一章 再会
アイリスは急いで修道院に行った。
アリシャ歴2000年十二月。戦争が始まって五年が経っていた。ようやく眠りから覚めたアイリスは少女と会うために、走っていた。
夜になってようやく辿り着いた彼女は、塔を登っていった。最上階には義賊の服を着た菫色の髪の少女――シンシアが夜空を見上げていた。
十八になった少女はアイリスに気付く。そして、笑顔で彼女に近付いた。
「久しぶり、アイリス」
少女の笑顔につられ、アイリスも笑った。これから死ぬための演技をする人達とは思えないほど、綺麗なものだった。
今回はどこかの軍に属しているわけではない(シンシアは王国軍ではあるのだが、行方不明ということになっている)ので、比較的ゆっくり出来る。この間に帝国によって壊された修道院を再建させておこうと思ったのだ。
誰もいなくなった修道院は、二人の仮住まいとなった。
ディアーとチェリーもいないことを確認し、二人は修道院を直していった。自分達の部屋は荒らされていないようだった。なくなって困るものは特になかったので荒らされていても気にはしなかったが。
食堂も、調味料だけが残っていた。栽培するなり狩りに出るなりすればいいので、ここも問題はない。
聖堂もがれきで埋もれていた。ここは時間がある時にどけようと後回しにした。
温室は何も植えられていなかったが、シンシアが使っていた植木鉢も残っていた。これならシンシアが栽培すればいいだろう。
「とりあえず、ある程度は把握出来たね」
「そうだね。僕達がいなくなった後、兄様達が使えるようにしておかないと」
ここに修道女や聖職者達がいなくてよかったと心の底から思う。もしいたら、大陸中に二人が修道院にいるとすぐに知れ渡ってしまっただろうから。
「とりあえず、食料を調達しよう」
腹が減ってはなんとやら。シンシアもそれに賛成する。あと数か月の命と言えど、やはり食べなければ力が出ないのだから。
シンシアが温室で野菜類を植え、アイリスは釣りをする。もちろん野菜はすぐに育たないので、少女はその後森で野草を採ってきた。
シンシアが料理を作る。ありあわせのもので作ることに関しては、シンシアの方が得意だからだ。
「アイリス、出来たよ」
広い食堂に、たった二人きり。それに少し寂しさを覚えるが、仕方ないと食事を始める。いつもならおいしいハズのそれは、おいしいと思えなかった。
森に罠を張って、その日は自分達の部屋で眠りにつく。だが、いつもの習慣ですぐに起きたシンシアは作戦を立て始める。
――ユスティシーと「アスルルーナ」の記憶を元に、ネメシスを倒す方法を考えなくては。
弱くすることには成功しているハズだ。だが、今のままではアイリスやシンシアの力を借りないと倒せない。なぜならネメシスに刻印があるから。
だが、刻印さえなくなれば誰でも倒せるようになる。それまでは、トリストと戦わないといけないだろう。……女神の力を使えば、どうにでもなる。
「シンシア……」
「大丈夫だよ。最初から覚悟していたでしょ?」
ユスティシーが寂しそうにしている。シンシアはそれに気付かないふりをした。
一月中は修道院の修復をしていた。ユーカリに次いで怪力のシンシアががれきを運んで、アイリスは掃除をする。
「シンシア、本当に力持ちだね」
「ユスティシーの血を引いているからね」
あくまで戦女神の血筋だ、それなりに受け継いでいる。王国貴族の血筋は基本的にユスティシーが作った眷属で、王家であるアストライア家はユスティシーの愛情を一番に受けた。そういったこともあり、王国が建国される際、当時の公王は彼らに協力したのだ。ちなみに、帝国貴族はアモールが作った眷属の血筋、同盟貴族は両方の眷属が入り混じっている。
「一応、ここまでやれば大丈夫かな?」
アイリスが呟く。最初の惨状を考えたらかなりよくなっただろう。
「じゃあ、鍛錬しようか」
シンシアが誘うと、アイリスは頷いた。
その頃、元オキシペタルムクラッスのメンバーがユースティティア領地に集まっていた。
「……では、シンシアは五年前から行方不明になっていると……」
シルバーが尋ねると、ユーカリが頷く。その瞳は復讐に燃えていた。思い留まっているのは、ヨハンが止めてくれているからだ。
「すまないな、殿下。孫娘がまたいなくなってしまって……」
実は、ヨハンだけは孫娘と彼らの元担任が修道院にいることを知っている。しかし、シンシアに頼まれているので知らないふりを貫いている。
チラッと、窓の外を見る。そこにはヒイラギ卿とニールの姿。彼らが生きていることも、自分達が死ぬまでは誰にも言わないでほしいと頼まれた。
「ヨハン殿、どうされましたか?」
メーチェがその様子を見て尋ねる。ヨハンは「いや、なんでもない」と答えた。
「それより、今日はもう遅い。早く寝るといい」
ヨハンからすれば、彼らは二十を過ぎているとはいえまだ子供だ。それに、戦場に出る若者なのだ。体力を少しでも温存するべきだろう。
「そうですね。さぁ、殿下。お休みください」
ガザニアがユーカリを連れて部屋に戻っていく。それを合図に他の人達も自分に充てられた部屋に向かった。
それを見届けたヨハンは、引き出しから手紙を取り出す。それはシンシアから送られたものだった。
おじい様
お元気ですか。私は変わらず元気です。
先日、ようやくアイリスも戻ってきました。私達は二人で修道院に身を寄せています。
ユーカリ兄様はどうでしょうか。やはり、復讐に目が行ってしまっているでしょうか?暴走していないことを祈るばかりです。
ガザニアさんは兄様の世話に躍起になっていますか。もうすぐで彼らフレット人の無実を証明出来るでしょう。
フィルディアさんはやはり鍛錬と言っているでしょうか。彼は生粋の戦士ですから、私が鍛え上げた兵士達を相手にさせてください。
シルバーさんは、女性付き合いが改善しましたか。恋人がいるのでその心配は不要だと思いますが。
メーチェさんはフィルディアさんと付き合って明るくなりましたか。婚約者が亡くなったのは不幸でしたが、その分幸せになることを祈っています。
サライさんはドジを踏んでいないでしょうか。もし仮に何かあったとしてもわざとではないので許してあげてくださいね。
アンナさんは体力がついてきましたか。彼女は魔法が得意なので、無理に体力をつける必要はないと思いますが。
アドレイさんはどんな様子でしょうか。彼はどんなにつらいことがあっても前を向ける力があります。きっと、今回もそうなってくれるでしょう。
帝国も、どうか真実に目を向けてほしいと思っています。同盟にも、協力しなければなりません。アネモネ姉様、ユーカリ兄様、グロリオケ盟主が三国で会談を開けるような関係になれたらと思ってはいますが……今の段階では難しいでしょう。裏で手は回していますが……あとは彼ら次第でしょうね。
おじい様、全てを任せてしまい申し訳ありません。せめて最期の瞬間までは解決の糸口を送るようにいたします。
テレンス叔父様にも、ご負担をおかけするでしょう。出来る限り軽減するように政策は既に部屋に置いているので、それを参考にしてください。
私はもう、生きておじい様と会うことは出来ないでしょう。どうか、健康でいてください。皆が幸せになることが、今の私の願いです。
あなた達に、多大なる祝福を。
ヨハンはその手紙を見て、涙を流す。何度見ても、死を覚悟している。それが耐えられなかった。
誰かが入ってくる。顔をあげると、アドレイがいた。
「勝手に入ってしまい、申し訳ありません。あの、ヨハン様。どうされましたか?泣いておられるみたいですが……」
「……っ。すまない、何でもないんだ」
ヨハンは彼に精一杯の笑顔を向けるが、アドレイは「無理されなくていいんですよ」と告げた。
「……士官学校時代、僕は何度もシンシアに支えられたんです。養父が亡くなった時も、その後も。僕が涙を耐えていた時、シンシアは泣いていいと言ってくれました。きっと彼女も大変だっただろうに、いつも他人を優先していたんです。きっと、彼女こそ本当の騎士の姿なのでしょう。僕も、そんな彼女に近付きたい」
「……ははっ。立派だね、シンシアも喜ぶだろうな」
シンシアは彼に好意を持っている。きっと、この誠実さに惹かれたのだろう。ヨハンも、こんな男性であるなら、孫娘の夫として認められる。……どうやら、シンシア本人は結婚する気などさらさらないようだが。
「それで、何があったんですか?」
「……シンシアからの手紙を読んでいたんだ。あの子はもう、ここにはいないんだと思って悲しくなった」
なるほど、とアドレイは思う。彼は娘を失い、一度は戻ってきたその娘の忘れ形見さえもいなくなったのだ。かなり精神的に来ているだろう。死んだという知らせがまだ来ていないことだけが唯一の救いか。
「……大丈夫です、僕達が……いえ、僕一人でも必ず、彼女を見つけ出しますから」
「……ありがとう。君は確か、アドレイ、だったかな?君は、立派な騎士になるよ」
ヨハンは彼の頭を、自分の子供や孫にするように撫でる。
彼がヒイラギ卿に引き取られた時、ヨハンは手を回していた。他でもない、孫娘からの頼みだったからだ。
娘が亡くなって半年後だったか、突然シンシアから手紙が来た。内容としては今まで手紙を送れず申し訳ありません、心の整理がついていなかったので、といったものだった。それから次第に傭兵団に身を置いていること、アルフレッドや娘のアイリスの助けも借り何とか過ごせていること、そして、これからは義賊として旅をすることにしたという報告が手紙で来た。
頼まれたのは、シンシアが丁度義賊になって初めての冬だった。少し暖かくなった頃だったか、突然、頼みたいことがあると送ってきたのだ。
実は、今は両親を亡くして盗みをしながらではないと生活出来ない男の子ときょうだい達と一緒にいるのですが、私はそろそろ旅立たないといけなくて……彼らを、ここの領主様に拾ってもらうことは出来ないでしょうか。難しいことを頼んでいるとは承知しているのですが……どうしても、彼らには盗みなんてしないで幸せに暮らしてほしいんです。
まさか、今まで自分のわがままを言ってこなかった孫娘がこんなことを頼んでくるとは思っていなかった。だから、ヨハンは何としてでも叶えてやりたいと思った。その男の子の名前を聞くと、彼女は彼の名前を書いて送った。
――アドレイ=シオン。
そう、今、自分を慰めてくれようとしている、彼の名前を。
彼は、他人の痛みが分かる人だとシンシアは書いていた。確かにその通りだと、ヨハンも分かった。
シンシアがヨハンにわがままを言ったのは、この一度だけだった。頼みごとは何度もされたが、それらは全て自分のためではなく、他人のためで結局ほとんどを自分でやってしまっていた。
目の前の彼は、孫娘が命を守った一人。だから、幸せになってほしい。そう願うのは、罪なのだろうか。
帝国では、混乱が巻き起こっていた。
「アネモネ様!スミレ色の義賊が各地で侵攻を妨害しているようです!」
「スミレ色の義賊……もしかして、身長が高くて髪が長い子かしら?」
「は、はい!」
あぁ、なるほどとアネモネはため息をついた。
「シンシアよ、私の妹の」
「妹姫様ですか?ですが、なぜ……」
「あの子は元義賊なのよ。今は王国貴族になったハズだけれど」
アネモネは少し寂しそうな表情をした。
――もし、私達が普通の「姉妹」であったなら。
そうでなくとも、刻印などなかったら。きっと、こうして敵対などしなかっただろう。やはり、刻印などあるべきではないのだ。
こうして、きょうだいが引き裂かれてしまうこともあるから。
「アネモネ様、どうされますか?」
キキョウが主君に尋ねる。アネモネは「放っておいて構わないわ。今のところ、私達の邪魔をする気ではないようだし」と答える。キキョウは「分かりました」と頭を下げる。
――妹姫様をこちらに引き入れられなかったのは痛かった。
彼女さえいれば、戦況は一変していただろう。キキョウも参謀だが、シンシアには敵わない。五年前、何度か会話をしたことがあるが、彼女の考え方は独特で冷酷なキキョウでさえ同感出来たものだった。そして、主の役に立つだろうと思っていたのだ。
アイリスにもいてほしかった。彼女は教団を倒すために必要な存在だっただろう。本当に、惜しい人材だった。
ユリカは誰もいないところで歌を歌っていた。
――平和の歌は、平和な時にしか意味をなさない。
それが少しだけ虚しかった。アイリスとシンシアは、自分の歌声をほめてくれた。お世辞ではなく、心の底から言ってくれた。
私も歌うんですよ、とシンシアは笑ってくれた。母が歌ってくれたのだと。アイリスは、私はあまり歌わないなと苦笑いを浮かべていた。
――シンシアも綺麗な歌声をしているんだよ。
――私はユリカさんより下手ですよ。
そうやって、笑いあった。あの頃が懐かしい。
あぁ、あの時もっと話していればこうならなかったのかな。
そこに、アンジェリカが来た。
「ユリカさん、どうしたのかしら?」
「先生……いえ、少し昔のことを思い出して」
アンジェリカも、かつての同僚のことを思い出していた。無表情だが、とても優しい元傭兵。最後まで、彼女は生徒のことを考えていた。
「……一緒に歌いましょう?ユリカさん」
「……はい」
二人は共に歌い始めた。この戦争が終わることを願って。
同盟では、カキツバタ家の城に皆が集まっていた。
――先生は、今頃どうしているかね。
グロリオケは夜明けの空を見上げながら、考えた。彼だけは唯一、アイリスが死んだと思っていないのだ。
あぁ、一緒にこの空を見ることが出来たらよかったのに。
アイリスと、シンシアと共に、この大陸の真相を明かしたかった。きっと、彼女達がいたなら出来たのに。
ユーカリはどうなっているのか。アネモネはどうして戦争という手段を取らなければいけなかったのか。……彼らを止められるのは、きっとあの二人だけだ。だが、その二人がどこにもいない。それが無情に虚しく思えた。
ネモフィラは部屋で紅茶を飲んでいた。好きな茶葉なのになぜか、おいしいとは思えない。
なんでここに先生やシンシアがいないんだろう?
二人と話していると、自分が貴族であることを忘れられた。シンシアがこうるさく貴族らしさを言ってこなかったからだろう。それでいて心地よく、いつまでもいたいと思った。
エメットは風景画を描いていた。どんなに描いても、満足のいくものにはならなかった。
――シンシアは、絵を描くことを否定しなかった。
彼女は自分の絵を覗き込んで、「綺麗ですね」と感想を言ってくれた。すぐやめますと慌てると、なんで?と首を傾げられた。
こんな素晴らしい絵を描くのに、もったいないですよ。
私が買い取りたいぐらいです、と冗談めかして笑う少女は、しかし本心から言っていると気付いた。初めて、自分の描く絵を認めてくれた。
彼女は行方不明だという。だが、どこかで生きていると信じていたかった。
クリストファーは一室で研究を続けていた。
アネモネがどうして刻印というものを嫌うのだろうか。
きっと、シンシアやアイリスがいたらその答えも出たかもしれない。だが、ここにはいないのだ。
本当に、この世に刻印など必要だったのだろうか。
最近ではその疑問ばかり浮かんでいる。その答えをくれる人は、いない。
サイラスは弓の練習をしていた。集中出来ていないのか、的になかなか当たらない。
シンシアならこの時、どう指導してくれたかな?
自分のことを差別することなく、同じ人間として接してくれた女の子。アヤメ以外で、初めてついていきたいと思えた人物。
アイリーンが近付いてくる。彼女は彼に「えらいな」と微笑みかけた。
「シンシアが教えてくれたから……」
「あぁ、彼女の教え方は分かりやすかったからな」
確かに、シンシアは教師に向いているだろう。貴族令嬢でなければ、そのまま教師になることを推していた。もっとも、こんな戦争下で教えることなど戦術や武術ぐらいだが。
アンドレアも来て、「一緒にやるか?」と聞いてくる。そこにはどこか寂しさを漂わせていた。
そう、どの国もアイリスとシンシアがいなくなったことによる影響が出ていたのだ。この五年、二人は誰にも一度も姿を現していなかったから。
修道院にて、シンシアは指輪を見ていた。花の模様が描かれた、シンプルな指輪。
――お父様が、お母様に送ってくださったもの……。
前皇帝がエステルに渡した、形見の一つだった。
母は、士官学校に在学していた時に父と出会ったらしい。当時既に皇帝となっていた父は母を見て一目ぼれした。母も、彼と会話を重ねていくうちに惹かれていったらしい。
数か月しか一緒にいられなかったが、二人は確かに愛し合っていた。二人は最初、その恋を諦めていたが、子供が出来たと判明した時、この指輪をもらったらしい。
ヨハンは、子供が出来てしまったならと卒業後は帝国に娘を送り出すことに決めていた。帝国との関係も改善出来るかもしれないとも思っていたからだ。
だが、事態は急変した。卒業の一月前にエステルはシンシアを産んだが、シンシアは産声をあげなかった。それを見ていたアヤメはシンシアを別室に連れて行った。
その次の日、エステルはシンシアの様子を見に行った。そしてすぐにおかしいということに気付いた。確かに生きていたが、泣きも笑いもしない、本当に赤子なのか分からないような様子だったからだ。
エステルはヨハンに告げて、機をうかがった。卒業と同時は無理だ、アヤメに見られている。この子を連れて逃げ出せない。なら……。
卒業前日の夜、エステルは監視の目を盗み、シンシアを連れ出して修道院から逃げ出した。ヨハンが派遣してくれた馬車に乗り、当時のラメント村まで送ってくれたらしい。
それからは知っている通りだ。女手一つでシンシアを育ててくれた。
「おかあさま、おとうさまはどこにいらっしゃるの?」
一度だけ、聞いたことがあった。寂しさではなく、純粋な興味。だが、母は寂しそうに「少し遠くにいるのよ」と答えた。その時は分からなかったが……今では、辛かったのだろうと想像出来た。
シンシアは父を恨んだことはなかった。なぜなら、母が苦労しているのは父のせいではなかったからだ。……きっと、そのまま行っていたなら戦争など起こらなかっただろうし、起こったとしてもこんな大規模にはならなかっただろう。人のせいにするようで悪いが、アヤメが余計なことをしなければこんなことにはなっていなかった。
しかし、感謝もしている。シンシアは元々この舞台に呼ばれた「役者」ではなく、いわば「イレギュラー」の存在だからだ。だから、他の人達はある程度行動が決められているのにシンシアだけは自分で自由に決められた。予想外のことが起こっても、自分が対処出来た。そうして新しい道が拓けたのだ。
指輪を握り締める。大切な母の形見。
――これはあなたに預けるわ。大切な人が出来た時に、これを渡しなさい。
母の言葉を思い出す。嗚呼、お母様、私はこれを生きている間に渡すことが出来ないでしょう。
でも、遺すことなら出来る。愛する人の顔を思い浮かべながら、なくさないようにポケットに入れた。
アイリスは温室で栽培していた。
――確か、ユーカリはこの花が好きだったな。
名も知らぬ、白や青、紫の同じ種類の花。シンシアは笑って「あぁ、これか」と言うだけだった。
――これは、彼が好きな人と同じ名前なんだよ。
本当に、兄様らしい。からかうような、楽しそうな声でそう言われた。花言葉は確か、「よい便り」に「メッセージ」、そして「希望」だったか。
――黄色は送らない方がいいよ。「復讐」という意味になってしまうからね。
なぜそこまで詳しいのかと思ったが、ユースティティア家はミドルネームを花の名前から取る。だから詳しいのだろうと思うことにした。
ここにはいろいろな花が植えられている。シンシアが植えてくれたのだろう。ここに、彼女のミドルネームである青いバラだけはなかった。
青いバラはこの世にないんだ。
かつて、ユーカリが言っていたことを思い出す。だから、花言葉は「不可能」なのだと。もし青いバラが咲くようになったら、それは神の祝福であり、奇跡の花と呼ばれるだろう。
シンシアはきっと、その「奇跡の花」だ。何となく、そう思った。
さぁ、次は戦う準備をしなくては。こちらは二人、多勢に無勢もいいところだが、シンシアはこの状態でも戦えると笑みを浮かべていた。きっと、いい策を立てているのだろう。アイリスはそのまま部屋に戻った。