潮風に捧げる桉樹の葉
誠羅たちが対峙したあの黒い影、ここでは”虫笑い”と呼称しよう。そしてシープが呼び出したと思われる虫笑いとシープがあの少女と少年であったと仮定しよう。虫笑いの行動は異質であった。花火がよく見える海辺の場所から真っすぐ導かれるように学校まで移動している。ふたつの場所に共通するのは”そこに憶晶がある”ことだ。憶晶を巡っている理由はいくつか考えられるが、最も有力なのは誠羅たちから憶晶を守るためだと思われる。彼女にとって大切な記憶たちが部外者によって破壊されていくのは防ぎたい要因だろう。憶晶が消し去りたい記憶ではなく”他人に記憶を共有できるもの”とするなら、死んでしまった彼女のためにあえて分かりやすいところに置いておくというのも理解できる。
ではなぜ加害者と被害者の関係が共闘して誠羅たちを襲うのか。それは双方に対して抱いている異様な執着心からきていると考えられる。シープが少女を殺害したのが港まつりの翌日、八月二日だとすれば、日記を見る限り少女を想って行動していることが分かる(もしかすると身体の一部を切り取って持ち歩いていたのかもしれない)。故に、純粋な殺意ではなく、他の要因が招いた不幸なのではないか。しかし、情報が乏しい今の状態では、核心的な理由が見当たらない。鋏の憶晶に映し出された少女の腹部から未発達の胎児を取り出しているシープの姿、この情景から物語を想像するしかない。
港まつりに行く前日、少女は子供の話に興味を示していた。一行日記に書くくらいだ、珍しいことだったのだろう。この時には自分が身籠っている状態であることを察していた。そして、身体にあった無数の暴行の跡が他者からの強姦が原因とすれば、シープはその穢れを取り除くために少女を殺害し、腹部を割いた――。
我ながらなんて想像力なのだろう。この題材だけで一本小説が書けそうだ、と自嘲する。しかし、これが唯一今の共生関係を説明させる物語なのだ。
「呆れた」一通り考察を説明し終わった後、知優が嘲笑うようにして言った。「会った当初から思っていたが、君は私の思う以上に頭がおかしいようだ」
「じゃあどう説明するのよ。やつらが私たちを襲う理由は? 根拠は? どうやって説明するのよ」
「逆に言わせてもらうが、危険を冒してまで石集めをした挙句、出た答えが『他人の記憶を共有できる』『虫笑いは憶晶を守っている』それ以外は君の創作話じゃないか。理由も根拠も必要ない、私たちはただ立ち向かえばいい話だ。それ以外に何が要る? それとも、このまま憶晶に記された記憶を見漁ることが、脱出の手掛かりに繋がるのか? 創作物の見過ぎだ、少しは立体的に物事を考えられるようにするといい」
「知優さん、言い過ぎです。まだ間違ってると確定したわけじゃありませんよ」
蒼夷がそう言って止めるが、知優の眼は変わらない。まるで、自分より劣った思想を持つ人間を見下すような眼だ。そうだ、周りの人はいつも。自分の理解に及ばない思想を間違いだと決めつけて自分の思想を正当化する。そのくせ、巫女である彼女が同じことを吐けば、はいその通りだと頭を使わず肯定するのだろう。これだから人というものは。
しかし、誠羅の考えも正解ではなかった。少なくとも、虫笑いたちが憶晶を目印に誠羅たちを探しているのなら、その場所を避けて通るべきだ。知優の仲間を少しでも危険から遠ざけようとする姿勢も間違いではなかった。それでも憶晶巡りを選択肢として外さなかったのは、彼女自身にある知的欲求、一種の脅迫概念にある。知っていることで避けられていた未来が閉ざされることに彼女は恐怖していた。
誠羅は自分の考えを正当化させるため、また創作を始める。もし、虫笑いがまだ生きていたとして、頭を打ち抜かれたとしても死なない未知の領域であるとして、奴を確実に仕留める方法があるとするなら。
「虫笑いの弱点は腹部の胎児よ」
妊婦のように膨れ上がった腹部を狙って、彼と同じように虫笑いを殺せばいい。
憶晶が輝きを失い、再び元の世界へ戻る。奇妙な物音と共に、それは散乱していた家具を押し潰しながら近づいてきた。重たい腹部を這いずりながら、時々濡れた雑巾のような水音を出しながら。
「嘘だ……」
白く細長い指で階段の手すりを掴み、よじ登ろうとしている様子を目視し、知優たちはようやくその正体を理解した。虫笑いだ。あの時、頭を正確に撃ち抜いたはずの奴が生きていた。信じられるはずがない、かろうじて人間の形をした生き物が脳を破壊されて動けるはずがない。実際に、奴の頭からは破損した脳の一部と思われるものがだらんと垂れている。知優は初めて自分の想定を超える生物に出くわしたのだ。
ああ、よかった。誠羅は自分の創作が現実に起きていることに安堵する。やはり自分は正しかった。この事実がたとえまぐれであったとしても、自分の才能に酔いしれた。しかし、問題はここからだ。たったひとつ、仮説が当たっていたとしても、もうひとつの仮説も当たっているとは限らない。そして、今ここで証明しようにも場所が悪すぎる。こんなに狭い部屋では避けられる攻撃も避けられない。
虫笑いは酷く激昂しているようだった。言葉にできない叫び声をあげ、周りの物に腕を何度も叩きつけている。老朽化が進んだ一軒家では耐えられるのも時間の問題だ。と、思った矢先、暴れた拍子で腕に突き刺さった寝具を誠羅たちに放り投げた。あんな細い腕のどこにそんな力が宿っているのか。誠羅たちは間一髪でしゃがみ込み避けたが、真後ろにあった窓と一部の壁が破壊され、そこから外の空気が一気に流れ込んできた。奇しくも逃げ道が出現したのだ。
「二人は先に! 用意ができたら私のことを受け止めて!」
二人は互いに顔を見合わせ、決心したように飛び降りる。大丈夫だ、人間よりも丈夫な巫女ならこの程度の高さで怪我をする訳が無い。誠羅は二人が着地してから受け止める体制を整えるまでの時間を稼げばいい。
内ポケットにしまっていた銃を取り出し、虫笑いの腹部へ向ける。仮説が正しければ、中にいる胎児を攻撃することが奴を殺せる唯一の方法だ。慎重に。狙い澄ませ。私なら、できる。
トリガーを引いた瞬間、手のひらから全身にかけて突き放される衝撃を受けた。しっかりと固定していたはずの腕は打ち上げられた面子のように空気を蹴り、その反動で身体のバランスを崩した。目が焼けるほどの強い発砲炎と立ち上る白い煙と火薬の匂い。肩が外れそうだ、映画やゲームで飽きるほど見てきた銃を撃つという行為がこんなにも重労働だったとは。
二度と撃ちたくない、と思ったが、彼女には才能があったらしい。的が大きいとはいえ、狙った腹部をしっかりと捉えていた。虫笑いは撃たれた部分を押さえ、藻掻き苦しんでいる。明らかに腕を撃った時よりも効いている。ただ、命を刈り取るにはまだ足りないようだ。もしくは、腹部に居る胎児に当たっていないか。
誠羅の反骨的な行為は虫笑いをさらに激昂させる。人間一人で抑え込むのはあまりにも無謀だ。その勢いに押され後ずさりをするも、すでに踵は次の踏み場を無くしていた。彼女たちの合図はまだか。時間にしてまだほんの数秒、誠羅にとってはその何千倍も待たされている気分だった。
「誠羅さん!」小動物のような頼りない声色の持ち主が必死に叫ぶ。「早く!」
声だけではどこに向かって飛べばいいのか分からない。しかし、確認しようにも虫笑いはもうすぐそこまで迫っており、目の前の人間を切り裂いてやろうと腕を振るっていた。怖い、足が竦む。今目にしている虫笑いの姿が、後ろにある虚無の空間でさえも、魂を冥界へと送らんとしている死神のように思える。行け、早く。心の中で何度も暗示る。たった一歩、仲間を信じて踏む込む勇気が、恐怖によって刈られていたのだ。
――人生ってさ、神様が決めた道に沿って進んでるから。所詮やる気とか努力もいい方向に転ぶことを祈るしかないんだよねー。この世界に来る前、あの時の通学路で翡翠がそんなことを話していたのを思い出した。聞き流していた日常の一切れが、今になってようやく理由を持ち始めた気がする。
所詮結果なんてでたらめ? ふざけるな。私は神様の書いたシナリオ通り動くために生まれてきた登場人物じゃない。意思があって、感情があって、夢がある人間だ。もしうまいところに落ちられなかったら、なんてただ決断した先が怖いってだけじゃない。信じろ、巫女なんだから対応してくれなきゃ困る。そうでなくても、足と頭さえ無事なら生き延びる。それでも抗えなかったとしたら、天界まで行って、顔を殴った後にペンを折って捨ててやる。そして言ってやるんだ「これもあなたが書いた通りなの?」って。
誠羅は流れるように身体の力を抜いた。ぎらりと鋭く光る指先が頬をかすめるのをその目で確かめた。しかし、目を逸らさない。そして、約一秒の風切り期間を経て――。
背中に柔らかな温もりを感じる。蒼夷は誠羅の身体をしっかりと受け止めていた。
「焦りましたよ。思ったよりもぎりぎりまで、しかも手前に落ちてくるんですから」
「ありがとう。どうやらあいつは、私にビビってるみたい」
「何言ってるんですか。強がらないでください!」
そうだ、思い上がるな。
奴はまだ死んでいない、むしろ彼女らに逆上して最初に会った時よりも凶暴になっている。依然として危険な状態だ。屋根を這い、誠羅たちを逃さまいと突き刺さるような殺意を向けている。
「走るぞ」すぐそばにいた知優が声を上げる「一応訊いておくが、何処なら戦いやすい?」
誠羅は道中にあった病院へ行こうと提案した。そこなら経路が豊富で障害物も多い。しかし、距離が少しある。走っても五分はかかりそうだ。誠羅は体力と根性には自信があったが、二人はそれを聞いた時嫌な表情を浮かべた。
走り出して一分ほど経つとその答えが見え始めた。知優は日々の運動不足のせいか、ぜいぜいと重たい息を吐き、蒼夷は自身の体重を引きずるように脚を動かしていた。重たいのはその胸にある贅肉のせいだろうと誠羅は苛立ちを覚える。しかし、どうも巫女には持久力の無い人が多いように感じられる。誠のクラスと合同で行った持久走では、翡翠を除いてほぼ全ての巫女が後続に置いて行かれ最下位争いをしていた(もちろん運動が苦手な人間もその中に何名か存在した)。体育の授業でも、前半は身体能力を生かしチームに貢献していたが、後半になってくるにつれエネルギーが切れたかのように疲れ果てている印象だ。たまたま体の使い方が下手な巫女ばかりを見てきたのか、それとも種族単位で持久力が乏しいのだろうか。
背中で二人の咽び息を感じるが、虫笑いの勢いは関係なく収まらない。むしろ今にでも追いつかんとばかりに速度を上げてきている。このままでは追いつかれると思った矢先、遠くに大きな建物が見えた。目的の病院だ。名前は風化した影響で―舘――病院としか読めないが間違いない。
誠羅たちは最後の力を振り絞り中へ入る。そして入り口にあったシャッターを勢いよく下した。少しは休めるかと思ったが、その期待は虫笑いが衝突した勢いで変形した様子により裏切られる。今すぐに離れなければ、疲労した体で奴と対峙することになる。それではまずい。しかし、二人の様子から見て、即座に距離を取るのは難しいだろう。ならば隠れるか? この広い受付場所でどこに? もっと確実な方法は無いだろうか。
カウンターにあるペン立てへ目を遣る。光っているのは憶晶だろうか。誠羅は急いでそれを手に取り、二人に集まるよう言った。あの世界に行けば、一時的にここを離れられると思ったのだ。確証ならある。精神だけ飛ばされるのなら、視界や地面を踏んだ感覚も不安定になるはずなのだから。
しん、と静まり返る空気。外はふけた夜の色に染まっていて、辺りは清潔感のある匂いが充満していた。そこに人は居ないが、明らかに人気を感じさせている。
誠羅はまたしても良い運命に手を引かれたようだ。体に異常はない、痛みを感じない。誠羅たちは確かに、そこに存在していた。三人は身の安全が保障された空間に安堵してその場にへたり込む。そして、はあああ、と目一杯の深呼吸を済ませた。
「ほら、役に立ったでしょう、憶晶の事、知らなかったら、死んでたかも」
「まったく、だ」
「もう、うごけない……」
しかし、なぜこんなところに憶晶があったのだろうか。彼らたちに病院へ行く理由があるとしたら、恐らく精神的な何か。そうしたとして検査を受けていたとしたら、あんな結末は起らなかったはず。それとも、あの物語にはまだ続きがあったということなのだろうか。考えている余地はなかった。少なくとも、脳に酸素が行き渡るまでは安静にしたかった。
程なくして誠羅たちは元の世界に戻される。二人はまだ呼吸が整っていないようだが、それも直に良くなるだろう。正面玄関に下ろされていたシャッターは、やはり大きく切り破られていた。這い伸ばされた水跡が建物内に伸びているところから、虫笑いも付近を徘徊していそうだ。
「もう、行くのかい?」
「当然、早く見つけ出さないと。次の犠牲者が出ないようにも」
今、奴を殺せるのは誠羅たちだけだ。まだこの世界に迷い込んだ人が居るかもしれない。その人たちのためにも、ここで決着を付けなければならなかった。
病院内は酷く鬱蒼とした雰囲気が包み込んでいた。所々壁や床に欠けた部分があるが、学校や家のように荒れ果てた、という印象よりも人工物による不気味な冷たさが強い。どこか寂し気で、広いだけの牢獄のような場所だ。もしかしたら、自分は一生この場所に閉じ込められるのではないかとさえ錯覚してしまう。そう思えば、釈放が決まっている牢獄の方が幾分かマシなのかもしれない。
物語が続いているのだとしたら憶晶が落ちているかもしれない、と辺りを散策するも、これといってそれらしいものは見つからない。ましては院内にあってもいいような娯楽物さえ見つからない。テレビや購買の品々、窓に至ってはカーテンを閉め切ったうえで板が打ち付けられていた。まるで、外からの情報を全て断ち切るように。
水跡は西側廊下の突き当り付近にある階段の方へと続いていた。しかし、足の踏み場が無いほどに崩壊が進んでおり、人間の足では到底進めなさそうだ。誠羅たちは仕方なく隣の庭へ通じるガラス製の扉を開けた。地面から生えた芝は手入れされていない影響なのか、踝あたりまで伸びきっており、花壇にも雑草が目立っている。こんな状態では美しい花も映えない。
「なにか使えるものが無いか調べてきます」そう言って蒼夷は近くにある物置へ行った。
その間にこのあたりを物色してみよう、と二人は芝根をかき分け辺りを歩き回る。憶晶の他にも、ここならバールやシャベルなどの鈍器が期待できそうだ。しかし、そのようなものは見つからない。唯一あったのは、雑草やごみを燃やすために使用されてたであろう焼却炉と、その燃料に当たる灯油だけだった。
「この設備でどうやって管理していたのよ」と、不満が口から漏れる。
「もしかしたら、人の手が及ばなくなる前にある程度処分してしまったのかもしれないね。君みたいな悪い人に利用されないように」
「自己防衛の手段としてよ。悪いだなんて人聞きの悪い」
知優は憎たらしいほど満面の笑みで誠羅をからかう。さっきのことをもう忘れてしまったのだろうか。本人は冗談だよと言っていたが、誠羅からすれば人の物を盗まなければまともに生きることさえできないようだ、と言われているような気分だった。巫女の口から言われるのなら、特に。
程なくして、蒼夷が両手に大きな荷物を抱えて戻ってきた。アルミ製の伸縮梯子に、緑色の先が尖った棒状の園芸用の支柱だ。
「これ槍みたいに使えそうじゃないですか? この素材ならナイフでも加工が出来そうですし」
蒼夷は自身の尻尾の鱗で実演するように支柱を研ぎ始める。確かに、形状だけ見れば武器としては優秀だ、しかし。
「却下」
鱗で削れるほどの耐久力なら、一度突き刺して耐えられればいい方だ。使い捨てにしては大きすぎるし、クナイの様に小さく加工しても素材がプラスチックでは役に立たないだろう。誠羅の冷たい一言に「そんなあ……」と物悲しい声を上げ、せっかく削ったであろう八本の支柱をその場に置き捨てた。彼女の苦労を無下にするのは少々心が痛むが、こればかりは致し方ないだろう。
さて、二階に行く手段は得た。武器はあればいいというだけで、知優と蒼夷と手元にある銃さえあれば虫笑いは鎮圧できるだろう。蒼夷は持ってきた梯子を二階の窓まで伸ばし立て掛ける。鍵がかかっていたが、知優は花壇にあったレンガを投げ窓のガラスを割る。流石のコントロールだ。音で虫笑いが近くに寄っていないことを確認した後、誠羅たちは中へと入っていった。
相も変わらず不気味な雰囲気だ。二階や三階部分も特に変わった様子はない。強いて言うなら、最上階の病棟の広間が一階部分よりも広々としているくらいだった。それでも、殺風景という感想が強まるだけだ。
目的の水跡はある一室を目掛けて伸びていた。恐る恐るその部屋を覗いてみると、これまでの病室とは違う雰囲気を感じ取った。その正体は医療ベッドに繋がれている黒い布製ベルトのようなものだ。位置的に四肢を拘束するために使用されていたと思われる。まさか、彼は罪を犯した後ここに幽閉されていたのだろうか。となると、この病院に娯楽物が無かったのは、彼がそれらに触れられなかった、もしくは触れさせてもらえなかったからなのでは無いだろうか。
誠羅は拘束器具に触れる。柔らかくかつ丈夫な作りをしている、これでは自らの意思でここを抜け出すことは不可能だ。しかし、奇妙なことに拘束器具は人為的な切断跡を残して断ち切れている。彼ではない、彼女があの姿で化けて出てきたのなら、もっと荒れ果てた空間になっていただろう。なら一体誰がやったのだろうか。
窓から夜風が気持ちよく流れ込んでいた。奴を見つけ出し、この物語を終わらせよう。あと調べていないのは屋上だけだ。
屋上に通じる階段は固く施錠されていた。知優の重みのある蹴りを何発か耐えた後、重低音を立てながら吹き飛ばされる。彼女がいれば、この広い院内から鍵を探す手間が省けて楽だ、と思いつつ屋上へと歩を進める。厳重にも次の扉には南京錠が掛けられていたが、彼女の前では関係のないことだ。
扉が蹴破られると外から夜風が一気に流れ込んできた。院内にいる間に多少天気が変化したようだ。誠羅はいつでも奴に出くわしていいように銃を構える。あの威力は使いこなすのに苦労するが、それ相応に頼もしい。持っているだけでどんな困難にも打ち勝てるような気分にさせた。
屋上には転落防止用のフェンスが並んでいる。不気味なほど静かで、心臓の音が骨を通じて響く。屋上に出ると真っ先に人影が目に映った。揺れるほんのりと赤紫色が掛かった白髪、誠羅と同じくらいの背丈、そして年齢の割に大人びた雰囲気。フェンスに肘を掛け、沈みかけの月を眺めているシープが居た。
「お前ら……よくも、よくも俺たちの記憶を汚したな」フェンスを強く握る「なんだ? 己の正義でも振りかざしに来たのか?」
「そうよ、これ以上罪なき人間を犠牲にするわけにはいかないの。罪の意識があるのなら、なおさら償われるべきよ」
シープの発言で確信した。奴は紛れも無く憶晶の少年だ。奴は愛すべき人間を身勝手な思想で殺害し、果てには執着心さえも手玉に利用している極悪人だ。悔いる必要がある、裁かれる必要がある。奴はそれに値する人物なのだから。
「償われるべきだと?」奴は憤った様子で誠羅に向き直る「ふざけるな。お前らに殺されることによってユウカの魂が報われるとでもいうのか? 俺はユウカの分も生きなければならない。ユウカに与えた不幸の分、他人を幸福にしなければならない。償いの死は等価交換にも、相殺にもならない。マイナスの値がひとつ増えるだけだ。この世界の人間はそんな簡単なことも理解できない。人間一人が生きるのにどれだけの命が犠牲になっているのかも考えず、人間社会でしか通じない正義という名の楔を振り回す。……だから人間は嫌いなんだ」
「ただ生きたいだけに作った単なる言い訳に過ぎないわね。彼女の家族や世間、きっとあなたの償いを望む人が大勢居る。私だってそう。あなたという社会の癌が居なくなれば、人間はもっと綺麗な種族になるでしょうね」
「お前はなんだ? 種族単位で物事を語って、神にでもなったつもりなのか? 下らん思想を押し付けるな。俺はユウカのために生を全うすると決めたんだ。お前らに、捧げる命などない」
黒い影がシープを抱くように包み込む。そして、それはやがて憎しみの愛を抱く虫笑いの姿へと変貌していった。
「永遠に眠れ。お前らはもう、家族じゃない」
虫笑いは奇声を上げながら床に衝撃を与える。足元が脆く崩れ去り、誠羅たちは強制的に四階の広間に突き落とされた。幸い怪我は無い。しかし、これほどまでの力を有した化け物を撃ちとれるのだろうか。
灰色の塵煙が晴れてきた時、長い黒髪から覗かせる目と目が合う。奴もここで蹴りを付けようと本気になっているようだ。そっちがその気なら、こちらも全力で立ち向かおう。あなたが今度こそ安らかに眠れるように。
誠羅は照準を定める。すると突然、虫笑いは二本の手で頭を抱え、かくかくと奇妙な動きをし始めた。奴が想定外の動きをする前に仕留めなければ、そう思い引き金に指を掛ける。しかし、その時には既に過ぎていた。口に含ませた白い糸状の物質、それを壁から天井までまき散らし縦横無尽に駆けまわり始めた。
焦る。誠羅は照準が定まらないままその引き金を引いた。しかし、発射された弾はあの巨体を掠ることも無く、微かに漂っていた塵煙を虚しく突き開いていった。残り十二発、生命線であるうちの一発を無駄にしたのだ。虫笑いの進行を止めるため、知優も即座に銃を構えて撃つ。動きが平地よりも明らかに速い、糸が脚掛かりとなって速度を生み出しているのだろうか。装弾数の7発のうち半分が当たっていれば良い方だ。これでは虫笑いを抑えられない。
虫笑いが天井から見下ろしている。そして見せつけるように、またかくかくと首を動かし始めた。今度はこちらの動きを封じるつもりだ。
「誠羅さん!」
蒼夷が危機を察知し誠羅をかばう。発射された糸が背中にまとわりつくと、蒼夷は不愉な感触に思わず顔をしかめる。痛みや毒などは無さそうだ。急いで彼女の髪や服に絡んだ糸を引きはがそうと手を伸ばすが、知優が声を上げる。
「触るな! あの巨体に耐えられるほどの粘性だぞ。二人とも糊着されて終わりだ。砂でもあればなんとかなりそうなのだが……」
虫笑いは外に出ることを防ごうと一方の階段を糸で塞ぐ。もう一方の階段もすぐに塞がれるだろう。ああ、こんなことなら、蒼夷が持ってきた支柱でも持ってくればよかった。そうすれば、このうざったらしい糸を巻き取ることも、奴の口に突き刺して糸を吐くことさえ無効化できたのに。
――いや、使えばいいじゃないか。それが確実に奴を殺す手段になりえるのなら。
「聞いて」気づいた時には既に口を開いていた「作戦があるの」
誠羅は思いついたことをつらつらと川の流れのように吐き出す。自分でも正気を疑う程の大胆な作戦だ。上手くいく保証はどこにもない、不安症の知優が終始難癖をつけるタイミングをうかがっているのが表情から見て取れた。そうだ、私は頭がおかしい。奇天烈で、非常識な発想をする。だからどうしたというのだ。そんなもの、結果で黙らせればいいじゃないか。
「君ってやつは――!」
「待って!」話を終えたのを見計らい、声を上げようとした知優を蒼夷は割って制する「少しくらい、誠羅さんを信じてみませんか。自分は思っています、誠羅さんはすごい人なんじゃないかなって。もしかしたら、自分たちよりも」
「……ちっ」
知優は少しだけ考えた後、虫笑いの口目掛けて撃つ。その小さな隙を突き、蒼夷の手を引いて階段へと向かった。
「死んだら、私が許さないからな」
去り際に一言、その表情は一見怒りを感じさせるが、それ以上に憂慮の感情が見え隠れしていた。
「そうなったら、人生の肴にすればいいわ。とんだ大馬鹿者が居たってね」
「……人間のくせに」
そう捨て台詞を残し、知優たちは階段を下りて行った。
巫女という目標を見失い、たった一人残された人間に目を向ける。その間抜けな仕草を見て、誠羅は思わず鼻で笑ってしまった。
「残念だったわね、こんなに巣作りを頑張っていたっていうのに。でも安心して、一番弱そうで、一番憎い人間が逃げ遅れたわよ。愛する人のために、せいぜい頑張りなさい。ユウカ」
自分の名前に反応したのか、鋭い指を器用に使って長い前髪をかき分ける。色白な肌を汚すように流れた黒い涙の跡、初めてはっきりと目の当たりにした虫笑いの顔はぐしゃりと変形するように口角を上げ笑っていた。初めて会った時にこの顔を見ていたら、きっと恐怖で立ち竦んでいただろう。しかし、誠羅は臆さない、死の恐怖さえも彼女には微塵も残されていない。当たり前だ。誰が死ぬことを想定して戦うものか。
誠羅が果たすべき目標は至極単純で簡単なものだ。まずは虫笑いの注意を引き、時間を稼ぐ。手段は問われていないが、銃弾は今後のために温存するべきだろう。最低でも二発程度には押さえておきたい。そのためには避けるだけでなく、このナイフで受け流すことも視野に入れておかなければならない。
虫笑いは誠羅目掛けて糸を放つ。何度も、何度も避ければ避けるだけ自分の行動範囲が狭まっていく。糸が切れるまで耐え抜くつもりが、いつの間にか階段から遠く離れた位置まで誘導されていた。それを好機とみて虫笑いはその巨体からなる尾鰭を床に叩きつけ、建物を揺らすほどの衝撃を与える。思わず体制を崩してしまったところに、鋭い二本の指を向けた。
一本目はしゃがんで躱した。しかし、二本目は頭上から振り下ろされる。横に転がれば糸に引っ掛かり、それこそ終わりだ。誠羅はナイフの側面を少し傾け、指の軌道を逸らす。弾き飛ばすなど、人間である自分にできるはずがない。これが精一杯の抵抗だ。
ここで耐えきるのは無理だ。虫笑いの攻撃によって割れた観葉植物を手に取り、糸で覆われた床へ放り投げる。これであれば糸に囚われることもない。しかし、植物ひとつでは階段まで届かない距離に居た。あとひとつあれば、階段まで足が届くはずなのに。考えている暇はない。誠羅は囚われの海に飛び込む。想定通り右足が糸に糊着され、一寸たりとも動かせなくなった。だからどうした。靴なんて、この戦いに必要ない。あらかじめ紐を緩めておいた靴を脱ぎ棄て、そのまま奥の階段へと着地する。二分は稼いだ、目標の五分間まであと三分だ。
三階に到着した時、今度は逃がさまいと逃げ道になりうる階段を念入りに糸を張った。しかし、誠羅には関係のないことだ。作戦を実行するにはここが最低限の高さとなるからだ。
虫笑いはすぐさま巣作りを始める。そしてまた天井に這い上り、誠羅を見下ろした。不気味な笑顔が、勝利を確信してさらに深まったような気がした。馬鹿め、奇天烈な作戦は言い出すが、無謀な作戦は言わない。ここまで時の運で生き残ったとでも思っているのか。
また、芸も無く同じ行動を繰り返す。糸と似て、粘着質でしつこい奴だ。ありったけ吐き散らせばいい、そうやって追い詰めたと勘違いしろ。足の踏み場が無くなった時、勝利の道筋になることを思い知れ。誠羅は満を持して銃を構えた。狙いは虫笑いではない、天井に設置されている機械だ。
ばん、と何度聞いても慣れない発砲音の直後、撃ち抜かれた機械から水が溢れ出す。自分でも感嘆するほど正確な射撃だ。誠羅は安全対策のため院内にスプリンクラーが設置されていることを知っていた。そして、自信を持った笑みを浮かべて床に撒かれた糸へ足を踏み入れる。
「昔、生物学をかじっておいて良かった。蜘蛛の糸は水に濡れると粘弾性タンパク質のバランスが変化することで、強度が増す代わりに粘着性を失い、伸縮する。人間の肌を持ったあなたが糸の上を快適に移動できるのも同じ原理なんでしょ」
天井にぶら下がったまま人工雨を見つめる虫笑いへ飛び切り頑丈そうな椅子を持って近づく。
「知識というのは、時に大いなる力を退く武器となる。そうやって人間は生物の頂点に立ったのよ!」
誠羅の渾身の一撃が虫笑いの脳を仕留める。いくら胎児が弱点でも、本体の頭を強打すれば脳震盪を起こし動かなくなるだろう。これも知優が脳を撃って気絶している姿を覚えていたからできた行動だ。
これでひとつ目の目標は達成された。さて、あとは知優の合図を待つだけだ、と高を括っていると虫笑いが意識を取り戻した。予想よりも遥かに早い、もう策は残っていないというのに、あと二分を耐えろというのか。
動きが鈍いうちに頭を撃たねば。翡翠が言うには銃は水に濡れても問題なく発射できるよう作られているはずだ。狙いを済まし、いざ撃とうとしたその時、虫笑いは高らかに遠吠えを始めた。歌のような、高音によって脳が揺れる感覚に耳を塞ぐ。そうでもしないと気が狂いそうになった。
遠くで波の揺れる音がする。ざぷん、ざぷんと不定期に、心が鎮まる。貝殻を耳に当てている、彼女も同じようにしている。”月の光”を鼻で歌いながら、なにか呟いて、笑った――。
ぶしゅ、と想定外の音に誠羅は意識を取り戻す。すぐさま自身の目的を思い出し行動するが、もう手遅れだった。虫笑いの尾鰭にある無数の穴から青色の煙が噴き出る。それは誠羅を、部屋全体を燻していった。これは有毒だろうか。涙が溢れる程に咳き込み、視界はどんどんと歪んでいった。自分の手がはっきりと認識できない程に。
――死ね。
どこからともなく囁かれる。聞いたことのない、低い男性の声だった。
――罪を償え。
――なぜお前がのうのうと生きている。
声の主と思われる顔が歪んだ視界に現れた。振り払おうと顔を背けても、彼は執拗に映ってくる。どこを見ても、目を瞑ろうと、彼が視界から消えない。それどころか、不規則に形を変えながら顔の数が増えていく。これは幻覚だ、幻聴だと暗示ても、彼は精神を蝕んでいった。
――なんて自分勝手な人間だ。
――なぜ食事をする。
――彼女からその権利を奪っておいて。
吐き気を催し、その場でえずく。立っていることすらままならなくなり、膝を突いたということだけは分かった。しっかりしろ。虫笑いはそこに居る、動かなければ切り刻まれて死ぬぞ。
――そのまま死ねよ。
――苦しんで死ね。
――早く死ね。
――彼女のために。
まずい、まずいまずいまずい。死ぬ、死んじゃう。冷汗が、脂汗が、体の水分が一気に流れ落ちる。体中の血が床を抜けて冷たくなっていく。きいん、と耳鳴りが止まない。揺れる、激しく。心波が――。
赤色に染まった。
背中に伝わる強い衝撃、切られた感触じゃない、叩きつけられたような。飛んだ? 身体が勝手に動いたのか? まだ虫笑いの歪んだ笑顔が見えている。まだ、しぶといことに息があるようだ。
虫笑いは不思議な出来事を目の当たりにしたかのように首を傾げた。こっちだって、何が何がか分からない。驚異的な生存本能が働きかけたのか、それとも神様がシナリオの紙にインクでも零したのか。しかし、何とか立ち上がったものの、足取りが覚束ないのに加え視界も歪んだままだ。誰とも似つかない声や顔も消えていない。時間間隔も曖昧だが、この調子では四分経っているかどうかだ。――駄目だ。自分が銃を握っているかさえ分からない。この調子では、あと一分なんて――。
がしゃん、と後ろの窓から赤い固形物がガラスを割って入ってきた。夜風の新鮮な空気を吸い、少しだけ視界が正常に戻る。そして、これだけは離してはならない、と言わんばかりに右手は銃を固く握りしめていた。少し、手のひらから血が滲んでいるのを見て表情が緩む。これだけ生きるのに必死なら、勝手に身体が動き始めるのも納得できる。
「準備はできた! 早く降りて来たまえ!」
知優の声がする。そうだ、これは合図だ。ある程度重たい物でも正確にコントロールできる彼女なら、一早く合図を送ることができると自分で分かっていたじゃないか。誠羅は作戦内容を反芻する。そして、今やるべきことを改めて洗い流した。
誠羅は一直線に虫笑いの方へ駆け出す。これまでの行動から、虫笑いは攻撃の際切り払うような動きを多用していた。中段から一直線上に、人間が目の前の煙を払うような動作だ。だから、体制を低く、転がり込むようにすれば奴の後ろを取れる。
身体は尾鰭の方に重心が偏っている。だから、振り向くのには時間を要するはずだ。振り向き、自分の姿を捉えた時、こめかみに向けて銃弾を放つ。痛みに悶え、のけ反った時に弱点である腹部を露出させる。そこに向けてナイフを突き立て、一気に押し退ける。
体重は誠羅の倍以上ある。しかし、そこで挫けるわけにはいかなかった。根性には人一倍自信がある。根性で、気合で、勢いで、割れた窓へと押しやっていく。これは生への執念勝負だ。子供だろうと、女だろうと、人間だろうと関係ない。壁にしがみつこうとも、もはや無意味でしかなかった。及百合誠羅は自分の目標を見失わない。貪欲にどんな手を使っても掴み取る、彼女はそんな人間だ。
窓ガラスが虫笑いの体重によって、盛大に砕け散る。黎明の光を乱雑に反射させ、黒い影と一人の少女の周りで煌めいた。そして、誠羅と虫笑いはひとつになったまま、重力に流れていった。
着地による衝撃はほぼ全て虫笑いが負担した。吐血のように残っていた糸を吐き切ると、苦しそうな呻き声を上げながら最後の力を振り絞り、八本の指を憎き少女へと向ける。生への執念で完敗したのなら、憎しみの執念で誠羅を切り刻み、せめて相打ちにしようとしたのだ。しかし、勝敗は既に決していた。
「今だ!」
逃していた誠羅の仲間たちが一斉に飛び掛かる。四本ずつ、園芸用の支柱を持って。山吹色の眼をした白衣の巫女は持ち前の瞬発力を武器に片側四本の腕が打ち付けとなる。もう一人、深い緑色の髪を生やした小型で気弱そうな巫女は、瞬発力こそ持ち合わせていなかったものの、身体と同じくらいある尻尾を生かして抑え込みながらもう片側を二本ずつ打ち付けられていった。
そうだ。こんな芸当は巫女の蒼夷と知優にしかできない。そして、一人でも虫笑いに対抗できる、とてつもない執念がある奴は誠羅しかいない。これが誰も傷つかない、誰もが望んだ完璧な作戦だ。
誠羅は突き刺していたナイフを腹部の形状に合わせて切り開く。黒い体液と共に収まっていた胎児の姿が飛び出てきた。
「さようなら、ユウカ」
――パ……パ……。
ナイフを振りかざす瞬間、胎児がそう言った。それが虫笑いとして放った最初で最後の言葉だった。




