エピローグ:幸せな日常
早朝、いつも通り目覚ましが鳴る五分前に目が覚める。ベットメイキングをし、カレンダーで今日の予定を確認する。これも毎日欠かしていないルーティーン。テキパキと着替えを済ませ、焼きたてのトーストを口へと運ぶ。誠羅は何ひとつ変わらない味に飽き慣れていた。
また当たり前の日常が始まる。普通に学校へ行き、普通に友達と話し、普通に帰る。誰もが通ってきた普通の学園生活、例外なんて存在しない。レールが引かれた通学路を踏み歩きながら、イヤホンを耳に装着した。
【おはようございます。今朝のニュースをお伝えします。今年度の犯罪件数が発表されました。日本の犯罪率は0%で、これは世界各国の中でもトップの結果であると……】
「お、は、よーっ、誠羅!」
突然肩を叩かれる。またあの子ね、と声のした方向へ目を向けると、見慣れた肩幅ほどの白い翼をパタパタさせ笑う導歩翡翠がそこに居た。
「今日もニュース?さすが、私の親友ちゃんは真面目だなあ」
「別にそうでもない。聞いていても大した情報なんて入ってこないから」現に翡翠と雑談している間に、イヤホンから聞こえてくる声は全く別の話題へと切り替わっていた。
それもそのはず、誠羅たちが住んでいる日本ではあらゆる事件・事故が起こらない。少なくとも誠羅が生きてきた十六年間は見たことも、聞いたこともなかった。もし「世界で一番平和な国は」と訊かれたら、誰もが真っ先に日本と答えるだろう。それほどに日本は人類が求める理想郷であると言える。なぜこんなにも不幸を抑制できているのか。それは誰にも分からない、理解しようともしない。翡翠も含めて皆『当たり前』として処理していた。
「そういえば、もうすぐ新入生が来る時期だよね。うちの学部にも入ってくれる人居るかな」
「どうかしら。裁縫学部でしょう?それだったらデザイン学部とか縫製学部とかの選択肢があるし……」
「カジュアルなのがいいじゃん。テキトーでも先生は注意してこないし」
「もう二年生になるのだから、少しは将来のことも考えなさいよ」
「はーい、善処しまーす」
翡翠はいつもそうだ。どんな分野においても最高峰の教育を施す常和学園に通っていながら、何かを頑張るわけでもなく、ただ適当に時間を消費している。いくら成績上位者とはいえ、そこだけは気に食わない、と誠羅は小さく鼻を鳴らした。
「そういう誠羅こそ将来何になりたいとかあるの?」
「私は昔から変わらないわよ」
誠羅は思う。私はこの平和な世界が大好き。せっかく生まれてきたのに不幸になるなんておかしいもの、そんなことあってはならないのよ。だから天に誓った。私の夢は不幸な人間をなくすこと。世界の人々が人間らしく生きられるように。
翡翠と話していると誠羅は不思議と時間を忘れてしまう。学園直通のバス停についたのは出発の三分前、今日こそは、と最後尾に並ばないよう毎回早く寮を出ているのに、彼女の手に掛かれば、ギリギリの時間につくように歩幅を合わせることなんて容易いことなのだろう。
バスの扉が開き、生徒たちが続々と乗車していく。一年も同じバスに乗っているのだから、誰がどこに座るのかがある程度決まってくる。あの活発なグループは一番後ろの席に、クラスでもおとなしい暗町は一番前の一人席で本を読み始めている。二人は翡翠がマイペースな関係上前の方の二人席が定位置だった。
バスの扉の閉まる音がすると、辺りの景色が動き始める。
「お腹すいたあ。もくもく」
コンビニ袋から朝食を取り出しかじりつく翡翠を尻目に、誠羅は読みかけの小説を読むためにスマホを弄り始めた。
「ねえ、飛龍先生って知ってる?」
ふと真後ろから話し声が聞こえてきた。普段は人の話を盗み聞きするようなことはしない、しかし誠羅は『飛龍』という名前が出たので気まぐれにその話に耳を傾けることにした。
「あー確か去年新任で入ってきた人だよね。それがどうしたの?」
「最近その先生がイケメンってクラスで話題なのよ。この前理事長室に入ってくの見たんだけど、もうとにかく声も顔もカッコよくて。まるで王子様みたいだったの」
「へえ、愛海ちゃんがそんなに言うくらいなんだから相当だね。確か社会政治学部担当だったよね、先生目当てで入ってもいいかも」
「本当それ! 飛龍先生になら私の人生捧げても会っていたいもの。このことを入学当初に気付けていれば私だって……」
ぺチッ、と膝を叩かれる。
「あんまりニヤニヤするなよ」横を見ると翡翠がメロンパンを頬張りながら不機嫌そうな顔をしていた。「これ、気持ち悪いからやめな」
誠羅は頬をつねられて初めて自分の口角が上がっていることに気がついた。仕方のないことだった、飛龍は誠羅の先生、それでいて社会政治学部は誠羅一人しか居ないのだから専属の先生と言っても過言ではない。そんな人が褒められているのは誠羅にとって我が身のように喜ばしいことだった。
程なくしてバスは目的地に到着した。二人がバスを降りると、そのまま次の地点へ走り去っていった。
「さてと、今日も一日頑張りますか」
翡翠は大きく背筋を伸ばし、骨をポキポキと鳴らして言った。こういう時はだいたい漫画を一気読みするか、ゲームの修行をしているか。翡翠は好きなことだけ頑張る主義であるから。
「行こうか、翡翠」
生徒たちの群れを追うように、二人は教室へ向かった。
常和学園では週に一度通常授業の代わりに一日中、学部授業で組まれている日がある。今日はその日だった。朝礼を終えた後、翡翠を除いたクラスメイトが一秒も無駄にしまいとそれぞれの学部教室へと駆け足で向かっていく。誠羅もその一人だった。
誠羅が所属している社会政治学部は本校から徒歩五分ほど離れた比較的新しい学部等に設置されている。社会学部の標識が付けられた扉を開けると爽やかな紅茶の匂いが鼻を抜ける。清潔感のある白いカーテンが揺れるベランダからは眩しい朝日が差していて、電気をつけなくとも明るい。非現実的な空間のように思える。音楽プレイヤーから流れるクラシック曲と微かに聴こえる鳥たちの囀りがさらにその感覚を加速させる。
「おはようございます」
ガラス製のテーブルでくつろいでいる男性に声をかけると、持っていたティーカップを置き応えた。
「おはよう、及百合」
飛龍鴒霸、着こなされた白色のワイシャツに赤色のネクタイ、シワなどのだらしなさなど一切なく『王子様』と呼ばれるのも頷ける風格。翡翠の先生とは大違いだと誠羅は感嘆する。見惚れているのも程々に誠羅は上着と荷物を置き、彼の対面に腰を下ろした。
「今日先生の話題が出ていましたよ」
「ほう、どんなのだ?」
「あなたの格好がいいという話」
「私がか? まさか、奇特には負けるさ」
雑談をしている間に彼は用意していたティーカップに新しく紅茶を注ぎ、誠羅に差し出した。謙虚な姿も生徒から好感を得られる理由だろう、しかし彼は全く気付いていない。生徒が私だけなのが勿体無い、と誠羅は思う。
少し前、誠羅は彼に恋心を抱いていることを知った。彼は生徒が一人だからと翡翠の先生のように無下にするわけでもなく、むしろ親身に扱った。強い豪雨の日には寮まで送り迎えをして、体調が悪い時にはその一日付きっきりで看病をすることもあった。新任の教師は新しい環境というのもあり、周りと比べて忙しいというのは珍しくない。彼もその一人のはずなのだが、自分の時間を削りながら手を焼いてくれる。誠羅はそんな彼を特別視するのに時間は掛からなかった。生徒と教師間で恋仲になるのは不可能だと誠羅は理解している。叶わぬ恋であったとしても、誠羅は彼のことが好きだった。
「今日の授業内容について話そうか」飛龍は持っていたティーカップを置き話し始める。「先週話していた内容は覚えているか?」
「はい、海外での事件、事故が日本に比べて圧倒的に多いことについてですよね。統計を見る限り地域によって治安、環境が作用して多少なりとも数にばらつきがありましたが、どの国も日本のように安全と呼べるような国は過去にも存在しませんでした。……やっぱりこれは世界が危険というよりも、日本が安全すぎると考えた方が良いのでしょうか」
「なら日本は他の国と何が違う?」
「何が違う、ですか……」ふと翡翠の顔を思い浮かべる。「やはり巫女の存在でしょうか。けれどそれがどういった影響を与えるのか分かりません」
「分からないのなら調査すると良い。今日一日時間をあげよう、それまでに巫女について知識をつけること。これからの議題に少なからず関与する存在であることは間違いない」
飛龍はそう言うと大量の資料が入った大きなバッグを抱え部屋を後にしようとする。
「どこかに出かけるのですか?」
誠羅が軽く尋ねると飛龍は重たそうな足取りを止めた。
「少し奇特に頼まれていたことをね」誠羅に向けられていた視線が静かに落ちる。「君を一人にしてしまうことは申し訳ないと思っている。やらなければいけないことなんだ」
たった一日、それだけの時間。誠羅は気にしないでという吐きかけた言葉を飲み込んだ。なぜだがそんな安い言葉をかけてはいけないと思った。
「帰る時は連絡をください。美味しいシュークリーム屋を知っているんです」
そう言って誠羅は飛龍を見送った。大好きな先生のためにも、自分のやるべきことを果たそう。先生のためになるのなら、どんなことだって。
巫女とは日本にしか居ない人間の形をした生物だ。過去に本で得た知識では、『巫女は縁様が生物の契約を交わし、その力を人間に受け継がせた姿』と記述されていたのを誠羅は覚えていた。形は様々で、翡翠のように翼が生えている者も居れば耳や尻尾に特徴が見られる者も居る。その殆どが誠羅たちのような人間よりも能力が優れていて、学園の成績トップ者のほぼ全てが巫女で独占されている。でも、それを非科学的な『神様』のせいにしていることが、誠羅はどうしても納得いかなかった。
誠羅は早速聞き込み調査をしてみることにした。裁縫学部の標識が付けられた扉を軽く叩き部屋に入ると、社会学部のような爽やかな香りとは全く違う部屋中に染みついた刺激臭が鼻を突いた。
「まだタバコなんか吸っているの……鵜久森さん」鵜久森樹哉、着ればいいんでしょ、と言いたげなほど大雑把に着られたYシャツ。ネクタイに至っては締めているのではなく、首に巻いていると言う表現の方がしっくりくる杜撰な格好をしている彼を尻目に、翡翠は黙々とテレビゲームに勤しんでいた。
「そんなの俺の勝手だろ、学園内は禁煙だとも言われていないしな」
喫煙の邪魔をするな。鵜久森にとってタバコというのは空気そのもので、それを否定されるといつもそう口を尖らせる。確かに喫煙自体は法律上二十歳以上なら個人の自由。問題は学園内、しかも翡翠が一緒に居る空間で吸っていることなのに、彼はくたびれた視線を向ける。色を失い、くすんでいるあの右目で。
「当たり前すぎて定められていないだけです。そもそも喫煙なんて世界でもあなたくらいしかしていませんよ」
耳を塞いで聞こえないふりをしているのか、彼はまた息をするように煙を吐き出した。
「もういいです、今日はあなたに用があってきたのではないので」
誠羅は一刻も早くこの空間から出たいことを一心に、翡翠の袖を掴んで引きずるようにして部屋を後にした。「今いいところだからもう少し待ってよお」と戯言を吐いている翡翠の意見は聞かないようにした。
外の空気がこんなにも美味しいとは、当たり前の日常にも感謝すべきだと思う。汚れてしまった肺を洗い流すかのように深呼吸を何回も繰り返してから翡翠に話しかけた。
「あんな空間にいてよく生きてられるわね。少し居ただけでも気分が悪くなったわ」
「慣れだよ、慣れ。住めば都とも言うしね」間違っていないはずなのに、どうも違和感が拭えない。日本語とは本当に不思議なものだ。「ところでなんでこっちに来たの?」
誠羅は翡翠に世界の不幸を払拭する方法を探るべく、巫女の存在について調べていることを話した。巫女は非常に不思議な生物だ。見た目も体の構造も全てが人間に酷似しているのに、知恵も力も全てが人間を上回っている。医学的根拠も存在していない今、本やインターネットで調べるよりも、本人たちに直接訊いてみるのが最善策だった。どんな小さな情報でも、何かと手掛かりになると思った。けれど彼女は明確な答えを出さずに小さく笑った。
「そんなのわかんないよ」
私たちよりずっと頭の良い人たちが果てしない時間をかけてわからないなら、考えても無駄。だから神様のせいにして考えるのをやめたんじゃないかな、と。
翡翠の言っていることが間違っているとは言わない。しかしそんな理由でたまたま恵まれた環境に生まれた人たちが、問題から目を背けて生き続けるのが誠羅は何よりも許せなかった。
こんな回答じゃ駄目、そう思い誠羅はもう一人の友人がいる理事長室へと向かった。……でも本当に彼女に任せてもいいのかしら。いや、細かいことは後で考えればいい。
「失礼します」
扉を軽く叩き部屋に入ると、ひと昔前の家具でそろえられた小さな空間が辺りに広がる。相変わらず、ここは理事長室というよりかは理事長部屋という表現の方が近い。特別な香りはしないが、どこか安心感のある場所だった。
「やあ。どうしたのかな、誠羅ちゃん」
机の上に置かれている山積みの資料、理事長の奇特知千陽春先生はいつもここで忙しそうに仕事をしていた。それでも、生徒には疲れた顔を一切見せず、今のような笑顔を絶やさない。生徒の授業すらしない鵜久森さんにはぜひ見習ってほしい存在だ。
「誠に用事があって来ました」
誠羅はすぐそこの長椅子に座っている友人、水聖誠に目を向ける。彼女は鈴蘭の花瓶が置いてある机で黙々と折り紙を折っていた。
「ねえ、訊きたいことがあるんだけど……」
誠羅が声をかけると、彼女はびくっと身体の毛を立たせ、大きくなった黒目をこちらに向けた。
「な、なんだよお。また連中がからかいに来たのかと思った」
「驚かせるつもりはなかったの。ごめんね」
誠の緊張をほぐすため、隣にゆっくりと座り、何を折っているのかを訪ねた。どうやら水仙という花を折っているらしい。相変わらず彼女の折り紙は折り目が綺麗で寸分の狂いもない。紛れも無い彼女の才能なのだが……。
「そういえば、この前の中間考査クラス順位一位だったんだ!前日に考査のこと思い出してちょろっと勉強しただけなのに。馬鹿にしてたやつも目を丸くして『チート使っただろ!いい加減にしろ!』とか言っちゃって。笑っちゃうよ、どっちが本当の馬鹿なんだよーって」
瞳の潤いが増している、彼女はほら吹きだった。いつもはクラス単位でみても中の下くらいなのに、前日に取ってつけたような知識で通用するほどこの学校は甘くない。恐らく彼女のことだ、一教科の点数だけが周りと比べてよかったからという事実に尾鰭を付けて話しているのだと思う。彼女の意図はわからないが、そんなものを追及したところで彼女が不愉快になるだけだと誠羅は理解していた。
彼女の眼を見れば嘘をついているのかある程度察することができるが、たまに彼女自身も嘘をついていることに気が付かなくて眼では判断できないことがある。彼女を頼るのは多少心もとないが、翡翠と同じような質問をしてみた。
「巫女……?あんまりそういうのはわかんないかなあ。あたしそういうことには無縁だし……痛っ!」
誠が小さく悲鳴を上げると半べそをかいて奇特の元に駆け寄る。どうやら折り紙で自分の指を切ってしまったようだ。
「まったくよそ見するから。すぐ消毒してあげるからね」
奇特は安らかな声で誠を宥める。その面倒見の良さとほがらかな性格から、先生と呼ばれるよりチヨ兄と呼ばれることの方が多い。飛龍とはまた違う系統として生徒に愛されている存在だ。
「ごめんね誠羅ちゃん、せっかく訪ねてきてくれたのに。鴒霸もまあ難しい課題を出したものだね」
「ご存じだったのですか?」
「僕と鴒霸の仲だからね、君のことはよく聞かされているよ。……もし僕でよければ力になるけど、どうかな」
「それなら、お願いしてもいいですか?」
奇特はその言葉を聞きにやりと笑った後、徐に右手の人差し指を立てる。
「ジュース一本、誠ちゃんに奢ってあげて」
「わ、わかりました」
奇特は山積みになっている資料のひとつを取り出す。
「僕は鴒霸みたいに研究している訳じゃないんだけど、教師としてある程度生徒の特徴をまとめているんだ。例えば君なら学習能力、言語化能力に長けていて、授業中にも積極的に疑問点を発言する。特に僕が受け持っている英語の授業は日常生活では全く使わないものだから、君と他の人たちでは明確な点数の差が出ているね。とまあこんな感じにまとめているんだけど、君の言っている巫女の特徴といえば……明確な個性を持っていることかな。巫女の中でも頭が良かったり、運動神経に優れていたり、独創的な思想を持っていたり。巫女の中で似ている人があまり居ないっていうのが僕の印象かな」
「個性……ですか」
誠羅は思い出す。毎日のように口車に乗せられ、思うがまま操られる翡翠との日々。縁様が何かしらの目的でその個性を与えたのだとしたら、一体何のために、日本の治安にどう影響を与えるのか。彼女には全く想像がつかなかった。
「じゃああたしは?! あたしは何が優れてるの?!」
「誠ちゃんは……うーん、活発なところかな」
「そんだけ?!」
「まあ、そんなところかな。百円にしては良い情報をあげたと思うけど、どうかな」
奇特は笑顔で誠羅に問う。しかし誠羅の表情が晴れることはなかった。
「ごめんなさい、あんまり理解できませんでした」
「大丈夫、まだ時間はたっぷりあるから。僕の言葉を胸にしまってゆっくり考えると良いよ」
悶々とした空気を切り裂くように、頭上から鐘の音が響く。時刻は十二時を指していた。
「おっと、もうこんな時間か。僕はお先に失礼するよ、樹哉と昼ごはんを食べる約束をしているんだ」
奇特が荷物をまとめて部屋を出る時、必要なら部屋にある資料を見ても構わないと言った。ただし条件はふたつ、個人情報を無闇に漏洩させないことと、部屋の角にある衣装ケースには触れないこと。どうやら今朝汚したばかりのスーツが入っているようだった。
昼食時には食堂を利用する生徒がほとんどだ。学園内ではコンビニ感覚で利用できる購買所の他に食を購入する場所はここしかない。それも約三百円で豊富なメニューを選べるのだから、味に飽きるということもほとんどない。常に金欠な学生において常和学園の食堂はまさに楽園そのものだった。
誠羅は誠に頼まれていたメロンソーダと自分の好きな天ぷら蕎麦を注文していつもの席に戻った。
「まーた蕎麦か! 入学当初から毎日毎日、いい加減にしろ!」
先に座っていた翡翠が口を尖らせて言う。
「そういうあなたも、毎日毎日ハンバーグ弁当じゃない」
「ハンバーグじゃありませんー、豆腐ハンバーグですー」
はあ、とどうでもいい主張にため息が出る。
翡翠は昔から偏食気味だった。カロリーや栄養価の偏る食事を極端に避け、昼食時には学食を利用せずいつも弁当、それも豆腐やもやし、きゅうりなど俗に言う精進料理しか食べない。今朝食べていたメロンパンだって最近発売の人工甘味料を使用した低カロリーメロンパンだった。そんな食生活でよくもまあ活力的に生活できるものだと誠羅は常々思う。
「ごめーん! 遅れちゃった!」
ひょこひょこと忙しなく駆け寄ってくる誠のお盆には、渡したお金で買ったであろうオレンジジュースと溢れそうなほど盛られたどんぶりがふたつ見える。親子丼とかつ丼だ。彼女は翡翠とは対照的にいつも味の濃いものを気が向くまま食べている。育ち盛りの子供みたいな人だ。
「うげえ、今日はいつにも増して食べるねえ。今日はなんかいいことあった?」
翡翠がそう訊くと誠は得意げにさっき話していた自慢話を語り始める。時々内容の相違点があったことはご愛敬だ。翡翠もいつものことか、とその話を真に受けることなく、適当な相槌を返していた。一通り話し終えると、その重たそうなお盆をテーブルに置く。その時にふと誠羅は誠の指に焦点を当てた。すらりと伸びた綺麗な指、傷跡なんか最初から無かったかのように消えていた。
「指、さっき怪我してなかった?」
ぽつりと口ずさむように訊くと、彼女は不思議そうに首をかしげて言った。
「もう治ってるよ。消毒してもらったし、なんかあった?」
「いや、別に……」
誠羅は自分の指を軽く握る。普通の人間であれば、たかが紙による切り傷程度でも一日くらいは傷跡が残る。今まで怪我を負ったことなんて幼い頃に数えるほどしか経験していないが、それが常識であると知っているし、巫女も同じだと思っていた。突出した修復能力、それはこの安定した人間社会において全く必要のない能力だった。もし必要になるとしたら、この平和な日常が崩壊した時、あるいはその要因となる物への……。
「おーい」翡翠が視界の中で手を振る「蕎麦、伸びるよ」
「ああ、うん」
かろうじて発した生返事につられ、意識が蕎麦の方に行く。暖かいつゆを目一杯吸って膨張した麺は、噛んだだけですぐにこと切れ腰のある触感とは程遠かった。
「真面目なのはいいことなんだけどさあ、あんまり根気詰めるのもよくないよ。今生きている時間が平和で幸せ、これ以上何を求めてるんだかって私は思うけどね」
「でも、世界ではまだ苦しんでる人が居る、それは紛れも無い事実でしょ。ひいては私たちの暮らしだっていつ変わるかわからない。そんな未来を私は想像したくない」
翡翠が食事を終え箸を置く。
「お前は何? 神様にでもなろうとしてるの? 言っておくけど、一個人がそんな努力しても、世界は動かないから」
呆れた、と弁当を風呂敷に包んで言うと、ちょうど食事を終えた誠を連れて席を立つ。巫女なのに、力があるのにそうやって自分のことしか考えない翡翠に誠羅は引き絞るように声を出す。
「翡翠は……死ぬのが怖くないの?」
入り混じった感情、思い、考えが凝縮された一言だった。論理的な自分らしくない、会話ではなくただの悲鳴だった。それに対して翡翠はいつものはにかむような笑顔を見せつけるように言った。
「私、死なないよ。だって死んだことないし」
その後、日が暮れるまで学園内を駆け回り、巫女に関する情報を漁った。しかしどの本を、資料を読んでも決定的な情報を掴むことはできなかった。メモ帳に箇条書きされた巫女の特徴は空白の方が目立ち、それを見て何度も自分の不甲斐なさに嫌気がさす。どうして、私たち以外で疑問に思っている人は居ないの。日本が発信している情報でも海外を取り上げることなんて普通にある。それなのに、私たちにはいいところばかりを見せ、肝心なことは教えてくれない。さらに私が事実を伝えようとも、彼女たちはどこか他人事で一切向き合おうとする気概を感じられなかった。
『一個人がそんな努力しても、世界は動かないから』
翡翠の言葉を脳天を突き刺すように反芻する。自分さえよければそれでいい、だから無駄なことはしない、自分に関係ないことは蓋をして綺麗な部分だけを見続ける。そんな考えで良い訳が無い、そんな考えじゃ一生変わらない。何も変えられない。
暴走する思考の最中、普段鳴ることのない携帯電話から一通の連絡が届く。
『もうすぐ戻る』飛龍からだった。誠羅は急いで買っておいたシュークリームを抱えて学部室に戻った。柔らかいソファーに腰かける頃には、不思議と入り乱れていた思考が落ち着きを取り戻し、飛竜鴒霸という名前だけが残されていた。
彼が戻るまで誠羅は忙しなく身体を動かした。軽く掃除機をかけてみたり、花瓶の位置を調整したり、彼のために紅茶も入れておいた。やることが無くなれば暗くなってきた窓の外を眺め、今か今かと彼の帰宅を待っていた。
十九時を過ぎた頃、雨脚が強くなり室内まで音が聞こえてきた時だった。部屋の扉の開く音がした。間違いなく飛龍先生だ、そう思い誠羅は彼の元へ急いで駆け寄った。しかし目に映ったのはいつものような気品のある飛龍ではなく、今朝よりもずっと窶れ、長い間雨に打たれていたのか服から水滴が滴るほどずぶぬれになっていた姿だった。
誠羅は戸惑いつつもタオルを取ってこようとした。しかし飛龍はその場から動かないよう言った後、書類の入ったカバンを投げ捨てる。異様だった。何事にも丁寧で品のある彼がそんな乱暴なことするはずない。全身の血が重力に沿って落ちていくのを感じる。嫌な予感が的中しないことを願って誠羅は口を開いた。
「お疲れですよね……荷物は私がやっておきますので、まずはお風呂を……」
「その必要はない。ただでさえ気持ちの整理に想定以上の時間を使ってしまった。今終わらせなければならない」
「終わらせる……? 仕事の話なら今日はもうやめておきましょう? 先生は十分頑張りましたから」
飛龍は誠羅の言葉なんか聞こえていないかのように、いや聞かないようにしてポケットから手の平サイズの箱を取り出す。その箱に入っていたのは折りたたまれた薄刃のナイフだった。彼が刃を露出させると同時にその用途を誠羅は察してしまった。理由は分からない、しかしこの瞬間日常狂いなく動かし続けていた歯車が動きを止めたことだけは理解してしまった。
「なあ及百合、怖くないと言ってくれ。この光景がなにもおかしくないということを、今ここで証明してくれ」
言葉が出なかった。あれだけ何を話そうか、どんな言葉を使おうか考えていたのに、今頭にあるのは。
「……嫌です」逃避の言葉、ただそれだけだった。
「本当に、残念だ」
飛龍がゆっくりと近づいてくる。その事実と刃から逃げる手段は、彼女には無かった。
熱を帯びた痛みが胸から全身に広がっていく、この感覚は誠羅にとって想像を絶する苦痛だった。なぜ自分がこんな目に合うのか、日常を疑問視するのがそんなにいけないことだったのか。なぜ日常を当たり前として杜撰に扱っていた人が明日を迎えられて、私は殺されなければいけないのだ。と、疑問が頭を駆け巡る。しかしその答えを導き出す前に身体が立つという常識を忘れてしまった。視界がぼやけていく最中飛龍の顔を見る。彼もまた人を、大切な自分の生徒を刺したという事実に怯えているようだった。
永遠と思える苦しみに耐えつつも飛龍と会話を試みる。しかし、思ったように声が出ない。痛みに喘ぐ誠羅の姿に飛龍は再び赤く染まった刃を向ける。
「殺すならせめて人間として君を殺したかった……」横たわった誠羅に馬乗りになる。「私のことをいくら憎もうが、怨もうが構わない。しかし今居る自分を見失うな、真実を見つめ続けろ。革命には血が必要なんだ……!」
そして彼女の涙で濡れた目に向かって思い切り刃を振り下ろす。自分が信じて追っていた存在は一体何だったのか。右目に異物が侵入した感覚を最後に、彼女は意識を失った。




