理屈は抜きで 4
ユージーンは、深夜まで仕事をしている。
宰相をやると決めてから、3年が経っていた。
つい最近、前任の宰相を馘首にして、その役に就いたばかりだ。
「む。この計算は、合っておらんではないか。おそらく、誰かが懐に入れているに違いない。けしからんことだ」
早速、調査をさせなければならない。
思いつつ、書類に、その旨を書き込む。
ユージーンは、非常に細かく財政を管理していた。
そこまで細かく見なくてもいいのでは、というくらいに細かい。
「なんなのだ、これは。理由が理由になっておらん!」
王太子の頃から、書類に目を通すことには慣れている。
それが、どれほど膨大だろうと、見過ごしにはしてこなかった。
加えて、どんどん記憶されていく。
不要な情報ですら、いつでも引っ張り出せた。
ユージーンは、はなはだ面倒な男ではあるが、頭はいい。
ほんの「ちょっぴり」しつこくて、自分を中心に物事を考える性質で、振る舞いが尊大で横柄なだけだ。
真面目でマメなところは、厄介ではあっても、欠点とまでは言えない。
おそらく。
ずしっ。
ユージーンは、執務室に籠って仕事をする。
深夜、朝方にまでなることもあった。
たいていは、1人、書き物机に向かって、唸っている。
侍従はハンドベルを鳴らさない限り、執務室には入って来ない。
王太子ではなくなったため、王宮魔術師の警護もなくなっていた。
「あまり前に寄るな。落ちるではないか」
膝に、なにか重いものがある。
が、仕事に集中しているユージーンは無意識だった。
無意識に、膝の「なにか」を左腕で抱え込み、引き寄せる。
まるで、子供がぬいぐるみを抱きかかえるように。
ばんっ!
書類が、叩かれた衝撃に、ふわっと持ち上がり、元の状態に戻った。
書かれている内容が、気に食わない。
「そうなのだ。そこが悩みどころでな。貴族というのは、どうにも私利私欲を優先させたがる。特権なぞ取り上げてしまいたいが、簡単にはいかん」
ばんっ! ばんっ!
「議会からの承認を得ねば、法の制定は成し得ぬ。しかし、議会は貴族に牛耳られている。自らの特権を手放すわけがない」
ばんっ! ばんっ! ばんっ!
「根回しといっても……これ、前に出てはいかんと言っているだろ」
膝の「重し」が落ちそうになるのを、また自分のほうへと引き寄せる。
ふんにゃりとした感触にも気づいていない。
完全に無意識だった。
ユージーンは真面目で頭はいいが、間の抜けたところがある。
前宰相から学んだ「やるべきことを、やれるようにする」手法について、考えを巡らせることに集中していた。
膝の「重し」には、意識を向けていない。
視線の先に、小さな手があっても。
「だいたい、あやつらは、十分に裕福なはずだ。下位貴族が財に執着するのは理解もできる。食うに困っているのは、民と同じなのだからな」
均等配分とまではいかなくても、大き過ぎる格差の是正は必要だと、ユージーンは感じている。
貴族の生活は、民の税によって賄われているのだ。
民が困窮に喘いでいる中、貴族が贅沢三昧するのはいかがなものかと思う。
いずれ民の不満が爆発する日が来るかもしれない。
ぐしゃ。
書類が小さな手に握られ、くしゃくしゃになっていた。
ユージーンは、その小さな手を掴む。
「これ。書類を掴んではいかん。読めぬようになる、では、な……?……っ?!」
自分が握っている小さな手に、びっくりした。
びっくりして、その手の「出どころ」に視線を向ける。
「なっ?! どうしたっ?! なにをしておるっ?!」
膝には、赤毛の女の子。
聞かれた彼女は、きょとんとしている。
見下ろしているユージーンを、首をかしげつつ、見上げていた。
「どっ…?! な……っ?!」
どんどん驚きが大きくなり、言葉が言葉にならなくなる。
どうして、なぜ、いったい何が起きたのか。
考えようとしても、頭が真っ白だった。
久しぶりに。
「ルーナ、ジーンに会いたかったの。そしたら、会えたの」
「ル、ル、ルーナ……ど、ど、どうやって、ここに来た?!」
首を横に、がくーっと倒し、彼女は考えるそぶり。
実際に考えているのかは、定かではないが、それはともかく。
「わかんない」
「ば、馬車ではなかろう?」
「馬車ぁ? 乗ったのかもー」
「いや、乗っておらんだろう! 馬車で来たのなら……」
そう、馬車で来たのなら、誰かしらから連絡が来たはずだ。
なんの前触れもなく膝の上に現れたりはしない。
ルーナティアーナ・ウィリュアートン。
大派閥の貴族、ウィリュアートン公爵家の1人娘だった。
ユージーンが、初めて「抱っこ」をした赤ん坊であり、泣かせ、高い高いをして泣き止ませた子でもある。
宰相になる前、ユージーンは、民を知るため勤め人として働いていた。
その屋敷が、ローエルハイドなのだ。
同じ勤め人の、サリーは、彼女の大叔母にあたる。
サリーに会いに、ルーナの母は、ローエルハイドの屋敷を、よく訪れていた。
その際、ルーナの世話をしていたのがユージーンだ。
なぜか懐かれていて、ユージーンがあやすと、すぐに眠るからだった。
ルーナの世話係は、ユージーンが王宮に戻るまで続いていた。
「い、いったい、なぜ、ルーナが、ここに……どのようにして……」
馬車で来たのでないことだけは確か。
ハッと、ひとつの考えが思い浮かぶ。
ルーナを抱きかかえ、ユージーンは立ち上がった。
「ザカリー!」
弟の名を呼ぶ。
ザカリーは、ユージーンに対してのみ「遠呼」という魔術をかけていた。
相手が意図的に名を呼ぶと認識できる魔術だ。
遠呼は、領域でもかけられるし、特定の個人に対してもかけることができる。
ただし、今のところ、これを使えるのは、ザカリーしかいない。
ザカリーは、とても優秀な魔術師なのだ、ユージーンと違って。
そして、兄ユージーンのことを、とても尊敬している、なぜだか。
「いかがなさいました、兄上!」
速攻で姿を現したザカリーの視線が、ユージーンの腕の中にそそがれる。
とたん、うるっと目を潤ませた。
「兄上、水くさいではありませんか! いつの間に、御子を……っ……」
ザカリーは現国王だが、ユージーンの前では威厳もなにもない。
泣き虫で頼りない弟の姿に、ユージーンは、少しだけ肩を落とした。