疑問開示
心のどこかで思っていた。自分が見ているものは現実だったのか、と。毎朝食べていたトーストの味は本当にいつも同じ味だったのか、例外のない日常は本当に同じ日常だったのか。どれも微かに違ったのかもしれない。もしかしたらトーストは古くなり味に違いが出ていたのかもしれない、通学路で誰かが転んで大怪我をしていたのかもしれない。でもそれは当たり前という意識によってかき消されていた。
飛龍鴒霸が殺人を犯しただなんて誰が信じるのだろう。きっと彼を知っているものなら、私のように自分が被害者であっても疑うことを恐れ信じ続けているだろう。彼は当たり前という色に染められていた。優しくて格好がいい、誰もが見習うべき模範解答のような人であるという潜在意識が彼のシルエットに色を付けていた。その上に違う色が付こうとも、それは彼の色ではないと拭き取ってしまうだろう。
神様なんて存在しない。冷たい意識の海の底で崩れていく彼の姿に手を伸ばしながら、身体の行く先を重力に委ね沈ませていった。
ふと肌に小さな温かみを感じた。重い瞼を開けるとそこには闇に飲まれた深海とは真逆の日差しに包まれた小さな喫茶店だった。微かに聞こえてくるコーヒー豆を焙煎する音と水槽のエアーポンプの音が交じり合い、学部室とはまた違う落ち着いた雰囲気を作り出していた。
「お目覚めですか、お客様」
目の前で湯を注ぐ若々しい女性が優しく声をかけてきた。てっきり死後の世界に送られていたと思っていたけれど、私の手が暖かく火照っているのをみるにどうやらそれも違うみたい。私はまだぼやけている目を擦りながらここはどこかと尋ねた。
「ここは貴方のような人には縁もゆかりもない場所、と言うべきでしょうか」誰の目にも留まらない平和からかけ離れた世界、と彼女は言った。
確かに私は飛竜先生にこの胸を切り裂かれたはず。けれど衣服は普段と同じ顔をしているし、身体だって何事もなかったかのように呼応し、動いている。まるで悪い夢でも見ていたかのようだった。その話を彼女は黙って聞いてくれていた、気持ちの整理がつかなくて言葉が詰まったときもずっと、静かに。
「信じていたものから裏切られるその気持ち、痛いほど分かります」
彼女は自身をマザリノと名乗った。彼女曰く主人と夫人、そしてその子供二人に加え、マザリノさんの兄弟たち計七人で村はずれの森に棲んでいたらしい。この喫茶店は主人が送ってくれた大事な店のようだった。
「お客様、珈琲はいかがですか」
主人が気に入っていたコーヒーを是非飲んでほしいと彼女は言った。私はコーヒーを飲んだことがなかった、昔から苦いものが得意ではなかったから。でもせっかくだからと一杯だけ頼んでみることにした。
注がれていく真っ黒の液体からは普段翡翠が飲んでいる缶コーヒーと比べ物にならないほどのいい香りが漂ってくる。白い湯気が立ち上るお洒落なカップを出される瞬間までその香りを楽しんでいた。
熱せられたカップの持ち手を軽くつまみ、それを口に含むとほろ苦さが舌の上で溶けていった。苦みの奥に美味しさがある、とはよく言ったものだけど、私はその峠を越えることができずカップをその場に戻した。その一部始終をマザリノさんに見られていたらしく、彼女は私の顔を見てくすりと笑みをこぼした。
「初めはそんなものですよ、ご夫人様も同じような顔をしていました」
そう言うと彼女はミルクと砂糖の入った容器を用意してくれた。
飲み終えたカップを彼女に渡した後、椅子から立ち上がり出口へ向かった。また飛竜先生と話したくなった。きっとマザリノさんのご主人のように自分の正義があったはず、それを認めることができるかわからないけれど、疑問のまま問題から目を背けて生き続けるのが何よりも許せなかったから。
「出かける前にこれを」マザリノさんは壁に掛けられたランプを私に持たせると「どうか死なないでください」と言って送ってくれた。
扉から出た先は全く別の所につながっていたようで、辺りを見渡すと小綺麗な屋敷のような空間が広がっていた。窓の外には季節外れの雪が降りしきり、反射で室内が白く照らされている。不思議なことにどこか懐かしさを覚えた、遠い昔に来たことがあるような。
空気、匂い、感触が脳を通じて記憶の奥底にある硬い扉を叩かれているような感覚だった。ここは夢の世界?いや、それにしてはあまりにも精巧にできすぎている。創作物でありがちな並行世界に転生したとか、そんなところかしら。
「ひっどいなあ、悪い人にほいほい着いていくからこんなことになるのに」
遠くから微かに少女の声が聞こえた。導かれるようにその方向へ向かうと、地下に通づる階段の奥に大きな扉の前に何か重たいものを引きずったかのような跡が残されていた。妙な不信感を覚えた私は息をひそめて中を確認してみることにした。
「あまり手荒な手は使いたくないとあれほど言ったじゃないか、こいつらが死んで仕舞ったらどうするつもりだったんだ」
「それくらいは加減できるもん。そうやって心配ばかりして、自愛しないノイアさんにも責任があるとおれは思うけど」
「なんも言えん」
蠟燭の火が灯された部屋には私と同じくらい大きい鞘を抱えた男性と、身体に釣り合わないギターケースを背負い、雪のように白い髪を靡かせた小学生ほどの小さな女の子、そして氷柱のような半透明の物質によって貼り付けにされた誠の姿があった。
彼女には無数の痣に加え、額に流血した跡があった。話から察するにあの二人から酷い暴行を受けていたことが推測できる。
「とにかく、これからはおれとシープで捕まえてくるから。ノイアさんは氷結担当として頑張ってね」
「娘に諭される日が来るとはな、大きくなったペティを見れて俺は幸せだ。その上着の袖に腕が通るのも時間の問題かもな」
「別に身体は大きくなってないから」そう言ってペティと呼ばれる少女は軽く手を振り部屋の外へ出て行った。
「なあ狐、俺を理解しろとは言わねえ。だが俺にだって果たさないといけない責務があるんだ、お前を悪役になんかさせないからな」そう言って彼もその場を後にした。
私は二人が完全に部屋から出て行くのを確認してすぐさま彼女の方へ向かった。淡い茶色の髪と尻尾が力無く揺れていて見るからに衰弱しきっているのがわかる。このままでは彼らに殺されてしまう、そう思って彼女を助けようと試みた。
「逃げて……」彼女の手に触れようとすると、彼女は小さな声でそう言った。
「ダメ、一緒に逃げるの」
幸い氷柱は彼女の服だけを貫いていた。これなら服の方を切り裂いて脱出できる、そう思い私は彼女の裾を思い切り引っ張った。しかし作りが頑丈なのか思うようにちぎれない。何か切れるものが必要ね
。
「このあたりでハサミとか包丁とか……とにかく衣服を切れるものは無かった?」
「そんなものを探してる時間は無い、一刻も早くここから逃げないとあいつらが来る」震えた声で彼女は続ける。「この目で見たんだ、あいつと子分の二人は普通じゃない。人間のあんたじゃどうすることもできないよ」
「だからと言って友達を見捨てる理由にはならないでしょう」
「人間ってほんっとうに馬鹿、そんな腐った偽善なんて誰も求めてないから」
力の無い人間風情が調子に乗るな、と潤んだ金色の眼を泳がせ彼女は言い放った。
彼女に何を言われようとも関係ない、服が駄目なら今度は氷柱を引き抜けばいいのよ。体温を奪われながら表面に凹凸が無いそれを掴んで引き離そうとするけれど、深く突き刺さっていてこっちもびくともしない。
これも駄目なら破壊するしかない、掴んでいた手を組みなおし、レバーを引く要領で力を入れた。みしみしと氷柱に罅が入っていき、やがて大きな音を立てて粉々に粉砕された。
「うそ、あんたのどこにそんな力が……」
彼女は驚愕した様子でそう言った。けれど所詮は氷の塊、いくら私が人間だからと言ってもそんなに貧弱にできていない。実際私の握力は五十kg以上あるのだし。
「さあ早く、逃げましょう」
彼女に手を差し伸べたその瞬間爆風と共に目の前が真っ白に染められた、一瞬にして彼女が凍らされたのだ。こんなことができるのは奴しか居ない。固唾を飲み込み恐る恐る横を向くと、白い息を吐きながら林檎をかじるノイアが居た。
「せっかく一息つけると思ったのに、目を離したらすぐこれだ。お前らはつきっきりで守ってやらねえといけないのかよ」
彼の飄々とした態度にはらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じる。
力の込められた拳でランタンを持ち上げ彼の顔に向ける、左右に小さく揺れる薄い白色の髪が光を乱反射して虹色に輝いている。まるで髪先までもが人助けをしたヒーローと気取っているようだった。
「……なにが『守ってやる』だ、この人殺しが」
語彙を強めて放った言葉に対し、彼はただほんの少しだけ彼は寂しそうな顔をした。何を考えているのよ、濁った瞳の奥に妙な不信感を覚え後ずさりした音に反応するように彼は言葉を綴った。
「お前が何を思おうが勝手だ、だが俺の計画を邪魔されるわけにはいかないんだ」
彼は背負っていた鞘に手を伸ばし、ゆっくりと刃を露わにしていった。刀身約1.5mの赤黒い大太刀には細く連なった管が白銀色の歯車を隠すように露出していて、私の心臓の鼓動と連動して波打っている。
彼が柄を握りしめると、それは呼応するようにゆっくりと歯車が回転し始め、今まで見えていなかった無数の鋭い刃がけたたましいエンジン音と共に逆立ち一斉に回り始めた。
「覚悟しろよ人間、俺が世界を救った英雄譚を語るその時まで眠っていろ」
逃げないと私に命は無い、考える間もなく私は足を動かしていた。幸い彼の脚には包帯が何重にも捲かれている、翡翠にも勝る持久力を持っている私なら出口さえ見つかれば逃げ切ることなんて容易いはず。
右へ左へと、とにかく我武者羅に屋敷内を駆けまわった。けれど現実はそうもうまくいかないようで、出口らしい出口は見つからず、窓からの脱出も試みたけれど頑丈に作られていて、私の力では罅を作ることさえもできなかった。
体にも限界が近いのか、徐々に彼との距離が近づいていく。心臓の音がうるさいほど鳴り響き、吸う息にも味が付いてきたその時、ランタンから道に一筋の光が差された。マザリノさんが導いてくれている。私は最後の力を振り絞り屋内を走り続けた。
やがて大きな空間に出た。メインホールだろうか、床も壁も天井も真っ白で、まるで雪の世界のようだった。その先には格子状の古いエレベーターがある、都合の良いことにエレベーターは扉が開いたまま静止している。すぐに入ってボタンを押したら間に合うはず、ラストスパートに向けて脚を踏み込んだ、けれど。
「どこ行くの?お姉さん」刹那、耳から雑音が失われた。
カツン、と鉱石を叩いたかのような美しい足音と共に現れた白い影がこちらを見つめる。その宝石のように輝く緋色の瞳が瞬くと、何も持っていなかったはずの右手に小さな氷のナイフが生成され、それを大きく振るった。氷の刃は脇腹を冷たく引き裂き、遅れてやってきた痛みが電流の如く一気に全身を駆け巡り、走っていた慣性のまま床に倒れ込んでしまった。
「あーあ、おれの手汚れちゃったじゃん。どうしてくれるのさ」
傷口から溢れ出てくる血液がナイフを伝い、馬乗りになっているペティの手や袖口、黄緑色のミサンガまでもが赤く染められていた。
「知ってる?血って服についたら落とすのにすっごく苦労するんだよ。あ、お姉さんたちには無縁の話だったかな」そう言って少女は無邪気に笑った。
私はなんとか逃れようともがき続けた、しかし体に上手く力が入らないせいで最悪な現状は変わらず、ただ傷口が広がっていくばかり。こんなところで終わるわけにはいかないのに、まだあの人と話をつけていないのに、絶望に飲まれ目の前が霞んでいったその時だった。
カラン、とどこかで空き缶の転がる音がした。突然の出来事にペティは目を丸くしてその方向に注意が向いた瞬間、大きな破裂音と共に閃光が辺りを貫くように広がっていった。
「はぐう、こ、これはスタングレ――」
ペティが涙を浮かべて必死に辺りを見回した時には既に彼女が居た。音を置き去りにして放たれた拳は、あの小さな身体を吹き飛ばすのには十分すぎる威力で、ばきんと何かが砕ける音と共に少女の身体は空を切り裂きながら大きな柱に衝突し、瓦礫の雪崩に押しつぶされていった。
「一瞬にして氷を作り出せる能力、まるでアニメやゲームの世界観のようだ。実に興味深い」
風に靡く白衣の下で揺れ動く三毛柄の尻尾、迷うことなく一点を見つめる山吹色の眼。未知に対する恐怖など持ち合わせていない、むしろ彼女にとってノイアとペティは興味の対象、暇つぶしの玩具でしかない。
「助けに来てくれたの……?」私は訊く、彼女はただ一言だけ答えた。
「明らかだ」
狂気を含んだ笑顔、でも澄んでいる。確信した、彼女こそが『正義』であると。
「ああ、分かるぞ。お前は何にも変わってないんだな、猫」
「変わっていない?ククッ、面白いことを言うね」彼女は徐に腰から拳銃を取り出しノイアに向ける。「私は君を知らない、確実に」
「そうだろうな、俺が知っているのは昔のお前だ。三本足の小さな子猫だったか」
銃口を前にペラペラと語り出すノイア。彼には恐怖心がないのだろうか、その態度に彼女は眉を顰め引き金にかかる指の力が強まる。
「私たちの要件はただ一つ、ここから解放したまえ。それ以上戯言を続けるのであれば、痛い目を見ることになる」
「痛い目だと?その距離でどうするって言うんだ――」
その瞬間けたたましい砲弾音が鳴り響く、彼女は容赦なくノイアに発砲したのだ。音速を超える速度で放たれた弾丸が辺りの空気を切り裂いて、今まさに目標を貫こうとした瞬間、ノイアを守るように氷の壁が出現した。
「……銃を持っていたのか」
「やっぱり認識していなかったようだね。閃光を喰らっても何も反応していなかったところから違和感を覚えていたよ」銃口から立つ煙が収まった頃、彼女はそれを仕舞い、続ける。「君は全盲なのだろう、だがもしそうなら何故私を猫と呼んだ?」
「言ったはずだ、『分かる』ってな。確かに俺はこの目でお前らの姿を捉えることはできない、だが魂がそこに見えるんだ。何千、何万もの色をつけた魂がな」
尻尾の毛が逆立っている、目が見えないのに見えていると訳のわからないことを言うノイアに警戒しているのだろうか。二人が睨み合う膠着状態の最中、積み上がった瓦礫を掻き分けるようにしてペティが顔を出した。傷ひとつない顔を犬のように振るわせると頬を膨らませてノイアを見た。
「ノーイーアーさーん?こんなに小さくて愛らしい娘が猛獣に襲われたっていうのに心配してくれないのはどうかと思うよ」
「なんだ、痛みはなかったが、何か言うべきだったか?」
「ひっどー、音ゲーマスターのおれだから反応できたけど、常人じゃ今頃顔面ぐちゃぐちゃになってノイアさんのことも守れなかったんだよ。それに相手はあの天才なんだから、無意味な脅しなんてしないことはわかりきってることじゃん」
ぷい、と不機嫌そうに向き直るとペティは背負っていたギターケースを下ろし、押し付けるようにノイアに渡した。
「使わないのか?」ノイアがそう訊くとペティは「曲調に合わないから」と一蹴し、深く息を整えながらこちらに近づいてきた。
「さっきはよくもやってくれたね、お返しに俺と私の芸術に魅せられていってよ」
細い脚に見合わない厚底のブーツが床に触れるたび、結晶が舞い上がり欠片は蝶となり空を舞う。肌にあたる空気が蒼く冷たく変化していく最中、少女はゆっくりと瞼を閉じた。
「忘れられない感動を、その魂に。アンコールなんて必要ないから」
少女は目を瞑ったまま身体を流し始める。ブーツが床に擦れると、クラシック曲調の旋律を奏で始めた。少女の髪が靡くたび、蝶が呼応し羽ばたくたび、その小さな音たちが束ねられ音楽を創り上げていた。
酷く美しい光景だった。役目を終えた蝶たちが崩れ、粉雪のように降り積もっていった結晶が深い蒼色に染まっていく。夢中で舞う少女の姿はまるで夜明けの海に映る白鳥のようだった。
「”第一部静唱:黎明”」
水滴の落ちるような静かな音が辺りに響き渡る。少女の爪先から水紋が広がり、落ちた結晶が一斉に青白く輝き始めた。何かが来る、そう思い身構えたその時、四方から雄叫びを上げながら何かが飛び出してきた。
あれは蛇……いや、螭だわ。四体の螭があたりの結晶をその身に纏いながら大きく飛び上がり、私たちの頭上を互いに交差し合う。そして着水するかのように床に叩きつけられると、纏った結晶たちをその場に大きく打ち上げた。
「芸術の海に……溺れちゃえ!」
打ち上がった結晶たちが高波のようにこちらへ押し寄せてくる。地上からは逃げられない、すると突然白衣の女性が私を背負い5mはあろう結晶の波を軽々と飛び越えた。けれどそんなの予想通りだ、と言わんばかりに大太刀を構え、空中に氷の足場を作りながら切り掛かってくる。いくら彼女の身体能力が高くても空中じゃ避けることはできない。
確実に致命傷を与えるために、私たちよりも少し上で静止したノイアは生成された足場を踏み台にものすごい勢いで飛びかかってくる。それをあろうことか彼女は左腕を構え刃を受け止める姿勢をとった。
刃が腕に触れた瞬間固い物がぶつかり合った音と共に身体に強い衝撃がかかり、私たちは地面へと叩き落とされる。その一瞬で彼女は私への負担を軽減するため抱き抱えるような姿勢になり、足から着地できるよう身体を回した。
「大丈夫なの?!」
思わず声を上げると彼女は余裕そうな笑みを浮かべ左腕をひらひら動かし見せびらかした。袖の切り口から見える銀色の光沢を。
「……鉄板を仕込んでいたのか、してやられた」
ノイアは悔しそうに舌を鳴らす。あの大太刀はさっきの一撃で刃が欠けていた。それをわかっているのかノイアは刀身を摩りながら「無理をさせたな」と労るように言った。
「酷い怪我……今治すから、少し待ってて」
「いい、お前は寝てろ。後は俺がやるからよ」そう言って立ち上がろうとしたペティの頭を抑えると、気味の悪い大太刀を鞘に仕舞い、代わりに散らばった結晶を集めて簡素な剣を作り出した。「お前の残響、借りてくぞ」
「懲りないね。君じゃあ私には勝てない、明らかな結果は出た筈なのに、何故諦めないんだい?」
「決まっている、ノイアは生と死を司る死神だ」大きく息を吸う。「お前らとは背負っている”モノ”が違うんだよ」
ノイアはまた剣を大きく振りかぶる。けれど力の差は明確、愚かな過ちを繰り返すノイアに向け彼女は呆れた様子でふう、とため息をついた。そして内ポケットから透明の液体が入った試験管を取り出すと彼女の心臓めがけて薙ぎ払われる斬撃を身体を折りたたむようにして躱す。普通なら潰れてしまいそうな無理な体制でを彼女はバネのように活用してノイアに飛びかかり、試験管をノイアにぶつけた。ガラスの破片が辺りに飛び散っていく最中、握っていた剣が重力に沿って零れ落ち、その場に膝をついて動かなくなった。
「死神と名乗るものだから”鵲の眼”でも持っているかと思っていたが、拍子抜けしたよ」
さっきまでの戦いが嘘のようにしんと静まり返ったメインホールの様子に耳の鼓膜が強張る。白衣の女性に肩を貸してもらい、エレベーターのボタンを押す。どうやらここは地下一階のようだった。
格子状の扉がゆっくりと閉鎖していくと、奥の方で赤い管みたいなものが蠢いているのを見た。それはさっきまでノイアが振るっていた気味の悪い大太刀から出ているようで、先端の丸く盛り上がったものが徐にこちらを向いた。
「そうか……お前ら、そんな顔をしているんだな。いい顔してやがる……はは」
管の先についているもの、それは目玉だった。自立している視覚から情報を得たノイアは虚しさを感じさせる声を出し口角を上げた、常人にそんな余裕は無いはずなのに。だって彼の顔はさっきの液体によって骨が見えるほどに腐食していたのだから。
扉が閉まり切り、エレベーターが動き始めると、ノイアは手を伸ばした。するとガシャン、と大きな音を立ててものすごい勢いで上昇、いや下降を始めた。重力が逆転した。床に張り付けられた状態のまま高速で景色が移り変わっていき、やがて薄暗い空に放り出されているのがわかった。
息ができない。重力にさらわれる自分の身体を何とか動かして彼女の腕に捕まった。「私にだってキャパシティというものがあるぞ」と言っていたけれど、一人が死ぬよりも二人が大怪我をする方が質的な得だと思った。
間もなくして私たちは地面へと叩きつけられた。大量の埃が待ってよく見えないけれど、どうやら落ちた先は民家のようだ。衝撃で傷口がじんわりと熱くなる、彼女はというと私の下敷きになって苦しそうな顔をしていた。意外と元気そうじゃない。
「大丈夫?怪我とかはなさそうだけれど」
「それ君が言うことかい……」
人一人分の隙間が空くほど変形した扉を這いずって何とか外に出る。ここの家主には申し訳ないことをしてしまったと心の中で懺悔し、小さな食卓テーブルに腰を下ろした。
「君は少し傲慢すぎないか?もう少し遠慮というものを知った方がいい」
「仕方ないじゃない、死にたくなかったから。この恩は倍にして返すつもりだし」
「人間の悪いところを凝縮したような性格だね」
呆れ気味にため息をつく彼女。軽い捻挫をしているのか、少し足取りがぎこちないように見えた。
数十分経っただろうか。傷の治療を終えた私たちはさざ波の音を聴きながら体を休めていた。腹部の傷はあの戦いで負担を掛けていたにもかかわらず浅かったらしく、軽く消毒をしてガーゼを張るだけで終わった。彼女も目立った怪我は無かったようだった。
「にしても、あのノイアってやつ何者なの?氷を操るなんて普通じゃない、しかも視覚障害に痛みまで感じてなかったわ。あんなのが人間の形をしているなんて気味が悪くて仕方ないわ」
「確かに奴は興味深い生き物だった。”死神”と名乗っているのもあの子と関係がありそうだが……結局何も分からなかった」
「あの子って?」
「人の死が見える友人のことさ、非科学的な話ではあるがね。彼女はその眼を”鵲の眼”と言っていてね、片目が黄金色なのだよ」そう言って彼女は左目を指差した。
オッドアイの人間は非常に珍しい、私の知っている人では鵜久森さんが似た眼を持っているけれど、あれはオッドアイというよりか眼に光を宿していないという表現の方がしっくりくる。今までどうしようもない屑で心が腐っているからあんな眼をしているのだと思っていた。
「そういえば名前を聞いていなかった。私は綏操知優、君は?」
「及百合誠羅、誠羅でいいわ」
「誠羅か、良い名前じゃないか」知優は徐に手を差し伸べた。すらりと伸びた綺麗な指をまとめるように握手を交わすと、彼女は家の外に出た。私も追うようにして続くと、線路を挟んだ先に大きなビルが何個も建てられた都市が見えた。けれどそれは人が住むにはあまりにも過酷な環境で、アスファルトは車が通れないほどでこぼこで、建物にはツタが巻き付いていた。
「こんな所にも文明が栄えていたってことよね、どうしてこうなっちゃったのかしら」
「さあね、でも私たちのようにこの世界に迷い込んだ人が居るかもしれないよ」
それに、と彼女は言葉を付け加えて空を指差した。見上げると空は地球の裏側に世界を張り付けたかのように広がるドーム状の地表、そこには左右に大きな都市が、そして何より真上にあるのは白い雪に囲まれた豪邸。その雪はまるで何かから守るかのように綺麗な円形を描いて積もっていた。
「ノイアはまだ生きている。いずれ彼処にも戻ることになるだろう」
知優の差す豪邸、あそこに私たちの求める答えがある。この世界は一体何なのか、あの人たちの目的は、そしてどうして私たちはここに居るのか。飛竜先生はどうして私を……。
「まずは現状把握よね、街に行きましょう」
私たちは歩き出した。疑問のまま問題から目を背けて生き続けるのは何よりも許せないから。