エピローグ:幸せな日常
早朝。いつも通り目覚ましが鳴る五分前に目が覚める。ベッドメイキングをし、カレンダーで今日の予定を確認する。これも毎日欠かしていないルーティーン。テキパキと着替えを済ませ、焼きたてのトーストを口へと運ぶ。何ひとつ変わらない味にも飽き慣れていた。
また当たり前の日常が始まる。普通に学校へ行き、普通に友達と話し、普通に帰る。誰もが通ってきた普通の学園生活、例外なんて存在しない。レールが引かれた通学路を踏み歩きながら、イヤホンを耳に装着した。
【おはようございます。今朝のニュースをお伝えします。今年度の犯罪係数が発表されました。日本の犯罪率は0%で、これは世界各国の中でもトップの結果であると……】
「お、は、よーっ、誠羅!」
突然肩を叩かれる。またあの子ね、声のした方向へ目を向けると、見慣れた肩幅ほどの白い翼をパタパタさせ笑う導歩翡翠がそこに居た。
「今日もニュース?さすが、私の親友ちゃんは真面目だなあ」
「別にそうでもない。聞いていても大した情報なんて入ってこないから」
現に翡翠と雑談している間に、イヤホンから聞こえてくる声は全く別の話題へと切り替わっていた。
それもそのはず、私たちが住んでいる日本ではあらゆる事件・事故が起こらない。少なくとも私が生きてきた十七年間は見たことも聞いたこともなかった。もし「世界で一番平和な国は」と訊かれたら、誰もが真っ先に日本と答えるでしょう。それほどに日本は人類が求める理想郷であると言える。なぜこんなにも不幸を抑制できているのか。それは誰にもわからない、理解しようともしない。翡翠も含めて皆『当たり前』として処理していた。
「そういえば、もうすぐ新入生が来る時期だよね。うちの学部にも入ってくれる人居るかな」
「どうかしら。裁縫学部でしょう?それだったらデザイン学部とか縫製学部とかの選択肢があるし……」
「カジュアルなのがいいじゃん。テキトーでも先生は注意してこないし」
「もう二年生になるのだから、少しは将来のことも考えなさいよ」
「はーい、善処しまーす」
この人はいつもそう。どんな分野においても最高峰の教育を施す常和学園に通っていながら、何かを頑張るわけでもなく、ただ適当に時間を消費している。いくら成績上位者とはいえ、そこだけは気に食わない。
「そういう誠羅こそ将来何になりたいとかあるの?」
「私は昔から変わらないわよ」
私はこの平和な世界が大好き。せっかく生まれてきたのに不幸になるなんておかしいもの、そんなことあってはならないのよ。だから天に誓った。私の夢は不幸な人間をなくすこと。世界の人々が人間らしく生きられるように。
翡翠と話していると不思議と時間を忘れてしまうもので、学園直通のバス停についたのは出発の三分前。今日こそは、と最後尾に並ばないよう毎回早く寮を出ているのに、彼女の手に掛かれば、ギリギリの時間につくように歩幅を合わせることなんて容易いことなのでしょう。
バスの扉が開き、生徒たちが続々と乗車していく。一年も同じバスに乗っているのだから、誰がどこに座るのかがある程度決まってくる。そこの活発なグループは一番後ろの席に、クラスでもおとなしい松田さんは一番前の一人席で本を読み始めている。私たちは翡翠がマイペースな関係上前の方の二人席が定位置だった。
バスの扉が閉まる音がすると、辺りの景色が動き始める。コンビニ袋から朝ご飯を取り出しかじりつく翡翠を尻目に、私は読みかけの小説を読むためにスマホを弄り始めた。
「ねえ、飛龍先生って知ってる?」
ふと真後ろから話し声が聞こえてきた。普段は人の話を盗み聞きするようなことはしないのけれど、『飛龍』という名前が出たので気まぐれでその話に耳を傾けることにした。
「あー確か去年新任で入ってきた人だよね。それがどうしたの?」
「最近その先生がイケメンってクラスで話題なのよ。この前理事長室に入ってくの見たんだけど、もうとにかく声も顔もカッコよくて。まるで王子様みたいだったの」
「へえ、愛海ちゃんがそんなに言うくらいなんだから相当だね。確か社会政治学部担当だったよね、先生目当てで入ってもいいかも」
「本当それ!飛龍先生になら私の人生捧げても会っていたいもの。このことを入学当初に気付けていれば私だって……」
ぺチッ、と膝を叩かれる感覚がした。
「あんまりニヤニヤするなよ」横を見ると翡翠がメロンパンを頬張りながら不機嫌そうな顔をしていた。「これ、気持ち悪いからやめな」
頬をつねられて初めて自分の口角が上がっていることに気がついた。仕方ないじゃない、飛龍先生は私の先生、それでいて社会政治学部は私一人しか居ないのだから専属の先生と言っても過言ではない。そんな人が褒められているのは我が身のように喜ばしいことなの。
程なくしてバスは目的地に到着した。私と翡翠がバスを降りると、そのまま次の地点へ走り去っていった。
「さてと、今日も一日頑張りますか」翡翠は大きく背筋を伸ばし、骨をポキポキと鳴らして言った。こういう時はだいたい漫画を一気読みするか、ゲームの修行をしているか。翡翠は好きなことだけ頑張る主義だから。
「行こうか、翡翠」生徒たちの群れを追うように、私たちは教室へ向かった。
常和学園では週に一度通常授業の代わりに一日中学部授業で組まれている日がある。今日はその日。朝礼を終えた後、翡翠を除いたクラスメイトが一秒も無駄にしまいとそれぞれの学部教室へと駆け足で向かっていく。もちろん私もその一人。
私が所属している社会政治学部は本校から徒歩五分ほど離れた比較的新しい学部等に設置されている。社会学部の標識が付けられた扉を開けると爽やかな紅茶の匂いが鼻を抜ける。清潔感のある白いカーテンが揺れるベランダからは眩しい朝日が差していて、電気をつけなくとも明るくて非現実的な空間のように思える。音楽プレイヤーから流れるクラシック曲と微かに聴こえる鳥たちの囀りがさらにその感覚を加速させる。
「おはようございます」
ガラス製のテーブルでくつろいでいる男性に声をかけると、持っていたティーカップを置き応えた。
「おはよう、及百合」
着こなされた白色のワイシャツに赤色のネクタイ、シワなどのだらしなさなんて一切なく『王子様』と呼ばれるのも頷ける風格ね。翡翠の先生とは大違いだわ。見惚れているのも程々に私は上着と荷物を置き、彼の対面に腰を下ろした。
「今日先生の話題が出ていましたよ」
「ほう、どんなのだ?」
「あなたの格好がいいという話」
「私がか?まさか、奇特には負けるさ」
雑談をしている間に彼は用意していたティーカップに新しく紅茶を注ぎ、私に差し出してくれた。謙虚な姿も生徒から好感を得られる理由でしょうに、彼は全く気付いていない。生徒が私だけなのが勿体無い。
少し前私は彼に恋心を抱いていることを知った。彼は生徒が一人だからと翡翠の先生のように無碍にするわけでもなく、むしろ私を親身に扱ってくれた。強い豪雨の日には寮まで送り迎えをしてくれて、体調が悪い時にはその一日付きっきりで看病をしてもらうこともあった。
新任の教師は新しい環境というのもあり、周りと比べて忙しいと言うのは珍しくない。彼もその一人のはずなのに、自分の時間を削りながら私に手を焼いてくれる。そんな彼を特別視するのに時間は掛からなかった。生徒と教師間で恋仲になるのは不可能だって私でも理解できる。叶わぬ恋であっても私は彼のことが好きだった。
「今日の授業内容について話そうか」
先生は紅茶を片手に口を開いた。彼が引き出しから取り出した分厚い封筒の中身を確認すると、そこには世界各国の事件・事故について事細かに記された資料が過去数年分同封されていた。軽く目を通しても、そのほとんどが私の知る事実ではなかった。こんな貴重な情報をいったいどこから仕入れてきたのかしら。
「今の日本は不幸こそ起こっていないもの、世界では平和と言えるほどの治安を持ち合わせていない。世界中の統計で言えば先月だけで5万件を優に超えているんだ。その中には犠牲者だって存在している。今日の課題は日本が平和な理由とそれをどう世界に応用するかを考えることだ」
「世界の常識に迫る、ということですね」
「君は賢い人間だ。良い答えを見つけ出せることを期待している」
日本にあって世界にはないものと言ったら、翡翠のような巫女の存在が挙げられるでしょう。過去に本で得た知識では、『巫女は縁様が生物の契約を交わし、その力を人間に受け継がせた姿』と記述されていたのを覚えている。形は様々で、翡翠のように翼が生えている者も居れば耳や尻尾に特徴が見られる者も居る。その殆どが私たちのような人間よりも能力が優れていて、学園の成績トップ者のほぼ全てが巫女で独占されている。でも、それを非科学的な『神様』のせいにしていることが、どうしても納得いかなかった。
私は早速聞き込み調査をしてみることにした。裁縫学部の標識が付けられた扉を軽く叩き部屋に入ると、社会学部のような爽やかな香りとは全く違う部屋中に染みついた刺激臭が鼻を突いた。
「まだタバコなんか吸っているの……鵜久森さん」
着ればいいんでしょ、と言いたげなほど大雑把に着られたYシャツ。ネクタイに至っては締めているのではなく首に巻いていると言う表現の方がしっくりくる杜撰な格好をしている彼を尻目に、翡翠は黙々と漫画を読んでいた。
「そんなの俺の勝手だろ、学園内は禁煙だとも言われていないしな」
喫煙の邪魔をするな。彼にとってタバコというのは空気そのもので、それを否定されるといつもそう口を尖らせる。確かに喫煙自体は法律上二十歳以上なら個人の自由。問題は学園内、しかも翡翠が一緒に居る空間で吸っていることなのに、彼はくたびれた視線を向ける。色を失い、くすんでいるあの右目で。
「当たり前すぎて定められていないだけです。そもそも喫煙なんて世界でもあなたくらいしかしていませんよ」
耳を塞いで聞こえないふりをしているのか、彼はまた息をするように煙を吐き出した。
「もういいです、今日はあなたに用があってきたのではないので」
私は一刻も早くこの空間から出たいことを一心に、翡翠の袖を掴んで引きずるようにして部屋を後にした。「今いいところだからもう少し待ってよお」と戯言を吐いている翡翠の意見は聞かないようにした。
外の空気がこんなにも美味しいとは、当たり前の日常にも感謝すべきね。汚れてしまった肺を洗い流すかのように深呼吸を何回も繰り返してから翡翠に話しかけた。
「あんな空間にいてよく生きてられるわね。少し居ただけでも気分が悪くなったわ」
「慣れだよ、慣れ。住めば都とも言うしね」間違っていないはずなのに、どうも違和感が拭えない。日本語って本当に不思議ね。
「ところでなんでこっちに来たの?」
私は翡翠に世界の不幸を払拭する方法を探るべく、巫女の存在について調べていることを話した。巫女は非常に不思議な生物。見た目も体の構造も全てが人間に酷似しているのに、力も知恵も全てが人間を上回っている。医学的根拠も存在していない今、本やインテーネットで調べるよりも直接本人に訊いてみるのが最善策だった。けれど彼女は明確な答えを出さずに小さく笑った。
「そんなのわかんないよ」私たちよりずっと頭の良い人たちが果てしない時間をかけてわからないなら、考えても無駄。だから神様のせいにして考えるのをやめたんじゃないかな、と。翡翠の言っていることが間違っているとは言わない。でもそんな理由でたまたま恵まれた環境に生まれた私たちが、問題から目を背けて生き続けるのが何よりも許せなかった。
こんな回答じゃダメ、そう思って私はもう一人の友人がいる理事長室へと向かった。……でも本当に彼女に任せてもいいのかしら。いや、細かいことは後で考えればいいわ。
「失礼します」
扉を軽く叩き部屋に入ると、ひと昔前の家具でそろえられた小さな空間が辺りに広がる。相変わらず、ここは理事長室というよりかは理事長部屋という表現の方が近い。特別な香りはしないけれど、どこか安心感のある場所だった。
「やあ。どうしたのかな、誠羅ちゃん」
机の上に置かれている山積みの資料、理事長の奇特先生はいつもここで忙しそうに仕事をしていた。それでも、生徒には疲れた顔を一切見せず、今のような笑顔を絶やさない。生徒の授業すらしない鵜久森さんにはぜひ見習ってほしい存在だわ。
「誠に用事があってきました」
私はすぐそこの長椅子に座っている友人、水聖誠に目を向ける。彼女は鈴蘭の花瓶が置いてある机で黙々と折り紙を折っていた。
「ねえ、訊きたいことがあるんだけど……」
私が声をかけると、彼女はびくっと身体の毛を立たせ、大きくなった黒目をこちらに向けた。
「な、なんだよお。また連中がからかいに来たのかと思った」
「驚かせるつもりはなかったの。ごめんね」
私は誠の緊張をほぐすため、隣にゆっくりと座り、何を折っているのかを訪ねた。どうやら水仙という花を折っているらしい。相変わらず彼女の折り紙は折り目がきれいで寸分の狂いもない。紛れも無い彼女の才能なのだけれど……。
「そういえば、この前の中間考査クラス順位一位だったんだ!前日に考査のこと思い出してちょろっと勉強しただけなのに。馬鹿にしてたやつも目を丸くして『チート使っただろ!いい加減にしろ!』とか言っちゃって。笑っちゃうよ、どっちが本当の馬鹿なんだよーって」
瞳の潤いが増している。そう、彼女はほら吹きだった。いつもはクラス単位でみても中の下くらいなのに、前日に取ってつけたような知識で通用するほどこの学校は甘くない。恐らく彼女のことだから、一教科の点数だけが周りと比べてよかったからという事実に尾鰭を付けて話しているのだと思う。彼女の意図はわからないけれど、そんなもの追及したところで彼女が不愉快になるだけだと私は理解していた。
彼女の眼を見れば嘘をついているのかある程度察することができるけれど、たまに彼女自身も嘘をついていることに気が付かなくて眼では判断できないことがある。やっぱり彼女を頼るのは間違った選択かもしれない。そう思って私は徐に席を立った。
「あれ、訊きたいことがあるんじゃないの?」
「あなたの様子を見に来ただけよ。いつも通り元気そうで安心した」
部屋から出ようと扉に手を掛けると突然奇特先生が私を呼び止めた。
「最近何か変わったことはあるかな、非日常を体験したとか。良いことでも悪いことでも」
「変わったこと……かは分からないですけど、今学部課題のテーマが変わって『世界の不条理』について研究しているんです」
「へえ……そっか。良い課題をもらったね。頑張って、僕も何かあれば全力でサポートするから」
君たちは僕の家族だから。それが彼の口癖だった。
翡翠と別れた後、日が暮れるまで学園内を駆け回り、目につく巫女全員に同じ質問を投げかけた。けれど誰一人として望んだ答えを出してくれる人は居なかった。考えすぎ、今が平和ならそれで良い、そんな言葉を何度も聞いた。
どうして、私たち以外で疑問に思っている人は居ないの?日本が発信している情報でも海外を取り上げることなんて普通にある。それなのに、私たちにはいいところばかりを見せ、肝心なことは教えてくれない。さらに私が事実を伝えようとも、彼女たちはどこか他人事で一切向き合おうとする気概を感じられなかった。自分が良ければそれでいいの?本当に気持ちが悪い集団ね。
私は煮え切らない思いを飲み込み、飛龍先生にまっさらなレポート用紙を提出した。
「期待してくださったのに、本当にごめんなさい」
「謝ることではない、ヒントすらも提示できないこちら側にも責任があるからな」そう言って彼は赤ペンでAの文字を描いた。「疑問を開示し、解決に向けて努力した君を評価するよ」
優しい温もりを頭に感じた、彼が私の頭を撫でている。ゆっくりと前後する感覚はとても心地が良くて、不安な気持ちが一気に解消された。明日こそは彼の想いに応えたい、この時間はその時まで取っておこう。私はそっと彼の手を払いのけて感謝の意を伝えた。
「少し話がしたい」彼が畏まった様子で椅子から立ち上がり、私の目を見て言った。
「実は私も君と同じような仮説を立てていてだな、実験をしてみることにしたんだ」
「実験……?どういうことですか?」
「自ら平和を乱す実験さ」
そう言って彼はバックから綺麗な箱を取り出した。空気が重苦しく変化したのを肌で感じられた。今までの飛龍先生とは違う、彼はこんなに狂気に満ち溢れた顔をしていただろうか。恐る恐る箱の中身を確認する、入っていたのは鮮血が付着したナイフだった。
「先生……一体何を……」
「賢い君なら私の考えも理解できるだろう?」彼はにやりと笑い言った。「殺してみたんだよ。それも、人目の付く繁華街で何人も」
あまりにも理解に苦しむ言葉だった。飛龍先生が人を殺めただなんて、何かの冗談に決まっている。だって彼は出会った頃からずっと平和な世界を作ろうと言っていたのだもの。理解りたくない、彼の顔を見ることさえも身体が拒否していた。
「頼みがあるんだ」ナイフを手に取り近づいてくるのがわかった。「私と一緒に平和を取り戻さないか?」
私は肩を振るわせたまま何も言えなかった。彼に裏切られた事実が毒素のように身体を巡り、思うように言葉をなさなかった。咽び泣く私の姿を見て、彼はそっと頭に手を置いた。
「革命には血が必要なんだ」
風切音と共に飛んできた銀色の閃光が私の胸に突き刺さった。燃え上がるような痛みの最中彼の顔を見る、いつもと同じようにさわやかな笑顔を絶やさない彼を見て私は絶望した。こんなにも痛くて苦しいのに、感情がぐちゃぐちゃに引き裂かれて声を上げることも許されない。
私が信じていたものはなんだったの?重力に押さえつけられ、動かなくなっていく身体と共に、深い絶望の海に包まれていった。