序 -仮試験-
アメリカ、ニューヨーク。
夢に焦がれた才のない若者の屍が何層にも重なる土地。私も、やがて、その仲間入りを果たすことになるのだろう。
ジルは埃っぽい路地裏をふらついていた。演者志望の仲間と昨日飲んだくれたせいで、その足取りは頼りない。朝方の人気のない道をひとりで右往左往している。狭い自宅に向かっているのか、稽古場に向かっているのか、それともオーディション会場に向かっているのか。私自身もそれは知り得なかった。
突如、視界の隅に見覚えのある煌めきが目に入る。私は足を止め、目をやる。その煌めきはジュエリーであった。大粒エメラルドのペンダントが宝石店のウィンドウを華々しく飾っている。
私はずっと母のジュエリーに憧れていた。
母は今もなおハリウッド女優として一線で活躍している。私は幼い頃から、母のクローゼットに忍びこんでは、夢想していた。ーーいつか私も母のように美しいドレスを身に纏うんだ、と。
しかし、現実と御伽噺は違う。
私は母とは違い、舞台女優を目指し始めた。確かなコネがありながらも、容姿が優れない私は主役を勝ち取ることができない。いくら歌やダンスを磨こうと、最終審査で私よりも背の高い演者が選ばれる。コネがある分、余分な注目だけが背中にひしひしと爪を立てる。
目の前の緑の輝きが急に虚しく感じられた。
気づいてしまったのだ。私が自分の力でこれを手にすることは出来ないと。
私はエメラルドへ両手を伸ばす。当たり前にガラスがそれを拒む。手のひらに冷たさが広がっていく。
欲しい……欲しい…この手で、なんとしても、私は掴みとってやるんだ。例え、正しい方法でなくても、私がこれを身につけてやるんだ。
「お姉さん、これ欲しいの?」
すぐ近くで若者の声がした。酔いがまわっているのか、気づくのに時間がかかってしまった。
「すごい熱心に見ているから」
私のすぐ隣に立つその若者は、私の両目をまっすぐ見つめていた。視界がふやけていて、よく分からないが、そのまっすぐすぎる目に、首筋に寒気が走った。
ほしい、私は何も考えずにそう言った。すると、若者は満足そうに頷き、左手首に視線を下ろす。彼の左手にはシンプルな黒い腕時計が巻かれていた。
「3年分の命を貰うけどいい?」
顔をあげて、若者はそう言った。ーー確かにそう言った。日常会話のようにさらっと話すから、内容の不思議さを時間差で感じとる。命?3年分?どういうこと?そういう悪ふざけなのか?あまりの突拍子さに考えるのも面倒になって私は縦に首を振った。これが手に入るのなら、なんでもいい。
なんの変哲もない、曇り空の朝が輝きだす。
鈍色の空から煌めきが降り出した。ゴールド、ルビー、サファイア、エメラルド。全ての輝きを全身で浴びる。首に重さがかかり、目線を下にやる。胸元にはあのエメラルドのペンダントが居座っていた。私の夢が叶ったのだ。私の、私の、生きてきた、この今までが、やっと実を結んだのだ。私は涙した。空を仰ぎ、神に感謝を告げた。足元には色とりどりのジュエリーが散らばり、その中央で私自身が輝いている。どこからか、サイレンだかなんだか忙しない機械音が聞こえるが、そんなの私の知ったことではなかった。
――――
「夢に破れた酔っ払い狙うとかずるーい」
マノムは目の前のモニターを眺め、面白そうに顔を歪めた。隣にいるバブル・ジーは目の前の出来事には目も暮れず、両頬いっぱいにたこ焼きを頬張っている。
「ずるとかないよ」
聞き覚えのある声にマノムは笑みを浮かべ振り向く。依然、バブル・ジーはたこ焼きに夢中であるようだ。
「だって、僕たち悪魔じゃん」
人間界から帰宅したベグ・ハーロップが満足そうに微笑んでいた。




