第28話 霧の向こうから
――それは今から、100年以上昔の話。
ある研究機関に所属する学者であったコエンドロは、以前からその気難しい性格により、友人はおらず学問に没頭する日々を送っていた。
エルフの長すぎる人生を埋めるのに、研究ほど有意義なものはないとコエンドロは考えていた。
言語学、魔法学、考古学、数学、暗号学……コエンドロは次々に、成果を挙げて一定の地位を築いていた。
のちの恋人となるサフランとは、内紛の最中で出会った。
この内紛について、コエンドロは政治的な強い意見を持たなかった。
ただ、暗号解読などの与えられた仕事をこなし、それが結果としてある権力者に有利に働いたが……最終的にはそのことが彼を大陸からの追放に繋がった。
コエンドロにとって大事な記憶は、その任務中に会った1人の女性の学者との交流だった。
それがサフラン――彼女もその長い生涯をかけて多くの学問を修めた秀才だった。
2人は秘密の任務の最中に、2人だけの秘密のやり取りを行った。
それはオリジナルの暗号を使ったメッセージの交換だった。
きっかけは、どちらが優れているかの大人げない意地の張り合いだったが、気付くとそれが殺伐とした生活の中での数少ない癒しとなっていた。
2人ほど優れた頭脳を持つ人間は周囲におらず、暗号が読み取られることは1度もなかった。
『今度、向こう側に言って名産品を食べましょう』
『君のために花束を用意したよ。帰りにオフィスの中庭を見てごらん』
『愛してる。この戦争が終わったら、一緒の家に住もう』
2人だけの宇宙で交信をしているような感覚は、奇妙な高揚と、泣きたくなるほどの温かさをくれた。
やがて、心の交流を越えて、2人は同じ時間を重ねるようになった。
あの日……故郷を追われた日も、2人は暗号の手紙でやり取りをした。
『向こうの大陸に着いたら、今度こそ一緒に住んで好きな研究に没頭しよう』
『航海中も毎日あなたのことを思ってる。夜になったら必ず、2人の無事を北の1番大きな白い星に祈っているわ』
そんなやり取りを最後に、2つの船は別々の航路をいった。
それから、40年が経った……。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「ようやく、会えたね……」
コエンドロは船内にある棺の前で膝まづいた。
棺の中には静かに眠る愛しいの人の顔と、痩せ細った腕が見えた。
サフランの遺体はプラタナスの魔法により、そのままの形で保管されていた。
「……コエンドロ」
ハモニエがコエンドロの肩に手を置く。
「ティリスは?」
「向こうで眠ってたよ」
「……そうか。陸地に戻ったら、埋葬してやろう」
コエンドロは穏やかな顔で立ち上がった。
そのとき、ふと、頭の中に小さな引っ掛かりが生まれた。
振り返り、サフランの遺体をよく見る。
その手の甲に、よく見ると薄っすらと記号が描かれている。
「……もしかして、暗号? ごめん。無意識に読んじゃった」
「構わん。それにこれは暗号でも何でもないわい」
コエンドロはその手の甲に掛かられた記号……それは、かつて2人で政府のオフィスを抜け出して食べに行った名産品を売っていた店のマークだった。
『もしも、わたしたちが死んで、そのとき何らかの理由で離ればなれだったら……ここに集合して、一緒にこの料理を食べましょう』
『そんなに気に入ったのかい?』
『うーん。でもね、あのレストランから見る景色が凄いよかった』
『そうだね。最期に見るのがあの光景なら……きっと悪くない』
コエンドロは涙を手で拭うと、サフランに向けて微笑みかけた。
「まったく、よほど腹が減っていたんじゃな」
涙で滲む視界の向こうで、サフランが手を振っているのを見た気がした。




