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A Cup of Coffee  作者: タイロン
9/9

Part4-4

 2025年の春が来た。平和な春だ。

 慈音にネクタイを締めてもらって、迅雷は靴を履いた。


 「なんか結局出張ばっかりでごめんな」


 「いいのいいの。それじゃあとしくん、頑張ってきてね!」


 新婚生活もまだ2ヶ月やそこらだが、そもそも2人は今までの人生もずっと一緒だったから慣れるとか慣れないなんていうのは、あまりなかった。傍目にはなんだかむず痒くなるようなあだ名呼びだって、昔からそう呼び合ってきたままというだけである。違和感があるとすれば、慈音が東雲姓じゃないことくらいか。苗字も名前も「し」で始まるから迅雷は慈音を「しーちゃん」と呼んでいたわけだし。


 「それじゃ、行ってくる。しーちゃん・・・愛してる」


 「うん、しのも愛してる」


 最後に慈音とキスをして、迅雷は日本を飛び立った。行き先はIAMOノア支部だ。

 今日からの彼は多忙だ。まずはノア支部で昇進式に出席して正式に赤の帯が入ったライセンスを受け取って、そしたらすぐに北京支部に飛んで、北神界(イグドラシル)で行われる会議の会場警備をする予定だ。

 これでも父親でありランク7の先輩でもある疾風に言わせれば「暇な方」だとか。ランク6とランク7の帰宅周期にはおよそ100倍の差があるらしい。ホントかよ。不倫の心配されねーだろうなちくしょうめ。母親の真名もよくあんなニコニコしながら夫の帰りを待っていたものだ、と迅雷は気が遠くなった。


 本当だ。本当に気が遠くなる思いがした。だって―――。



           ●



 海の上にも春は来ていた。もっとも、赤道付近にある『ノア』には日本人にとっての春の風情はないが。


 「相変わらず制服は似合わないね、千影」


 「うるさいなぁ、ボクはこのロリらしさを武器にしてるんだからね?」


 あと半年も経てば酒も飲めるようになるのに結局身長も胸も大して成長しなかった千影は、年下だけど自分よりは幾分女性らしい体つきになってきた伊那に馬鹿にされて唇を尖らせた。昇進式で仕方なく着ていただけのIAMOの制服を脱ぎ捨てて、子供っぽい私服に着替えた。そろそろ大人っぽい服を着てみようかとも思ったのだが、コーディネートを任せた雪姫にまで結局こっちの方が似合っていると言われてしまったから、もうそのキャラで通すことにした経緯がある。

 そういえばその雪姫だが、昨年度でIAMOを辞めてしまった。あれだけ死に物狂いで魔法の腕を磨き上げてプロの魔法士になったはずなのに、今は日本の一央市に帰って自分のレストランを出すために一から頑張っているらしい。あの無愛想にも、戦争の中でなにか変わるきっかけがあったのだろう。千影にも、なんとなくそれが分かる。雪姫が《最狂》と呼ばれていた頃の千影のことをも理解してくれていたように。

 どうでも良い話ついでに、最近思うのだが、もうノアが本部で良くないだろうか?なんか昇進式までこっちでやっているくらいだし。・・・実は内々では本気で本部の機能をロンドンからノアに移そうとかいう話題もあるとかなんとか。まぁ、まだ噂の域は出ない話だ。閑話休題。


 千影、伊那、ベルモンド、ノエル。”始まりのオドノイド”と呼ばれているオドノイドたちだ。今ではもうIAMOの制服を着ているオドノイドも極端に珍しいわけではなくなってきたが、それも全て彼らが血道を上げて切り拓いてきた道だ。

 でも、”始まりのオドノイド”にはもう1人いたはずだ。この4人よりも、さらにもっと長く深くオドノイドの未来に貢献してきた伝楽が。


 IAMOノア支部を出ると、彼女は白銀に輝く高級車を停めて待っていた。


 「おでん、待った?」


 「わちきなんかよりずっと待たせてるヤツがいるらろ。さっさと拝みに行ってやろう。あ、乗る前に靴の泥は落とせよ」


 「そんな汚れてないって・・・」


 「冗談なのら」


 千影は助手席に、伊那とベルとノエルは後ろにぎゅうぎゅう詰めにして、おでんは車を出した。おでんは相変わらず仮面で右目を隠したままで危なっかしく思えるが、これでも無事故だ。違反はたまにしているが。

 オドノイド5人組がやって来たのは、IAMOの共同墓地だ。鋼鉄で出来た魔法と科学の人工島の上にも、命の記録を刻む場所はあった。いや、作られたと言った方が良い。それは、オドノイドたちの墓地だ。親も肉親も子も持たないオドノイドが最後に眠る場所に、最初に眠った人物が、彼らの今から会いに行く相手だった。


 おでんと千影は、この名前のない墓標の前に立つのは初めてだった。他のみんなに背中を押され、一歩前に出る。2人は、道中、名もなき花を摘んで作った花束を供えた。


 「久し振りらな、ナナシ。お前にもう一度このツラ見せられるようになるまでついぞ8年もかかってしまったぞ。どうじゃ、また一段と美人になったろ?」


 これであの頃に戻れるわけではない。戻ってはいけない。おでんは後悔していない。お前の死にはこれだけの価値があったのだと、それを伝えに来たのだ。

 

 「ナナシ、ただいま。ボクも、ずっと来てあげれなくてごめんね。でも、もう大丈夫だよ。今でも大好き、おやすみ、ナナシ―――」


 8年ぶりに友ときちんと別れ直すことが出来て、千影もおでんも、肩の荷がひとつ下りたような気分だった。死者に生者の言葉が届くことなどないと知ってはいるが、生者にはこうして納得することが必要なのだ。納得しないと、人は前に進めない。

 

 「・・・さぁて、ナナシと話すだけでくたくたになってるところ悪いケド、挨拶しないといけないヤツはもっともっといるはずだぞ」


 ベルモンドは欠伸をしながら、そう言った。

 そう。ナナシだけじゃない。ここには、あの日この島から一緒に脱出した仲間たち全員の名前が刻まれている。ル・アーブルの海に沈んだ仲間たちも、アスタナの街で散った仲間たちも、ノヴォシビルスクの空の港で無惨に殺された仲間たちも、みんなここに眠っている。

 おでんは、ベルモンドに対して皮肉でも言われたような顔を向けた。それもそのはずだ。

 

 「分かってるさ。誰がこの墓地を作るよう上に頼んらと思ってる?・・・そもそも、あいつらの名前らって半分はわちきがつけたんらからな」


 研究所にいたオドノイドに名前なんて大層なものはなかった。そんな仲間たちに名前を与えたのは、他でもないおでんだった。もちろん、個人を分かりやすくするため、信頼を得るためなど実利的な理由でしたことだ。でも、おでんは今でも彼らにつけた名前の全てをはっきりと憶えている。

 彼女にはそういう律儀なところがあるから、誰も彼女のことを憎みきれなかったのだろう。ナナシをその手で殺して醜く生き残った冷血な女なのか、何年経っても仲間たちの思い出を忘れずにいてくれる人情家なのかは、今日になっても誰にも分からないことだった。


 みんなの墓前にそれぞれに似合う花を供えて、5人は車に戻った。千影が腹を鳴らして顔を赤くしたので、どこかでランチを取ることにして、車は走り出す。


          ○


 レストランを後にしたおでんの車は、そのまま『ノア』の空港にやって来た。


 「全く、わちきをタクシーの運転手にするとは良い御身分らなぁ?えぇ?」


 「ごめんごめん」

 

 後部座席で伊那が手を合わせた。彼女と、そしてベルとノエルは今もミシロ班として活動を続けている。よって、今からお仕事の時間だ。本当はもうちょっとみんなと一緒にいたかった千影が寂しそうにするが、それは3人も同じこと・・・と思ったのだが。

 急かすように手を振る班長を見つけた伊那が花の咲いたような笑顔になった。おでんが困ったように笑って夢見る少女の頬をつねる。


 「おい伊那、あいつはもう既婚者らぞ」


 「うぎー。法律ってほんとクソ!」


 「滅多なこと言うとまた人類の敵に逆戻りするぞ」


 「まぁまぁおでん、班長は伊那のことなんか姪っ子くらいにしか見てないから心配要らないって」

 

 ベルがトドメを刺して、伊那はむくれてしまった。やはりというか、迅雷はオドノイドに懐かれすぎるきらいがある。

 3人が車を降りて、千影は窓から顔を出した。3人の見送りと、それから迅雷に声を掛けるためだ。


 「とっしー、頑張ってねー!」


 「おーう、行ってくる」


          ○


 ミシロ班は神代迅雷を班長として、大戦後期から変わらないメンバーで構成されている。焔煌熾は副班長で、春日観月と、そして”始まりのオドノイド”の3人。新たなランク7を筆頭とし、人間とオドノイドの比率が1対1の、まさに新時代を象徴するようなチームとして注目されている。

 そんな彼らの新年度最初のミッションはさっきも言った通り、会場警備だ。地味な仕事なのは認めるが、人間界と親交のある北神界のお偉いさん方にも新進気鋭のチームの顔見せをする目的を兼ねている。


 余談だが、北神界とは、既に印神界の由来を知っている読者諸君には大方予想が出来たかもしれないが、北欧神話に語られる世界である。

 もちろん神様の世代交代や科学文明の発展も進んで、厨二病患者たちが思い描くようなファンタジー世界の姿は消えつつあるが、一方で彼らが喜ぶ設定もちゃんとある。例えば、北神界と書いてイグドラシルと呼ぶ理由だ。あの世界は、本当に世界樹の上に成り立っている。より正確には惑星全土に根を広げた大樹が陸地と海を形成しているという表現が正しいのだが、それは些細な問題だ。我々にとっては「イグドラシル」とかいうなんかカッコイイ響きのものが存在している事実が大事なのであり、実際に人間界とは大きく異なる世界観は、近現代ファンタジー文学や漫画、ゲームデザインに多大な影響を及ぼしている。

 迅雷たちは今から北神界の『門』を保有する北京支部に行くために北京空港行きの便に乗ったのだが、実は北神界行きの『門』というだけならノア支部にもあったりする。ではなぜそれを使わないのかといえば、行き先がニヴルヘイムだからだ。寒すぎて向こうに出た瞬間にショックで死んでしまう。

 

 「むふー♪」


 「伊那たん、これ一応お仕事中だからもうちょっと距離を考えようねー」


 煌熾から迅雷の隣の席のチケットを奪い取って上機嫌な伊那をあしらいながら、迅雷は仕事の流れを仲間たちと再確認していた。と言っても、特に難しいことはない。最初に挨拶を済ませれば、後は会場周辺に立っていれば良い。

 すぐに暇になって、後ろの席から観月が質問を投げてきた。


 「神代さん、奥さんにはどんなお土産買って帰るんです?」


 「着く前からそんな話する?」


 「だって土産物すごくバリエーションあるじゃないですか。今から考えておかないと帰り際に困っちゃいますよ」


 「うーん・・・焔先輩ならなにが良いと思います?」


 「神代の選んだものならなんでも喜びそうな気はするけどな・・・」


 「そんな投げ遣りな」


 有名なのはやはり黄金の装飾品あたりか。もっとも、そんなものを買って帰れば派手すぎて慈音は敬遠しそうだから、無難に蜜酒やミミルの天然水あたりが良いかもしれない。


 「というか班長、本人に今のうちになにが良いか聞けばよくないです?」


 「ノエル・・・お前天才か」


 窓から下界を見下ろすノエルに下らなさそうに言われた迅雷は、溜息交じりにスマホを取り出した。

 迅雷が慈音にSNSのメッセージを送ろうとすると、伊那が画面を覗き込んでくる。頭が邪魔で操作出来ず、迅雷は彼女の額を人差し指で押し退けた。

 返信は早かった。それを読んで、迅雷は天才サマに画面を見せてやった。


 「ほらな」


 「やれやれ、旦那には夕飯の献立をなんでも良いって言われて怒るくせに・・・」


 「いやウチの嫁はそういうこと言わないから・・・(い")ぃッ、ギブ、ギブッ!」

 

 なんで急に迅雷が喚いたのかと言うと、ノエルに画面を見せるために目の前に伸ばされている迅雷の腕に伊那が噛みついたからだ。なんとかやめさせたが、鋭い犬歯が刺さった痕から血が垂れてきた。


 「なんで噛むんだよ!?今のは別に惚気話でもなんでもなくない!?」


 「なんか通じ合ってる感に妬きます」


 「ヤキモチだけなら可愛いけど出血してるからな・・・?」


 「きゃっ、きゃわいいなんてそんにゃ迅雷さんったらぁ・・・このう・わ・き・も・の~♡」


 血を見て舌舐めずりをする伊那を押さえ付け、迅雷は自分のハンカチを腕に巻いた。



          ●



 夜、千影がおでんに連れてこられたのは『ノア』の一等地に建つホテルのレストランだった。千影の昇進祝いとのことだが、こういう店の勝手が全然分からない彼女は緊張でガチガチだ。おでんが言うには、今となっては仕事が忙しくてなかなか時間が取れないから、少し気合いが入ってしまったのだとか。実際、2人でゆっくり夕食を食べられるような機会も、戦争が終わってからだと今日が初めてだった。


 「な、なんかプロポーズでもされそうな勢いだね」


 「千影がお望みなら別に今から指輪を見てきても良いんらぞ」


 「ボクが百合を推すのはそれが男の子にとって萌えだからであってだね」


 「冗談なのら。まぁなんらかんら本当にルビーの指輪を買ってやれるくらいの金はあるけどな」


 「別世界の人だねぇ・・・」


 食前酒が運ばれてきて、2人のグラスに注がれた。


 「・・・あれ?ボクまだギリ未成年なんだけど」


 「まぁ堅いこと言うなよ」


 ダメ、絶対。

 

 ・・・でも、気持ちよさそうにシャンパンを楽しむおでんを見て、千影も恐る恐るグラスに口をつけてみ―――いや、考えてもみれば千影はヤクザに育てられたアウトレイジなのだ。未成年の飲酒がナンボのもんじゃいの精神でクイッといってみた。


 「・・・」


 「・・・どうかな?」


 「意外といける、かも?」


 「それは良かった」


 おでんはホッとしたようにはにかんだ。ちなみに、最初から千影のために甘口の銘柄を選んでいたりする。彼女自身はもうちょっと辛口のものが好みだったのだが、どうせなら2人で同じものの方が良いという考えのことだ。

 最初に運ばれてきた小さな料理とにらめっこする千影を見て、おでんは苦笑する。


 「最低限のところはわちきが教えてやるから、そんなに小難しい顔するなよ。わちきがシェフならマナーばっかり気にして味を気にしない客の方が迷惑なのら」

 

 「なんか良いこと言ってるっぽいけど、フレンチでそれはどうなの」


 「料理を目で楽しむという発想は大いに結構らけど、楽しみ方に縛りを設けるってのはわちきは好かないな。こうじゃないと、ああじゃないとって威張り散らす連中を見てると反吐が出る思いなのら」


 「そう言うおでんにはないの?こうじゃないとってものは」


 「ん~?ないわけじゃないぞ?」


 「あるんかい」


 「あるさ。人は自由じゃないと」


 天才の天才たる由縁ということか。あるいはおでんなら、”不自由を選ぶ自由”をも語り出しかねない。そうでなければ、千影はきっとまだバケモノのままだったか、それ以前に害獣として処分されていただろう。

 千影は、順々に運ばれてくるコース料理をおでんのさりげないエスコートで堪能していく。食後のカフェとデザートも終わってしまうと、最初は一種の拒絶反応すらあった華美な空気にも名残惜しさを感じらるようになっていた。つくづく、千影は得難い友を持ったものだ。いつになってもおでんは千影の世界を広げてくれる。


 でも、あんまりにも広い世界を見渡せるようになると、どうしても、おでんのように割り切れないことが生まれてくる。千影は、彼女ほど器用じゃないのだ。


 2人のスマートフォンに、同時に通知があった。


 それを見たおでんが、目を見開いた。

 

 「・・・おい、千影・・・お前まさか」


 「うん。・・・約束したんだ」


 「ふざけるなよ、お前、冗談なんじゃろ?」


 「おでんなら気付いてるかとも思ってたのに、ちょっと意外かも」


 「気付いてた、気付いてたさ、お前が死を望んでいたことくらいは!でもっ、これは、違くないか!?頼むから冗談って言ってくれッ!言えッ!!これじゃわちきが今までなんのために―――!!」 


 やっぱりおでんは賢い。もうこれからなにが起こるのかを察したようだった。千影が彼女のこんなにも辛そうな顔を見るのは、これで二度目だった。

 千影は、なにも言わない。なんとなく千影には分かる。でも謝らない。一生で、最初で最後の姉への反抗だ。

 奥歯の割れる音がした。おでんが歯を食い縛ったのだ。それほどまでに強烈な力で。そのエメラルドの瞳に8年ぶりの暗い光が灯る。彼女のいる空間から一切の遊びが消えていく。


 「止めるぞ。例えヤツを殺すことになっても、例えお前をまた廃人に戻すとしても、わちきは必ず止めてやるからな―――!!」



          ●

 


 その後も結局機内でのほとんどの時間を伊那との戯れに費やして、北京で飛行機を降りた迅雷はゲッソリだった。例え慈音がとんだヤキモチ妬きだったとしても、彼のこのザマを見れば少女といちゃついていただなんて思わないだろう。全体的にやる気(と血の気)の失せた迅雷に代わって、機内ではぐっすり眠っていた煌熾とベルがいろいろ手続きを済ませてくれた。


 空港からIAMO支部へは電車で一直線だ。迅雷たちは支部に着いてすぐ、手続きや感染症の検査など諸々を手早く済ませる。残念だが一服する暇もない。予め北京支部に送っておいた宿泊用の荷物を受け取り、スーツに着替えた彼らはさっそく現地入りした。

 『門』の先は、アースガルズ、アース神族の国である。迅雷に言わせれば、人間に神と呼ばれた時代もある民族、だが。要するに人間と同じただのヒトだ。なんにしたって、ここは気候も温暖で飯も美味い、良いところだ。『門』の管理施設を出て一番に目に入ってくるのは、見えないてっぺんは成層圏にまで到達しているとも言われる巨大な木だ。星の形を変える木というのも、これを見れば頷ける。自転で木にかかる遠心力に大地が引っ張られるのだ。


 「あれが世界樹か。写真で見るよりやっぱり迫力があるな」


 迅雷は、天を覆う大樹の枝葉を見上げて感嘆の声を漏らした。アースガルズ首都イザヴェル、街中が細やかな木漏れ日に彩られている、幻想的な街だ。

 しかし、迅雷たちにゆっくり観光を楽しんでいる時間はない。地球との時差の関係で、あと数時間もすれば会議が始まってしまう。さっさと現地に到着して下見をしておく必要がある。既にIAMOが手配していたマイクロバスに乗り込んで、迅雷たちは会議が行われるヴァルハラ宮殿に直行した。時代が進んだとはいえ、歴史的建造物はしっかりと保存されている。この豪華絢爛な金色の宮殿も電化こそしているが、今なお官邸として使われ続けている。

 異世界情緒の豊かな街並みを走ってヴァルハラに到着した迅雷たちを迎えたのは、女性だけの警備隊だった。ドレスにもスーツにも見える独特の白い装束に身を包み物々しい銃や剣を携えた彼女たちは、アースガルズ軍所属の女性騎士部隊ヴァルキューレ。所謂ヴァルキリー、ワルキューレとも呼ばれる者たちだ。他にも多くの呼び名はあるが、どの言い方をしても基本的には通じる。現地人たちの中ではこの呼称が最も浸透しているに過ぎない。

 そのリーダーらしき金髪碧眼の美女が、迅雷たちに大らかな笑顔を向けてきた。


 「やぁ、あなたたちがミシロ班ですね?私はヴィズリルスメイア、このチームのリーダーで、今日の警備責任者です。どうぞメイアとお呼びください」


 「えぇ。僕は班長の神代です、今日はどうぞよろしく、メイアさん」


 迅雷は社交的な口調で応じて、メイアの差し出してきた手を握り返した。それだけでも、迅雷には彼女が只者ではないことだけは伝わってきた。魔力の存在が当たり前になってから人間界でもあまり男女差別の風潮が見られなくなったらしいが、魔力との付き合いが長い民族についていえばなおさらのこと。これぞまさしくその歴史の体現といったところか。

 ヴァルキューレは、ミシロ班と合同でヴァルハラの警備にあたる。というより、迅雷たちが現地の警備である彼女らのお手伝いをするような形だ。元より、ヴァルハラは建物だけでも東京ドーム並みに巨大だ。その庭園まで警備をするにあたって、さっきも言ったように顔合わせのついでに人手も貸そうという話である。


 迅雷たちはメイアの副官、エルキュリアにヴァルハラ内外の案内を受け、業務計画を立てた。計画と言っても、それぞれが担当する区間の割り当てと、休憩時間の順番決め程度だが。

 双方、その計画に合意したところで、ヴァルハラに会議出席者たちが到着し始めた。


          ○


 「どうも、お初にお目にかかります。ミシロ班班長の神代です。本日はお呼び頂き光栄です。皆様が安心して議論に専念出来るよう貴国のヴァルキューレ隊と協力のもと、一分の隙もない警備を出来るよう張り切らせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします」


 「君が件の。いやはや・・・まだ若いのに父君にも負けず劣らず頼もしいですな。こちらこそよろしく」


 迅雷が挨拶をしたのは、アースガルズの首脳である、オーディンという老齢の男だ。さすがに神話に語られる本人ではないが、彼の子孫であることに違いはない。蓄えた髭や魔術神の異名に似合う帽子は、なかなか迅雷の琴線に触れるところがある。まぁ、もう、いい歳して分かりやすくテンションを上げるようなことはしないが。

 オーディンは、迅雷の横に整列する魔法士たちに目を向けた。


 「副班長、焔です。班長以下班員共々精一杯やらせて頂きます」


 「春日です」


 「ベルモンドと言います。えぇ・・・僕以下3名はオドノイドになります」


 「ノエルです」


 「い、伊那です」


 興味深そうに、老人は目を細めた。

 

 「ほォー。いや、若いなァ。左端の君なんてまだ子供に見えるが、いやなるほど・・・今日は本当にこのような退屈な仕事に呼んでしまって申し訳ない。」


 ふぉっふぉと笑うところが、どことなく前IAMO総長のレオと似ているな、と迅雷はどうでも良いことを考えていた。ちなみに、伏線とかじゃなく本当にただ偶然似ていたからそう思っただけである。そこ、深読みしない。

 

 「今日の議題のほとんどがオドノイドに関することだ。全て君たちが勝ち取った未来と思って良いんだ。私には君たちが眩しくて仕方ない。ヒトとオドノイドの共存、実に素晴らしい!今日だけといわず、今後も明るい世界と楽しい未来のためによろしく頼むよ、”始まりのオドノイド”諸君」

 

 『はい!』


          ○


 会議は開始された。迅雷の警備担当はヴァルハラの庭園だ。基本的に一番腕の立つ警備はVIPの傍に控えていそうなものだが、これはむしろ不審者が絶対に中に入れない布陣という考え方だ。

 迅雷は、今はメイアと一緒にいた。互いに不審な行動を起こさないか監視しあう意味で、魔法士とヴァルキューレのツーマンセルを組む方針にしている・・・のだが、迅雷は背後から感じる視線に苦笑いした。


 「神代さん、あなたの部下のあの少女、実はなにか企んでるんじゃないですか?」


 「や、ちょっと懐かれてて・・・ヤキモチ妬きなんですよ、あの子」


 「それは・・・なかなか罪な人ですね」


 迅雷の左手の指輪を見て、メイアも同情するような目をした。迅雷は無線で伊那を宥めて、ちゃんと持ち場を見張るように指示を出した。これでも子育ての予習だと思えば、まだ可愛い方である。

 噴水だったりアーチだったり、なにかと黄金製のオブジェで目が痛くなるような庭園を歩きながら、迅雷は暇に任せてメイアの帯びている剣を見せてもらった。


 「装飾が目を引くけど、よく見れば一級品ですね」


 「当然です。伝家の宝剣ですからね。歴史の重みは刃の重みなのです」


 特大サンドイッチを頬張りながら、メイアは自慢げに剣に纏わる話をしてくれた。・・・が、なかなか話が壮大だったので、だんだん飽きてきた迅雷の興味は彼女の手にある美味しそうなサンドイッチへと移ってしまった。


 「そして先代、つまり私の母が―――神代さん?そんなにこのサンドイッチが欲しいですか?」


 「え、あ、いや・・・あはは。すみません。実は移動に次ぐ移動で碌にご飯食べてないんですよ、今日。まぁ慣れてることなんで大丈夫です」


 「いえ、それはいけませんよ!一日最低3食は食べないと身が保ちませんよ?」


 「最低・・・?」


 「良かったら、たくさんあるんで食べてください」


 北神界にも人間の『召喚』と同じような術がある。彼女がそれで取り出したのは、大家族のピクニックかと思うほど巨大なバスケットにぎゅうぎゅうと詰め込まれたサンドイッチの残弾だった。これを見せられて遠慮するわけにもいかず、迅雷は2個ほど分けてもらった。


 「うん、美味しいです。普段からよく料理されてるんですね」


 「分かりますか?満足いく味を求めていると自分で作るところに行き着くんですよ」


 「やっぱりそうでしょう、知り合いに似たようなのがいるんですよ。今は自分の店出そうって、魔法士辞めて修行してるくらいですよ」


 「それは―――羨ましいですね。そうだ、ところで神代さんも剣士なんですよね?背中のその剣」


 「えぇ、まぁ。メイアさんの見せてもらったし、僕のも触ってみます?」


 「良いんですか?なら是非拝見させてください」


 美しい装飾を施されたメイアの剣と比べれば、迅雷の愛用する『雷神』は些か地味かもしれない。人間という生き物の性格か、剣も銃も時代を経る毎に無駄のないフォルムへと洗練されていくものだ。薄い黄金色の刀身と、鍔と一体化する形で組み込まれた魔力貯蓄器(コンデンサ)が特徴的と言えば特徴的なくらいか。


 「この剣、『オリハルコン』と『エ・ジウロ・アイオ鉱』ですね」


 「へぇ、すごい。なんで分かるんです?」


 「あなたの力に耐えうる強度と、そしてこの特徴的な金色の光沢―――剣士ならすぐに分かります。あぁ、でもあなたの生み出すアイオ鉱の金色の輝きというのは、きっと私が今まで見てきたどの方よりも美しいのでしょうね」


 「そんな碌なもんじゃないですよ、俺の剣なんて」


 「ご謙遜を」


 迅雷は、メイアに『雷神』を返してもらって、自分でもその金色の刃を眺めてみた。思えばここ数年、自分の剣が放つ輝きなんて気にしたこともなかったような気がする。

 スゥ、と意識をそこへと吸い込ませる。呼吸をするより慣れた感覚だ。『雷神』は流れ込む迅雷の魔力に呼応して、そこらにある黄金のオブジェにも負けない輝きを湛え始めた。初めてこの輝きを見たときの感動は、今でもなんとなく憶えている。

 でも、これでも序の口だ。さらに多くの魔力を流し込み、金属原子を魔力的にさらに激しく励起させていく。メイアが「わぁ」とまるで宝石店のショウウィンドウに張り付く女の子のように目を輝かせてくれる。迅雷はさらにその輝きを強めていく。次第に刀身が内側の魔力の圧力で小刻みな振動を始める。


 そして。



 「本当に碌なもんじゃないよ」


 

 一閃した。


 黄金の光が溢れ、瞬きの内に解けて消えた。

 一陣の風を吹き、メイアの金の髪が踊る。


 「―――え?」


 メイアの上半身が、ずるりと、膝より先に地に落ちた。


 否。事の本質は彼女の死などにはない。


 轟音。

 ヴァルハラが沈む。


 「ごめんよ、メイアさん。別にアンタに恨みはないんだ。そこに立ってたのが悪い」


 迅雷は剣を背中の鞘に仕舞った。彼の剣の一振りで、首脳陣を集めた神々の宮殿は輪切りにされて崩壊し、直後になにかに引火したのか各所から連続で巻き起こる大爆発で天にも届く火柱が上がった。

 燃え盛るヴァルハラの中から真っ直ぐ自分に目がけて飛んでくる黄金の槍(グングニル)を、迅雷はそちらに目も向けずに掴み取り、握り潰す。無線では煌熾が怒鳴り声を上げているが、なにを言われようと迅雷はもう止まれない。挑みかかってきたヴァルキューレたちの猛攻を戯れの如く受け流し、迅雷は死体の山の上に腰掛けて、世界樹の天蓋を見上げた。

 ―――煌熾、観月、ベル、ノエル、伊那。みんなの名前を呼んで、迅雷はずっと秘めてきた想いを吐露した。


 「俺は、オドノイドなんていなければ良いって思ってる。オドノイドがいる限り明るい未来なんてこない。オドノイドなんかがいるから、俺の人生もこの世界も滅茶苦茶だ。オドノイドが繋いだ世界なんていうのは、すぐに醒める悪い夢なんだよ」


 『そんな・・・そんなのないです!!ねぇ迅雷さん!!じゃあ私たちとやってきた今までは一体なんだったんですか!?本当は私たちのこと嫌いだったの!?』

 

 そんなの知るわけがない。所詮、この世界は壮大な茶番劇だ。迅雷に言わせればいちいち出来事に意味を求める方が狂っている。


 「伊那。俺はお前のこともみんなのことも好きだよ。でも、ダメなんだ。オドノイドの存在はそう遠くないうちにまた戦争を引き起こすと思う。そういうもんなんだよ、ヒトっていうのは。だから俺は、オドノイドも、オドノイドを欲しがる連中も全て否定する」

 

 そう。このラグナロクも迅雷にとっては前哨戦に過ぎない。

 自らの前に立ち塞がるかつての仲間たちに、迅雷は悲しげに微笑んだ。そんな顔をして()と対峙するヤツがあるか。睨むなら、そう、あの世界樹の幹からこちらを睥睨するあの大蛇の、凍り付くような目をしないと。

 そして、迅雷は剣を取る。


 「俺がまっさらな世界を取り戻す。―――始めるぜ、千影。待ってろ。すぐに全部終わらせてお前を殺しに行くからな―――」






          ●






    April Fool Special "A Cup of Coffee" : FINALE


    『PROJECT;DISLINKED HORIZON』


 It's Your Turn to Change the World. So, I Pray for Your Lost Happy Days, You would Win Back the True Natural World & for Your Death as You Hope.






          ●






 その報せは世界を震撼させた。


 ヨルムンガンドの亡骸、折れた世界樹。証拠の写真や映像を見せられても、それが現実だとは思えない光景だった。アースガルズのヴァルハラにて行われた会議に出席していた全ての人間の死亡が確認された。つまり、その死亡者リストには、オーディンを始めとした北神界の九つの大国の長や人間界からやって来た各国首脳陣など、錚々たる面々の名前がズラリと連なっていたということだ。


 だが、神代迅雷のテロ行為はそれだけでは終わらなかった。1週間の内にニヴルヘイムが火の海に沈んで、ムスプルヘイムが氷に閉ざされた。それはまさにひとつの世界の滅亡を思わせるような。

 

 「話が違うッ!!」


 「アンタはあたしになにも言っちゃいない」


 「なぜ笑っていられる!!」


 おでんは、顔を合わせるなり雪姫の胸ぐらを掴み締め上げて、力任せに投げ捨てた。冗談のように椅子やテーブルを巻き込みながら転がって、雪姫はだらしなく床に手足を投げ出していた。おでんはそんな雪姫に馬乗りになったが、雪姫は起き上がろうともせず、ただ天井に向けて呟く。


 「分かってる・・・伝楽はこう言いたいんでしょ?なんであの時止めなかったんだって。その通りだと思う。人死には今でも嫌だ。あんな死にたがってる奴ら見たら、止めると思うよね」


 「そこまで気付いててなぜ放置した!!」


          ○


 「だって、としくんがやっと見つけた”為すべきこと”なんだよ。もしも、もう二度としののところに帰ってきてくれないって分かってても、しのには止められない・・・止めたくないよ」


 「いつも思ってた。なんで、慈音ちゃんはそんなに強いんだよ」


 「・・・としくんの弱いところは、全部しのが支えてあげたかった。それだけ」


 真牙は紅茶を干して、舌打ちをひとつした。あんな狂った自殺志願者にはもったいなすぎる人だった。

 刀を帯びて、真牙は夫婦の家を出た。慈音は迅雷を止めようとしてくれている真牙のこともまた、止めようとはしなかった。真牙を見送る慈音の目は、決して不条理を受け入れ、諦め、捨て鉢になった者のそれではなかった。何年も悩んで、考え抜いて、覚悟を決めた人間の眼差しだ。・・・いいや、彼女はきっと、迅雷と手を繋いだあの日からもう、今日を覚悟していたのだろう。


 「悪いけど、人ってのはそんなに強くない。オレがこんな結末のために結婚式でスピーチしたワケじゃねぇってことをあの馬鹿のツルツルの脳味噌に深く刻み込んできてやる」


 真牙のせいじゃない。じゃあなにが悪いかと言えば、それはやはり、この世界だ。歪なんだ。もう誰かに責任を求める次元は逸脱している。


           ○


 「・・・お前も、もう壊れてるよ、雪姫・・・」


 「知ってるよ。・・・あたしは弱いから信じるしかないの。人って、そういうもんでしょ」

 

 以前の雪姫であれば、どんなに破滅的だろうと目の前の命を諦めるようなことはしなかっただろうに。おでんのアテは外れたのだ。前提が瓦解していた。

 こうして雪姫に手を上げたのも、ただの八つ当たりでしかなかった。殴ろうが叫ぼうが現実は変わらない。おでん自身がよく分かっていることだった。・・・それでも、これだけは言わずには耐えられなかった。


 「ヤツは次はどこを狙うんらろうな。また大勢死ぬぞ。()()()()()()()()()()()


 「っ―――、・・・・・・、・・・」

 

 口を堅く引き結んだ雪姫はそれきり、もうおでんと目を合わせようとはしなかった。


          ○


 「もう歳だな。泣くくらいなら最初のうちに始末しておくべきだったんだよ。テメェはいつも甘すぎんだ」


 紺は実に下らなそうに吐き捨てた。返す言葉もない。疾風は目元を隠すように額に手を当てた。割れるような頭痛がしていた。

 返す言葉はなくても、それでも、迅雷は疾風のかけがえのない息子なのだ。それだけは絶対に揺るがないことなのだ。きっと面と向かって刃を向ければ、また疾風は鈍る。何千という子供の笑顔の思い出で目が眩むだろう。迅雷がどこでなにをしていようと、誰がなんと言おうと、疾風は迅雷を掛け値なしに愛している。


 「いや・・・だからこそ、と言いたいんだよな・・・。親として、俺にはあいつを―――」


 「まァ、イイさ。落ち着けよ。俺だって鬼じゃねェ。親の情ってのが分からないわけじゃねェんだ。だからあいつは俺が殺る。・・・・・・けどよ、もしも俺がしくじったら、()()()()()()だぜ。そんときゃキチンと親の責任果たしやがれ」


 紺のケツにも火は点いている。利害の一致・・・なんて小難しいことを考えているわけじゃないけれど、紺にだってまだ、このクソの掃き溜めみたいな世界のために戦う矜恃ってものがある。最強のために、最凶が最狂を討ったって良い。それでも世界は、そこまで堕ちちゃいないはずだ。




          ●

          



 ―――なんというか、もうダメだろこれ。


 リリトゥバス王国騎士団の騎士が1人、エルケーは廃墟と化した城下町で呆然と立ち尽くしていた。今も街の至る所で轟音が響いている。

 神代迅雷が北神界の次に攻め込んできたのは魔界だった。既に国が4つ沈黙していた。初めの攻撃があってから1ヶ月の間の出来事だった。たかだか数人のテロリスト集団と侮ったツケだ。魔界は滅ぼされた北神界を過小評価しすぎていたのだ。

 しかも最悪なことに、実は数週間前には既にリリトゥバス国王が「オドノイドなんてどうでも良いからウチの国には手を出さないでくれ」と命乞いを済ませた後である。問答無用、その一言に尽きた。


 8年前のオドノイドを巡る争いの最中に死んだ、アルエル前騎士団長やⅦ隊の女隊長がいれば、どうにかなったのだろうか。・・・いいや、どうにもなっていない気がする。あの2人だって本当に無敵で不死身というわけじゃなかった。あんなバケモノとまともにやり合えるのは本当に無敵で不死身の”僕の考えた最強の主人公”だけだ。


 「隊長、ヤツがこっちに来ます!どうしますか!?」


 「はは・・・星でもぶつけるか?」


 「冗談言ってる場合ですか!?」


 「そうだな。じゃあ逃げようぜ。俺はこんな馬鹿みたいな死に方はしたくねぇ」


 爆炎と轟音が目の前に迫ったとき、エルケーは躊躇なく背を向けて、街の出口を目指して走り出した。部下たちが素っ頓狂な声を上げるが、死にたい馬鹿だけ残れば良い。エルケーはどこでも良いから遠くへ逃げるのだ。もう金輪際オドノイドなんてものに関わるのはゴメンだ。王様はどうか知らないが、エルケーは少なくとも心の底からそう思わされた。

 部下たちはエルケーを追ってくる。そう、魔族っていうのはこうでなきゃいけない。自分の命が一番だ。大義もクソも関係ないし、国が滅ぼうが生きてさえいればやりようはある。この国も気に入っちゃいたがもう終わりだ。


 雷光がエルケーの横を駆け抜けた。部下の1人が短い悲鳴を上げて炭になった。そしてまた1人、2人と斬殺され、踊り迫り来る黄金の刃を、エルケーは辛うじてやり過ごした。

 エルケーの能力は剣を自在に操る能力だ。そして、今ではチカラの対象を「剣だったもの」にまで拡大することに成功している。敵の剣を奪うには魔力量が足りないが、街中に散らばる剣の残骸を掻き集めて自衛するくらいならなんとかなった。

 衝撃波で大きく撥ね飛ばされたエルケーは、瓦礫の山の中から急いで起き上がって敵の姿を確認した。黒髪の若い人間の男。黄金に輝く魔剣。嵐のような風を纏い、雷光のような速さで戦場を駆けるその姿。件のテロリストで間違いない。もう分かる。こんな子供だましはこれっきりだ。次はどんな壁を持ち出そうが一閃されると直感した。

 ならば、打てる手はひとつ。言葉で時間を稼ぐ。


 「おいおいおいおいおい嘘だろおいィィ!!テメェこんな無様に逃げ出した木っ端騎士にも容赦なしかーーーッ!?」


 ・・・が、エルケーの考えはまだ甘かった。そもそも大国のトップがなにもかもかなぐり捨てて平謝りしてもその顔面に爪先を叩き込むようなヤツと会話が成立するわけがない。

 敵が剣を振り上げる動作すら、エルケーには見えなかった。直後、彼は光に呑み込まれて全身まるごと消し飛んだ。


          ○


 天はエルケーを見放した。王城周囲の地面から灼熱の炎が噴き上がったのは、ほんの僅かに遅れてのことだった。灼光が世界の全てを照らし出し、光を受けた全てが煙を上げ、やがて煉瓦すらもが燃え始める。照らし出された世界の敵は、眩しそうにそれを見上げた。


 降臨せしは有形なる太陽信仰。王都の空を満たす炎の躯を持つ双頭の巨竜。リリトゥバス王国の守護神、『アグナロス』。


 『彼ノ御方ヨリ火神ノ名ヲ賜ッタ日ヨリ幾星霜。終ニ彼方(アナタ)ナルコソ吾ラガ不倶戴天ノ敵ト見ツケタリ。其ノ疾風迅雷怒濤ノ勢イデモッテ疾ク去ネ、神代迅雷!!』


 「こいつは凄いな・・・火竜『アグナロス』、機界のメカゴジラを撃破したってドラゴンか」


 言下にアグナロスの2つの口から山をも蒸発させる熱線が解き放たれた。灼炎は広がり、捻れ、暴れ狂いながら迅雷を呑み込んだ。熱波の後に残ったものは、開口部直径が1キロ、深さ地下数百メートルに及ぶ巨大な溶岩洞窟だけだった。

 だが、「やったか」などと様子を見るような真似はしない。『アグナロス』の体を雲に見立てればそれはまるで雨粒のように、無数の炎の怪物―――通称”眷属”が地上へと舞い降りた。本体の大きさと比べれば砂粒のような大きさに見えるが、それでもその一体一体が十分に巨大と言って差し支えない、国を滅ぼす災厄の尖兵だ。眷属たちは溶岩の縦穴の中へと進軍した。迅雷の骨の欠片でも見つけ次第焼き尽くすために。


 しかし、『アグナロス』は気付いていない。彼が殺したはずの男が彼を見下ろす場所にいることに。


 神滅の雷が落ちる。その目を瞑ってもなお眩しい、雷というよりも未来の衛星兵器によるレーザー照射と表現した方が似合う光の奔流は、『アグナロス』の巨躯の中心を綺麗に貫き、真っ二つに引き裂いた。神の断末魔が地表を赤熱させる。国を守るための竜である『アグナロス』が民を守るためにコントロールしていた熱が制御を外れて噴き出しているのだ。瞬く間に阿鼻叫喚の煉獄と化したリリトゥバス王国の王都を見下ろして、迅雷はその凄まじさに嘆息した。


 (まさに神、か。今まで出逢ったどんな神様気取りよりもよっぽど神様の肩書きに相応しいな)


 熱で身に付けていた通信機器もなにもかもが破壊されてしまった。こんな迅雷に付いてきてくれた仲間たちの安否もこれで不明。もっとも、今のあの地上にまともな生命が残っているとは思えないが。

 迅雷自身もかなり危険な状況だった。既に焼けただれた肌がタマネギの皮のようにめくれている。だが最も恐ろしいのは別にある。熱気を吸い込まないよう呼吸を我慢していたにも関わらずその圧倒的な熱は、もはや顔に触れる空気から伝播して鼻腔の奥を通り、気管支を駆け抜け、迅雷の肺を焼いていた。普通に即死してもおかしくない苦痛に迅雷は顔を歪める。

 だが、迅雷は千影に殺してもらうそのときまで死ぬわけにはいかない。その場所に辿り着くためなら、どんな手でも使って生き残る覚悟がある。


 空中で身を翻し、迅雷はそっと胸に手を当ててその名を囁いた。


 「()()()()()。お前もダメだ。悪いけど消えてくれ」


 『人、間・・・』

 『貴様ダケハ吾ガ』

 『滅ボサナイト』

 『イケナイィィィ!!』


 両断された『アグナロス』が、それぞれの頭部の意志を持って再び飛翔した。全てを呑み込むほどの巨大な炎のアギトを限界まで開いた双頭が迅雷に迫る。

 対して、迅雷は左手にも剣を握った。空中に生み出した魔法陣を蹴って回転をかけながら、刀身に膨大な魔力を注ぎ込む。やがて溢れた魔力は純白の光を帯びて、『アグナロス』をも呑み込む程の刃を成し―――。


 もう二度と復活出来ないよう、魔力の一欠片も残さないよう、迅雷は丁寧にその刃を叩きつけた。


 無数の塵へと引き裂かれる寸前、迅雷の魔力と融け合った『アグナロス』はその炎の眼に幻を見た。

 禁忌。その一言を思い浮かべた直後、彼は魂ごと爆散した。


 


          ●


 


 「そうか・・・王国までもが」


 侍女にその漆黒の髪を梳かさせながら、アスモはルシフェルから速報を受けていた。

 神代迅雷は、あの『アグナロス』をも単独で屠った。リリトゥバス王国の惨状を見て一時は相討ったかと期待したが、おぞましいことに煉獄の底からあの人間は這いずり出てきたらしい。もうじき皇国内にも侵入している頃だろうか。いよいよアスモも安全地帯から見物していられる状況ではなくなったと感じていた。


 「父上はなんと?」


 「皇帝陛下は徹底抗戦を掲げていらっしゃいます」


 「そうか。・・・胸が痛むが、我が愛しの騎士たちには犬死にをしてもらうしかない」


 「姫はいかがなさいますか?」


 「ゾッとしない話だろう、ルー。あの男はこれ以上ないというくらいに徹底的に、オドノイドに関わる全てをこの世から消し去るために戦っているんじゃないか?あまりにも容赦がない。オドノイドに纏わる知識が僅かでも頭の中にある限り、何人たりともあの男の凶刃から逃れられはしないのさ。父上もそれを分かってらっしゃるようだ」


 アスモは、例え今から記憶を消す手段があったとしても、迅雷のターゲットにされることは間違いない。最も初めのオドノイド狩りの時点から、彼女はずっとオドノイドに興味津々だったのだから。

 今や皇国におけるオドノイド研究は進むところまで進んでいる。魔族と人間は、健全な人間の子供をかつてはバケモノと呼ばれていた利用価値の塊に作り替え、さらにその先を目指す足がかりにしてきた。今更見逃してくれなどと言うつもりもない。

 身なりを整えたアスモは、ルシフェルを率いて歩き出した。


 「ルー。頼む。どうか最後まで、妾を守ってくれ」


 「御意に。―――元より我は姫の剣にあります」


 「本当にありがとう」


 これよりアスモが行うのは、騎士たちの激励である。あの日も、こうして騎士たちを鼓舞してオドノイドを狩る戦へと赴かせたのだったか。新時代の幕を切って落としたかと思えば、今度は時代の幕引きが迫っているなんて、やはり世界とは無常なものである。


 城の廊下には緊張感が漂っている。これから立ち向かうものがどんな不条理だとしても、誰もが迫る脅威に敢然と立ち向かおうとしている。実に素晴らしいものだった。ただの給仕係ですらなにかの使命を帯びたような面持ちで城の中を駆け巡っているくらいだ。

 ただ、国の存亡が懸かっている局面で言うのは水を差すようで気が引けるが、一つ事に集中しすぎるのも良くはない。若い給仕の女がアスモとぶつかりそうになり、ルシフェルがアスモとその女の間に割って入った。慌てた給仕の女は手に抱えていた荷物を落としそうになったが、ルシフェルはそれを受け止め、そして背後で涼しい顔をするアスモに念のため確認を取った。


 「姫、ご無事ですか」


 「あぁ」


 ルシフェルは荷物を給仕の女に返す前に、彼女を鋭く睨み付けた。眼球は黒、恐らくは叡魔族か。顔立ちはまだ少女にも見えるが、城勤めということは少し良い家の出身かもしれない。今どきのお嬢様は年の割に幼い者も少なくない。怯えるその給仕係を観察して、ルシフェルはそう推察した。


 「些事で済んだとはいえ姫への無礼に対する償いは必ずしてもらうぞ」


 「も、申し訳ございません!!どんな罰でも謹んでお受けいたします!!」


 「貴様如きにどのような罰でも受けられるとは思えん。貴様の名を教えよ」


 「そ、それは・・・」


 いよいよ泣きそうになる給仕を見かねてか、アスモがルシフェルの腰を小突いた。ルシフェルと2人きりのときと比べると少し柔和な口調になって、彼女は給仕に微笑んだ。


 「あまり虐めてはいけないよ、ルー。それから、お前はもう少し前に気を付けなさい?」


 「あ、ありがとうございます、アスモ様・・・」


 「良い。さぁ行こうかルー。焦ることはないけれど時間は惜しいわ」


 給仕に荷物を返し、アスモとルーは再び歩み出した。その給仕も荷物を抱きかかえたまま深く頭を下げて2人の背中を見送っていた。



 無言のまま給仕の女が服の袖から護身用拳銃(デリンジャー)を取り出したのは、その直後のことだった。少しの躊躇いも、僅かな昂揚も、一切の感情の起伏を示すことなくその給仕の女は銃口をアスモの後頭部に向け、引き金を引いた。



 乾いた発砲音がして、空気が凍り付く。


 ・・・が、アスモの小さな頭に風穴が空くことはなかった。そもそもの話だ。この程度の暗殺を許すようなら、アスモは今日まで生きちゃいない。まして、このような混乱の最中にあって暗殺を危惧しないはずもない。権力争いに仁義も倫理もないのだ。

 銃弾を弾いたのは、ルシフェルだった。どうやら気付かれていたらしいことに気付き、給仕の女は舌打ちをした。こうなれば厄介なのはルシフェルだ。彼の腹に向けて引き金を引いた。だが、ルシフェルはそれより早く剣を抜き、銃弾もろとも彼女の右腕を斬り飛ばした。。


 「ひァッ!?」


 女が悲鳴を上げる間にも、ルシフェルは返す刀でその体を股から脳天まで縦に裂くべく剣を振るい上げた。だが、女は恐怖で後ずさり、必殺の太刀筋から外れた斬撃によって彼女の体は肉を引き裂く鋒に釣り上げられる形で宙に浮いた。

 今度は、仕留め損なったルシフェルが舌打ちをする番だった・・・が、彼は次の瞬間、異変の本質を察知した。


 悲鳴を上げていたはずの女が、()()()()()()()()()()()()()()()()ルシフェルの目を真っ直ぐに見ていた。


 「貴様―――ッ」


 次の瞬間。


 その給仕の女――――――改め、オドノイドの少女、伊那の腹から真っ黒な大蛇が飛び出した。


          ○


 『だったら・・・だったら、私は迅雷さんを手伝います!!』


 伊那がそう言ったとき、迅雷は困惑していた。オドノイドを否定するための戦争に、なぜオドノイドの代表と言っても過言ではない彼女が加担しようというのかが分からないという顔だ。

 しかし、本当はなにも不思議なことなんてなかった。人は論理だけで行動出来る生き物じゃない。


 『あなたが私を愛してくれないのは分かってます!でもっ、それでも私はあなたの力になりたいの!せめて殺されるその瞬間まで、あなたの駒としてでも良いの!』


 『そんなの―――』


 『”そんなの”・・・?”そんなの”なんかじゃない!・・・そもそも迅雷さんがこんなに苦しんでるのは、私が、私たちが生きてるから・・・じゃないですか・・・』

 

 ”始まりのオドノイド”は、人類とオドノイドにとって「共存」の”始まり”だったが、迅雷にとっては違っていたのだと、伊那は理解した。まだ、ネビアが殺されただけなら彼がここまで壊れてしまうことなんてなかった。彼の運命が本当に狂い出したのは、伊那たちがロシアでのあの夜を乗り越えてしまったその瞬間だったのだ。


 『あなたの言う通りです。オドノイド(私たち)なんかがいたら、またきっと、あなたのように苦しむ人が生まれるかもしれない。そういうことですよね?私は確かに迅雷さんが好き。手伝いたいって思う理由の半分はそれかもしれないです。でも、もう半分は違う。私は、あなたと、この世界を滅茶苦茶にしてしまった責任を取らないといけないんです』


 伊那だけじゃない。きっとベルモンドもノエルも同じで、心の底ではずっと考えてきたことのはずだ。そしてそれを誰よりも悩んでいたのが千影だった。だから彼女はああまでおぞましく気が触れる程に心を磨り減らしてしまったのだ。それに・・・おでんだってきっと、同じことを思っているはずなのだ。


 『お願い、迅雷さん。私たちをあなたの目指す世界まで連れて行って―――』


          ○


 そのために。


 「あなたたちも殺す・・・!!」


 城内が土煙で沸き立っていた。城の床が砂で汚れていたからではない。何枚もの壁が崩壊して石の粉が舞い上がっているのだ。


 既に2度の斬撃を浴びて重傷の伊那だが、彼女の再生力の前ではこの程度は問題にならない。既に腹部の裂傷も塞がり始めていた。

 暗殺銃は失ったが、正面きっての戦闘になった時点であんな火力不足の武器に用はない。伊那はアサルトライフルを『召喚』(サモン)して、出鱈目に乱射した。例え流れ弾に当たる者がいたとしても構わない。ここには伊那しかいないからだ。他のみんなは伊那のアクションを待って別の場所に待機していた。

 

 なぜ伊那がこんなアサシンじみたことをしているのかと言えば、彼女の能力が最も暗殺向きだからだ。


 ・・・が、恐ろしいのはターゲットの対応力だった。


 「ハァ・・・くそ、くそ、くそ・・・」


 壁の陰に飛び込んで、伊那は呼吸を整えた。

 あのルシフェルという男、アスモの側付きというだけあってさすがにまともではない。至近距離において蛇の瞬発力はとてつもない脅威であるが、それをも凌がれた。その後は乱戦でこの様だ。既に大ごとになってしまって、じきに他の騎士たちも集まってしまうだろう。

 壁の裏側からルシフェルの冷たい声が飛んでくる。


 「殺しに対する躊躇いの無さ、年齢通りの精神の敵とは思わん方が良いようだな」


 「それは褒めてくれてるんでしょうか」


 あの争いから8年経って伊那は未だ15歳であると言えば、分かるだろうか。小学校1年生くらいの頃から殺伐とした環境に身を置いてきた伊那に、殺人への抵抗は驚くほどに、ない。倫理を学んだのが遅すぎた。一度銃口を向ければ、ストリートチルドレンだろうがアメリカの大統領だろうが一切の差別をせずに彼女は引き金を引ける人間に育った。

 仲間は守る。人は愛せる。世の中を憂うことも出来る。でも敵は躊躇なく殺す。これが伊那。歪みの始まりの1人の事実である。


 風切り音を聞いて伊那は姿勢を低くした。直後、盾にしていた壁の上半分が吹っ飛んだ。直後にルシフェルの『黒閃』が飛んできて、伊那は壁の陰から完全に飛び出した。宙を転がりながら、無茶な姿勢で伊那はアサルトライフルをぶっ放した。足が着いていない状態の片手撃ちでは反動で狙いが定まらないが、追撃を牽制出来れば十分だ。着地するなり床を蹴ってまた走り出し、ひたすらに弾幕を張る。

 伊那は右腕がせめて骨格と腱だけでも再生すればもう1丁銃を握れるのに、と歯噛みをした。ルシフェルを仕留めるのにこの程度の弾幕では足りない。最重要殺害対象であるアスモも、恐いくらいピッタリとルシフェルの背に庇われたままだ。

 口を使って乱暴にリロードし、絶え間なく銃弾をばらまきながら伊那は次の手を考えていた。

 だが、足音が急激に近付いてくる。聞き覚えのない足音、すなわち敵。確かめている余裕はない。強引に振り向いて、伊那は敵の増援に向けて発砲した。

 それにしても、やはり皇国のエリート騎士というのはイカレている。もう少し銃声でビビるのが普通だろうに。


 「銃で武装してきた意味なかったかな・・・?」


 銃弾を呑み込んで闇の奔流が飛んでくる。複数の『黒閃』だ。ルシフェルへの流れ弾を配慮していないのだろうか。伊那は大きく跳躍して天井に足を着け、『黒閃』をやり過ごして再び着地した。

 ルシフェルと他3人の騎士に囲まれた。全員、能力は不明。騎士として戦線に立つほどの連中が個人で固有の”特異魔術(インジェナム)”を持っているなら、そこには予測不可能の初見殺しが満載だ。


 「動くな。銃を捨てろ。『召喚』で隠している分も全てだ。そしてそのまま手を頭の後ろで組め」


 「・・・」


 向けられるのは剣だが、その先端から『黒閃』が飛んでくるからリーチで安心は出来ない。伊那は言われた通り全ての銃を捨てて頭の後ろに左手を当てた。

 だが、彼女の正面にいた騎士は、彼女の目に灯る危険な光を見逃さなかった。魔族というのは歪まなくても元々容赦がない。伊那の首を刎ねるために剣を振るった・・・が、鋒がその白い肌に触れる寸前で伊那の体が頭一つ分床に沈んだ。


 「なっ」


 空振りした騎士の目が驚愕で見開かれるが、直後には激痛によって目尻が裂けるほど、さらに開かれた。

 伊那が沈んだのは、彼女自身の影だった。そして、その影から十匹の丸太のような太さの蛇が飛び出して周囲の騎士に喰らい付いたのだ。


 「かかった・・・かかったね。危なかった。でも、やってやった!!私より一足先にあなたが逸ったのさ!!」


 断末魔の絶叫が鼓膜を、顔に飛んできた血飛沫が鼻腔をくすぐる。チキンレースのエクスタシーで伊那の殺意が燃え上がる。

 伊那が騎士たちの能力を知らなかったように、騎士たちも伊那の能力を知らなかった。彼女が最も暗殺向きであると言った最大の理由。それがこの能力。


 影から大蛇を生み出す能力。


 僅かな影でも存在すれば、そこに彼女の武器は宿る。それが例え、衣服に覆われて自分の肌に落ちた影であっても、だ。彼女がさっき腹から蛇を繰り出したカラクリもこれで説明される。

 故に、もしも仮に敵が「銃」という目に見える脅威に対応出来たとしても、そこで満足した敵は目には見えない場所に潜む影の蛇の牙によって殺されるのだ。・・・まぁ、ルシフェルには通じなかったが。

 

 今回もルシフェルだけはやはり逃したが、兎にも角にもこれでアドバンテージを取り返した。伊那はすぐさま床に捨てたサブマシンガンを拾い上げて天井に向けて乱射した。周囲一帯の照明が破壊されて明かりが消える。


 影を好む特性上、彼女の目は暗闇に対して早く慣れる。

 これ以上ルシフェルに拘っていては終わらないと判断した伊那は、やはり先にアスモを狙うことにした。

 伊那の能力は、影から大蛇を生み出す能力と言ったばかりだが、厳密には違う。その正体は”影に自身を拡張する能力”である。そして、大蛇は彼女のオドノイドとしての奇形部位、要するに体外に染み出した黒色魔力が構成する肉体の一部である。なにを言っているのか分からないかもしれないが、要するにこういうことだ。



 次の瞬間、暗闇に包まれた廊下の壁、床、天井、ありとあらゆる場所から一斉に漆黒の大蛇が飛び出し、アスモに襲いかかった。


 

 よく、影使いの天敵は光であるという設定がある。実際、それを試すかのようにアスモが魔術で光源を生み出した。でも、残念なことに光で照らしたところで、伊那の既に生み出した蛇が消えることはない。だって、それ自体は影ではなくただの伊那の肉体の一部なのだから。


 故に、光を手に入れた者が得るものとは、安堵どころか襲い来る蛇への恐怖であった。


 (真っ暗闇の中での全方位飽和攻撃―――か弱いお姫様如きにこれは捌けないだろっ、えぇ??その澄ました顔、後悔で歪めさせてやる!!)


 事実だ。アスモは迫る無数の牙に対して目を丸くして突っ立っているしか出来ていない。この一撃の後に例え主を失い激昂したルシフェルが捨て身で伊那を殺したとしても、アスモを殺せた時点で伊那は十分に迅雷の役に立って終われる。だから、この一撃に全ての力を注いだ。

 

 しかし、昂ぶる伊那に水を差すように、とす―――と、ほんの軽い音を立てて彼女の脇腹になにかが刺さった。オドノイド故の痛覚への鈍感さ。微かな違和感を得た伊那はチラリとその正体を確かめて、小さく「あ」と呟いた。


 クナイ手裏剣。


 魔族はこんな武器を使わない。・・・いや、それ以上に伊那にはこの得物に見覚えがあった。ありすぎた。


 「おで―――」


 その名を口にする前に、勝負は決した。


 クナイ手裏剣の刃が、爆発した。

 瞬間、伊那の左半身、腰から肩までの肉が吹き飛ばされる。ショックで意識が吹っ飛び、かと思えば激痛で意識が揺り戻された。なんにしても、もう伊那には大蛇をコントロールするどころか維持するだけの精神力も残されていなかった。

 蛇は消え、アスモは無事。なにも成し遂げられずに致命傷を負った伊那は床に臓物をぶちまけながらのたうち回った。


 「あ、ぎ、ぁっぁっぁっぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!?」


 からん、ころん、と軽やかな足音を立てて、伊那をこんな姿にした敵が姿を見せた。

 肩にかかる長さの銀髪と目穴のない狐面、そして着物の女だった。かつて伊那に生き残り方、戦い方、その他多くのことを教え込んだ張本人、”始まりのオドノイド”の1人だった。


 「悪いな。まぁお前ならこの程度で死にはしないじゃろ」


 「おっ・・・ぁ、で・・・なん・・・こ、こに・・・」

 

 「自覚がないとは言わせんぞ。この事態なのら。協力体制も取るさ」


 ツタラ班の面々だ。それだけではない。大勢の人間が皇国の城内にいる。隠れていたとでも言うのか。

 トドメを刺そうと各々の武装を構える魔法士たちを手で制しておでんは屈み、伊那の汗まみれの顔を覗き込んだ。


 「皇国を攻めるに当たってお前がここに忍び込んでくることは分かっていた。別に迅雷も世界を無に還そうと思ってるわけじゃなかろう?城ごと焼き尽くさないのが証拠じゃな。異世界外交の中心である国・・・魔界で言うなら皇国の政治の心臓部を潰すような真似はしない。でも姫様は殺す。ならば暗殺、ならば伊那の能力。わちきの仕込んら通りのロジックじゃもんなぁ」


 「狐、そこをどけ。そのオドノイドは度重なるテロ行為に加え、あまつさえ姫に刃を向けた大罪人だ。お前はそいつに思い入れがあるのだろうが、ここで殺さねば次には不測の事態もあるやもしれん」


 「まぁ待て、ルシフェル殿。まずは潜んでいる仲間について聞き出すのが先じゃないかな?」


 「それは殺した後でも出来る」


 「・・・」


 能力をもって伊那の意識を刈り取ったおでんは、しかしルシフェルの威圧に対して少しも退かずにそこに立ち続けた。

 テロリストの無力化が成功したにも関わらず立ち込める剣呑な空気に、他の魔法士や騎士たちが身構え始めた。その緊張を一気に爆発させるかのように、ルシフェルがおでんに鋒を向けた。その先端に闇が収束されていく。


 「おいおい、横から手を出したらけでそこまで怒るか?それはつまらん紛争の引き金らぞ」


 「世迷い言を。狐、政治の力を知らんお前ではあるまい?つまらん庇い立てをするならその娘ごとお前も消し去るぞ」


 「・・・クソ権力者が」


 ルシフェルの剣より『黒閃』は放たれた。おでんは咄嗟に『尾』を出した。


 だが、それを受け止めたのは()()()()()だった。


 「間に合った・・・危ねぇ・・・」


 あらゆる物理的な防壁を貫通する『黒閃』を防ぐには、魔力的な干渉が必須。それを素手で成し遂げるということは、相応の魔力を持つ者ということである。すなわち、神代迅雷が駆け付けたのだった。

 少し皮が剥ける程度の傷で必殺の一撃を右手で握り潰した迅雷は、間髪入れずに左手の剣でルシフェルに斬りかかった。ルシフェルも剣を構えたが、突然のことで彼も判断が追いついていなかった。


 「素手か・・・!!」


 「ふ―――ッ飛べ!!」


 純粋な力と力のせめぎ合い。瞬間とは言え、あの迅雷の剣を受け止めたルシフェルだったが、押し合いになっては敵うはずもない。剣ごと叩き斬られて数歩後ずさったルシフェルの腹に、迅雷は膝を入れた。内臓がいっぺんに複数破裂する感触。

 だが、ルシフェルはそれでも反撃してきた。抱き締められるほどの至近距離から放たれた『黒閃』を迅雷は暴風に乗って躱し、剣を右手に持ち替えて撃った『駆雷』(ハシリカヅチ)をルシフェルに叩きつけた。これでもルシフェルが真っ二つになることはなかったが、拡散する魔力の勢いで彼はそのまま流星の如く城の外まで吹き飛ばされた。生死の確認が必要になってしまったな、と迅雷は舌打ちをした。


 そして、体を屈める。背後のおでんからの攻撃を躱すためだ。

 

 「久し振りだな、おでん。髪切ったんだな、失恋でもしたのか?」

 

 「あぁ。本当に会いたかったぞ、迅雷。・・・わちきはこんなにもこの手でお前の喉笛を掻き斬ってやりたくて仕方なかったというのに!!」


 振り向いたときには、既に迅雷に向けて、あるいは迅雷の逃げる方向全てを潰すように、伊那を襲ったあのクナイ手裏剣が飛来していた。しかし、迅雷は焦らない。冷静に、本当に危険なクナイだけを叩き落とす。

 しかし、おでんだってその程度は織り込み済みだ。そもそも、あのシチュエーションになれば迅雷や他の連中をおびき出せると踏んでの猿芝居、いや、狐芝居だったのだから、迅雷との戦闘を想定しないはずがない。

 髪も仮面も、全ての枷を外した全霊の伝楽。それが意味するところとは、敵対者の味わう抗いようのない敗北である。かつての、アルエル・メトゥのように。

 おでんの着物の袖から鎖が飛び出した。その先端にはクナイが括り付けられている。クナイの刃の表面に刻まれた魔法陣から風が噴出して推進装置のような役割を果たし、鎖はまるで独立した生き物のように迅雷に襲いかかった。だが、迅雷が真に警戒すべきはおでん本体だ。彼女が行使する得体の知れない能力は、迅雷にとっても脅威である。

 上から下へ、右から左へ。2人の絡みつくような近接攻撃の応酬は、熾烈を極め、周囲のあらゆる戦士を傍観者へと貶めていた。

 

 千影の速さにも対応する迅雷とスピードで渡り合う、と言うとまるでおでんが凄まじく速いものと勘違いするかもしれない。だが、全くそんな事実はない。おでんは遅い。千影よりも、迅雷よりも、遙かにうすのろい。

 しかし以前、おでんは迅雷のケツを蹴ったことがあったはずだ。ほんの戯れのちょっかいでさえ、つい「癖で」返り討ちにしてしまうほどに害意に対して鋭敏化した迅雷のケツを、だ。

 フェイント。意表を突く鮮やかな体術。これがおでんの迅雷に対するもうひとつの武器である。人の心を読むことに長け、戦闘の最中でさえも恐ろしく速い思考速度を保つ精神力を持つおでんだけがなしえる、人智を越えた先読みの技術。ここに一撃必殺のクナイ手裏剣を無尽蔵に放つ弾幕と鎖の鞭が加わることで、おでんは迅雷の動きを抑え込んでいた。・・・もっとも、必殺のクナイはほとんどがブラフだが、そんなものは向けられる側からすれば警戒を緩める理由にはならない。


 ―――磨いてきた殺しの技術の粋を集めて、彼女は迅雷を消しに来た。


 迅雷の魔力が充満するこの空間では風魔法はジャミングされてほとんど使用出来ない。だが、僅かな射程であれば強力な魔法は通用する。迅雷に足払いをかけたおでんは、口をすぼめて、そこに手を構えた。超超局所的に破滅的な暴風を発生させ、対戦車ライフルも真っ青な貫通力を誇る風圧で敵を破砕する力押しの魔法を展開した。

 

 「風遁秘術、翠嵐烈破!」


 「く、そ―――!!」

 

 狙うは足。頭でも心臓でもない。あからさまな急所ばかり狙っては読まれて防がれる。事実、迅雷が守ったのは頭から胸部にかけてだった。否。視線に誘導されたのだ。この極限のやり取りにおいて、おでんに速度で勝った迅雷の方が、彼女よりも焦っていた。

 威力の減衰した魔法は、一方で魔力で恐ろしく強化されていた迅雷の大腿骨を折るに留まった。・・・が、これはもはや迅雷にとって致命的であるはずだった。スピードとパワーが売りの迅雷から、これでスピードが損なわれる。いや、踏み込みが甘くなるならパワーにも打撃が入る。

 床を転がる迅雷に、おでんはさらに肉薄した。次こそ、能力によって迅雷を仕留めるためだ。迅雷が折れた足を引きずってモタモタと姿勢を立て直そうとした瞬間に彼女は勝利する。


 「ぴゃっ」

 

 はずだった。

 前のめりになったのかもしれない。

 

 「あぅ、ぅぐ・・・!」


 おでんは顔面を手で押さえて大きく飛び退いた。

 彼女の両目が潰されていた。迅雷が、あの一瞬で水平に彼女の顔を斬り裂いたのだ。突如失明したことで危険を感じたから、おでんは今のチャンスを捨てるしかなくなったのだ。

 だが、異常だ。大腿骨がへし折れた足であのような無茶な姿勢制御が出来るわけがない。筋肉が動いても骨が体を支えられないからだ。だとすれば、迅雷はなぜ―――。

 考えるおでんは、立てた狐の耳で音を聞いて右に跳んだ。鋒が掠めただけで左腕が取れた。構わず、おでんは目潰し代わりに傷口から血を撒いて立ち位置を測る。しかし、目と比べて耳の判断は僅かに遅い。その僅かな差が、おでんに迅雷に肉薄することを許していたタイムリミットをオーバーしてしまう。受け流そうとした蹴りの衝撃の逃がしきれず、おでんは床を転がった。

 おでんは、咳き込んで尋常ではない量の血液を吐き出した。さっきのルシフェルほどではないが、内側のダメージが大きい。それでも拳を握る彼女を、部下の1人が羽交い締めにした。


 「班長、目が!!これ以上は無茶です!!撤退を!!」


 「ふざけるな!!こいつはここで殺さないといけない存在じゃ!!目がなくても耳がある!!恐れる必要はない!!」


 「あんたはここで死んだらいけない人だ!!」

 

 「誰が死ぬか!!わちきは―――ッ」

 

 華奢な女の体から発せられたものとは思えない剛力が、大柄な部下を引きずって前へと歩み出す。牙を剥きだしにして絶叫する今のおでんは、まさに猛獣だった。

 迅雷はそんなおでんに対して、容赦なく剣を振り上げた。音で察知したおでんは部下を蹴り飛ばして自分から離れさせた。

 部下がしたのは、結局は彼女の足を引っ張ることだけだった。しかし普段のおでんなら、そもそもそんな事態になるような立ち回りはしていなかっただろう。味方を度外視して戦うようなことはあり得なかった。そう考えれば、やはり足を引っ張った彼の言い分もまた正しかったということか。要するに、おでんは、迅雷を殺すのに失敗した。


 立ったまま、鳩尾を貫く剣を掴み、おでんは見えない目で迅雷を見据えた。

 この一線を越えるか、否か。おでんは、それでも逡巡していた。あの出力で能力を解放すれば、ここにいる敵も味方も全滅する。恐らくはアスモも死ぬ。それでは迅雷を滅ぼしたところでまたマズい目に遭うから悩むしかないのだ。どんなに激情に駆られていても、おでんはあくまでも賢明だった。

 そして、恐らくこのときの彼女の逡巡は正しい選択だった。

 

 次の瞬間、城の床が崩落したからだ。


 腹から剣が引き抜かれ、呻き声を上げたおでんは助けた部下に支えられた。床の崩落はそのまま天井もその次の天井も崩落させ、どこまで続くかも分からない穴には迅雷だけでなく、アスモを始めとした本来攻撃対象ではないはずの者たちまでもが呑み込まれた。

 ・・・重力に逆らえない迅雷ではない。そんな彼が落ちるしかなかった理由。それは、とてつもなく速いなにかに体を搦め捕られて底に引きずり込まれたからだった。


 任務上守るべき対象だったアスモすら見失ってやっと命拾いしたおでんは、穴の底に飛び込もうとしたところを再び部下に止められた。数秒暴れた後に、やっとおでんは奇形化して手に入れた狐の耳や尻尾を仕舞って、穴の縁に崩れ落ちた。


 「やる・・・」


 再生の始まった眼球で憎悪の中心を睨みつけ、血の唾を吐き散らして吠えた。


 「絶対にお前を殺してやるッ!!次は必ずじゃ!!絶対に、絶対に絶対に絶対に殺してやる!!お前如きがわちきの変えた世界を壊せると思うなよォォォォォォォ!!!!!!!」


          ○


 ひしゃげそうなほどの力で手繰り寄せられた挙げ句地面に植え付けられた迅雷は、そこかしこから血を流しながら、剣を杖にしてよろよろと起き上がった。ところどころから、折れた骨が皮膚を突き破って見えていた。


 「ちくしょう、全身バッキバキにしやがって」


 瓦礫から這い出してきた迅雷を待っていたのは、迅雷と一緒に落下したアスモのことを抱き留めたルシフェル・ウェネジアだった。彼は、アスモを降ろしてから、迅雷に対してなにかを投げた。

 

 4人分の首だった。


 「姫。御身の傍を離れてしまったことについては、これでどうかご容赦を」


 「いいや、むしろ上出来だ。さすがは妾のルー、魅せてくれるヤツめ」


 足下に無惨に転がされたみんなを見た迅雷は、ただ少しの間だけ目を閉じ、再び剣に力を込めた。ルシフェルもアスモも、迅雷に人間らしい反応を求めていたわけではなかったようだ。この場において、もはやその4人はただ死んだという事実を確かめられただけで事が済まされる程度の存在に過ぎなかった。


 直後に、迅雷とルシフェルが衝突した。

 互いに重傷だった。

 一歩を踏み出すことにさえ耐え難い苦痛を伴うような地獄の剣戟を。

 血を失い、骨を失い、それでも彼らの殺意は欠片ほども曇らない。


 一合。弾き。


 二合。迫り合い、流し。


 三度目の激突。


 右の剣の振り抜きざまに、迅雷は体に隠した左手で虚空を掻いた。

 戦場の迅雷を象徴する魔剣の、『雷神』と対を成すもう一振り、『風神』―――翡翠に輝く刃がルシフェルの血の気の薄い肉の内側へと滑り込む。肋を断ち、肺腑を裂き、脊柱を折り、また肺と肋を通って、その輝きは風と紅を纏って仄暗い城内を照らした。

 最後の決着は、あまりにも静かに訪れた。僅かに意識の残されたルシフェルは、遙か上層階まで見通せる天井を床から仰いで、掠れる声で迅雷を罵った。


 「お前の仲間は・・・実に容易かった・・・。たった6人の仲間か。仲間を想う心が強すぎた・・・ようだぞ」


 「俺への皮肉ならやめてくれ。・・・仇とは言わないよ。ただ、死ね」


 刹那、最後にアスモの顔を見ることだけを許して、迅雷はルシフェルの額に鋒を押し当てて、1GV(ギガボルト)の電圧をかけた。おおよそ地上の人間に雷が落ちたようなものだ。


 ―――ルシフェル・ウェネジア、死亡。


 もはや魔姫を守る剣も折れた。


 けれど、アスモは迅雷を迎え入れるようにその両手を広げるのであった。

 彼女が最期に残したものは、視界に水平線を刻む刃の輝きに見とれ、全てを悟ったかのような無邪気な笑顔だった。


 「嗚呼、やっぱり。この世界は面白い―――」


 

          ○



 「班長、生きてるかい?」


 「・・・ベルか」


 なにもかもが済んだ荒城の一室に、死んだはずのオドノイドがやって来た。迅雷の周囲に転がっていた4つの首の、ひとつがほどけて消えた。どうやら「分身」を身代わりにして生き延びたらしい。

 ベルモンドは辺りを確かめて、死にかけの迅雷にこうも訊ねた。


 「伊那は?」


 「さぁ・・・分からない」


 「そうすか。・・・お互い、やんなるね。こうやって普通に喋ってると」


 「それも、どうだか」


 「言ってみただけさ。どうせ俺たちは遅かれ早かれ理不尽に死ぬ運命さ。その理不尽の度合いが変わっただけの話って思えば、なんだか小さいことに思えてくるっていうか、ね?」


 まだ理不尽だと思っているじゃないか、という声を迅雷は胸の内に留めた。それでもなぜベルは迅雷に刃を向けないのだろうか。その矛盾の方が迅雷にとっては理不尽に思える。生きていることに、そこまで責任を感じる必要なんてなかっただろうに。

 ()()調()()()()()()()()。剣を鞘に納め、ベルの肩を借りて迅雷は立ち上がる。


 「行こう。次は人間界だ」


 


          ●




 「ご飯くらい楽しそうに食べれば良いのに」


 「ふざけるなよ、伊那」


 やさぐれた心を表すかのようにジャンキーな昼食を食べながら、おでんと伊那はノア支部の屋上で空を見上げていた。捕虜という身の上だが、おでんの管理下において伊那には一見自由そうな行動権が与えられていた。


 「空が綺麗。鳥は可愛いし、海もキラキラしてる。今も『ノア』ではたくさんの人が画期的な研究をたくさん進めてる」


 「なぁ伊那。このまま時代が進んらって良いじゃないか・・・」


 「・・・おでんだって、分かってるんじゃないの・・・?オドノイドが、私たちがいた方が、結局みんな滅茶苦茶になっちゃうんじゃないの?千影はそれが耐えられなかったからあんなに苦しんでたんじゃなかったの?」


 「分かったらなんになる?死んら人間を美化しても、死ぬことを美化するな。世のため人のために死ぬのが美談になるとでも思っているのか?」 


 「そんな風には思わない。死んだら終わり、それっきり。たくさん殺してきたから知ってる」


 2人の心が描くのは初めは繋がっていた平行線。きっとこれも、この歪んだ世界の上で耐えかねて形が変わってしまったのだ。

 

 「この間、あの雪姫でさえ生きることだけが救いじゃないと言っていた。この世には、死ぬことで初めて救われる命もあるってさ。・・・生きてりゃそのうち良いことあるさ―――って微笑んじゃあ、駄目なのか・・・?」


 食べ終えて出たゴミをビニール袋に押し込み口を縛ったおでんは、静かにそう呟いて腰を上げた。

 

 「わちきは・・・必ずあいつを殺して千影を救う」


 「健闘を祈ってるよ、おでん」


          ○


 おでんは「人は自由じゃないと」と言った。だから、死を選ぶ自由もあるのではないかと返した。死に方を選ぶ贅沢だってするくらいだ、と。それだけだった。

 千影は、なにをしでかすかも分からないからと、おでんによって軟禁されていた。こんな部屋に一人では、読書かゲームかオナニーか・・・それくらいしか出来やしない。自由もへったくれもない。情報も断片的にしか入ってこない。迅雷は今、どこでなにをしているのだろう。あとどれくらいで千影を迎えに来てくれるのだろう。


 「はぁ・・・どうせならポテチとコーラをお供にジャ○プを読みたい・・・」


 3周目の単行本を開いたままベッドに伏せ、千影は大あくびをした。転がって床に落ち、それでもまだ転がって部屋の扉に肩をぶつける。すると、ぶつかったのは1回なのに音が3回した。怪奇現象に千影が眉をひそめると、外から声がした。


 「よう、千影」


 「紺?ひさしぶり」


 「とりあえず差し入れな」


 ドアの下の食事を出し入れする口から、漫画雑誌とおやつが差し込まれた。


 「うーむ。ジュースが足りない」


 「パシリじゃねぇんだよ、つべこべ言うな」


 ニヤニヤしながら青筋を浮かべる紺の顔が容易に想像出来て、千影はクスッと笑った。


 「今日はどうしたの?」


 「じきにこっちも戦場になるって教えてやろうと思ったんだよ」


 「もうそこまで?やっぱりとっしーはスゴいなぁ」


 「あいつ、こんなに強かったっけな」


 「紺はまだ一度もとっしーと戦ったことはないんだっけ」


 「そりゃあいつがIAMOに入ってくるまで縁もゆかりもなかったからな。疾風のガキってのと、あとはお前の与太話で、名前だけは昔からイヤってくらいに知ってたけど、それだけだぜ」


 「強いよ。少なくとも、今のとっしーは紺とどっちが強いかな?ってくらい」


 「世界を滅ぼす大魔王は伊達じゃねぇな。俺が勇者にジョブチェンジする日が来るとは思わなかったぜ。ま、ライデインみてぇなことは出来るし適役かもな」


 「どっちかっていうとジゴスパークじゃない?」


 「やっぱ悪役じゃねぇか」


 DQ4のピサ○のジゴスパークはとても頼りになった思い出があるが、これもとんだ与太話。

 しばしの笑いの余韻を経て、紺は声を低くした。


 「なぁ、千影。俺はさぁ―――」



          ●



 久々に故郷の土を踏んだ迅雷を待っていたのは、105mm戦車砲のパーティークラッカーと拍手代わりの機銃掃射だった。豪勢な歓迎パーティーには、迅雷もつい嬉しすぎて地球の裏側まで吹っ飛んでしまいそうだ。実際、IAMOロンドン本部の「渡し場」はキレイサッパリ吹っ飛んだ。

 だがせっかくのお出迎え、胸を張って堂々とするのが主役の務めというものだ。凱旋した英雄が市民に手を振り返すように、剣を振るう。とっくに崩壊した施設に遠慮することはない。見渡す限りを埋め尽くす英国軍の戦車と歩兵隊を雷光の彼方へと吹っ飛ばしてやった。


 「ベル、大丈夫か?」


 「アンタのイカれた脳味噌よりはね」


 爆風の余波でとっくにボロボロのベルモンドは、メガネの位置を直しながらそう吐き捨てた。

 今度は上から甲高い音がする。もしかしなくても戦闘機だろう。大戦の最中ですら『門』の管理施設を自ら放棄して爆破するような世界はなかったと記憶しているのだが、やれやれである。ベルモンドはとんだ大物に手を貸してしまったらしい。・・・こんなことを言うのも今更か。


 「さて、じゃあ班長。最初はどこへ?」


 「そうだな・・・」


 大きく剣を振りかぶった迅雷は、素直な声色でものを考え始めた。

 次の瞬間、振るわれた刃から迸る閃光でIAMOロンドン本部は壊滅した。電気設備の発火からガス設備への引火が起きて大炎上する魔法士の総本山を眺めながら、迅雷は顎に手を当てる。


 「やけにアッサリだ。恐らくはこの期間で水面下で進んでいた本部機能のノア支部への移植を急ピッチで完了させたということだな。よぅし、じゃあ飛行機をハイジャ・・・チャーターして南の島へバカンスだ」


 「なにそのテンション。懐かしい人間界の空気でハイになってんスか・・・?」


 煌熾、観月、ノエル、ひょっとしたら伊那も。一度にほとんどの仲間を失ったことに、迅雷はショックを受けなかったわけではなかった。だから、こうでもして気分を上げておきたかった。興奮剤もリハビリ治療用の弱いヤツではなく、久々に戦中に使っていたものを服用している。


 爆撃機の猛攻をすり抜けながら通行禁止区域を走って抜け出し、迅雷とベルの2人はそこでカメラを回していたテレビ局の車に上がり込んだ。迅雷は運転手にスパークする五指を突き付けて空港へ行くように指示を出し、タイヤが溶けてなくなる勢いで車は発進した。

 ちなみに、迅雷はこれまで一般市民を故意に殺すようなことはしていない。このテレビ局の人間たちもだ。彼が破壊するのは、オドノイドと、オドノイド関連の研究に関与する政治家・科学者など、そして事が終わった後にオドノイドに関する事柄を世界に再提起しかねない者だけだ。その点テレビ局はグレーだが、少なくとも末端の人間を始末する必要性は薄い。

 

 空港に到着した2人は、予定通りハイジャック―――とはならず、穏便にベルのサポートでノア行きの便の貨物室に忍び込んだ。おでんの仕込んだ技術も、究極的にはオドノイドを消し去るテロの過程で使われるだなんて、皮肉なものだ。

 無人の貨物室でようやく一息つけた2人は、コンテナに背中を預けてシリアルバーだけの簡素な食事を摂った。

 

 だが、憩いの時間も束の間。次の刺客は既に迅雷たちと同じ場所に潜んでいた。


 爆音がして、突如機体が制御を失った。ギョッとして迅雷は意味もなく立ち上がった。


 「な、なんだ?まさか・・・今頃海の真上だぞ?」


 迅雷がビビった理由は、墜落したら死ぬから、ではない。迅雷1人くらいならどうとでも生き残れる。ベルもなんとかするだろう。

 問題は別にある。迅雷は一瞬エンジントラブルかとも思ったが、乗り込んだ飛行機はイギリスの航空会社では一番安全とされるBAのものだ。迅雷たちが乗り込んだ機体が今日に限ってたまたま事故を起こしたとは考えにくい。もちろんあり得ないとは言わないが、それよりもよっぽど可能性の高い展開があるはずだ。それにすぐ気が付いたから、迅雷は焦りを見せたのである。


 「『ノア』に入れないために飛行機ごと墜とす気か・・・!?他に乗客だっているんだぞ!?」


 既に傾き始めた機体の貨物室では、大きなコンテナがオモチャの積み木のように片方の壁に集まっていく。それを躱しながら、迅雷とベルはたまらず貨物室から客室の方へ飛び出した。

 

 その直後。


 「班長!!」


 さっきまで2人がいた貨物室が大爆発して吹っ飛んだ。

 ()()()()()()()()()()()()()

 目を疑うような光景だった。迅雷もベルに突き飛ばされていなければ危なかったかもしれない。それほどの爆発だ。そのベルは怪我をしているが、彼の再生力なら問題にはならないか。

 しかし、いよいよ完全にコントロールを失って暴れ出す空飛ぶ鉄の箱の中で気圧差の暴風に耐えながら、迅雷はやっとその異常、もとい事実に気が付いた。


 「悲鳴がない・・・ハナから無人か!!」


 本命は三段構えの大トリで訪れた。

 迅雷と似た顔に薄ら笑いを張り付けた、紺色の髪の男。


 「よォ、兄弟。素敵な空の旅をくれてやるぜ」


 「トンだボスラッシュだぜ、なぁ紺・・・!!」


 2人の激突で、ついにジェット旅客機は雲上のデブリと化した。海の真上で雲の中を泳ぎながら、迅雷と紺の放つ雷撃が交差する。ベルモンドがどうなったかを確認しようにも、雲の中では分からない。むしろ、その視覚の不自由は紺に対する警戒へとメンタルのリソースを持って行ってしまう。

 黒い影を視界の端に捉えた迅雷は咄嗟に剣を構えた。直後、刺々しい黒い異物に背中から叩かれて、迅雷は雲上まで弾き上げられた。冗談のような衝撃で栓の壊れた蛇口のように口から血を噴き出す。

 

 だが、この程度で気絶する迅雷ではない。受けたモーメントを吸収して体を捻り、迅雷は高速回転を得た。得意のモーションだ。『風神』も引き抜いて、右手と左手、それぞれに黄色魔力と緑色魔力を限界まで蓄える。ついでに上空ボーナスだ。風魔法で吹き荒ぶジェット気流に干渉して刀身に引きずり込んだ。

 大自然の猛威を得た斬撃は一振りで青空を取り戻し、海水面にクレーターを作り、最後には小規模な津波が発生した。


          ○


 大きな水柱を上げて、ベルモンドは着水した。高度1万メートルからのダイナミック飛び込みだ。普通なら水面と接触した瞬間にバラバラになって死ぬような衝撃を受けるが、オドノイドである以前に多くの特殊な環境を経験してきた彼には冷静に対処出来る術があった。もちろん骨が折れるくらいは我慢しなければならないが、手足が吹っ飛ぶよりはずっとマシだ。

 海の深くまで無数の気泡に包まれながら沈み、再び海面に顔を出したが彼が見たのは、人災と天災の境界が曖昧になるような光景だった。雲の中で断続的に閃く稲光が東へ、東へ、と、どんどん遠くなっていく。2人が落ちてくる気配はなかった。

 

 「おーい・・・班長~・・・・・・えぇ・・・どうしよう、俺・・・」


 この辺りの海ってサメとかいないだろうか。というかどれくらい泳げば陸地に辿り着くだろうか。ル・アーブルで海の藻屑となった仲間たちのことも思い出しながら、ベルは途方に暮れるしかなかった。

 つくづく、矛盾した旅路だった。オドノイドを抹消しようとする迅雷の手助けに奔走して、かつてギルバート・グリーンから自分たちを救ってくれた紺に今度は命を狙われるようになるなんて。まるで伝染病のように、なにが正しいのかも分からなくなってきた。分からないから足掻くのではなく、分からなくなるために足掻いてきたような気分だった。かつて納得して受け入れていたはずの日常は、迅雷の行動で違う側面や意味を見出してしまい、脆くも崩れ去った。

 

 いつまで経っても、ベルはおでんのようにはなれない。そう思った。


 仕方なしに東方を目指して水を掻き始めたベルだったが、彼を目指して水上を進んでくるものがあった。しばらくしてようやくその存在に気が付いたベルは、目を細めて揺らめく鋼色の船影を水平線に見出した。


 「漁船・・・いや、あれは・・・!?」


 数分後、必死の泳ぎも虚しくベルモンドはIAMOの船から現れた『ESS-PA』部隊に包囲された。現行の量産型ではなく、第4世代の先駆けとしてロールアウトされた最新鋭機だ。ものによっては人型すら留めていないほどの恐竜的進化を遂げた機械の怪物に囲まれたベルに出来ることはなかった。



          ○



 モロッコとアルジェリアの国境付近で隕石騒ぎがあったと聞きつけ、駆け付けた現地のIAMOの魔法士たちが見つけたのは、()()()()()だった。


 「―――――――――」


 日本語らしい言語でなにかブツブツ呟くその黒髪の男を見て、彼らは、なぜ魔法士である自分たちが大勢引き連れて隕石調査なぞさせられているのかという疑問に答えを得た。


 「応援の要請を・・・!」


 「は、はい!」


 「我々だけでは勝てないかもしれないが、この世界の未来のためにも逃げるわけにはいかない。応援が到着するまで絶対にヤツをここから移動させるな!!」


 数秒後。


 魔法士たちの前には、彼の姿はなかった。


          ○


 通話を切って、研は集めた「家族」たちの前に立ち、宣言した。


 「お前ら、決起の時が来たようだぜ。今、紺から連絡があった。あいつは結論を出した。俺たちの結論だ。なんも難しいことはねぇ。ずっと退屈してたんだろ?ずっと求めたんだろ?あぁ良いぜ分かってる。じゃあやってやろうぜ~!?俺たち『荘楽組』の久方ぶりの喧嘩だ!!正義のヒーローどもの度肝を抜くぞ!!」


 

          ●



 常夏の空の下で、迅雷は大の字になって止めていた息を思い切り吐き出した。

 分かってはいたが、どっちみち、こんな力は人間のチンケな脳味噌ではまともに処理しきれるはずもなかった。小難しいことをかなぐり捨てて大雑把にやったにも関わらず、数度の連続使用で頭の中身が焼けている感じだ。

 だが、ここまで辿り着いただけでもかなり敵の意表を突けたはずだ。


 「・・・敵、ね」


 違う。そうじゃない。ただ他に一言で表現する単語がすぐに思いつかなかっただけだ。

 無言で言い訳をして、迅雷は呼吸を整えた。


 ちなみに、「ここ」とは?―――というのは愚問だ。ここは南の海に浮かぶ鋼鉄の人工島海上学術研究都市『ノア』である。

 迅雷は、1分でほぼ本初子午線直下の地点から、日付変更線の直下まで「飛んできた」のである。


 だが、そんな折だった。


 『やぁ』


 「・・・ッ!?」


 立ち入り禁止の変電施設に降り立ったはずの迅雷に、頭上から声がかけられた。聞いたことのない男の声だ。だけれど、跳ね起きて背負った剣の柄に手を当てた迅雷が見つけたのは人ではなく、魔界で流通しているタイプのスマホのような端末だった。

 聞こえてくる音声はドイツ語(多分)だったが、画面にはありがたいことに字幕が表示されていた。


 『安心してよ、僕は君の敵じゃない。君がここに現れたってことは、”そういうこと”だと思う。素晴らしいね。でも君はその力を御しきれずに苦しんでいるかもしれないと思って、プレゼントを用意しておいたんだ。良かったらもらってよ。場所はメッセージの後に表示するからね。あぁいや、困ってないなら良いんだ。そのときは余計なお世話だったね、ごめんよ。それじゃあ、頑張って』


 「うさんくせぇー・・・けど、逆にここまでご丁寧にセッティングされてるってことはむしろ信用出来るな」


 画面に示されるがまま、ココ掘れワンワン。どうやって隠したのだか、変電所の砂利の下に箱ティッシュくらいの大きさの金属の立方体が埋まっていた。箱にはなっておらず、完全に中身もギッシリの重たい塊だ。魔法か魔術の類だろうか、と考えながら、迅雷は魔法で指先に電界を集中させて金属塊との間にアーク放電を発生させた。ちょっと乱暴な気がするが、スマホの男にそう勧められたのだ。

 火花が恐いのでちょっと離れた位置から金属塊を溶断すると、中からまた別の金属の塊が出てきた。今度は四角いカプセルになっていた。熱くないかと不安に思った迅雷は指先でカプセルの温度を確かめて、やっとそれを手に取った。

 蓋を開けると、見るからに怪しいクスリが2つほど入っていた。特に1本目の注射だ。「魔法のお薬」などと数世紀前の藪医者でも言わないようなことが書いてあるのだが。


 「こんな黒い液体、体に注入して大丈夫かな・・・いいや、これはやめとこう・・・。どうせ終わったら死ぬつもりなんだし・・・」


 ちなみに、このときの迅雷に知る由もないが、この注射をやめたのは結果的に大正解だった。理由についてはまだ語るつもりはないけれど、結末を考えると彼のこのいい加減な判断のおかげで、たまたま世界は救われたと言っても過言ではない。

 それから、2つめの注射を手に取る。こちらには「良い感じの頭痛薬」が入っているらしい。「魔法のお薬」よりは効能もはっきりしているので安心感がある。薬局に置いてあったらまず間違いなくその店を通報するレベルで怪しいことに変わりないが。

 とりあえず頭痛薬だけ打った迅雷は、今度こそ深呼吸をして変電所から飛び出した。まだ痛みはあるが、薬は遅効性とのことだ。しばらくすれば効果も現れるだろうが、それを悠長に待っている時間もない。


 「・・・」


 最近、迅雷は感覚を研ぎ澄ますと、なんとなくオドノイドの「匂い」を感じるようになった。その上で言わせてもらうと、『ノア』にはあまりにも濃密に彼らの「匂い」が充満している。

 この数年間で、オドノイド研究は飛躍的に進歩し、そして関わる人間や研究機関の数も激増した。今や『ノア』はオドノイド研究機関の密集地などではなく、『ノア』そのものがオドノイド研究のための巨大な施設へと変貌しているのだろう。この島においてオドノイドと関わりのない場所なんて、それこそ電力や水道などのインフラ設備と宿泊施設くらいに違いない。

 

 でも、迅雷はそれを今までのように力尽くで破壊することはなかった。

 

 悲しい目をして空を突っ切る迅雷の前に立ちはだかる影がひとつ。


 「父さん―――」


 「・・・・・・」


 迅雷は無言で斬りかかってきた疾風を受け止める。2人はそのまま地上へ激突した。


 今、新たなる最狂と揺るがぬ最強が相見える。


 富士山をサイコロに変える神速の二刀流使いと、剣圧でモーセの如く海を割る轟撃の大剣使いの衝突は、しかし、摩天楼のジャングルのど真ん中であるにも関わらず一切の周辺被害を生み出さなかった。

 理由は極めて明快。彼らはその人智を越えた攻撃力の全てを互いの相手だけに叩きつけているからだ。故に恐ろしい剣戟の余波は金属を打ち鳴らす音とそよ風だけであった。


 音の速さで場所を変え、太陽の眩しさで火花を散らし、やがて2人は鍔迫り合いに入った。本当はすぐにでも打ち払って次の一撃に移れたはずだった。でも、2人は敵同士である以前に、親子なのだ。こんな、無言の殺し合いなんてしてはいけないのだ。


 ()()()()()()()()()


 「なあ。父さんはなんのために戦ってるんだ?」


 「・・・」


 「なぁっ!!」 

 

 打ち払って、2人はビル一棟分の間合いで互いを睨み合った。

 

 「守るためだ」


 「なにを」


 「この手にある全部を」


 「俺は・・・まぁ、もう違うんだろうな」


 「・・・・・・あぁ。違う。お前はもう俺の手からこぼれ落ちた」


 「俺が、なんのために戦ってるか知ってるか?父さん」


 「推測なら―――おでんから聞いた。オドノイドを受け入れたこの世界をひっくり返すためだろう、とな」


 「父親なのに自分では考えてもくれないのかよ」


 「っ・・・俺だって・・・父さんにはっ、もう迅雷が分からないんだよ!!」


 かつての神代迅雷という少年は、もうどこにもいなかった。人は変わるものだと言う。それは疾風だって知っている。親が止められることでもない。でも、これはなんだというのか。報われたかったわけではない。そんな下心でこの子を育てていたわけじゃない。でも、それでもこう思ってしまうのだ。俺は、こんな思いをするようなことをしてきたのか、と。曲がりなりにも人並みに、人の道を外れることなく生きてきた自分が、なんでこんな仕打ちを受け、与えねばならないんだ、と。

 愛する息子は世界に刃を突き付け、オーディンを殺し、アスモも殺し、気が付けば歴史に名を刻んだありとあらゆるテロリストも凶悪連続殺人犯も霞むような大罪人になっていた。千影たちのときとは訳が違う。殺して終息させない理由がひとつも存在しない。そして、きっとそれが出来るのは人間界において、その大逆人の実父である疾風をおいて他にいないだろう、だって?冗談も大概にしろ。今まで見てきた運命というのは、さすがにそこまで数奇なものではなかったはずだ。


 ・・・でも、現実はこれだ。


 「迅雷。俺が父親としてお前に言ってやれる、最後の言葉だ」


 「聞くだけなら」


 「今あるものを受け入れろ。ちゃんと見ろ。確かに耐えられないような悲劇だって起きる。だけど、ここには得難い幸せだってたくさんあるはずだ。人はな、目の前のものを受け入れていかないといけないんだ」


 「夢は見るなって言いたいのか?」

 

 「違う」


 「違わないだろ。父さんは手の中にあるものしか見えてない。父さんの目の前にあるのは乞食のようにみっともなく揃えた自分の両手だけじゃないのか」


 「違う・・・」


 「父さんが守ってるのは結局自分だ。今ある世界に変わって欲しくなくて必死なだけだろ。もしも良い方向に変わるかもしれなくても、必ずそうなる保証がないなら耐えられない。それくらいなら今のままで良い、今のままで十分だ、なにも変わらない方が良いって、そう言ってるようにしか、俺には思えないよ」


 「違う・・・!!」


 「でも、世界って変わるんだよ。8年前、おでんがやってみせてくれたじゃないか。あいつはきっと父さんのそんなところを見透かして、自分に都合の良い今の世界を守ってもらおうとでも思ってるんだぞ。滑稽だ!俺まで恥ずかしくなる!父さんは結局変わった後の世界でも変わる前とおんなじように次の変化を恐れておんなじように剣を振るい続けてきた!!」


 「違う!!父さんは、お前たちの―――」

 

 「現実を見ろよ!!・・・頼むよ、父さん・・・」


 嗚呼、きっと幼い日の迅雷が憧れたこの男は多くを背負いすぎたのだ。そして背負ったものの重みで、もうそこから一歩も動けなくなっていたのだ。昔は違ったのかもしれない。いつか聞いた真名の昔話の中のこの男はなんと輝かしい主人公だったことか。でも現実は違う。迅雷には目の前の彼が、ランク7なんて肩書きに踊らされて都合の良い英雄に仕立て上げられた、憐れな子供に見えた。

 

 もう、疾風は変わることは出来ない。

 だったら、もう終わりにしよう。してあげよう。

 大きな荷物を抱えて道半ばで泣きじゃくる子供から全てを取り上げて、前を指し示してそっと微笑むのが、きっと、迅雷に出来る最後の親孝行だ。


 「父さん、俺に剣を握らせてくれて・・・ありがとう」


 最後の衝突で、《剣聖》の代名詞である”最高(MASTER)傑作(PIECE )”の銘を与えられた剣は儚く砕け散った。









 「御傷心のトコすみませんけどぉ、やっぱこういうときは親子一緒が良いんじゃないですかね~!!」








 「迅雷!!」


 息絶える寸前の疾風に突き飛ばされた直後、迅雷の視界は真っ赤に染まった。

 疾風の頭を貫いて現れた細身の刃が、迅雷の喉にも浅く突き刺さっていた。遅れて、反射的に距離を取った迅雷の前で力の抜けた疾風の体を捨てた、その女。

 

 毒々しいピンク色に染めた短い髪、1時間つけているだけでも眼球が汚染されそうな同色のカラーコンタクト、尋常ではない目の下の隈、不健康に白い肌、常夏の島には似合わないもウサギのパーカー、魔力貯蓄器の取り付けられたレイピアとズボンのベルト。


 「なんでアンタが・・・父さんとあんなに仲良かったじゃないか」


 小西李。


 警視庁魔対課A-1班副班長、すなわち、神代疾風の側近にして自身も《白怪》の二つ名を持つ世界最高峰の魔法士がひとり。


 「タイチョーはもう助かりませんでしたからね・・・心は痛みましたけど、タイチョーがせっかく命張ってチャンス作ってくれたんですからキッチリ突かないと。・・・まぁ実際は違ったみたいですけど、ね!」


 まるで邪魔だとでも言わんばかりに、李は疾風を道の脇まで投げ飛ばした。

 

 「誤解しないでくださいよ、迅雷クン。死体は所詮、死体です。ホントに仲は良かったですよ。最高の上司でした。よって私は今からタイチョーの仇討ちをさせて頂くとします」


 迅雷は咄嗟に身構えた。

 《白怪》の恐ろしさは迅雷も聞いたことがある。デタラメでインチキ、それは即ち一切の常識が通用しないまさしく怪物ということだ。どんなに常識を捨てた気になっても、ヤツは必ずこちらの予想の斜め上を行く、と。

 ある意味、多くの戦場を経験し、多くの猛者に打ち克ってきて自分の戦いの正しさを盤石なものとしてきた人間にとっては最凶最悪の敵である。


 故に、迅雷は身構えた・・・のだが。


 光が迸った。

 冗談みたいに李が吹っ飛んだ。

 迅雷ではない。彼は既に「迂闊に動かない」という常識に引っかかっていた。

 だから、その閃光の主は別の場所から迅雷に叫んだ。


 「行っちまえぇぇっ、テロリスト!!お姫様が牢屋で待ってるぜえぇぇ!!」


 刹那、唖然。

 嬉しさ半分悔しさ半分でニヤリ。

 紺のヤツ、また随分と粋な置き土産を残したもんだ。

 薬も効いて良い感じに頭痛も消えてきた。これなら、もう少しいける気がする。


 迅雷は迷わず一直線に破壊力抜群のレンブラント光線の中を駆け抜け、『ノア』の要、IAMOノア支部へと飛んだ。

 

          ○


 「つーわけで、こっからは俺たち『荘楽組』が喧嘩の相手を務めさせて頂くぜ~!!」


 「宣戦布告はもっと堂々としたらどーですかーーーー!?」


 「誰がテメーなんぞの目の前に出るかボケェ!とんだ外れクジだぜチクショウ、でも大当たりだ!喜べ、天才科学者・研サマの光魔法のイリュージョンにご招待だァ!!」


 迅雷を援護したのは、研が独自に開発した光魔法を誰でも扱えるようにする技術を組み込み設計された『ESS-PA』で武装した『荘楽組』の構成員たちだった。悪者にしてはあまりにも神々しいエフェクトを放つ亜光速の弾幕から逃げ回りながら、李は素っ頓狂な叫びを上げた。


 「あなたたちIAMOの仲間になったじゃないですかー!!」


 「はぃ~?知らねーなー!!ギャハハハ!!」


 「研さんセンセーでしょー!!学生さんが泣いてストライキしますよー!!」


 「大学は辞めましたー!!」


 「私が言うのもなんですケドとんだすっとこどっこいだよテメーこんちくしょー!!こんなコトしてただで済むと思わないでくださいよーーー!?」


 「そうだぜ、俺たちはそいつを求めて”こんなコト”してんのさァ!!ずっと鬼役じゃつまんねぇ!!だから悔しかったら捕まえてみやがれ!!光の速さを捕まえられるもんならなーッ!」

 

           ○


 「対策1課との部隊はどうしているかな?――――――そうか。あぁ、分かった。特務課のチームをターゲットの予測進路上に回せ、彼らなら強襲ポイントを変えても対応出来るはずだ」


 ギルバートは報告を受けて嘆息した。久々に指揮を執る戦いがこんなくだらない戦いだなんて。くだらないと言ったら、おでんは怒るだろうけれど。ギルバートは、本当は神代迅雷の意見に賛成だった。昔からギルバートは訴えてきたのだ。オドノイドは駄目だ、と。それを無視して上層部が事を進めた結果がこの大惨事なのだ。

 ギルバートの感想で言えば、この戦いは歴史の修正力、あるいは世界の修復力の現れのようである。長きにわたってそれが災いのタネになると予想していながら禁忌に触れ続け、目には見えない矯正力に抗い続けた結果、跳ね返りで受ける被害がここまで大きくなってしまったのだ。そう思えてならない。


 だが、それにしたって神代迅雷は()()()()()

 

 その時点で賛否の問題はギルバートの中で保留となった。全ては迅雷という何度でも猛威を奮う意志を持った核ミサイルを殺す義務がある。彼の死後に、ギルバートがその遺志を継ぐかどうかを決めれば良い。

 ギルバートは椅子から立ち上がった。疾風が死んだ。『荘楽組』の決起によって疾風のチームと1課の魔法士部隊が釘付けにされている。これ以上ギルバートが安全地帯から事態を観察していられる状況ではなくなったようだ。

 

 「せめてほんの少しでも安らかに、ハヤセ。君は本当に素晴らしい魔法士であり、良き友人だった。長い間お疲れ様、後は私も頑張ってみるとするよ」


 「その必要はない」


 ノックもなしに総長執務室に入ってきてギルバートの行く手を塞いだのは、おでんだった。


 「迅雷はわちきが殺る。言ってみればこれはわちきとヤツの戦いなのら」


 「目つきも顔色も悪いぞ、オデン。今の君に任せるのは不安だ」


 「うるさい。いきなり瞬間移動をお披露目されれば、わちきとて焦りもするさ」


 「確かにあれは想定外の中の想定外だったね。けれど良いのかい?」


 「・・・別に構わないさ。お前は腐ってもIAMOの総長なのら。事が終われば信じるようにすれば良い。お前は正しい男さ、誰よりもな。みんなお前を信じてついていくらろうよ。わちきはどうか知らんが」


 「やれやれ、まだ気の休まる日は遠そうだ」  




          ●



 阿本真牙は、自分の部隊を離れて単独で迅雷の行方を追っていた。

 もう真牙には今の迅雷の考えなんてまるで分からないけれど、ただ、自分が彼の無二の親友であるという自負と矜恃に突き動かされていた。

 実の父親すらも手に掛けたらしい今の迅雷に、真牙が勝てるはずがない。でも、友を止めるためならこの命も惜しくはなかった。この肉を裂いたときに迅雷がほんの少しでも自分の行動に疑問を感じてくれるのであれば、真牙は十分死ねる。価値がある。


 「どこへ行くの?洋服のお侍さん」


 「あらま、迅雷んとこのカワイコちゃんじゃない。今日もステキだね♡」


 ノア支部に戻ってきた真牙の前に躍り出たのは、伊那だった。


 「あなたの部隊の進行方向は逆じゃなかったですか?単独行動は組織の人間にあるまじきことですよ。しょっぴかれた私が言ってるんだから間違いないです」


 「ちょっとお腹が痛くってトイレしに戻って来ちゃったんだぜ」


 「ありゃりゃ、事前に行っとかなかったんですか?」


 「だ~ってあいつ、急に来るんだから!」


 「それもそっか!じゃあ仕方ないですね!」


 困り笑いを浮かべた伊那の横を、真牙は腹を押さえながら小走りで通り過ぎた。

 しかし、彼の行く手を遮るように、暗がりの廊下から大蛇が飛び出した。

 気が付けば、伊那の周囲にはおぞましい影の大蛇が何匹も集まり真牙を見つめていた。


 「行かせない。これがきっと、私が生きている間にあの人のために出来る最後の仕事なの」


 「困ったな、美少女を斬るのは趣味じゃないんだけど」


 「でもあなたはきっと容赦しないんでしょう?顔に書いてます」




          ●




 ―――静か過ぎる。

 

 ノア支部の地下フロアに侵入した迅雷の第一印象は、それだった。全く人の気配がしない。迅雷の迎撃で外に全ての魔法士を回していたのだとしても、それ以外の職員たちまで影も形もないというのは奇妙だ。迅雷は念のため監視カメラの目だけは避けながらゆっくり歩き出した。

 迅雷がIAMOで一番馴染みのある支部は東京支部だが、ノア支部の見取り図も頭には入れている。地下フロアはそう何度も来たわけではないけれど、道に迷うようなことはなかった。


 ノア支部の地下には変電設備や非常電源用バッテリー、サーバールーム、支部全体の空調用の熱源機器、地下倉庫など様々な大型設備が詰め込まれており、関係者以外立ち入り禁止となっている。明るく開放的な地上階の風景とは真逆の、狭く入り組んだ通路と物々しい機械の詰め込まれた巨大な部屋が特徴的な場所だ。

 だが、迅雷が向かっているのはそのどれでもなく、所謂「反省室」と呼ばれる部屋だ。地下フロアの余剰スペースに休憩室の名目で作られた小部屋だが、実際は人間界に来て悪さを働き捕まった異世界人などを一時的に拘留しておく場所として使われている。

 迅雷は、とりあえず千影はそこにいると予想していた。でも、別に千影がここにいなくても構わないとも思っていた。千影と再会するのは、すべきことを全て終えてからと決めているから。だから、迅雷がここへやってきた一番の理由は別にある。


 地下空間全体に染み渡る、肌に痛みを感じるような鋭い殺意。



 「待っていたぞ、迅雷」



 重い駆動音を断続的に立てる空調設備を詰めた大部屋で、銀髪のオドノイドは待っていた。


 「ケジメを着けに来たよ、おでん」


 「それはわちきを殺す、という意味か?」


 迅雷は首を横に振った。


 「なら、わちきに殺される、という意味か?」


 また、迅雷は首を横に振る。

 おでんの表情が微かに震える。


 「じゃあ、お前は一体なにをしにここへ来た?わざわざ、さっきのように『飛び』もせず、なぜわちきの前に立った?」


 「事情が変わったんだ。だから俺はもう、オドノイドを殺さないし、それに関わった全ても壊さない」


 迅雷から伝わってきたのは耐え難いまでの悔しさだった。だったら、俺が今までやってきたことはなんだったんだ。どうしていつも、一足遅れてこうなるのだろう―――。そんな、怒りにもならない、やりきれなさ。

 だが、それはこの場において恐ろしく不可解かつ場違いな感情だった。


 「・・・は?・・・分からんな・・・お前、自分の言ってる意味が分かっているのか?」


 「ああ」


 「じゃあなにか?今のお前は、わちきの敵ではないと?」


 「いいや。きっと、俺はまだおでんの敵だ」


 「ッ・・・く、ふくっ、あははッ!!・・・初めてなのら。こんなに他人の考えていることを理解出来ないのは!」

 

 笑声とは裏腹に、おでんは酷く不愉快そうに迅雷を睨み付けた。その眼球がオドノイド特有の黒に染まり、エメラルドの瞳は爛れた黄金の輝きへと変異する。


 「でも・・・まぁ、良い。敵、なんじゃろ?なら十分なのら。言ったはずらぞ、迅雷。わちきがお前を殺すとな。関係ないのさ。お前の事情なんぞこれっぽっちも・・・これっぽっっっちもなぁ―――!!」

 

 おでんの背に美しい銀毛の九尾が広がった。

 

 いや、彼女の変異はそれで止まらない。狐の耳を得、犬歯はクナイのように尖り―――次の瞬間、彼女の綺麗な顔のど真ん中に亀裂が入った。亀裂から大量の血を垂れ流しながら、今にも二つに裂けんばかりの口でおでんは宣言した。



 「お前がどんなチカラを得たのか見当も付かない。けどな、もう構わん。それで”これ”を凌げると思うなよ!!」



 ―――これは本当に殺される!!


 そう、迅雷は直感した。これほどまでに生々しい恐怖を感じたのは、何年ぶりだっただろうか。


 なにかは分からないが、今のおでんからは本当に迅雷を一瞬で葬り去れるという確信が伝わってきたのだ。そして彼女が確信するということは、考察の余地もなく「確実」にそうなるはずだ。

 

 だから、そう感じたときには既に、迅雷は反射的に動いていた。動かされた。

 この変容が完全に終わるまでの須臾のうちに、迅雷は彼女を無力化しなければならない。


 迅雷の動きに敏感に―――まさに獣の如く反応したおでんの着物の袖から鎖が飛び出した。

 当然、それくらいは躱せる。

 だが、『雷神』の金刃がおでんに届くことはなかった。


 ワイヤートラップ。

 

 迅雷の右腕が宙を舞った。


 部屋中に極細の鋼線を張り巡らせただけだったなら、光の反射で迅雷も気付けたはずだった。

 おでんが放った今の鎖。その根元は1本のワイヤーと繋がっていた。精密に張り巡らされたワイヤーは、たわんでいた1本が張った瞬間に跳ね上がり、まるでカメラのシャッターの如く迅雷の腕を巻き込んで閉じたのだ。

 


 血を撒き散らしながら空を斬る迅雷の肘の断面。




 その血滴に染まるより速く、おでんは迅雷の胸を真空の刃を纏わせたクナイ手裏剣で貫き。




 それでも無理に踏み込んだ迅雷の左の刃が、おでんの腹を貫いた。




 一歩、重心を失った迅雷はおでんの方へと倒れかかる。

 迅雷は俯き、おでんは仰ぎ、額が合わされる。

 互いの血生臭い息遣いがうるさいほどに聞こえる距離へ。

 迅雷の口から溢れ出す鉄臭い紅を顔に受けながら、完全にその姿を変えたおでんは唖然としていた。



 「・・・なんで・・・なんで、なんでチカラが!?違う・・・こ、れ・・・?い、イヤ・・・イヤなのら!!そんなことがあってたまるか!!」



 ()()()使()()()()()()()()()。 


 得体の知れない恐怖を感じたおでんは、迅雷の胸から刃を引き抜き距離を取ろうとした。

 だが、そうはならなかった。

 迅雷が、片方だけになった腕でおでんを抱き留めたからだ。彼の顔にあるのは、まるでオドノイドであるおでん同様、体を貫かれた程度では痛みなんて感じないかのように、穏やかな覚悟だった。

 強く、強く抱き締められ、おでんもまた迅雷に体重を預けてしまった。

 

 「おい・・・・待ってくれ、なぁ、迅雷。お前一体なにをした?わちきのチカラをどこにやった・・・?」


 「俺はケジメを着けに来たって言っただろ」


 「これがお前の答えなのか?」


 「ああ」


 「()()()()()()()()()()()()()()()()()!?フザけるなよ!!お前まさかこのチカラでこの世から『オドノイドそのもの』を無かったことにするつもりじゃないらろうなッ!?」


 「そうだよ。だから俺はそのことを、おでん、他でもなく今の世界を生んだお前に一番最初に伝えるためにここに来たんだ」


 「わちきはそんな結末など求めちゃいない!!こんなの救いでもなんでもない!!わちきはもう普通の人間なんかに戻りたくない!!返せ、返せよ・・・わちきのチカラを返せ、迅雷!!」


 なにも言葉を返さず、迅雷はおでんの腹から『風神』を引き抜いた。

 血が溢れ出すことはない。

 気が付けば、おでんは傷も消えて元の人間の姿に戻っていた。

 もう、あの姿には戻れない。もう、あのチカラはない。

 そして、迅雷の右腕も繋がっていた。


 おでんは膝から崩れ落ち、迅雷はその横を歩み去る。


 「・・・それでも、千影は殺すのか・・・?」


 「あぁ。だってそう約束したんだから」


 「もうその必要ないらろ!!お前のそのステキなチカラで綺麗さっぱりオドノイドがいなくなるんなら、もう千影を殺す必要なんてないんじゃないのか!!」


 長きにわたって世界を掌の上で転がしてきたお狐様が、無様なものだった。

 行こうとする迅雷の足にしがみついて、おでんは目に涙を浮かべながら懇願していた。

 

 「そういう話じゃないことくらい、おでんなら分かるだろ。もうなにもかもウンザリなんだ。俺も千影も。だからちゃんと、俺は千影を殺さないといけない」


 「やめてくれ、頼む・・・頼むから行かないでくれ!!」

 

 「無理だよ。俺、行かないと」


 「イヤなのら!!お願いらから千影は殺さないでっ!!お願い、お願い、お願い・・・お願い、やめて・・・殺さないで・・・」


 もう迅雷はおでんのことなど見ていなかった。まるで3次元と2次元の隔たりが密着する彼らの間にも存在しているかのように。

 乱暴に振り払われて床に転がったおでんは、悲鳴と共に去りゆく迅雷の背に絶叫した。


 「迅雷ィィィィィィッッ!!お前は最低らァッ!!死ねッ!!死んでしまえッ!!死ぬならお前独りで死ねば良いッ!!」


 痛哭に崩れ、涙の泥沼に沈む。

 それが、もう目の前の憎悪の対象に「殺す」とすら言えなくなった、か弱い女の末路だった。





          ●





 「千影、いるのか?」


 鉄の戸を叩くと、酷く懐かしく錯覚する声で返事があった。迅雷の予想は当たっていたみたいだった。


 扉を開ける必要は無い。

 扉をすり抜けるように部屋の中に現れた迅雷を見て、千影はビックリしていた。


 「スゴ。テレポートでも出来るようになったの?」


 「まぁ似たようなもんかな。実は借り物なんだけど」


 「そんなの貸してくれるなんて気前が良い人もいたねぇ」


 「気に入られてるんだ、その人に」


 「そんな迷惑そうに言わなくても・・・」


 他愛ない会話はここまで。

 千影は迅雷が差し延べた右手を取った。


 「まだ外は音がしてるけど、ホントに全部終わったの?」


 「や、実はまだ。今から終わらせる。だから一緒に行こうぜ。特等席で夜明けを見ててくれ」


 「―――そっか、わかった。じゃあとっしー、早くボクをそこへ連れて行って」


 2人の姿は消える。


          ○


 目を開けば、天高く聳える『ノア』の頂に千影は腰掛けていた。隣には剣を抜いた迅雷がいた。丸い水平線の果てにおぼろげに映るオレンジ色。


 「とっしー、夜が来るよ」


 「あぁ、千影。そして始まるんだ。まっさらな世界が」


 剣で空を斬る。

 白い波動が世界を満たしていく。終わりと始まりは紙一重でやって来る。

 暖かく、穏やかな光。それがこの世のあるべき姿なんだ―――みんなが必ずそう思ってくれると信じて、光は秒速70万キロで新しい朝を宇宙の果てまで届けに行く。


 これからは全部元通り。

 

 刹那の朝は過ぎ、世界は新鮮な闇へと包まれる。


 「・・・なんだか、あっさりだね」


 自分の中からオドノイドとしての要素が全て消えてしまったのを感じ、千影はポツリと呟いた。

 迅雷も腰掛けて、千影は彼の肩に寄り添う。


 「それで良いんだ。みんな夢から醒めて日常に戻っていく。当たり前のことだろ?」


 「でも、すぐ忘れるには長い夢だったね。みんな胸にぽっかり穴が空いちゃうかも」


 「大丈夫さ、絶対に」


 「そっか。君が言うなら、きっとそうなんだね」


 しばらく星を眺めて、世界の終わりに満足した迅雷と千影は向かい合った。


 その手には刃を持って、微笑みと共に抱擁した。

 

 「ずっと、ごめんね。ありがとう」

 「出逢えて、良かった。さよなら」


 後悔(こころ)を込めて感謝を。

 愛憎(こころ)を込めてお別れを。


 ゆっくり、ゆっくり、互いの心臓を貫いた。


 


 彼らの鼓動は止まり。


 刻はまた動き出す。


 お帰り。ありのままの俺たちの世界。






















          ●
















 





 こんな結末で良いの?





















          ● 




















 全ての世界を震撼させた神代迅雷の暴走劇は、彼の死が報じられると共に幕を閉じた。


 あまりにも多くのものを失い過ぎたこの戦いを嘆く報道があった。

 死んだ人々は、身分の貴賤も、力の強弱も、善悪好悪も関係なく、等しくみな帰ってこない。

 廃墟の星と化した北神界、皇国が2つの頭を失い均衡が揺らぐ魔界、魔法士の絶対的象徴を失った人間界。当然、復興は容易ではなかった。先の大戦を経たばかりでありながら、またもや界際社会の構造は変革を迎えることとなるのだろうか。

 今や親子2世代でランク7となった新時代のヒーローから世紀の大犯罪者に転がり落ちた神代迅雷だが、そもそもなぜ彼はこの世界に反旗を翻したのだろう。思想のある革命だったのか、無秩序な破壊だったのか―――その謎を、人々はこれからも考察し続けるだろう。


 けれど、そんな漠然とした不安が全てじゃない。

 新たな平和の訪れを喜ぶ声は、まるで春の野に芽吹く花々のように上がり始めた。

 道程は長く険しいが、どこの世界においてもヒトはそれを乗り越えてここまで素晴らしい文明を築き上げてきたのだ。今日の自分たちが払った対価は、きっと子供たちに明るい未来をもたらすためのものだと信じて。


          ○


 「なーおか!」


 「だーめ」


 「まだなにも言ってないのに!」


 「どうせまた『解析学の課題うつさせて~』でしょ?お見通しなんですねーこれが」


 「分かってるならそこをなんとか!!」


 「うーむ。ドーナツ2個」


 「神よ!あなた様はやはり神の代わりではなく神そのものであらせられます!」


 直華の日常も帰ってきた。

 父と兄のことは悲しかったけれど、なんとかやっている。みんなも、あまりそこに触れないでいてくれるのが嬉しかった。

 きっと直華はこうして、ありがたくも大学に通わせてもらって、卒業して、いつかは違う人を好きになって、未来を紡ぐようになるのだろう。


 「神様の代わり、かぁ」


 もしかしたら、迅雷は―――。

 

          ○


 「失礼しまーす。課長、総長がお呼びですよー」


 「え~・・・なんでまた、ヤツも暇じゃなかろうに」


 「ほらほら起きて、あぁもう着物乱れてる!きっとこんな無気力だからギルバートさん怒ってるんだよ、おでん!」


 「仕事はちゃんとやっとるじゃろ。見ろこのポスター。対策2課の成績は今月も支部内1位!人気も1位!さすがわちき、美人で冗談が通じて強くてカッコ良くて美人、文句なしの理想の上司!」


 「むぅ~・・・」

 

 今、美人って2回言った気がする。


 腑に落ちないという顔をする伊那に負けて、深く溜息を吐いて、おでんはソファから降りた。

 鏡を見て、服装と、また少し伸びてきた髪を直しながら、おでんはふと呟いた。


 「なぁ伊那、もしわちきが仮面を外して制服着るようになって、一人称も『私』になったらどう思う?」


 「え・・・それ完全にアイデンティティの喪失じゃない?もはやそれは別の誰かじゃん?急にどうしたの?なんか悩みあるの?好きな人出来たとか?相談乗るよ?」


 「違うわ。・・・そうじゃなく、なんかもう、アイデンティティとかどうでも良いような気分なのら」


 「千影のこと・・・?」


 「それもあるけど・・・・・・・・・いや、なんでもない。忘れてくれ」


 伊那もベルモンドも、普通にここで魔法士を続けている。それだけのことだ。

 おでんはまだしばらくはこの装いでいることにして、執務室を出た。

 ギルバートは、相変わらず一般職員で賑わう休憩スペースでおでんを待っていた。彼の向かいに腰掛けて足を組み、真っ先に溜息を吐いた。


 「なぁ、こんなとこで総長が安いコーヒーを飲んでるのは皮肉にしか見えないと前にも言わなかったか?」

 

 「結局、私みたいな現場の人間の舌にはこっちの方が合うのかもしれないな、と思っているところだよ」


 「まぁ好き嫌いについてはとやかく言わんけど。で、話ってなんなのら?」


 「来年度で私の総長としての任期が終わるだろう?どうだい、オデン。次の総長選に名乗りを上げてみては」


 「・・・・・・なんの皮肉かな?」


 「皮肉?まさか。今となっては、私はなぜ今まで君のことがあんなに気に入らなかったのかも分からない」


 「そうか・・・いいや、なんでもない。変に疑ってすまなかった。そうらな、悪い話じゃない。現総長の推薦ともなれば影響力にもアドバンテージがある」


 おでんは力なく笑みを浮かべ、ギルバートに差し出されたコーヒーに口をつけた。安っぽい味に渋い顔をする。彼女の最近のマイブームは緑茶なのだった。


 「君の才覚は総長たるに相応しいと思うよ。魔法士よりも政治家の方が、きっと向いている」


 「お前にこうも買われるとむず痒いな。まぁ・・・考えておくよ。世辞じゃなく、本当に考えてみる」


 「良い返事を期待しているよ。―――あぁそれと、2課に新しい仕事だ」


 ギルバートが持ってきたのは、すごく泥臭い鬼ごっこの招待状だった。


          ○

 

 「親父親父!ここ教えてくれ!」

 「それよりアレ見せてくれよー」

 「こら、そんな寄ってたかっても親父は1人しかいないのよ?」

 

 「あーはいはい、うるっせぇなぁガキ共・・・『荘楽組』は託児所じゃねーんだからよォ、揉め事は拳で解決してくださーい」


 まだ「親父」という呼ばれ方には慣れないが、前大戦に先駆けて拾ってきたじゃりん子どもは可愛いものだ。まだ幼い研が初めてここに来たときの岩破もこんな気持ちだったのだろうかと思うと、なんだか懐かしく、微笑ましい気持ちになった。だって、あの厳つくてなにか気に入らないものがあったら即刻魔法で月まで吹っ飛ばしちまうようなオッサンが、子供たちに囲まれてニヤニヤしそうになるのを我慢してたのかなんて思うと、堪らないものがあるじゃないか。

 だがここで育てるからには、将来的には『荘楽組』の一員として恥ずかしくない立派なワルになってもらわなければいけない。なにせ、『荘楽組』はかつては日本最凶のマジックマフィアとして世界にも名を轟かせていたキング・オブ・ヤクザなのだ。一時はIAMOに取り込まれたが、今再びこうして裏社会に舞い戻ったからには、その王座は『荘楽組』のものでなくてはならない。そのために初歩は汚い言葉遣いから、上級編では取引でナメられないための吹っ掛け方のお勉強まで、学年制でカリキュラムはばっちりだ。大学講師時代のノウハウも生かしちゃうぞ!


 ・・・岩破はいない。紺も千影もいなくなってしまった。研にこの場所を守れるか、まだ不安はある。でもやるしかないし、やるならとことんだ。昔っからの連中だってまだまだいる。たまにはあいつらにも寄っかかってのらりくらりやれば良い。

 子供らの戯れに付き合ってやりながら、研はこれからどんな風に『荘楽組』を展開していくかを考えて悪い顔をするのだった。



          ●



 軽い鈴の音を立てて、慈音は街のオシャレな料理店を覗き込んだ。

 その店主は、すぐに慈音に気付いて手を振ってくれた。夏らしい涼やかな服装の、水色が印象的な美人さんだ。


 「あ、慈音。来てくれたんだ」


 「もちろんだよー。開店おめでとう、雪姫ちゃん!」


 大学休学中にコッソリ調理師免許を取っていて、かつ割と顔の広い店主の下でバイトしていた雪姫が店を持つようになるのは、割と早かった。

 開店直前のこの日に、彼女の店にはかつてマンティオ学園で同じ時を過ごしたみんなが集まることになっていた。ただ、慈音がちょっと気が急いただけで、まだ店には店主の雪姫しかいなかった。


 「わぁ、お店の中も可愛いねー」


 「そう?自分でデザインしたから不安だったけど、良かった」


 「はわ~、さすが。ひょっとして食器とかもそうなんじゃない?こういうのなんて言うんだっけ?マルチタレント?」


 「アンタも最近は色んな単語出てくるようになったね。でもそんな大層なモンじゃないって」


 「またまた、ご謙遜を。ひょっとしてこの音楽も?」


 「いやさすがに違うって。録音でお金かかるから・・・」


 「そっち?」

 

 最後の仕込みをしながら、雪姫は慈音と他愛ない話をする。


 この頃は、雪姫と慈音はたまに会うようになった。

 最初は、雪姫が慈音を気遣ってのことだった。迅雷のことだ。でも、早い内にそれがお節介だと知った。それでもこうして会うようになったのは、別になんと言うこともない。友人だから、だろう。

 

 「でも、またどうしてクラス会なんて?」


 「前に迅雷と、戦争終わったら同窓会でもしようって話したの思い出したんだよね」

 

 「そうだったんだ・・・知らなかったなぁ」


 「どうせなら店出してからサプライズにしたくて内緒にしてた」


 「粋だねぇ」


 そう呟いて、慈音は遠い目をした。その迅雷はここには来ない。彼はもういない。

 迅雷の母方の実家で行われた親子の葬式はこぢんまりしたものだった。世間からすれば、迅雷も疾風も本当に、実在したのかどうかも分からない有名人のままだろう。迅雷の棺に至っては空っぽだった。IAMOに、迅雷の遺体は事件の重要参考品として預かるのだ、と言われたときはさすがにショックを受けた。けれど、元より慈音は迅雷が帰ってこないものだと分かっていた。迅雷は、それを徹底したのだ。

 彼の思い出は慈音の中にも、みんなの中にもちゃんと残っている。今日は、それを語らうこともあるだろう。色々なことがあった。それを含めて、悪い気はしなかった。慈音に恐いことがあるとすれば、それはきっと、自分では抱えきれないほどの愛の拠り所を失ってしまうことだ。だから、慈音はこれからもこの世界をしっかりと見つめて生きていく。


 少しして。


 「おいーっす、雪姫ちゃん開店おめでとう、ンアァァンドお招きいただきありがとぉーう!!」


 「いらっしゃい、真牙。相変わらず騒がしいね。いい加減もうちょっと落ち着いてみたら?」


 「真牙くん、おっひさー」

 

 「おっひさー、慈音ちゃん♡」

 

 続々と2016年のマンティオ学園1年3組の懐かしい顔触れが揃い、宴は始まった。

 

 

          ●

          ●

          ●



 その後、慈音は雪姫と真牙を連れて、夜の母校に来ていた。


 「なんかすごーく悪いことしてる感じだね・・・!」


 「まぁ実際不法侵入」


 「見つかんなけりゃ問題ないのよ」


 魔法士としての腕も衰えていないらしく、雪姫の誘導で3人は防犯カメラの目を忍んで校庭に入り込んだ。・・・どこが魔法士らしい技術なのかはさておいて、だが。戦場帰りには戦場帰りの事情があるのだ。

 

 マンティオ学園の校庭の端には、今もあの石碑がある。


 今日はネビア・アネガメントという少女の命日だ。クラス会で集まる日と重なったのがたまたまなのか、それともなにかの導きなのかは分からないけれど。

 学校はあの頃からほとんど変わらない。懐かしい砂の庭を歩いて、石碑の前に立った3人は、そこに置かれたものを見つけた。雪姫がそれを拾い上げる。


 「手紙?」


 「きっと先生だよ。先生、今でもちゃんとお手入れしてくれてるんだから」


 「ふぅん・・・アンタと迅雷だけでもなかったんだ。やっぱ良い先生だったんだね、志田先生」


 「まーま、慈音ちゃんも雪姫ちゃんも。まずはネビアちゃんに挨拶しないとだぜ?」


 真牙に言われて、2人も手を合わせた。 

 それから石碑を囲んで背中を預け、3人は夜空を見上げた。プシュ、と気の抜ける音がして雪姫がギョッとして真牙を見た。


 「アンタまだ飲むの?」


 「だってネビアちゃんだって同い年なんだぜ?宴会で仲間はずれじゃ可哀想じゃん」


 そう言って真牙は酒を注いだグラスを墓前に備えた。


 「ちなみにスピリタス。朝には揮発してるからバレないバレない」


 「それ飲ませるのはイジメじゃない?」


 慈音と雪姫も真牙から普通の缶チューハイを受け取って、静かに3度目の乾杯をした。

 酔い直しながら、慈音は真波が残した手紙を読んで、「あれ」と首を傾げた。


 「ねえ、雪姫ちゃん、真牙くん」


 慈音は、石碑の滑らかな表面を撫でながら。



 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだっけ?」


 

 素直な疑問だった。

 口に出してようやく、雪姫も真牙も首を傾げた。


 「それはほら、ネビアが・・・・・・・・・・・・あれ?」


 「いや、IAMOの手違いで巻き込まれちゃったからだろ?」


 「そうなんだけど、そもそも・・・なんでそんなことになったんだったっけ・・・っていうか」


 「そう・・・いえば確かに・・・IAMOはなにをしてたんだっけ?」


 もう少しで出てきそうなのに、出てこない。なにかが抜け落ちているような感覚。




 「なにも思い出さなくて良い。ただこうすりゃ解決、だろ?」




 聞こえたのは、もう二度と聞くことのないはずの声だった。

 夜闇を斬り払う電光が、石碑に「Nebbia Annegamento」の名を刻む。

 幻でもなんでもない。それは―――。


 それは。


 「とし・・・くん・・・?」


 想いよりも先に走り出し、慈音はまず迅雷の頬をあらん限りの力で張って、それから彼の胸に飛び込んだ。全て受け止めて、迅雷は目を細める。


 「お帰り、としくん・・・っ」










 「ただいま」










 本編を読んでくださっている皆様、そしてこの特別編から読んでくださった皆様、こんにちは。作者のタイロンです。

 これにて、2020年のエイプリルフール特別編「A Cup of Coffee」、主人公がコーヒーをゆっくり飲まなかっただけのIFストーリーは完結です。最終話は大変長くなってしまいましたが、ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました。お楽しみ頂けたでしょうか。

 作者自身は、これを書いていてすごく楽しくて、でもすごく胃が痛かったです(笑)。鬱要素がね、まだ稚拙な文章ですが、自分の中では刺さっていて。

 読んでくれたみなさんに、少しでも「これだけでこんな分岐すんのかよ!?笑」と思わせることが出来ていたなら、私は満足です。世界というのはこんなにも簡単に変わるのです。


 まずは日頃から本編を読んでくださっていた方へ。

 盛り上がりを考えて、本編の時系列ではまだ明らかにならない要素のチラ見せを非常に多く盛り込んだ、かなりキワドイ作品に仕上がりました。どこがどうとは言いませんが、今後、このストーリーを読んだ方は「あ、これってあの時の・・・?」ってなることも多々出てくるかと思われます。そのときには是非ニヤニヤしてください。

 あとは、本編で登場した脇役キャラの活躍があったりなかったり。作者自身がニヤニヤしながらいろいろと想像力を働かせて遊んでみました。エルケーは南無。俺はお前のこと好きだったぜ・・・。


 それから実は、「春日観月」、「伊那」、「ノエル」、「シーナ・エバンズ」などは、マジでこの特別編にしか登場しない予定のキャラでした。名前は未定だけど今後本編で登場するタイミングのあるキャラだったとかではなく、本当に新規書き下ろしのキャラです。でも、やっぱり今はこれだけで出番を終わらせるのが惜しいキャラクターたちだったと感じています。みんな良い子だからね(あと伊那の能力とか見た目にインパクトあるし)。いずれはなにかの形で本編にも登場する、かも。


 なんにしても、なんだか燃え尽きたような気分です。1個の物語を完結させるのって、こんな思いなんですね。知ったようなことが言えるのかは分かりませんが、とても良い経験になりました。作者評では正直、本編より今回の特別編の方が面白い説まであるので、今後は本編でもこれに負けないくらい面白いお話を書けるように頑張っていきたいです。(え、話のテンポ・・・?許して・・・)

 

 この特別編から読んでくださった方へ。

 もしも、これを読んで作品に興味を持って頂けたなら、是非本編にもお越しください!まだまだ完結は遠いですが、LHワールドは現在も週1ペースで更新中です。この特別編では詳細に描かれなかった設定等も次第に明かされていきます(と思います)。あと最近やっと舞台が異世界に移ったのは内緒です。異世界は外国より身近じゃなかった・・・!?



・・・最後にひとつだけ。


ハッピーエンド、バッドエンド―――。

彼にとってはどちらだったんだろう。


(2020/05/04 01:07 投稿)

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