許しを請うた。もはや誇りなど、どこかに吹き飛んでしまっていた。
神は当初、我を殺してお供の糧にしようとしていたようだった。だが、神の傍らにいた黒髪の人族の青年が、それを制止した。この者が、封印を解いたのだろうか。
神は創造神のシド様、そしてお供の青年はハマー殿という名であった。ハマー殿は転生者で、転生時に偶然シド様の封印を解いたのだという。
そんな偶然が、この世にあるのだろうか。
それにしても奇妙だった。ハマー殿からは全く神性魔力が感じられないのだ。シド様からは依然として恐ろしいほどの神気が放たれているというのに。
ハマー殿にお願いして、シド様の神性魔力を抑えていただいた。恐ろしいほどの神性魔力が消え失せ、ようやく普通に息をすることができるようになった。
次に確認しなければならないのは、ハマー殿の実力だった。この世界では、強くなければ生きていくことはできない。シド様が付いていようとも、ハマー殿が殺されてしまえばそれで終わりなのだ。我は命を助けていただいた恩を感じ、最低限この世界で生きていく術を身に着けてもらうことこそが、我のなすべきことだと考えた。
巨大な岩の迷宮がある広場に、ハマー殿をお連れした。実力を測るため、魔法を使ってもらう。
その瞬間、大量の黄金の神性魔力が迸った。
それは太陽そのものが地上に降り立ったかのような圧倒的な輝きで、迷宮もろとも中に封印されていた神をも完全に破壊し尽くした。跡形もなく。塵一つ残さずに。
信じられない。神の力とは、これほどまでに絶対的なものなのか。
破壊された神の残滓から、神性魔力と神機、そしていくつかの魔法を分けていただいた。この大いなる力を得て、我は生まれ変わったような感覚を覚えた。影魔法と黒霧魔法。これらの力を自らのものとするため、試行錯誤する日々が始まった。
この力を完全に習得しなければ、ミンドには到底勝つことはできない。
同時に、ハマー殿の訓練も行った。神性魔力を使わないハマー殿は、率直に言って弱かった。だが、ハマー殿はその現実を知った上でも決して絶望せず、常に前向きだった。
何も分からない異世界に転生し、自らの無力さを自覚していても挫けないハマー殿の生き方に、我自身が勇気づけられ、生きる希望をもらった。絶望の淵で出会った光明だった。
そのような穏やかな生活が3ヶ月ほど続いた頃、そろそろジグの大森林を出て町に移動する時期だと考えていたところ、ハマー殿から別れを告げられた。
ハマー殿は気づいていたのだ。我が何かに深く苦悩していることを。普段の口調は軽薄だが、いつも我に気を遣ってくださる優しい男だった。
「モンドさん、君には君だけの戦いがある。俺にも俺なりの道がある。いつかまた会えるさ」
その言葉に、我は深く頷くことしかできなかった。
ハマー殿とシド様と別れてから、さらに3ヶ月が経過した。黒龍人族の里に向かう時が来た。恐れることはない。我には『黒霧の狩神ヴァンライク』が付いているのだから。
彼らと別れる前夜のことだった。神性魔力をうまく扱えない我を見かねてか、シド様が神との対話する方法を教えてくださった。信仰と祈りが何より大切であると。
それからは、寝食を忘れて祈り続けた。母上への想い、復讐への誓い、そして正義への渇望を込めて。祈り続けること1ヶ月、ついに神が我の祈りに応えてくださった。
ヴァンライクは秩序を守ることを信条とする神で、差別され苦しんだ我の境遇が、ヴァンライクの存在と共鳴したのかもしれない。神の知恵が我の魂に浸透していく感覚は、まるで乾いた砂漠に雨が降り注ぐようだった。
もう恐れることはない。我は理解していた。ミンドが使っている龍玉は神の力に近いが、それには届かない。ヴァンライクは中位の神とはいえ、龍玉など比較にならないほどの圧倒的な差があるのだと。
シド様は、ヴァンライクの力の3分の2をハマー殿に、3分の1を我に与えたと仰っていた。しかし、ヴァンライクと繋がり、その本質を理解した我は気づいていた。実際には、その力のほぼ全てが我に与えられていることに。
黒龍人族の里に向かう道すがら、我の胸は複雑な感情で満たされていた。前回訪れた時から6ヶ月しか経っていないが、ミンドがさらに里を発展させていると予想していた。
しかし、その予想は無惨に裏切られることになった。
里が、燃えていた。
黒煙が空を覆い、炎の舌が建物を舐め尽くしていく。急いで里の中に駆け込むと、奴隷として連れてこられていた他種族の住人だけでなく、黒龍人族も皆殺しにされていた。
しかも、殺された後、全ての死体から心臓が抜き取られていた。
黒龍人族は浅層とはいえジグの大森林に住む種族で、簡単にやられるほど弱くはない。一体何者が、これほどの惨劇を。
里長の屋敷に向かった。龍玉の力を手に入れたミンドが簡単に負けるとは思えなかったが、ミンドもまた殺されていた。剣で付けられた深く、螺旋状に抉られた致命傷と共に。
そして、龍玉は、再度行方不明になった。
よくよく考えてみれば、答えは明白だった。世界最大の強国である帝国の目を盗んで龍玉を盗むことなど、最初から不可能だったのだ。龍玉の力を確認するために泳がせていただけ。我に渡されたお守りは、それを監視する手段の一つに過ぎなかったのだろう。
この里の全ての死体から心臓が抜き取られていたのは、おそらく龍玉への贄とするためだったのだろう。何と残酷な。
我が生まれ育ち、母と共に暮らした里。そして、我から母を奪った憎き里。この里の思い出は、全て母で溢れていた。
気づいた時には、里全体が黒い霧で覆われていた。炎は消え失せ、静寂が支配していた。
そんな中、霧の向こうに微かな生体反応を感じ取った。かつて我と母上が住んでいた里の外れにある小屋の中からだった。
小屋に足を踏み入れると、懐かしさが胸に込み上げてきた。母上が編んでくれた藁の敷物、共に食事をした小さな木のテーブル。全てが昨日のことのように鮮明だった。
「隠れているのは分かっている。出ておいで。危害を加える者どもは、みんないなくなった」
「‥‥‥母上は、大丈夫?」
部屋の奥にある樽の中のようだった。震え声が、我の心を痛ませた。
「残念ながら、我が来た時にはこの里で生きている者はいなかった」
「‥‥‥‥‥‥」
しばらくすると、5歳ほどの龍人の子供が現れた。驚いたことに、その子もまた我と同じ白い皮膚を持つ黒龍人だった。
「お主も‥‥‥苦労したのだな。名は?」
「‥‥‥クドウ」
「クドウよ。我はこれから旅に出る。この惨劇を起こした者を狩るために、そして龍玉を破壊するために。母親が殺されて間もないお主にこのような事を言うのは酷だが、もし生きる気力があるのなら、ついて来るがよい」
黒龍人族の里は滅んだ。白い黒龍人2人を残して。
そして、この2人の白い黒龍人は後に龍人族を統べ上げ、帝国転覆を成功させることになるのだが、それはまだ先の話である。
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ある夜のことだった。焚き火を囲みながら、我はクドウに語りかけた。
「クドウよ、母親からジグの大森林に伝わる伝承を聞いたことはあるか?」
黒龍人族には古くから伝わる伝承がある。
「ジグの森?霊峰のやつ?」
「そうだ」
「あるよ。黒龍人族はジグの森に生かされてきたんだから当然だよ」
クドウの幼い声に、我は微笑を浮かべた。
『ジグの森の最奥に霊峰あり、そこに黄金色の魔力を纏う最上位の神が眠る。その名は破壊神シド。全ての神を殺しうる神殺しの神。世界を終焉に導く神。決して起こすべからず。』
「でも、それは嘘だきっと。優しい神様だった。それに、あの男がそれをさせない‥‥‥また会おう、朋よ」
我は夜空を見上げながら、これまでの人生をクドウに話して聞かせ始めた。母上のこと、ミンドのこと、そしてハマー殿とシド様との出会いのこと。全てを。
星々が瞬く中、二人の白い黒龍人の新たな物語が、静かに始まろうとしていた。
龍人編はこれで完結です。次のエピソードも続けて投稿します。
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