光に導かれ
薄暗い夜明けの空に佇む人工物、そのどれもが鬱蒼と生い茂った植物たちに縛られ崩れて楽になることを抑制しているようだった。
『故郷の世界』知優はここをそう定義した。どうやら知優は彼らの後ろを付けていて、 その時にここをそう言っていたらしい。誠羅たちは夢の世界を彷徨っているのではなく故郷に連れ込まれてしまった。そのきっかけとなる人物は社会学部専属教師"飛龍鴒霸"、彼とノイアたちの関係性は未だ不明だが、この世界を探索していくうちに明らかとなっていくだろうと言った。
「飛龍先生のことを知ってるの?」
「当然さ」そう言って知優は白衣の襟をめくり、常和学園の紋章である鈴蘭が彫られたバッチを覗かせた。誠羅はバッチを付けてさえいれば私服登校も認められていることを忘れていた。「まあ、二留の落ちこぼれだがね」
常和学園は大学付属の私立名門高校。しかし、知優は学部活動である薬の研究以外の授業はほとんど出席しておらず、高校三年生として学園内に居残り続けてきた。かと言って特別勉強が出来ないという訳では無く、自分にとって必要のない知識には無頓着なだけで、そのつもりになればすぐに進級でも卒業して手に職を付けることも可能だ。それでも学園内に居残り続けるのは、どこの大学、会社よりも設備が整っているのと、単純に人の下で言われたことをするのが彼女にとって容認できない要素からだった。
「でも飛龍先生はあいつらについての話を一度もしていなかったわ。少なくとも、私と過ごした一年間は」
もしそうであっても、誠羅たちの殺害が目的ならわざわざ手順を増やす必要が無い。『革命には血が必要なんだ』その言葉にいったい何の意味があるのだろうか。
暫く街中を散策していると、突然知優は足を止めた。
「どうしたの?」
誠羅が訊くと、すぐそこにある建物を指した。五階建ての高等学校だった。
「最上階の窓に動くものが見えた」
「生存者が居るってこと?」
そうだといいんだがね、と小さく語彙を濁らせた知優。なにかに警戒しているようだった。
その正体を探るため、誠羅たちは校門をくぐった。正面玄関は散々なもので、ドアのガラスの破片がそこら中にばら撒かれ、踏み抜けるには少し勇気が必要だった。靴箱に入った靴はぼろぼろで埃かぶっているところからも、相当放置された空間であることがわかる。忘れられた場所、静まり返った空気がそう感じさせた。
今にでも崩れそうな手すりのついた階段を上がっていくと、クラス番号が記されている表札をぶら下げた部屋がずらりと並ぶ廊下に出た。知優が言っていたのは、この先にある1-A教室だろうか。静かに扉を開いて中を覗く。人影などは無く、机の順が少し乱れていたくらいで特におかしなことはなかった。
「なんだ、誰もいないじゃない――」
安堵してため息をするように出した言葉に、知優は口元に指を立てた。なにかの存在を危惧しているようだった。
彼女は徐に銃を取り出し、薬室を確認しながら教室内へ入っていく、誰かに悟られないように足音を殺しながら。その後彼女は窓際で足を止めた。
静かな空間で風が鳴いている。緊張が走る最中、彼女はゆっくりと掃除用具箱に手をかけた。
ぎい、と叫ぶような金属音が鳴り響く。誠羅もすぐにそちらへ向かうと、そこには耳を塞いで震える同年代の女性が居た。常和学園のバッチを付けている。
「どうしてどうして僕は何もやってないのに死にたくない怖い助けて……」
こちらが見えていないのか、彼女は俯いたまま呪文のようにそう唱えていた。
「落ち着け、私たちは君の敵では無い。一体何があったんだ?」
「ひゃい?! あああの自分はえっと黒い影みたいなのに襲われてすごく怖くて嫌で……」
「……混乱しているようね」
「無理もない、むしろ私たちの方が冷静すぎるのかもしれないよ」そう言って知優はすぐ近くの机に座り、浮いた足をパタパタとさせた。
誠羅はランタンを机に置き、過呼吸気味に嗚咽する彼女の背中を摩る。髪先が深い緑色に染められていて、しゃがみ込んでいて気が付かなかったが、大きいドラゴンのような尻尾が付いている。彼女は紛れもない巫女だった。しかし、誠羅は拭えない違和感を感じていた。
『”僕”が一体何をしたの』先ほど彼女は自分のことを僕と呼んでいた。ペティのように、まだ幼く世間知らずな子なら一人称が正しく定まらない、という話も稀にある。しかし、彼女は高校生。誠羅よりもよっぽど小さく、身体つきも女性そのものだった。それなのに、なぜ男性の一人称を使っていたのだろうか。
「ごめんなさい、ようやく落ち着いてきました」彼女は乱れた心を整えるように深く息を吸い、現在に至るまで経緯を話し始めた。
彼女の名前は委碧 蒼夷。常和学園に通っている誠羅の一つ上の先輩だった。彼女は屋外学習で繁華街を通った際、見知らぬ赤髪の男性に連れられ、気がつく頃にはここにいたらしい。
「そしたら奇妙な生き物に出会ったんです。全身が黒くて大きくて……まるで、人のパーツを適当に練り固めたような見た目でした。それから逃げるのに必死で……」
蒼夷の話を聞いている知優の顔がだんだんと険しくなっていくのがわかった。当然だ、ノイアのような人の形をした化け物ならまだしも、全く想像がつかない形をした化け物、いやクリーチャーと呼べる生き物がこの世界には住み着いているのだから。
「とにかく、君は幸運だ。この私に出会ったのだからね」
私が君たちの命を保証する、と言って知優は胸を軽く叩いた。間違いない、実際に今誠羅が生きているのも彼女のおかげなのだ。
机の列を指でなぞりながら彼女の自信に溢れた声を聞いていると、教卓の方から何やら光り輝くものを見つけた。それはプラスチックの容器に入った一つのチョークだった。手に取ってみると、チョーク特有の粉っぽさがなく、ツルツルとしている。まるで人工的に作られた結晶模型のようだった。
誠羅はそれを知優たちに見せようと振り返る。するとさっき置いていたランタンの光がチョークを通して何かを映し出した。しかし、光が弱いのか、映像が薄くてなにも見えない。もっと近くから映さなければならない。できる限り、焼けてしまうほどに、近くから。
誠羅はそのことで頭がいっぱいになる。そして無意識に灯火に繋がる小さな穴からチョークを入れた。
「何をしているんだ?」
そんなことわからない。ただ一つだけ言えるのは。
「見ないと、いけない気がしたの」
火を避けるように変形し、ガラスに張り付いた結晶は、光を導き始めた。
まるで私たちが今ここに居ると思うほど鮮明な音、匂い、カレンダーに記された八月一日の文字。さっきまでひび割れていた壁はなく、隅々まで整備が行き届いている教室の真ん中で若い教師と綺麗に並べられた机に四十人の生徒が座っていた。
「ここは……いったい」
知優と蒼夷は突然の出来事に当惑していた。しかし、誠羅だけは違った。
知らない人たち、知らない光景。しかし、他人事ではない、知っておくべき存在であることを確信していた。
教師は何かを話している様子だった。声は霧がかかったかのように薄く、聞き取りづらい。断片的に拾った言葉の中に”――祭り”の単語が誠羅の中で引っかかる。見た限り生徒は高校生、夏祭りでの注意事項を説明しているのだろうか。
もうひとつ、誠羅には気になることがあった。窓側の一番後ろの席で突っ伏している眼鏡をかけた根暗な少年。教師の話に注意を向けるわけでもなく、ただただ代わり映えの無い外の景色を眺めていた。祭りと聞いて”彼女が――”などと盛り上がるクラスメイトと夏の日差しに照らされ揺れる青々しい草木を見つめる彼。まるで、そこの空間だけが切り取り張り付けられたかのように歪だった。互いが互いを認識しているかさえ怪しい。そんな中、彼のひとつ前の席に座る少女が彼の方に振り向く。黒髪のボブカット、ごくごく一般的な女子高生といった印象の彼女の声だけは恐ろしいほど鮮明に聞き取れた。
『楽しみだね、港まつり』
一瞬だけ消えかけた灯が再び燃え上がり始める。入れた結晶が完全に燃え尽きているところから、どうやらここで映像が終わってしまっているようだ。さっきまで見えていたものが夢だったかのように景色はすべて元に戻っていた。
「……さっきのは一体なんだったんだい?」
「わからない、でも……」
意味深に残された結晶体と、結晶を操り、神を名乗る二人。そして、マザリノにもらったランタン。これらが無関係と言えるのだろうか。誠羅は思う。もしこの世界のヒントになっているとしたら、この結晶を辿っていけば、見えてくるものがあるはず。きっと、あの人のことも……だから。
「行きましょう、ここから出るためにも」
黄金色の光を放つランタンを掲げ、その場に立ち上がると、蒼夷が徐に話し始める。
「あ、あの……それと同じようなものを海沿いの民家で見たような気がします」
「じゃあそこに向かいましょう。案内してもらえる?」
蒼夷は嬉しそうに口角を上げ、一目散に教室のドアに手をかけた。
さり気なく、当たりを見渡す。そこには何もいないはずなのに。
「自分が見たのは漁港の近いところにありました。窓からキラキラしていたものが見えたので、あのチョークと同じものがあると思います、多分」
蒼夷はまるで小学生の子供のように階段を一段飛ばしで降りていく。さっきまで隠れて震えていたことが嘘のようだった。誠羅たちも急いで彼女に付いていく途中、さっきまで暗く閉ざされていた図書館が開いているのを見つけた。もしかしたら蒼夷のようにここへ逃げ込んできた生存者かもしれない。そう思い二人を止めて中を確認してみることにした。
教室よりも物が多いせいか埃っぽい空気が誠羅たちを出迎える。上に付いた蛍光灯も、自身の役目を忘れてただ佇んでいる。その代わりに原始的な光とそれに照らされた彼の姿がはっきりと見えた。ほんのりと赤紫色が掛かった白髪、細い輪郭と尖ったつり目が特徴的で、色白の若々しい肌とは裏腹に、どこか落ち着いた大人のような雰囲気が感じられる。彼は蝋燭の光を頼りに本の埃を払っていた。
「……懐かしい。覚えているか? この本は君に初めて勧めた本だ。君は活字が苦手だったというのに、俺と趣味を共有しようとしてくれた。こんな俺なんかのために――」
彼は誰かに話しかけるような口調でぶつぶつと独り言を言ってる、なにか不気味な雰囲気を感じた。
「ねえ、誰と話しているの?」
声をかけると、それに反応してゆっくりとこちらに振り向く。そして誠羅たちの姿を確実に捕らえるかのように凝視した。
「驚愕した。まさかお前たちが……そのランタンも、ただのランタンじゃなさそうで。憶晶を求めているようだ」
「このランタンがどうしたの?」
「妙にあの人を思い浮かばされる……”ノイア”と同じ光を」
「あいつのこと知ってるの?」
誠羅の問いに彼は不的な笑みを浮かべる。
「知っているもなんも。俺はノイアの親友であり、家族。聞いていなかったのか?Dr.シープの名を。あいつにはめえ君と呼ばれるが」
ほんと、ダサいあだ名だよな、と。一つひとつの言葉を力強く言い放つ。
『これからはおれとめえ君で捕まえてくるから』ついさっきペティが言った言葉を思い出す。そうか、と思考がつながる。まだ見えない第三の刺客。私たちが目的なら、あんな小さな屋敷に三人も必要ない。なら、こいつは……。
「”敵”っていうことよね」
彼は誠羅たちを殺すためにここへ来たノイアの手下、なら奴らが合流する前に始末しなければならない。
彼女も同じ考えなのか、知優が一歩前に出る。その様子を見て彼は二歩下がる。そして降伏するように軽く両手を上げた。
「勘違いをしているようだから言っておく。俺はペティやノイアのように武器を作り出すことも、身体能力に長けている訳でもない。負け戦をする気は無いので、俺はお前たちに危害を加えないことを約束しよう。ただ……二人を、家族を侮辱されて、黙っている訳にもいかないだろう」
「何をする気なの」
だらんと上げていた両手を下ろす。
「……眠って仕舞えばいい。そうすれば痛みや苦しみに、怯えなくて済む」
不変的な世界へ、と彼が呟いた後、蝋燭の火が消える。目が慣れる頃にはもう彼の姿は無かった。
ぴちゃり、と真後ろから濡れたぞうきんを落としたような音がした。魚が腐敗したような嗅いだことの無い悪臭が辺りに広がる。その正体はすぐにわかった。長くて不潔な黒い髪に全身を包まれた妊婦のような生き物、しかし人間の足は付いておらず、代わりに魚のような大きな尾鰭と、すぐに折れてしまいそうなほど細い腕を八本も付けていた。これが蒼夷の言っていた”黒い影”だろうか。
刃のように尖った指を床や壁に突き刺しながらそれはゆっくりと近づいてくる。言葉のような呻き声がまるで呪いの呪文を唱えているようだった。
こんな奇怪な生き物はフィクションの世界でも見たことがない。ゾンビやドラキュラなどが可愛く見えるほどに。できることなら、今すぐにでも目を抉りだして、この生き物を空想上の生き物だと、頭の中だけでも完結させたかった。少しだけ気が狂うというものがどういうことなのか理解できた気がした。
じりじりと追い詰められ、ついに窓際まで来てしまった。ここは四階、高さにしておよそ10mほどだろうか。人間である誠羅が無策で飛び降りたら、捻挫はおろか骨折まであり得る高さ。そして窓枠は人一人分ほどの幅しかない。知優に担いでもらい降りたとしても、蒼夷が一人でここに残ってしまう。その隙を突かれれば、例え彼女が巫女であっても、両者の戦闘力は未知数である以上、得策とは言えない。
「私が引きつけよう、君たちはあそこから逃げるんだ」
そう言って知優は物陰に隠れた本棚を指した。確かにあそこからなら私と蒼夷は逃げられる、しかし。
「あなたはどうするのよ」
あの黒い影に勝てる策があるのか、彼女はあの時と同じ余裕そうな顔で言った。
「もし駄目でも、君たちは助かる。最も、私が勝つ未来は明らかだが」
頼もしい言葉ね、と安堵すると同時に、誠羅は彼女が居ないと何もできないのだなと思う。私にも自分の身を守れるくらいの武器が欲しい。例えば、彼女が持っている拳銃とか。
「任せたわよ」
考えても仕方がない。誠羅は今にでも泣き崩れてしまいそうな蒼夷の手を引き、知優が言っていた通りの道をなぞる。
時々、本棚の隙間からあの生き物と知優が見えた。計画通り、あの黒い影は彼女に注目している。そして一人になったのを見計らったのか、鋭い爪を露わにしながら一気に飛び掛かっていった。その瞬間、何発もの発砲音が響き渡る。……効いている。あの黒い影が撃たれたであろう部分を押さえて、気持ちの悪い声を上げながら悶え苦しんでいるようだった。
あと数発。特に、頭のようなところを狙えば倒せるかもしれない。しかし、いくら時間が経っても次が来ない。なぜなら彼女の拳銃は中途半端に開いた状態で静止している。弾詰まりを起こしていたのだ。
その隙をあの化け物は逃さない。獲物を捕らえる網のように恐ろしく長い腕を彼女に伸ばし、唯一の武器である拳銃を弾き飛ばした。
「しまっ――」
彼女の額に脂汗が浮かぶ。そこに振り被られたもう一本の腕が風切り音を鳴らし襲い掛かる。焦りの声を聞き切る間もなく彼女の頭をわしづかみにした腕は、その勢いのまま壁にたたきつけた。
血に汚される純白の白衣、衝撃で舞い上がった埃越しにその色を見た時は、彼女なら倒してくれるなんて淡い期待を寄せるのはやめてしまおうと考えた。その時、化け物の鋭い悲鳴が木霊する。彼女はまだ打開策を持ち合わせていた。悲鳴の正体はあの細い腕を見事に貫いているナイフだった。
しかし、あの黒い影にとっては八本あるうちのたかが一本。一時的に拘束から逃れたとしても、足取りが不安定で何とか立てている状態の彼女に逃げる隙など与えてくれないのが現実。このままであれば、彼女にとって最悪の結末を迎えるのも時間の問題であろう。
「及百合さん、このままじゃ綏操さんがっ!」
蒼夷が泣き叫ぶように言う。分かってる、そんなこと。あの人の命は見捨てるに重すぎることなんか。
誠羅は即座に落ちていた銃を拾い上げる。レプリカとは違って、本物は冷たくて重い。薬室を覗き込むと、予想通り弾薬が斜めになった状態で膠着していた。確か、こういう時はスライドを引いてあげて不発弾を取り除くことで解決したはず。
コトン、と鉛の重い振動が床から足に伝わる。そして間を開けることなく、黒い影へ銃口を向ける。
誠羅はとにかく引き金を引いた。火薬が弾ける衝撃と光に耐えながら何度も、何度も弾切れになるまで化け物に風穴を開ける。そして完全に弾を撃ち切ったのを見計らい、蒼夷がなかば発狂のような雄たけびを上げながら、痛みに悶える黒い影に自身の質量を思い切りぶつける。蒼夷の一撃により、普通の人間より一回り大きい巨体は自身のバランスを大きく崩し本棚をなぎ倒す勢いで横転する。しかし、あの黒い影はまだ生きている。のろのろと起き上がると、今度は蒼夷の方に鋭い爪を向けた。
絶体絶命、と言いたかったが、誠羅が想像するよりもはるかに彼女は強かった。左手で頭を押さえながらも、白衣に隠し持っていた一回り大きい拳銃を取り出し、正確にあの生き物の頭を打ち抜いた。
彼女の綺麗な白衣が自分の血と化け物の体液で汚れていく最中、爆音と共に消え去った頭の一部を押さえたまま、黒い影はそのまま倒れて動かなくなった。
「まったく、助かったよ。慣れない器具を使っているのだから、不備や誤作動などはある程度考慮していたのだが、まさかこんなところでとは」
あの状態で正確な射撃をしておきながら慣れていないということに驚いた。やはり巫女は偉大だ。しかし、今回の件は交渉で使えるかもしれない。
「怪我の治療が必要ね、その前に」拳銃を受け取ろうと差し伸べられた知優の手を軽くあしらって続ける。「借りを返すということで、この銃を私に譲ってくれない?」
もし今回のように知優が殺されそうになれば、もし知優が死んで二人きりになってしまえば。彼女に頼りきりの誠羅たちは生きる手段を無くす。そのためにも、戦える選択肢が欲しい。この銃さえあれば、自分の生き残れる確率が格段に上がるのだ。
「二丁あるのなら、なおさらいいでしょう?」
「本当に君は人間らしいな。私を助けたのも、それが狙いだったのだろう?」
「そんなことないわ。全くの嘘、とは言えないけれど」現に知優が死んだら死んだで、時間をおいて回収しようかと思っていた。
はあ、とあからさまな溜息をつく。そして手に持っていた大きい拳銃を差し出した。
「こっちの方が高威力だ。反動も取り回しも悪いが、人間の君が化け物と対峙するのならこっちの方がいい」
持たされてわかる重装感、まるで小さな戦車をこの手に収めているようだった。確か、この回転する薬室が使われている拳銃のことを”回転式拳銃”と呼ばれていた。銃身上部にある三つの穴が特徴の銃、名前は確か、蛇みたいな名前だった気がする。
「さあ、用件は終わり。保健室なら玄関近くにあったはずよ」
肩を貸し、一早く保健室へ向かった蒼夷を尻目に、誠羅は床に放置されたケースを拾う。形状的に恐らくナイフをしまっておくものなのだろう。要らないのならそれも貰っておけばいいだろう。
動かなくなった化け物の腕には、やっぱりナイフが刺さりっぱなしだった。鼻を塞ぎたくなるような強い刺激臭と、黒く濁った体液が染みついたナイフをゆっくりと掴む。引き抜いた時に筋肉が委縮したかのような抵抗を感じた。
ガーゼに包帯、傷薬。軽い治療ならここで全てが賄える。少しだけそれらが残っているか心配だったが、むしろ何を持っていこうか迷うくらいだった。こういう時に小さいバックがあればな、と都合の良い考えが思い浮かぶ。
「具合は大丈夫ですか?」
知優の頭に包帯を巻き終わった蒼夷が心配そうな声色で訊く。
「巫女は少し頑丈にできているようだ。これくらいなら、すぐに動けるよ」
空のマガジンに弾薬を詰めながら軽く言う知優。ばらばらに分解して手入れしていたはずの拳銃はすでに元の形に戻っていた。あまりにも早い手さばきに、本当に素人なのか改めて疑うってしまう。
「それにしても、及百合さんって銃に詳しいのですか? 自分はこういうものにあんまり得意じゃなくて」
「ただの友人の入れ知恵よ」
誠羅が銃の仕組みを知っているのは、他でもない翡翠のせいだ。よくゲームをしている翡翠は、特にFPSゲームという銃で撃ち合うゲームを好んでいた。その時に『私も兵士の一員なんだから、銃くらいいつでも扱えるようにしないと』と銃を分解して組み立てるゲームをやっていた。その時の付き合いで同席していた誠羅は、永遠に続く翡翠の小話を聞きながらその画面を見ていた。弾詰まりについても、この時に聞かされていた。故に、マニアほどではないが、銃について多少話せるくらいの知識が付いてしまった。当時は全く役に立たないと思っていたけれど、まさかこんなところで役に立つとは思っていなかった。
銀色の銃身を静かに撫でる。弾丸はシリンダーに入っている分も合わせて13発、これが誠羅の命綱だとすれば、あまり無駄遣いできる数ではない。
「そういえば、あのシープっていう人が言っていた”憶晶”って何なのでしょう?」
憶晶。恐らくあの結晶化していたチョークのことを指しているのだろう。ランタンの灯火で燃やした時に映ったあの映像は、恐らく誰かの記憶。この世界も誰かの記憶を基に構成されている。
しかし、引っかかることがある。それは誰の記憶なのか。ランタンから映し出された映像は、まるで誠羅たちがその空間に居るように、全方向を完璧に再現していた。これがもし人の視覚から得られた情報を基に構成されたのなら、その人の後ろ側、つまり死角の映像が見られるのはおかしいのだ。その人の記憶が補正されているとも考えたが、それにしてはあまりにも鮮明に再現されていた気がする。
しかし、目標が明確に定まっている今、思考に時間を使っていても仕方がない。怪我全般に応用が利く包帯と傷薬をポケットにしまい、学校を出た。
海沿いの民家にある憶晶を求め歩いている道中、路上に屋台が出店されていることに気が付く。ここが先程あの憶晶で言っていた祭りなのだろうか。しかし、やはり人の気配が無い、楽し気な雰囲気もどこか他人事で色が無い。まるで止まってしまった世界に一人取り残されてしまったかのようだった。
そこからまた少し歩いた所に、青く広がる海が一望できる簡素なベンチだけが設置された広間があった。人気が集まりそうな路上から茂みを挟んで存在するその空間は、いわゆる隠れスポット。普通に歩いていてはまず見つからないであろうそこにまた一つ、ラムネ瓶の形をした憶晶が置かれている。次の憶晶は何が記されているのか、誠羅は好奇心でその憶晶をランタンの灯火に放り込んだ。
どん、と夜空を美しく照らす一凛の花が咲いた。それはあまりにも陽気で、楽し気で。先程までの閑散とした空気には眩しすぎる代物だった。
ベンチに座っていたのは前の憶晶にも映っていた根暗な少年と親しげに話す少女。二人の性格は太陽と月のように対照的だった。花が咲くたびに大きな声ではしゃぐ彼女と静かに次の花が咲くのを待っている彼。共通しているのは、二人ともそのちぐはぐな空気を幸せに感じていることだった。
二人は恋人同士だった。ベンチの上で互いの手のひらを重ね、そこに存在している温もりを感じあっている。青春らしい、高校生らしい純粋な関係だ。この関係が永遠に続くのであれば、憶晶としてここに残ることは無かった。憶晶の意味を、何のために存在しているのかを誠羅は察する。
彼女の手のひらには痛々しい生傷が何個も刻まれていた。ただ怪我をした訳では無い、擦り傷に切り傷、強い衝撃による打撲跡。日常生活において明らかに異常な数だった。第三者によって付けられた、もしくはその要因による自傷行為、はたまたその両方か。いずれにせよ、誠羅の中で”普通の女子高生”という評価は一変した。
共依存関係という言葉を本で読んだことを思い出す。クラスに馴染めず社会的に孤立した男性と他者の傷害によって居場所を失った女性。二人の現状をそう仮定するのなら、一見かみ合わない性格であったとしても互いに惹かれあうことは納得がいく。しかし、それは本当に良い恋人と呼べるのだろうか。不安定な感情で結ばれた関係はシャーペンの芯のように脆い。ふとした拍子にどちらかの心が折れてしまったのであれば、依存先を失ったもう一方も道連れにされるだろう。
誠羅は自分の心に何かが波のように流れ込むのを感じた。あえて表現するのなら、黒く暖かい泥水のような感情、それはすぐに彼らのものであることに気づく。酷く心地いい、このまま蜘蛛の巣に囚われた蝶のように静かな終わりを迎えたい。そんな粘度の高い欲望だった。
騒がしかった情景が我に返ったかのように静寂に包まれる。最後に感じたあの感情のせいで、最初に見た時よりもベンチの色が浅黒く見えた。
「どうかしましたか?」蒼夷は誠羅の顔をのぞき込む「顔色が悪いようですが」
「逆にあれを見て何も思わなかったの?」
先程の薄気味悪い記憶は、蒼夷と知優にとってはただの”青春を謳歌する学生”に見えていた。節々に存在する異端な要素、そして直接流れ込んできた感情は誠羅にしか認識していなかったのだ。
「君がどう感じたとはいえ、今の私たちに関係がある話では無いだろう?」
知優は言った。今のところ、私たちが求めている情報は一切出てきていない。こんなところで道草を食っているくらいなら、少しでも歩いて散策した方がマシなんじゃないかと。それは至極真っ当な意見だ。しかし、頭に引っかかっているものがあるのも確か。
学校の雰囲気から見るに、何十年も前の記憶ではない。せいぜい二十年前が関の山だ。しかし彼らの世界観は、この平和な日本では異質すぎる。ならばこれはマザリノが『誰の目にも留まらない平和からかけ離れた世界』と言ったように何らかの影響、もしくは目的によって隠し消されたものでは無いだろうか。
蒼夷が言っていた民家はここから近いところにあるらしい。次の憶晶はどんなことが記されているのか、知らなければならない。それが誠羅の使命なのだから。
憶晶から流れてくる感情、波のように揺れ動いている心境とのことから誠羅はそれを”心波”と呼ぶことにした。心波を感じる条件は憶晶を見ることと、ランタンを持っていること。最初に見た憶晶から心波を感じ取れなかったのは机にランタンを置きっぱなしにしていたからだろう。そして心波を感じる時は全身の血が体の中心に集まるような感覚を感じた。目や耳、指先の感覚までもが遮断され、たったひとつ心波だけを感じ取れる。その感覚は故郷に来た時、冷たい意識の海の底に沈む感覚によく似ていた。
「着きました」歩みを止め、目の前の風化した一軒家を指す。「この家の二階に憶晶に囲まれた部屋があるはずです」
民家はひどく荒れた状態だった。物は床に散乱し、壁紙は所々剥がれ落ちている。とても人が住めるような環境ではない。これは長い間放置された影響なのか、はたまた元々そうであったのか。いずれにせよ、憶晶に関係していることは間違いない。
蒼夷の言っていた二階の部屋に入ろうとドアの回し手を捻る。しかし、中で何かが干渉しているのか扉は音ひとつ立てず動かない。憶晶が扉まで侵食し固まっているのだろうか。
ではどうしようか。窓から侵入するにもそのための道具がない。なにかバールのようなものがあれば、扉を無理やりこじ開けることができるかもしれないのだが、と辺りを見渡すと知優と目が合う。
「正気かい?」
知優は誠羅の考えていることを悟る。開かないのであれば、壊せばいい。ちょうどよく自分の隣にはそれができる人が居る。
「まったく、石集めのためだけに何故私が……」
小言をぶつぶつと呟きながらも知優は扉の前に立つ。なんやかんや人の求めたことをやってしまうのが彼女だ。深く呼吸を整えた後、体重を乗せた重たい蹴りを喰らわせた。
固く閉ざされた扉は、固着していた金具と憶晶の欠片と共に破壊され、その衝撃を噛みしめるように床を擦りながら横転する。削れた憶晶が埃のように空気中を舞い、視界全体が白色に覆われた。
部屋は綺麗に整えられていた、というよりは物が少ない殺風景な様子に近い。ポスターやゲーム機器など娯楽的要素が見当たらず、白や黒の無機質な色で統一されている。必要最低限の生活環境の中で唯一大きな本棚に埋め尽くされた文学小説のみがこの部屋の個性を保っていた。それにしても、なんと綺麗な光景だろうか。 部屋の中央では植物のように盛り上がり、木造の床から自分の背丈ほどの高さまで壁を覆っている憶晶が、きらきらとランタンの光を反射している。物が少ないということが、かえって憶晶の光を良い塩梅で引き立てている。なるべくしてなった、ここに残されるべきだったのだろうか。
さて、使えそうな憶晶はどこにあるだろうか。好奇心に身を委ね足を踏み入れる。まず、最初に目に入ったのは机に開かれたまま放置されていた手記。憶晶に侵食されていたため頁を遡ることはできないが、日常の他愛のない内容が一行で毎日欠かさず記されている。間違いなく、あの少年の手記だ。
七月二十九日『君に”虫笑い”という言葉を教えた。生後間もない赤ん坊が見せる生理的微笑のことを指すということを。それを聞いて君は「なんだか私みたい」と言った』
七月三十日『君に「将来は何人くらい子供欲しい?」と訊かれた。回答に困る質問はやめてほしいとあれほど言っているのに。でも、君との子供なら何人でも幸せな気がする』
七月三十一日『明日が楽しみだ』
八月一日『君と港まつりに行く予定。君との時間を大切にしたいから、今日は先に書いておく』
八月二日『愛してる』
八月三日『今日は海に行こう。君と一緒に』
八月四日『今日は山に行こう。君と一緒に』
八月五日『今日は家でゆっくりしてよう。外に出るのは疲れたから』
八月六日『今日は学校で補修があった。学校ではあんなに話しかけてきたのに、家では大人しいんだね』
八月七日『今日も見てくる。俺の顔に何かついていたのかな』
八月八日『君の物を持ち歩いていることがクラスの連中にバレた。帰る時間が近くてよかった』
八月九日『君のことを想っていたらインターホンが鳴った。会う約束していたっけ』
余白を半分以上残して日記は終わっていた。新しく手記を買い直したのか、と平和な考えを過らせるが、誠羅はその考えを一蹴する。なぜならそれは彼らにとってあまりにも都合の良い話だからだ。憶晶がそうであったように、この手記も大切に保管されていた、というよりかは置いてあったと言える。日常の一時として処理できるような記憶を、自分たちにおいて大切であるはずの記憶を散らすようにして置いておくだろうか。マザリノが言った『誰の目にも留まらない平和からかけ離れた世界』を解釈するのなら、この記憶は消し去ってしまいたいものではないだろうか。
目を閉じ、想像する。とすれば、これは物語の終わりを意味しているのではないか。先程の憶晶がこの手記の八月一日のものだと仮定するなら、この短時間で彼、もしくは彼女の身に何かが起きた。病気、事故、いやもっと単純だ。単純で、最も残酷なこと。黎明の光に照らされている植物のような憶晶、その輪郭はまるで人が座ったまま前屈みに脱力しているようにも見える。そばに置いてあった鋏の形をした憶晶が誠羅の中の仮想を一本の線に結び合わせた。
「探偵ごっこは終わったかい?」
知優が表情を見て察したのか、右手で猫背を矯正しながら話しかける。そして誠羅は遠くの世界を見るように瞳孔を開き言った。
「私の推測が正しければ」
この憶晶はあの少女で、奴に殺された。




