疑問開示
心のどこかで思っていた。自分が見ているものは現実だったのか、と。毎朝食べていたトーストの味は本当にいつも同じ味だったのか、例外のない日常は本当に同じ日常だったのか。どれも微かに違ったのかもしれない。もしかしたらトーストは古くなり味に違いが出ていたのかもしれない、通学路で誰かが転んで大怪我をしていたのかもしれない。しかしそれは当たり前という意識によってかき消されていた。
飛龍鴒霸が殺人を犯しただなんて誰が信じるのだろう。きっと彼を知っているものなら、誠羅のように自分が被害者であっても疑うことを恐れ信じ続けているだろう。彼は当たり前という色に染められていた。優しくて格好がいい、誰もが見習うべき模範解答のような人であるという潜在意識が彼のシルエットに色を付けていた。その上に違う色が付こうとも、それは彼の色ではないと拭き取ってしまうだろう。
神様なんて存在しない。冷たい意識の海の底で崩れていく彼の姿に手を伸ばしながら、身体の行く先を重力に委ね沈ませていった。
ふと肌に小さな温かみを感じた。重い瞼を開けるとそこには闇に飲まれた深海とは真逆の日差しに包まれた小さな喫茶店だった。微かに聞こえてくるコーヒー豆を焙煎する音と水槽のエアーポンプの音が交じり合い、学部室とはまた違う落ち着いた雰囲気を作り出していた。
「お目覚めですか、お客様」
目の前で湯を注ぐ若々しい女性が優しく声をかけてきた。誠羅はてっきり死後の世界に送られていたと思っていたが、自分の手が暖かく火照っているのをみるにどうやらそれも違うようだった。まだぼやけている目を擦りながらここはどこかと尋ねた。
「ここは貴方のような人には縁もゆかりもない場所、と言うべきでしょうか」誰の目にも留まらない平和からかけ離れた世界、と彼女は言った。
確かに誠羅は飛龍に胸と目を切り裂かれた。しかし衣服は普段と同じ顔をしている、身体も何事もなかったかのように呼応し、動いている。まるで悪い夢でも見ていたかのようだった。その話を彼女は黙って聞いてくれていた、気持ちの整理がつかなくて言葉が詰まったときもずっと、静かに。
「信じていたものから裏切られるその気持ち、痛いほど分かります」
彼女は自身をマザリノと名乗った。彼女曰く主人と夫人、そしてその子供二人に加え、マザリノの兄弟たち計七人で村はずれの森に棲んでいたらしい。この喫茶店は主人が贈ってくれた大事な店のようだった。
「お客様、珈琲はいかがですか」
主人が気に入っていたコーヒーを是非飲んでほしいと彼女は言った。誠羅はコーヒーを飲んだことがなかった、昔から苦いものが得意ではなかったから。しかしせっかくだからと一杯だけ頼んでみることにした。
注がれていく真っ黒の液体からは普段翡翠が飲んでいる缶コーヒーと比べ物にならないほどのいい香りが漂ってくる。白い湯気が立ち上るお洒落なカップを出される瞬間までその香りを楽しんでいた。
熱せられたカップの持ち手を軽くつまみ、それを口に含むとほろ苦さが舌の上で溶けていった。苦みの奥に美味しさがある、とはよく言ったものだが、誠羅はその峠を越えることができずカップをその場に戻した。その一部始終をマザリノに見られていたらしく、彼女は私の顔を見てくすりと笑みをこぼした。
「初めはそんなものですよ、ご夫人様も同じような顔をしていました」そう言うと彼女はミルクと砂糖の入った容器を用意した。
ミルクと砂糖を少量加えまた一口、多少飲みやすくなった液体が心地いい音と共に喉を通ると悩みが凝縮されていくのを感じる。誠羅は落ち着きを取り戻し、彼女に訊いた。
「あなたもその人に裏切られたの?」
しん、と空気の重たくなった音がした。彼女は閉じられたままの左目をそっと覆い、そしてゆっくりと吐き出すように話し始めた。
「仕方のないことだったのです」
彼女が仕えていた主人はとある理由で住んでいた町を追い出され、七人は山奥の家でひっそりと暮らしていた。そこであれば人々が蠢く音を聴く心配が無い。しかし近くの村の人々はそれを良しとしなかった。新月の晩、鬱蒼とした木々の中にただひとつだけ松明の灯火だけが目立っていた。それが死神の来訪者だと知らずにマザリノたちは深い意識の中に居た。やがてその灯は七人が住む家へと移り替わり、マザリノたちはなんとか一命を取り留めたものの、子供たちは逃げ遅れ見るも絶えない姿となった。皮膚は爛れ息をすることも苦しい子供たちを助ける手段はマザリノたちに残されていない。せめてもの救いとして、主人は自らの手で子供たちを殺めた。
「私は言いました、生きていればきっと神が救いの手を差し伸べてくれると。しかし主人は理解してくれませんでした」
またこんな思いをする可能性があるなら、いっそのこと切り離した方が子供たちのためになる、と。
誠羅は絶句した。この平和な日本にそんな残酷な出来事があったことに。やはり自分の考えは間違えていなかった。当たり前だと思っていた日常が崩壊するなど簡単な話で、他人事ではない。深淵から足を掴まれないように、その深淵に蓋をするのではなく照らすことが真の平和の方法だと。
飲み終えたカップを彼女に渡した後、椅子から立ち上がり出口へ向かった。誠羅はまた飛龍と話したくなった。きっとマザリノさんのご主人のように自分の正義があったはず、それを認めることができるかわからないけれど、疑問のまま問題から目を背けて生き続けるのが何よりも許せなかったから。
「出かける前にこれを」マザリノは壁に掛けられたランプを持たせると「どうか死なないでください」と言って送ってくれた。
「それと私のことは誰にも公言しないように。その光に神のご加護があらんことを」
扉から出た先は全く別の所につながっていたようで、辺りを見渡すと小綺麗な屋敷のような空間が広がっていた。窓の外には季節外れの雪が降りしきり、反射で室内が白く照らされている。不思議なことにどこか懐かしさを覚えた、遠い昔に来たことがあるような。空気、匂い、感触が脳を通じて記憶の奥底にある硬い扉を叩かれているような感覚だった。ここは夢の世界だろうか。いや、それにしてはあまりにも精巧に出来過ぎている。創作物でありがちな並行世界に転生したとか、そんなところだろうと誠羅は思った。
「ひっどいなあ、無闇に抵抗するからこんなことになるのに」
遠くから微かに少女の声が聞こえた。導かれるようにその方向へ向かうと、地下に通づる階段の奥に大きな扉の前に何か重たいものを引きずったかのような跡が残されていた。妙な不信感を覚えた誠羅は息をひそめて中を確認してみることにした。
「あまり手荒な手は使いたくないとあれほど言ったじゃないか、こいつらが死んでしまったらどうするつもりだったんだ」
「それくらいは加減できるもん。そやって心配ばかりしてさ、自愛しないノイアさんにも責任があるとおれは思うけど」
「なんも言えん」
蠟燭の火が灯された部屋には誠羅と同じくらい大きい鞘を抱えた男性と、身体に釣り合わないギターケースを背負い、雪のように白い髪を靡かせた小学生ほどの小さな女の子、そして氷柱のような半透明の物質によって磔にされた誠の姿があった。彼女には無数の痣に加え、額に流血した跡があった。話から察するにあの二人から酷い暴行を受けていたことが推測できる。
「したら、これからはおれとめえ君で捕まえてくるから。ノイアさんはここでゆっくりしてて」
「娘に諭される日が来るとはな、大きくなったペティを見られて俺は幸せだ。その上着の袖に腕が通るのも時間の問題かもな」
「別に身体は大きくなってないから」そう言ってペティと呼ばれる少女は軽く手を振り部屋の外へ出て行った。「くれぐれもこいつらには気を付けてね」
「なあ狐、俺を理解しろとは言わねえ。だが俺にだって果たさないといけない責務があるんだ、お前を悪役になんかさせないからな」
すぐに戻る、と彼も重たそうな鞘を担ぎながらその場を後にした。
今だ。誠羅はその隙を見計らい誠の元へ駆け寄る。酷く憔悴しきった様子で、首元を触ると体温が急激に低下しているのが分かった、あの氷柱だ。一通り辺りを見回して何か使えそうな道具が無いか探すが、石造りの廊下に都合よく落ちているはずもなく舌を鳴らす。仕方がないので、冷たさに歯を食いしばりつつ自らの手で抜こうと試みる。
「ごめん、痛いだろうけど我慢して」
なぜ誠がこんなとこに居るのか、そもそもここはどこなのか。考えるのは後でいい、と目の前にある氷柱を抜くことだけに専念した。一本、二本と抜くたびに誠の小さな悲鳴を聞くと精神がおかしくなりそうになる。辛いのは誠だって一緖だ、と自分を奮い立たせて足を引きずっている誠の手を掴み、急いでその場を離れようとした。しかし誠はその手を勢いよく振り払った。
「どうして……なんで?! わけわからない場所に連れてこられて、知らない人に殺されそうになって、それなのになんで逃げようとしないの?! あきらめなかったら生き残れるかもしれないのに?!」
誠羅は冷静でいられなかった。友達がこんな酷い目にあって、見つかれば自分もそうなるかもしれない。悪夢のような環境に置かれて冷静さを保てる訳がなかった。自分でも恐縮するほどの怒号に思わず口を覆う。そんな彼女を見て誠は涙を流しながら微笑んだ。
「あたし、あの時翡翠に散々言われてた誠羅のこと見て、本当に哀れだなって思った。でも、理事長室に戻ってチヨ兄が銃を向けてきたときに、本当に哀れだったのはあたしたちの方だったんだって気づいた。ごめんね、誠羅」
「待って……誠っ!」
彼女に手を差し伸べたその瞬間爆風と共に目の前が真っ白に染められた。そこにいたはずの誠は氷の塊に置き換わっていて、今どんな顔をしているのかも分からない。これじゃ誠が言っていたことが嘘か本当かわからない。誠羅は守るものを失い、その場に泣き崩れてしまった。
「せっかく一息つけると思ったのに、目を離したらすぐこれだ。お前らはつきっきりで守ってやらねえといけないのかよ」
彼の飄々とした声にはらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じる。ノイアだ、あいつが誠を殺した、許してはいけない存在だ。力の込められた拳でランタンを持ち上げ彼の顔に向ける。左右に小さく揺れる薄い白色の髪が光を乱反射して虹色に輝き、まるで髪先までもが人助けをした英雄と気取っているようだった。
「……なにが『守ってやる』だ、この人殺しが」
語彙を強めて放った言葉に対し、彼はただほんの少しだけ彼は寂しそうな顔をした。何を考えているのか分からない、濁った瞳の奥に妙な不信感を覚え後ずさりした音に反応するように彼は言葉を綴った。
「人殺し、か。お前がそう思うならそうかもしれないな、だが俺の計画を邪魔されるわけにはいかないんだ」
彼は背負っていた鞘に手を伸ばし、ゆっくりと刃を露わにしていった。刀身約1.5mの赤黒い大太刀には細く連なった管が白銀色の歯車を隠すように露出し、心臓の鼓動のように波打っている。彼が柄を握りしめると、それは呼応するようにゆっくりと歯車が回転し始め、今まで見えていなかった無数の鋭い刃がけたたましいエンジン音と共に逆立ち一斉に回り始めた。
「覚悟しろよ人間、俺が世界を救った英雄譚を語るその時まで眠っていろ」
逃げないと命は無い、考える間もなく誠羅は足を動かしていた。幸い彼の脚には包帯が何重にも捲かれている、翡翠にも勝る持久力を持っている誠羅なら出口さえ見つかれば逃げ切ることなんて容易いはずだ。右へ左へと、とにかく我武者羅に屋敷内を駆けまわった。けれど現実はそうもうまくいかないようで、出口らしい出口は見つからず。窓からの脱出も試みたが、頑丈に作られていて、誠羅の力では罅を作ることさえもできなかった。
体にも限界が近いのか、徐々に彼との距離が近づいていく。心臓の音がうるさいほど鳴り響き、吸う息にも味が付いてきたその時、ランタンから道に一筋の光が差された。マザリノが導いてくれている。誠羅は最後の力を振り絞り屋内を走り続けた。
やがて大きな空間に出た。メインホールだろうか、床も壁も天井も真っ白で、まるで雪の世界のようだった。その先には格子状の古いエレベーターがある、都合の良いことにエレベーターは扉が開いたまま静止している。すぐに入ってボタンを押したら間に合うはず、ラストスパートに向けて脚を踏み込んだ、しかし。
「どこ行くの? お姉さん」刹那、耳から雑音が失われた。
カツン、と鉱石を叩いたかのような美しい足音と共に現れた白い影がこちらを見つめる。その宝石のように輝く浅葱色の瞳が瞬くと、何も持っていなかったはずの右手に小さな氷のナイフが生成され、それを大きく振るった。氷の刃は脇腹を冷たく引き裂き、遅れてやってきた痛みが電流の如く一気に全身を駆け巡り、走っていた慣性のまま床に倒れ込んでしまった。
「あーあ、おれの手汚れちゃったじゃん。どうしてくれるのさ」
傷口から溢れ出てくる血液がナイフを伝い、馬乗りになっているペティの手や袖口、黄緑色のミサンガまでもが赤く染められていた。
「知ってる? 血って服についたら落とすのにすっごく苦労するんだよ。あ、お姉さんたちには無縁の話だったかな」そう言って少女は無邪気に笑った。
誠羅はなんとか逃れようともがき続けた、しかし体に上手く力が入らないせいで最悪な現状は変わらず、ただ傷口が広がっていくばかり。こんなところで終わるわけにはいかないのに、まだあの人と話をつけていないのに、絶望に飲まれ目の前が霞んでいったその時だった。
カラン、とどこかで空き缶の転がる音がした。突然の出来事にペティは目を丸くしてその方向に注意が向いた瞬間、大きな破裂音と共に閃光が辺りを貫くように広がっていった。
「はぐう、こ、これはスタングレ――」
ペティが涙を浮かべて必死に辺りを見回した時には既に彼女が居た。音を置き去りにして放たれた拳は、寸前で生成された氷の壁に防がれるが、ペティにその場から離れさせるほどの威圧感を与えた。
「一瞬にして氷を作り出せる能力、まるでアニメやゲームの世界観のようだ。実に興味深い」
風に靡く白衣の下で揺れ動く三毛柄の尻尾、迷うことなく一点を見つめる山吹色の眼。未知に対する恐怖など持ち合わせていない、むしろ彼女にとってノイアとペティは興味の対象、暇つぶしの玩具でしかない。
「助けに来てくれたの……?」私は訊く、彼女はただ一言だけ答えた。
「明らかだ」
狂気を含んだ笑顔、でも澄んでいる。誠羅は確信した、彼女こそが『正義』であると。
「ああ、分かるぞ。お前は何にも変わってないんだな、猫」
「変わっていない? ククッ、面白いことを言うね」彼女は徐に腰から拳銃を取り出しノイアに向ける。
「私は君を知らない、確実に」
「そうだろうな、俺が知っているのは昔のお前だ。よくもまあそんなに偉くなったものだ」
銃口を前にペラペラと語り出すノイア。彼には恐怖心がないのだろうか、その態度に彼女は眉を顰め引き金にかかる指の力が強まる。
「私たちの要件はただ一つ、ここから解放したまえ。それ以上戯言を続けるのであれば、痛い目を見ることになる」
「痛い目だと? その距離でどうするって言うんだ――」
その瞬間けたたましい砲弾音が鳴り響く、彼女は容赦なくノイアに発砲したのだ。音速を超える速度で放たれた弾丸が辺りの空気を切り裂いて、今まさに目標を貫こうとした瞬間、ノイアを守るように氷の壁が出現した。
「……銃を持っていたのか」
「使いに守られることを信じて慢心的な態度を取っていたと思っていたが、その反応、やっぱり認識していなかったようだね。閃光を喰らっても何も反応していなかったところから違和感を覚えていたよ」銃口から立つ煙が収まった頃、彼女の視線はノイアを貫く。「君は全盲なのだろう、だがもしそうなら何故私を猫と呼んだ?」
「言ったはずだ、『分かる』ってな。確かに俺はこの目でお前らの姿を捉えることはできない、だが魂がそこに見えるんだ。何千、何万もの色をつけた魂がな」
尻尾の毛が逆立っている、目が見えないのに見えていると訳の分からないことを言うノイアに警戒しているのだろうか。二人が睨み合う膠着状態の最中、ペティはその小さな身体を前に出して言う。
「今とか昔とか、そんなことどうでもいい。ノイアさんに手出しするようなやつは、このおれが許さない」
ペティは背負っていたギターを抱えると、飾らないデザインのギターケースが藍色の結晶へと変わりながら散布し、中身を露わにした。黒と白色で構成されたシックなデザインのエレキギターだ。
「忘れられない感動を、その魂に。アンコールなんて必要ないから」
細い脚に見合わない厚底のブーツが床に触れるたび、結晶が舞い上がり欠片は蝶となり空を舞う。肌にあたる空気が蒼く冷たく変化していく最中、少女はゆっくりと瞼を閉じた。蝶はその羽で空気を擦り、クラシック曲調の旋律を奏で始めた。少女の髪が靡くたび、蝶が呼応し羽ばたくたび、その小さな音たちが束ねられ音楽を創り上げていた。
酷く、美しい光景だった。役目を終えた蝶たちが崩れ、粉雪のように降り積もっていった結晶が深い蒼色に染まっていく。そこに佇む少女の姿はまるで夜明けの海に映る白鳥のようだった。
「”第一部静唱:黎明”」
水滴の落ちるような静かな音が辺りに響き渡る。少女は先ほどの美しい音色とは全く別、エレキギターを力強く引きならすと爪先から水紋が広がり、落ちた結晶が一斉に青白く輝き始めた。何かが来る、そう思い身構えたその時、四方から雄叫びを上げながら何かが飛び出してきた。あれは蛇……いや、螭だ。四体の螭があたりの結晶をその身に纏いながら大きく飛び上がり、誠羅たちの頭上を互いに交差し合う。そして着水するかのように床に叩きつけられると、纏った結晶たちをその場に大きく打ち上げた。
「芸術の海に……溺れちゃえ!」
打ち上がった結晶たちが高波のようにこちらへ押し寄せてくる。地上からは逃げられない、すると突然白衣の女性が誠羅を背負い5mはあろう結晶の波を軽々と飛び越えた。しかしそんなの予想通りだ、と言わんばかりに大太刀を構え、空中に氷の足場を作りながら切り掛かってくる。いくら彼女の身体能力が高くても空中じゃ避けることはできない。確実に致命傷を与えるために、誠羅たちよりも少し上で静止したノイアは生成された足場を踏み台にものすごい勢いで飛びかかってくる。それをあろうことか彼女は左腕を構え刃を受け止める姿勢をとった。
刃が腕に触れた瞬間固い物がぶつかり合った音と共に身体に強い衝撃がかかり、誠羅たちは地面へと叩き落とされる。その一瞬で彼女は誠羅への負担を軽減するため抱き抱えるような姿勢になり、足から着地できるよう身体を回した。
「大丈夫なの?!」
思わず声を上げると彼女は余裕そうな笑みを浮かべ左腕をひらひら動かし見せびらかした。袖の切り口から見える銀色の光沢を。
「……鉄板を仕込んでいたのか、してやられた」
ノイアは悔しそうに舌を鳴らす。あの大太刀はさっきの一撃で刃が欠けていた。それをわかっているのかノイアは刀身を摩りながら「無理をさせたな」と労るように言った。
「酷い怪我……今治すから、少し待ってて」
ペティはかなり顔の血色が悪くなっており、鼻から血を流している。とても戦えそうな体調とは思えなかった。
「いい、お前は寝てろ」
ノイアは立ち上がろうとしたペティの頭を抑えると、気味の悪い大太刀を鞘に仕舞い、代わりに散らばった結晶を集めて簡素な剣を作り出した。
「懲りないね。君じゃあ私には勝てない、明らかな結果は出た筈なのに、何故諦めないんだい?」
「決まっている、ノイアはこの世界の秩序を司る神だ」大きく息を吸う。「お前らとは背負っている”モノ”が違うんだよ」
ノイアはまた剣を大きく振りかぶる。しかし力の差は明確、愚かな過ちを繰り返すノイアに向け彼女は呆れた様子でふう、とため息をついた。そして内ポケットから透明の液体が入った試験管を取り出すと彼女の心臓めがけて薙ぎ払われる斬撃を身体を折りたたむようにして躱す。普通なら潰れてしまいそうな無理な体制でも彼女はバネのように活用してノイアに飛びかかり、試験管をノイアにぶつけた。ガラスの破片が辺りに飛び散っていく最中、握っていた剣が重力に沿って零れ落ち、その場に膝をついて動かなくなった。
「死神と名乗るものだから”鵲の眼”でも持っているかと思っていたが、拍子抜けしたよ」
さっきまでの戦いが嘘のようにしんと静まり返ったメインホールの様子に耳の鼓膜が強張る。白衣の女性に肩を貸してもらい、エレベーターのボタンを押す。どうやらここは地下一階のようだった。格子状の扉がゆっくりと閉鎖していくと、奥の方で赤い管みたいなものが蠢いているのを見た。それはさっきまでノイアが振るっていた気味の悪い大太刀から出ているようで、先端の丸く盛り上がったものが徐にこちらを向いた。
「そうか……お前ら、そんな顔をしているんだな」
管の先についているもの、それは目玉だった。自立している視覚から情報を得たノイアは虚しさを感じさせる声を出し口角を上げた、常人にそんな余裕は無いはずなのに。なぜなら彼の顔はさっきの液体によって骨が見えるほどに腐食していたのだから。
扉が閉まり切り、エレベーターが動き始めると、ノイアは手を伸ばした。するとガシャン、と大きな音を立ててものすごい勢いで上昇、いや下降を始めた。重力が逆転したのだ。元々立っていたところに張り付けられた状態のまま高速で景色が移り変わっていき、やがて薄暗い空に放り出されているのが分かった。
息ができない。誠羅は重力にさらわれる自分の身体を何とか動かして彼女の腕に捕まった。「私にだってキャパシティというものがあるぞ」と言っていたが、一人が死ぬよりも二人が大怪我をする方が質的な得だと誠羅は思った。
間もなくして誠羅たちは地面へと叩きつけられた。大量の埃が待ってよく見えないが、どうやら落ちた先は民家のようだ。衝撃で傷口がじんわりと熱くなる、彼女はというと誠羅の下敷きになって苦しそうな顔をしていた。意外と元気そうだ。
「大丈夫? 怪我とかはなさそうだけれど」
「それ君が言うことかい……」
人一人分の隙間が空くほど変形した扉を這いずって何とか外に出る。ここの家主には申し訳ないことをしてしまったと心の中で懺悔し、小さな食卓テーブルに腰を下ろした。
「君は少し傲慢すぎないか? もう少し遠慮というものを知った方がいい」
「仕方ないじゃない、死にたくなかったから。この恩は倍にして返すつもりよ」
「人間の悪いところを凝縮したような性格だね」
呆れ気味にため息をつく彼女。軽い捻挫をしているのか、少し足取りがぎこちないように見えた。
数十分経っただろうか。傷の治療を終えた誠羅たちはさざ波の音を聴きながら体を休めていた。腹部の傷はあの戦いで負担を掛けていたにもかかわらず浅かったらしく、軽く消毒をしてガーゼを張るだけで終わった。彼女も目立った怪我は無かったようだった。
「にしても、あのノイアってやつ何者なの? 氷を操るなんて普通じゃない、しかも視覚障害に痛みまで感じてなかったわ。あんなのが人間の形をしているなんて気味が悪くて仕方ないわ」
「確かに奴は興味深い生き物だった。”死神”と名乗っているのもあの子と関係がありそうだが……結局何も分からなかった」
「あの子って?」
「人の死が見える友人のことさ、非科学的な話ではあるがね。彼女はその眼を”鵲の眼”と言っていてね、片目が黄金色なのだよ」そう言って彼女は左目を指差した。
オッドアイの人間は非常に珍しい、誠羅の知っている人では鵜久森が似た眼を持っているたが、あれはオッドアイというよりか眼に光を宿していないという表現の方がしっくりくる。今までどうしようもない屑で心が腐っているからあんな眼をしているのだろうと誠羅は思っていた。
「そういえば名前を聞いていなかった。私は綏操知優、君は?」
「及百合誠羅、誠羅でいいわ」
「誠羅か、良い名前じゃないか」
知優は徐に手を差し伸べた。すらりと伸びた綺麗な指をまとめるように握手を交わすと、彼女は家の外に出た。誠羅も追うようにして続くと、線路を挟んだ先に大きな建物が何個も建てられた都市が見えた。しかしそれは人が住むにはあまりにも過酷な環境だった。アスファルトは車が通れないほどでこぼこで、建物にはツタが巻き付いている。
「こんな所にも文明が栄えていたってことよね、どうしてこうなっちゃったのかしら」
「さあね、でも私たちのようにこの世界に迷い込んだ人が居るかもしれないよ」
それに、と彼女は言葉を付け加えて空を指差した。見上げると空は地球の裏側に世界を張り付けたかのように広がる地表、そこには左右に大きな都市が、そして何より真上にあるのは白い雪に囲まれた豪邸。その雪はまるで何かから守るかのように綺麗な円形を描いて積もっていた。
「ノイアはまだ生きている。いずれ彼処にも戻ることになるだろう」
知優の差す豪邸、あそこに誠羅たちの求める答えがある。この世界は一体何なのか、ノイアたちの目的は、そしてなぜ誠羅たちはここに居るのか。飛龍はなぜ誠羅に手をかけたのか……。
「まずは現状把握よね、街に行きましょう」
誠羅たちは歩き出した。疑問のまま問題から目を背けて生き続けるのは、何よりも許せないから。




