✤出来なかった言い訳✤
淡々と語る紫子さんのその言葉を、僕は遮ることが出来なかった。
だって、半分は本当の事だったから。
確かに僕は、あの時玖月善女さまと共に、市房神社の淵に身を投げた。
……身を投げた……と言うか本当は、【身を投げた玖月善女さまの後を追った】と言った方が正しい。
別に『一緒に死のう!』とか思ったわけじゃないし、玖月善女さまもそこまでは求めていなかった。
指の血を舐めたのだって、強制されたわけじゃない。どうにかその痛みを和らげようと、傷を癒そうと、思わず僕が舐めちゃっただけだ。
本当は助けたかった。
だけど他の猫よりデカくなった僕だけど、それでも僕はただの猫でしかなくって、人よりかは遥かに小さいそんな猫に、いくら小柄だと言っても人間一人を淵から引っ張り出す……なんて事、できるわけもなく、当然、玖月善女さまを助けることに失敗した。
『……』
僕は紫子さんにもらった飲み物を、ゆっくりと覗き込む。
硝子のコップの中では、可愛らしい小さいな金色の花が踊ってた。
玖月善女さまが大好きだった薄黄木犀。それにひどく似通ったその花を見ると、僕は悲しくなる。
玖月善女さまが飛び込んだ淵は、そんなに深いものじゃない。
窮屈な着物姿でも、立てば簡単に足がつく。
……そんな深さだった。
だけど生きる気力を完全に失って、もうずっと何も食べていなかった玖月善女さまは既に限界が近かかったし、僕は僕で、水の苦手なただの猫。
結果は初めから、目に見えていた。
それなのに僕は、玖月善女さまをどうにか救おうと無謀にも頑張って、そして力尽きて気を失った。
でも、死んだわけじゃない。気を失っただけだ。
結局僕は、死ななかった。
しばらくしてから、市房神社の神主さんがやって来た。
入水自殺を図った玖月善女さまとそれから僕を見て、神主さんは大慌てで人を呼んだ。
だけど険しい山の中にある神社だったから、人手が来るまでずいぶん時間が掛かった。
神主さんは人を呼びに行く前に、僕たちをできる限り岸にあげてくれていたから、僕はそれで助かったのに違いない。
残念な事に玖月善女さまは既に息絶えていて、……僕だけが、僕だけが生き残ってしまった。
でも気絶していたから……全然動かないから、死んだと思われたのかも知れない。だからあの時僕も、玖月善女さまと一緒に、お墓に入ったんだ。
暗く冷たいお墓の中。
だけど当時はまだ土葬だったからね。
丸い大きな蓋付きの桶に玖月善女さまと一緒に入れられて、少し出来たその空間の中で、僕は生きながらえることが出来た。
しばらくして僕は気がついて、すぐにそこから這い上がり、今に至るってわけ。
……這い上がった跡がついてたはずだから、これも【化け猫伝説】に拍車を掛けたかもしれないけれど。
……今思えば、多分僕は【猫】じゃなかったんだろうと思う。
ううん。
正確には、生まれた時は猫だったかも知れないけれど、余りにも壮絶なこの状況に置かれて、妖怪にでもなったのかも知れない。
じゃなきゃ、いくら桶の中で生きていたからって、ちっこい猫如きが、蓋付きの……しかも地中の棺桶から抜け出して、地上まで出てこれるはずがない。それにこんなにも長い年月を、死なずに過ごす……なんてこと、どう考えたって無理だから。
『……』
盛誉が亡くなってからの玖月善女さまは、本当に痛々しかった。
……だけど誓って『誰かを呪う』……なんてことはしていない。それだけは確かだ。
口に出しては言ってたよ?
『玉垂! 相良の者を呪い殺してしまえ!』って。でもあれは、半ば面白がって言っていた。半分本気、半分冗談。
そうやってどうにかこの世に、しがみついていたのかも知れない。
──玖月善女さまは、相良家を呪っている。
……そう思わせたかったみたいだから。
『……』
あんなに優しかった玖月善女さまが、誰かを呪う……なんて、そんな事できるはずがない。冗談で口に出して、それでもその事実に心を痛めていた。
僕は今でも、そう思っている。
仮にも玖月善女さまが誰かを呪ったと言うのなら、それはきっと、自分自身だったんじゃないかなって思う。
盛誉の心を動かせなかった自分に対して、ひどく後悔していたから。
『……』
あの頃の玖月善女さまは、会えなくなった自分の子どもたちに向けて、文を書いていた。
『情勢が思わしくない。逃げなさい』と。
けれど盛誉は逃げなかった。
自分は冤罪であり、悪いことなどしていない。だから普門寺での謹慎にとどまりますと。そう言って聞かなかった。
けれどその反面、自分の兄宗昌さまを普門寺から追い出した。
『ここは寺。武士が居座る場所ではない』
と。
本当に、ハチャメチャだよね?
盛誉らしいと言うか、なんと言うか……。
後から聞いた話によると、兄の宗昌さまは烈火のごとく怒ったそうだ。
けれどそれを家臣たちが宥め、宗昌さまは日向国(宮崎県)へと逃れた。
宗昌さまは、湯山の棟梁。失う訳にはいかないから。
そしてその後すぐだ。
盛誉に追っ手が掛かったのは。
妙な話で、長く生きているとあの時の状況を事細かに知ることが出来た。
それによると、追っ手を差し向けたのは領主の四郎さまではなくて、五歳年上の四郎さまの姉上千満さまだった。
千満さまは、穏やかで心優しい弟の四郎さまをそれはそれは大切にしていたらしい。
他国へ人質として差し出され、帰ってからは叔父の謀反に晒され、今まさに家臣からの攻撃を受けようとしている。
それが千満さまには許せなかった。
少しの憂いも、打ち消してやろうと躍起になっていたんだ。
「僧と言えども幼き我が弟を貶めるなど、断じて許せぬ!
かの織田信長さまを見よ! あのように大きな寺……延暦寺を焼き払ったが、未だ健在ではないか! 神罰など恐るるに足りず!
不届き者であれば、僧であろうと何であろうと、討たれて当然。
弟忠房の代わりに妾が命じる! 逆臣、盛誉を討て!!
討って、その寺ごと燃やしてしまえっ!」
温和な弟と違い、気性の激しい千満さまは、よく調べもせずに兵を送り出した。
時は一五八二年三月。
盛誉が討たれたその三ヶ月後には、その織田信長も本能寺で討たれたと言うから、妙な話もあるものだと思う。
四郎さまは、自分の姉が成敗隊を勝手に派遣したと聞いて、驚いた。
そりゃ驚くよね。
忠房さまのお姉さんの千満さまは、知らなかったのかも知れないけれど、湯山の領地からは、『絶対濡れ衣なので、それを宣言してくれ』との請願書がいくつも上がっていたし、盛誉は元々【人徳者】として有名だった。
明らかに冤罪。だけど他の地頭からはあまりよく言われていない。謀反の疑いには、それ相応の罰を! との声もあった。
だから四郎さまとしては、どうしたものかと悩んでおられたんだ。
当時【僧】と言えば、それなりに敬うべき存在で、今と違って神仏も、生活にはなくてはならない存在だ。
だから延暦寺を焼き払った織田信長も、当時はかなり、批判されていた。
それを十かそこらの子どもが、謀反の疑いがあるからと言って、簡単に出来るものでもない。
代替わりしてすぐにそんな事をすれば、民心は離れていく。それだけは避けたかったはずだ。
世の中の仕組みをよく分かっていない千満さまだからこそ、織田信長の行動だけを見て、それを引き合いに出し、盛誉を討っても何も起こらない……と武士たちを鼓舞することが出来た。
だけどさ、あの延暦寺焼き討ちは、ちょっと意味合いが違うんだよね。
延暦寺は本当にもう、廃れていた。
あのお寺には……いや、あの お寺のある比叡山には、もう誰も住んではいなかったんだ。名ばかりになった僧たちは勝手に山を下り、普通に生活していたんだから。
自分の気持ちを押し隠し、周りの人たちの事ばかりを考えて生活していた盛誉とは、わけが違うんだ。
その事は公にはされていなかったから、遥か九州の地にいた千満さまが知らなかったのは仕方がないにしても、それを引き合いに出してに兵たちを奮い立たせたのだけは、許せない。
盛誉は、あんな堕落した僧たちとは違うんだから……!
……ただ、釈然としない状況が、ここにはある。
四郎さまの傍には、重鎮の方々が控えていた。
幼い領主と言えども、助言する者など沢山いたはずなんだ。
だから、『冤罪だ』と言う湯山の領地の者の話を、信じるべきか信じないべきか、そんなことは簡単に答えが出たはずだ。
なのに盛誉たちは生殺しのように無視され、ずっと謹慎していた。
その事実に、何か陰謀めいたものを感じずにはいられない。
もしかしたら、盛誉が目障りだと思う重鎮が、四郎さまの傍にいたのかもしれない。
だから謹慎中の盛誉へ、なんの音沙汰もなかったんだろう。
……これはきっと、誰かが仕組んだ計画──。
四郎さまの姉上の千満さまも、その誰かに唆されたのかも知れない。
それは誰だったのだろう?
もしかしたら、重鎮全て?
けれどそれはもう、藪の中。
どんなに知ろうとしても、事実を知りたくっても
今となっては、知る由もない。
× × × つづく× × ×
┈┈••✤••┈┈┈┈••✤ あとがき ✤••┈┈┈┈••✤••┈┈
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