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A Cup of Coffee  作者: タイロン
2/9

Part2


 「よーし、お前らちゃんと章末解いてきたか?前回当たったヤツはさっさと黒板に回答書けー」


 「・・・なぁ真牙、問4の(3)これで合ってると思う?」


 「合ってる合ってる、ほらさっさと書いてこいよほら」


 「怪しすぎるなその笑顔!」


 「つって解き直してる時間なんてございませんがね~」


 「くっそぉ・・・」



 ――――――あの日から、ちょうど2ヶ月が過ぎた。


 

 あれ以降、迅雷は一度も千影と会っていない。普通に学校に通って、普通に勉強をして、普通に友達と遊ぶ、今までとなにも変わらない、当たり前の生活に戻っていた。

 まだ、時々考えることがある。結局、4月のあの5日間の出来事というのは、なんだったのだろうと。迅雷は頬杖をついて、窓の外を見た。あの時は盛りだった桜の花は全て散って、まるで初めからそうだったかのように生い茂った青葉がそよそよと風に揺られて音を奏でている。こうしていると、あまりに儚く鮮烈な思い出は、ひょっとしたら夢だったんじゃないかと思うときもある。

 それでも、ひとつだけ確かなこともあった。


 ”オドノイド”という怪物が、この世界には存在しているということだ。


 連日、新聞もニュースもワイドショーも全部全部、その話題で持ちきりだった。画像やVTRで取り上げられるのは、いつだって迅雷のよく知る―――いいや、本当はなんにも知らない、あの少女だった。彼女を住まわせていた神代家に取材が押しかけなかったのは、ひとえに家長である疾風(はやせ)が徹底してマスコミの耳目が家族に向かわないように手を回しているからだろう。

 一見すると人間と見分けがつかないが、実は魔族やモンスターと同じように黒色魔力を有していて、魔力が高まると翼などの人間にはない器官が形成されるだとか、異常な再生能力を持っているとか、凶暴だが潜在的には人間と同等の知能があるとか―――人間やモンスターを喰って魔力を維持している、とか。

 

 そんなバケモノと、よもや5度も一緒のベッドで眠っただなんて、ゾッとする話だ。・・・本当に、ゾッとする。

 

 「――――――り!」


 少し前にはオドノイドの存在を今まで隠蔽してきたとして、魔界が中心になって多くの異世界がIAMOの実態について追及するようにもなって、ますます世の中が騒がしくなってきて―――。


 「おーい、とーしーなーりっ!」


 「うおっ」


 いきなり肩を掴まれて、迅雷は椅子の上で跳ねた。慌てて振り返ると、誰かと鼻の先がくっついた。


 「私を無視するだなんて良い御身分じゃないの、カシラ」


 「のわぁぁぁ!!ち、近い近すぎるッ!!」


 ビックリして押し離したところで、やっと相手の姿にピントが合った。ウェーブのかかった深青色の髪を後ろでお団子付きのポニテにしていて、鈍色の瞳を楽しそうに煌めかせる、小麦色の肌の少女だ。彼女は「おっとっと」と大袈裟に一歩下がって、そこにあった机に腰掛けた。


 「あのさぁ、ほんとビックリするからやめてくれよ・・・」


 迅雷も迅雷で椅子ごと転んで壁にぶつけた頭をさすりながら、その少女の名前を呼んだ。


 「ネビア」


 名前を呼ばれた彼女は満足そうな表情だ。


 「にゃっはは~。まだそんなこと言う、カシラ」


 「まだって・・・ネビアは転校してきてまだ1ヶ月だろ。こんなの慣れてたまるかコンチクショウ」


 ネビアといちゃつく迅雷に、真牙を筆頭としてクラスの男子たちから羨望と殺意の入り交じった眼差しが向けられていた。心臓がドキドキするのは、可愛い女の子と触れ合ったからなのか、それとも命の危険を感じているからなのか・・・。

 

 「ほら、立って迅雷、カシラ。もうお腹ペコペコペンタゴンなのよ、カシラ」


 「・・・掃除が先だぞ?」


 「あ、バレた?」


 さりげなく面倒事をすっぽかそうとしているネビアをとっ捕まえて掃除を済ませ、迅雷は慈音や真牙、それから友香と向日葵とも一緒に食堂で昼食を済ませた。

 お昼に掃除をしたのは、今日はこれで授業が終わりだからだ。ではなぜこれで授業が終わりなのかというと、午後は『高総戦』の全国大会に向けて出場する選手の強化練習があるからだ。全国大会は2日後から始まり、選手と引率の先生たちは明日の早朝に出発することになっているので、準備のためにいつもは午後の授業が終わった後にやっていた練習会を今日は早めにするのだ。


           ○

 

 食堂から教室に戻ってきて、迅雷は荷物を持った。


 「んじゃ、真牙、ネビア。頑張れよ。授業中だろうがスマホで中継見るからな?」


 そう。

 

 迅雷は『高総戦』の選手じゃない。幼い子供のような魔力量しかない迅雷がマンティオ学園の代表になれるはずもなかった。


 「おうよ。優勝旗持って帰ってきてやるぜ」


 「それは真牙よりも雪姫ちゃんの仕事じゃないの?カシラ。・・・ま、私もボチボチ頑張るから、応援しててよね!カシラ」


 いつものように爪を噛みながら適当なことを言うネビア。


 「ボチボチってなんだよ。俺はめっちゃ期待してんのに」


 「へっ?」


 「だ・か・ら」


 迅雷はネビアに拳を突き出して、歯を見せて笑った。


 「応援してる。頑張れよ、ネビア」


 「―――うん。なんか・・・やれる気がしてきたわ、カシラ。ありがと、頑張るね、カシラ」


 ネビアが拳を突き合わせると、向日葵に横からひゅうと口笛を吹いた。


 「ちゃ、茶化すなそこっ」


 「きゃー、迅雷クンだいたーん」


 「だから今のどこがそうなるんだよ!あっ、しーちゃんまでそんな顔して!ちょ、ネビアもなんとか言えってば・・・ネビアさん?なんでここでそんな表情なさるんですか?」


 ちょっと頬を染めてモジモジして、ネビアはいつになく角の取れた目つきで迅雷のことを見つめていた。


 「なんなんだよぉ・・・。いいし、もう帰るし!んじゃな、ネビア。マジで頑張れよ!」


 「うん。それじゃあ―――バイバイ、カシラ」


 

          ●



 『なんか、ネビアおかしくなかった?』


 『はわわ~・・・あれが恋の始まりってやつなんだね・・・。見ててしのすっごいドキドキしたぁ・・・』


 『いやそこじゃなく・・・っていうかそういうんじゃねーから!そうじゃなくて・・・なんかさ、様子が変じゃなかった?』


 『そう?』


 『あれ?気のせいかな・・・』


 帰り道、慈音とそんな会話をした。それきりではぐらかしたが、迅雷は確かにネビアの様子に違和感を感じていた。言うことのほとんどが冗談みたいな彼女だが、今日の帰り際に言われた「バイバイ」という響きがなぜだか耳に残って、妙に寂しい気分だった。

 でも、その夜、どうしても気になってSNSで改めて応援のメッセージを送ってみたら、普通の返事が返ってきた。ホッとしてやり取りを続けるうちに夜も更けて、ネビアが『早く寝ないと明日まで寝坊しちゃう』と言った。これはいけないな、と思って迅雷は謝った。


 「それじゃ、おやすみ」


 『うん、おやすみなさい、カシラ』


 SNSでまでその語尾使うんかい、と迅雷は思わず小さく笑ってしまった。

 スマホを机に置いて、ベッドに寝転がる。けれどすぐにまたスマホを取って、迅雷はアルバムを開いた。この前の学内戦の打ち上げでクラスのみんなと撮った集合写真だ。そこでは、自分とネビアが肩を組んでいる。あの慈音にまで茶化されたのを思い出して、迅雷は顔が熱くなるのを感じた。


 「・・・あーくそ」


 自分でも気付いていた。

 きっと、この気持ちはそうなのだ。

 







          ●








 「分からないッ!!なぜ!どうして!?なんで私の邪魔をするの!?なんで私を攻撃するの!?なんで私を襲ってきた!?なんでなんでなんで、なんでッ!?なんのつもりなのよ!!カシラ!!」


 鉄の匂いが充満した暗い建物の中で、ネビアは金切り声を上げていた。腹を貫通した小刀で壁に磔にされた彼女は、一言叫ぶたびに刻まれた全身から赤を撒き散らす。剣を抜くにも両腕の腱は切られ、『脚』を出そうとしても腰回りも火に焼かれ、少しでも暴れれば腹に刺さった剣が上へ上へと肉を裂いていく。もしこのまま足が床についたなら、いくらオドノイドであっても死んでしまうかもしれない。もはや声でしか抵抗出来ない無惨な有様だった。

 なんでこんな目に遭わないといけないのか、ネビアにはなにも、本当になにも分からなかった。

 言われた通りに、学生のふりをして潜入して、『のぞみ』で極秘管理されていた『高総戦』の過去の大会含む全て選手たちの魔力パターンのデータを入手したのに、この仕打ちはなんだ。こんな家畜以下の無様を曝すために、別れを告げてまでこの日に臨んだんじゃない。


 「うるさいな、あんまり騒いだら人が来るでしょ」


 ずるっ、と腹の剣が抜き取られ、ネビアは重力に引かれ床に転がった。


 「ぁがっ、げ、ほ・・・ッ。こ・・・の・・・!!」


 地に這いつくばるネビアを無慈悲に見下ろしていたのは、ネビアよりもずっと幼い―――そう、10歳くらいの金髪の少女だった。血潮より鮮やかな紅の瞳を闇の中で爛々と輝かせる、始まりの少女。涙でその姿が滲んだ。

 次元が違う。気が付いたらボロ雑巾にされていた。なんの抵抗も出来なかった。向こうはまだオドノイドとしての姿すら晒していないのに。

 ネビアは眼光を滾らせて、ひたすらその少女を睨みつけた。


 「本当に、分からない?」


 「分からないって・・・言ってるのが聞こえなかった!?!?!?」


 ネビアは上半身の力で床から跳ねた。手も脚も出なくても、口は出る。せめて、その綺麗な顔を牙を突き立てぐずぐずに噛み潰してやりたくて。でも、瞬きをした覚えもないのに気が付けば目の前には靴の裏があった。首の骨が変な音を立てた。口の中に血が溢れて吐き出すと、一緒に折れた歯が何本も床に転がった。


 「バケモノが・・・」


 「っ・・・」


 そうだ。

 こいつはバケモノなのだ。

 ネビアが自分のことを棚に上げてでもそう謗ることが許されるほどの、真性の怪物なのだ。そうでないといけない。日の当たらない場所でしか生きていけない、他者の血を啜ることでしか存在を示せない、そんな怪物でないと―――。

 

 そのとき、ネビアはその怪物であるべき少女の表情が痛みに歪むのを見た。


 見てしまった。


 「・・・なんで・・・あなたが、泣いてるの・・・?」


 「うるさい、うるさいうるさいうるさい!分かってるんだそんなこと!ボクはバケモノだ!知ってるよそんなの!!まともに生きてくことなんて出来ないし、みんなと一緒にいることすら出来なかった!!人間でもなんでもないバケモノだよ!!」


 「・・・千影・・・」


 なぜ斬られたのかよりも、こんな思いを叩きつけられていることの方がずっと不可解だった。

 腕の腱が治り始め、ネビアがゆっくりと起き上がると、まるで入れ替わったかのように千影が膝から崩れ落ちた。握っていた剣を落として、俯き、嗚咽を噛み殺すその少女が、今のネビアよりもずっと痛々しく見えて―――気が付けばネビアはあんなにも憎くて憎くて仕方なかったはずの彼女をそっと抱き締めていた。


 「・・・ボクの気持ち、分かってよ」


 「ちゃんと言ってくれなきゃ、わかんないよ、カシラ」


 「痛いんだ。あの日から、ずっと、(ここ)が。おかしいよね、ボク、オドノイドなのに、痛いのが治らないなんて」


 「・・・」


 「ねぇ、ネビア。また、みんなのところに帰りたくは、ない?」


 「無理よ、カシラ。私も闇の中でしか生きていけないバケモノだから。これが終われば全部元通り、私は本来の居場所に帰るの、カシラ」


 「出来るとか出来ないの話じゃないの。あの時はこれで良いんだって思ったはずなのに・・・ボクは、とっしーとまた会いたい・・・ネビアは・・・違うの?」


 「千影。夢は醒めるものなのよ、カシラ」


 「ちゃんと答えて!!」


 ちゃんと答えて?ちゃんと答えたら、なにがどうなるというのか。どうにもならないのだ。なにも。

 もうオドノイドであるかどうかなんて関係ないくらい、ネビアは醜い怪物だ。こんな狂った人殺しが、今更その薄汚れた口で日の当たる世界に帰りたいだなんて言うことが許されるわけがない。

 だから―――むしろこれで丁度良かったのだ。やるべきことをやっていれば命も生活も全てを保証されていた今までの人生がおかしかったのだ。もう言い訳することにも疲れた。16年もずるずると見続けた悪夢はやっと醒める。


 「―――帰りたい。帰れない。だから帰らないのよ」


 「それじゃダメだよ!!」


 「なにを・・・」


 「君がどうだったかなんて、もう関係ない!君は今ここでボクが殺した、君は与えられた任務に失敗した、君の思う誰も君の帰りなんて待ってない!大体オドノイドの君なんて渋谷警備はこれ以上匿うつもりもなかったみたいだけどね!!」


 千影は、ネビアの肩を掴んで激しく揺さぶった。

 ネビアは、やっと自らの受けた暴力の意味を知った。そして呆れる。なんて稚拙で、乱暴なやり方なのだろう。なんと中途半端な優しさだろう。

 そうしてネビアは理解する。この幼い少女は、今までもこれからも、こうやって目も当てられないほど不器用に生きていくしかなくなったのだと。

 

 「分かってよ・・・ネビア。ボクには出来なかった。ボクは諦めるしかなかった・・・!でも、まだネビアならきっと、あの日常に帰れる!だから、言ってよ、帰りたいって、言ってみてよ!嫌なんだ・・・なんでか分からないけど・・・君までとっしーと一緒にいられなくなると思うと、なんか嫌なんだよ・・・」



 「自分と、重ねてるの・・・?カシラ」


 

 それが答えだった。


 「―――そう、だね。きっとそう。ボクは君に夢見てるんだ。一度は醒めた夢の続きを」


 「そっか」


 「ネビア。みんなと一緒の生活は楽しくなかった?」


 「・・・楽しかったわ。・・・すごく、カシラ」


 「なら、もっと素直に、こうありたいっていう自分の理想を追いかけてみて―――」


 




          ●





 

 2016年度第68回『高総戦』は、オラーニア学園の総合優勝と、その選手団の主将である「元」現役高校生最強の男、千尋達彦から「新」現役高校生最強の少女、天田雪姫の属するマンティオ学園への優勝旗譲渡という異例の引き分けで幕を閉じた。メディアは多くの反響を呼んだその結末を、新たな伝説の始まりとして取り上げるのだった。


 だが誰も、あの輝かしい舞台の裏で起きていたとある小さな結末を知らない。

 たかだか数十人の命が散り、とある組織が潰え、笑って帰れる場所が欲しかっただけの怪物がただの少女となった、小さな結末を。


 そして日常は当たり前のように―――それが当たり前であることを意識しているような狂人など片手で数えられる程度しかいないような、ごくごく自然な形で戻ってくる。


 「おっすネビア。今日は珍しく早いんだな。全国大会お疲れさん」


 「あら迅雷、おはよ、カシラ」


 もう座ることなどないと思っていた教室の自分の席でまた彼と挨拶を交わすことになるだなんて、2日前のネビアは想像もしていなかった――――――だなんて、まぁ、迅雷が知る由もない。


 「にゃっははは・・・さすがに雪姫ちゃんには敵わなかったわぁ、カシラ」


 「いや、あんだけ大暴れすりゃ十分だって・・・。正直、俺はもうお前のこと絶対に怒らせないようにしようと心に誓ってるぞ」


 「そんな人をバケモノみたいに言わないで欲しいんですケド、カシラ。さっそく怒るわよ、カシラ」


 「お許しをッ」


 迅雷とネビアが痴話喧嘩をしていると、噂のもう片方、雪姫も登校してきた。

 『高総戦』1年生個人戦部門全国トップ3のうち2人が同じ教室にいるだなんて、とんでもないこともあるものだ。準決勝での雪姫とネビアの戦いは、それはもう熾烈極まりなかった。一度、ネビアが転校してきた直後にも2人は手合わせをしていたが、あの戦いすら小手調べだったと思い知る苛烈な大型魔法の応酬はオープンクラスの決勝戦よりもハイレベルだと評されている。プロの魔法戦実況者の多くが「プロ魔法士同士の試合かと思った」とまで言っている。特に、ただ互いを攻撃するだけでは終わらない演出としても壮大・壮麗・壮絶3拍子揃った魔法のアートは映像作品に出来そうなものだ。


 ・・・ところで、もう1人、1年3組には全国大会に出場していた野郎がいたはずなのだが。


 「おーっす、みんな!おはようございまーす!!」


 「あ、真牙だ」

 「あ、なんかネビアと天田さんの試合の陰に隠れててすっかり目立たなかった人だ」

 「かわいそう」

 「そう言うなよあいつだって結構頑張ってたんだろ・・・多分」

 「でも真牙のやつ優勝がどうたらとか言ってたのにな」

 「それ言ったらアカンやつwww」←迅雷

 

 「ホラ見ろクソッタレ!!お前らもっとオレを労え!もっと褒めろ!もっと持ち上げろー!!」


 なんだかんだ言って真牙がベスト8まで進出したことまでは事実だ。彼の最後の試合は、決勝戦で雪姫と()り合った朱部剛貴(すべ ごうき)に敗北して終わった。

 特に、迅雷にまで超ウザい顔で煽られたのがよっぽど悔しかったのか、真牙は迅雷に飛び蹴りを放ったのだが、サラッとかわされて開いた窓から地上まで落ちていった。


 「おいおい大丈夫か」


 「~!!―――ッ!!」


 「大丈夫そうだな」


 下の花壇のベッドでまだなにか喚き散らしている阿呆は放っておいて、うるさいので迅雷は窓を閉めた。

 すると、窓と入れ替わりに教室のドアが開いて、赤いフレームの伊達眼鏡がチャームポイントの若い女教師、志田真波がスキップしながらやって来た。

 

 「おっはようございまぁ~す。全校集会だからさっさと移動しましょーう♪」


 「わぁ、先生なんかすごく楽しそうですね」


 「あら、東雲さん、わかるぅ?」


 うふふふふふ、と真波はいっそ気味悪いくらい上機嫌だ。だが、自分が担任するクラスの生徒が『高総戦』の全国大会であれだけの成績を収めて帰ってくれば、これだけ喜んでもまだ足りないらしい。この調子だと週末にクラス全員連れて高級焼肉店に連れて行くとか言い出すんじゃなかろうか。

 生徒を廊下に並ばせて、しかし真波はふと気付く。


 「・・・あれ?ねぇ神代君、阿本君知らない?」


 「テンション上がりすぎて飛び降りました」


 「ふぁっ」


 「大体あってるけど全然ちげーよ!!」


 土まみれで帰ってきた真牙を見た真波が集会の前になんとか綺麗にしてあげないと、と慌て始めたので、ネビアが仕方なしに得意の水魔法で真牙ごとお洗濯してあげることになった。人間が1人まるごと収まるほどの大きな水のボールが用意されて、ネビアは真牙の背中を押してその中に押し込もうとする。


 「ま、待ってネビアちゃん!?なんかこの水すごい音してない!?そ、そうだ他の、迅雷とかから制服借りたら大丈夫でしょ、ね!?」


 「どっちにしろ土の匂いスゴいからダメよ、カシラ。はい、いってらっしゃーい、カシラ!」


 「いやぁぁぁごぼっ、ごぼばぼぼっぼばがあべぼぼっ!」


 子供が洗濯機に入って遊んじゃいけないよ、と言われる理由がこれ以上ないくらいよく分かる光景だった。すっかりキレイになって水球から吐き出された真牙が割と冗談ではない表情で酸素を取り込んでいるのだが、ネビアは楽しそうに笑っている。鬼だ。


 「じゃ、後は脱水ね、カシラ。あ、あんまり動かないでね?的がズレたら体の中の水分まで引きずり出しちゃうから、カシラ」


 「怖えよ!!なに、いつの間にかオレそんなにネビアちゃんの恨み買ってたの!?」


 「冗談よ、カシラ」


 「いや既に冗談になってないです!!」


 「ちょいさー」


 「聞いて!?」


 なにはともあれ、真牙は無事にキレイになって全校集会で念願の労いの言葉をもらえたのだった。



          ●



 「~♪」


 そういえばいつまで借りていられるのか分からなくなってきたアパートに帰ってきたネビアは、ここを借りて初めて湯船にお湯を張って肩まで浸かり、もう存在しない会社の社歌をハミングしていた。

 全校集会が終わって教室に戻った後、真波の口から告げられた「そろそろ中間テストです」の一言でみんなの顔が絶望に染まったのは、思い返すだけで笑える。迅雷や慈音にはなんでそんなに楽しそうなんだ、と言われたが、これがなかなかどうして楽しみなのだから仕方がない。


 「勉強会かぁ・・・・・・カシラ」


 ―――もっと素直に、こうありたいっていう自分の理想を追いかけてみて。


 あの子は今、どうしているのだろう。

 この一歩を踏み出した以上、もうネビアは自分が千影の代わりにこの場所に残っただなんて考えないことに決めていた。千影がネビアに自分の姿を重ねたのは、千影の勝手だ。そして、ここからどう生きるのかはネビアの勝手だ。


 「・・・どうもありがとう、優しい優しいおバカさん・・・カシラ」


          ○


 「ふぁぁ、良いお湯だった、カシラ」


 ・・・と、ゆっくり温まって上がってきたネビアだったが、そこで明らかに家の中に自分以外の誰かがいる物音がしたことに気付き、脱衣所を飛び出した。狭い廊下なので、ネビアは飛び出した勢いで壁にぶつかりながらドタドタと居間に転がり込む。そこにいたのは―――。



 「お、ポカポカしてるな!」

 

 

 「なんで当たり前のようにアンタがここにいるんじゃー!!カシラ!!」


 思わずズッコケたネビアは、ガバッと体を起こしてその不法侵入者を怒鳴りつけた。

 日下一太、偽名だが、少なくとも今はそういう名前の、熊のようなオッサンだった。


 「良いリアクションだな!とりあえず服着たらどうだ!俺の股間に悪いからな!」


 「んなっ・・・!こんのっ、待ってろすぐ着替えてくるから待ってろよーっ!!カシラ!!」


 「別にどこも行きゃせんよ!」


 相応の恥じらいを見せたネビアは、シャツと短パン姿でドタドタ往復してきた。一太を床に正座させて問い詰めようとしたが、一太は今火を使っているから手が離せないと断ったので、ネビアは自分だけとりあえずベッドの上にどっかとあぐらをかいた。部屋にはなかなか美味そうな匂いが充満していた。


 「で、改めて聞くけど・・・なんでいんの?カシラ」


 「いやぁ~、会社が潰れちまったからな!物理的に!もともと今の家も会社の名義だったから追い出されちまってあら大変!それで行くアテを考えて、そういやまだここがあったと思ってな!まあ無職のオッサンが次の仕事を見つけるまで面倒見てやると思って頼むよ、な!」


 「イ・ヤ・よ!!毎晩毎晩私のことシコネタにしてそうなオッサンと一つ屋根の下なんて絶対イヤよ!!カシラ!!」


 「毎晩じゃない!週1くらいだ!さっきは良いモン見せてもらったけどな!ハハハ!!」


 「笑えねぇ!!今どっちにしろ一番聞いちゃイケナイこと聞いた気がする!!カシラ!!」


 ネビアはしばらくぜえぜえと肩で息をして、やっと落ち着いた。

 床に置かれた足の短い安物のテーブルに、一太が彩り鮮やかな料理の数々を並べていく。職を失ったという割には奮発したように見えた。一太はニコニコ笑ってネビアが食べてくれるのを待っている。仕方なくネビアは大きくてフワフワしたオムレツにスプーンを突き立てる。

 

 「美味しい・・・悔しい、カシラ」


 「良かった!」


 「まぁアンタが料理上手なのは前から知ってたから驚きはしないわね、カシラ」


 思わぬ豪華な夕食を黙々と食べ進めながら、ネビアはぽつりと言葉を漏らした。


 「・・・生きてたのね」


 「それはコッチの台詞だ!さっき忍び込んだとき、物音がしてたからビックリしたんだぞ!泥棒かーってな!」


 「どっからツッコんだら良いの?カシラ」


 「そう言うなよ!これでも俺はネビアが死んだと聞いたときはそれなりにショックを受けたんだからな!生きててくれて良かった!嬉しくて思わず買い込んでいた食材のほとんどを調理しちまったんだから責任とって全部食べろよ!」


 「・・・あっそう、カシラ。それじゃ遠慮なく頂くわ、カシラ」


 渋谷警備は『高総戦』の舞台裏で荘楽組に裏切られ、叩き潰された。ここまではネビアの聞いていた通りだった。その抗争の中で、新社長含め渋谷警備の人間が全滅したはずだった。しかし、一太は一央市に潜入したまま現地に行かなかったおかげで生き残ったらしい。

 複雑な気分だった。別に、一太とは仕事の関係で一緒にいただけだ。・・・と口では言うが、もはや顔を見て安心してしまった自分の心は偽れなかった。悔しいが。

 ニセモノとはいえ、家族がいるというのは「普通の女の子」みたいで悪くはない。人の家族を酷たらしく奪った身としては決して軽くない罪悪感を覚えるが、いっぺん深い溜息を吐いて、ネビアは小さく微笑んだ。


 「ま、良いわ。アンタ無駄に主夫力だけは高いしね、カシラ」


 「おお、ありがとう!精一杯頑張るぞ!」


 「でもお金とかどうすんの?カシラ。コンビニからATM引っこ抜いて持って帰ってきたら即刻蹴り出すからね、カシラ」


 「お前は俺をなんだと思ってるんだ!もうバイト先は見つけてきたから安心しろ!しばらくはそれで日銭稼ぎながら・・・ちゃんとした仕事を探すさ。お前の保護者として、恥ずかしくないようにな」


 「泣かせにでも来たの?カシラ」


 「まさか!笑えるようにしに来たのさ!こんな風に!」


 こうして、狭いアパートの一室にガハハと笑う主夫がやって来た。




           ●




 世の中、誰しも腑に落ちないことの1つや2つはあるものだ。

 例えば。


 「なんで真牙が学年2位なん?カシラ」


 「やっぱそう思うだろ?俺も最初はそう思ったんだ。でもなぜかコイツ本当に勉強出来るんだよ、なぜか」


 「ねー、すごいよねー」


 迅雷と慈音とネビアは、真牙から奪い取った中間テストの成績をまとめた短冊を見てそんなことをしゃべっていた。ネビアも勉強会のときには確かに真牙ってちょっと頭良いかも、とは感じていたが、ここまでとまでは思わなかったようだ。迅雷曰く中学の頃からずっとこうらしい。ちなみに、当の本人は学年1位を狙っていたらしく、この好成績でもションボリしていた。なんとか平均点よりちょっと上回って喜んでいる迅雷とはえらい違いだ。

 なお、慈音とネビアは揃って夏休みは補習組である。信号じゃないが、みんなで赤くなれば確かに恐くなかった。夏休みを削って補習をすると言っても、友達が一緒なら遊びに行く先が学校に変わっただけのようなものである―――というのはネビアの言。それにすっかり染められた慈音はこれから悪い子街道まっしぐらなのだろうかと心配になる迅雷は、心の中でネビアから慈音を守ってやらねばという使命を抱くのであった。

 教室中がテストの結果でワイワイしていると、すぱーんと扉が開かれた。まだ授業開始には早いはずなのに、とみんなが注目すると、そこにいたのは隣の2組の巨乳ツインテお嬢様(?)、聖護院(しょうごいん)矢生(やよい)だった。


 「天田さん!!私と中間テストの成績で勝負しましょう!!」


 「・・・・・・」


 なにかと雪姫に対抗心を燃やす矢生だが、今のところ雪姫には一度も相手にされたことがない。今日も雪姫は矢生がいくら大声を出そうと見向きもしない素振りだ。頬をひくつかせ、矢生は丁寧にお辞儀をしてから3組の教室に踏み込んで、雪姫の席の正面に立った。その近くで駄弁っていた友香と向日葵は、矢生の気迫に負けてそそくさと退散させられた。


 「天田さん、どうです?」


 「・・・」


 「むむむ・・・良いでしょう、では私の方から成績表をお見せします。その後に天田さんの成績をお見せ頂ければ結構ですわ」


 そう言って矢生が見せたのは、学年3位の成績だった。それを見た迅雷たちは目の前でションボリする2位を見て「あっ・・・」と声を漏らした。まぁそれはそれ、矢生が勝負したい相手は真牙ではないのだから。

 いい加減鬱陶しい近さで紙切れをヒラヒラされて、さしもの雪姫も溜息を吐いた。冷たく沈んだ光を灯す水色の瞳で、雪姫は矢生を睨み返す。


 「あのさぁ・・・こんなので優劣決めてなんか面白いの?」


 「面白い、面白くないという話ではありませんのよ、天田さん。私たちはライバル、例え勝とうと負けようと関係ありませんの。競い合うことにこそ意味があるのです!」


 「鬱陶し・・・」


 心の底から軽蔑した声だ。どんなに厳しい訓練に耐えてきたドMでも雪姫のこの突き放したような声には耐えられないだろう。しかし矢生は諦めない!

 しばらく粘っていると、ネビアがひょいと現れて、雪姫の机に両手をついた。


 「良いじゃん見せてよ見せてよ、減るもんじゃないじゃん、カシラ」


 「・・・・・・はぁ・・・」


 なんということでしょう。

 我々は世界が変わる瞬間を目撃してしまったかもしれない。

 ネビアのたった一言で、雪姫が机に手を突っ込んで、矢生がちらつかせているのと同じサイズの紙切れを机の上に出したのだ。

 教室中の誰もが唖然とする中で、ネビアだけがきゃっきゃと大喜びしていた。


 「ね、ネビアさん、貴女一体・・・!?」


 「ふふーん♪そんなことより、せっかく見せてくれたんだから隅から隅までじっくり見てやろうZE☆カシラ」


 「ハッ・・・そ、そうですわね!いざ!」


 天田雪姫。


 現代国語、95点。

 古典、100点。

 コミュニケーション英語、100点。

 英語表現、100点。

 数学I&A、100点。

 物理基礎、100点。

 化学基礎、100点。

 歴史A、100点。

 魔法学基礎、100点。

 合計、895点。

 

 クラス順位、1位。

 学年順位、1位。


 「・・・・・・私は夢でも見ているのでしょうか・・・?」


 「これは・・・なんていうか、ぶっ飛んでるわね・・・カシラ」


 「えー、なになにそんなに!?しのにも見せてー」


 2人の反応に興味を持った慈音が突撃して、自分の倍以上はある総合点を見て凍り付いた。さらに慈音の自爆特攻を見たみんなが雪姫の席にどっと押し寄せる。席を立つ間もなく周りを囲まれた雪姫は、後悔したように、その中心で頬杖をつくのであった。

 それから数分、やっと自分の成績表を取り戻した雪姫はそれを忌々しそうに制服のスカートのポケットに突っ込む。多分もう家に帰るまで取り出すつもりはないのだろう。雪姫の鋭い目でみんな散らされ、矢生もしょんぼりしながら自分のクラスに帰って行った。

 ネビアと一緒に最後まで雪姫の席に残っていた迅雷は、このチャンスで雪姫に話しかける。


 「いやー、今度から試験のときは真牙じゃなくて天田さんに勉強教えてもらいたいなー」


 「お、それは名案ね!カシラ」


 「調子のんなクソが」


 「調子こいてました本当にすみません」


 「たはー、フラれたー、カシラ」


 本気で目をウルウルさせる迅雷の肩を抱いて慰めるネビアに、雪姫はひょんなことを訊ねた。


 「・・・ねぇ、今朝のニュースは見た?」


 「ニュースって?カシラ」


 そう言ってネビアは爪を噛む。


 「前々から魔界に脅されてたけど、今日から遂にIAMOが正式にオドノイドの処分を始めるんだって」


 「そりゃなんとも物騒な話ね、カシラ」


 「・・・」


 「ま、良いんじゃない?怪物退治は魔法士の専売特許なんだし、カシラ」


 「そうだね」



          ●



 「なっつだぁ!」

 

 「うっみだぁ!」


 「「ほっしゅぅだーぃ!」カシラ!」


 「まて1個おかしい」

 

 電光石火のツッコミを入れたのは、やっぱり迅雷だった。

 7月も半ば、夏真っ盛り。この日は1学期の終業式だった。当然、みんな夏休みをどう満喫するかを考え始めるタイミングだ。


 「海と聞いて」


 「まだ話が済んでねぇから真牙は引っ込んでろ」


 「でも水着と聞いて・・・」


 「まだ言ってねぇ」


 まだツッコみたりない迅雷と早く女の子と海に行く約束を取り付けたい真牙が取っ組み合いを始めてしまった。


 なので、迅雷の代わりに作者がツッコんでおくとしよう。


 補習は夏の風物詩じゃねぇ!


 ・・・失礼。それでは本編に戻って。


 やたらと楽しそうに「補習だ」と叫んでエイエイオーしているのは、慈音とネビアだ。知っての通り、この間の中間テストで赤点を取った組である。もっとも、補習を担当する真波先生まで楽しそうにしていたから、指摘する方が野暮なのだろうが。

 なにはともあれ、夏休みの計画を綿密かつ適当に決めていった結果、なにがなんでもみんなで海に行くことだけは決定した。補習のスケジュールを念頭に置いて都合を取ると、7月30日あたりが丁度良さそうだという話で決まった。

 ところが、これで丸く収まったかと思うとそうでもなかった。たまたま廊下を歩いていて3組の横を通り過ぎるところだった、余所のクラスの男子生徒が教室の中に顔を覗かせ、こんなことを言った。


 「おや、俺を忘れてないかね」


 「誰だお前は」


 「酷ぇッ!!」

 

 小野大地(おの だいち)、イケボな放送部の1年生だ。学内戦ではCブロック、つまり1年生の部で実況を務めていた。その際にやたらカッコイイ声を聞いて勘違いした女子たちが多数発生したが、その正体はひょろっちいメガネオタクである。

 ちなみに、なんでそんなメガネオタクが陽キャっぽい話題で盛り上がる迅雷たちに対してこんなにも馴れ馴れしいのかというと、彼の出身が迅雷と同じ一央市第一中学校だからだ。ついでに言えば、当時から大地は迅雷、真牙、慈音の3人とはそれなりに付き合いがあった。さらについでに言うと、迅雷の妹である直華の友人、小野咲乎(おの さくや)の兄でもある。兄妹揃っての付き合いということもあってか、特に迅雷と大地の仲は良い方だ。

 結局、大地は隙間に顔をねじ込むような強引さでスケジュールに自分の予定を突き刺して、満足そうな表情をしている。あんまり彼と付き合いのない向日葵と友香が困惑気味だが、慈音と、なぜかネビアもノリノリだったので仲間はずれには出来なかったようだ。


 その後も海に行くならあれがしたい、これがしたいと言い合ううちに話が膨れ上がったが、最終的には手頃に出来そうな内容で落ち着いた。

 それで今日は解散となったところで、迅雷は「あ!」と急に大きな声を出した。


 「そういや今日集めたプリント、職員室に持っていくの忘れてた!」


 そう言って、迅雷は突如とんでもない量の紙の山を取り出した。それは確かに、日直だった迅雷がさっき集めた種々雑多な提出物だった。マンティオ学園は他の高校よりもちょっと夏休みが長い分、休みに入る前に出すように言われる書類やアンケートが多いのだ。

 

 「え、これヤバくない?カシラ」


 「ヤバイヤバイ!ちょ、ネビア運ぶの手伝ってくれ!ごめんみんな、先降りてて良いから!じゃっ、ちょっと行ってくる!」


 勢いに流されて重そうな荷物を抱えて走り去った迅雷とネビアに置いていかれた真牙、慈音、向日葵、友香、大地だったが、数秒の沈黙の後に真牙が呟いた。


 「白々しいな」


 そして真牙がそう言うと、女子3人が顔を見合わせて、シンクロした動作で口元を抑えた。


 『これは―――!』


 そして大地は全然話についていけないのだった。


          ○


 「ふぅ・・・。まったく、どうやったらあんな量の提出物のこと忘れられるのよ、カシラ。夏休みだからって浮かれすぎじゃないの?カシラ」


 「う、うるせー・・・」


 職員室から出るなりネビアに叱られて、迅雷は唇を尖らせた。廊下に投げ捨てた自分の荷物を拾い上げ、みんなが昇降口で待っているだろうから、ネビアは階段を降りようする。でも、なぜか迅雷に腕を掴まれて立ち止まった。そのまま迅雷は階段を上ろうとした。


 「・・・迅雷?昇降口は下なんですケド、カシラ」


 「良いからちょっと来て」


 「忘れ物?」


 「いや・・・ちょっとさ、話があるんだ」


 迅雷はあくまで振り返ることなくそう言った。迅雷に手を引かれて階段を上がる間、ネビアはずっと、変に緊張して口を引き結んだ彼の横顔を見つめていた。

 3階も4階も全部通り過ぎてまだ上って、2人が出てきたのは炎天下の屋上だった。その真ん中で、初めて迅雷はネビアの手を放した。そうして向かい合った2人の間には、数秒の沈黙があって。


 「・・・で、こんなとこにまで呼び出してまでしたかった話って?カシラ」


 「いやー・・・その、えっと、さ」


 迅雷は頬を掻いた。夏の暑さにしても、ちょっと汗がすごい。

 校庭を走り回る運動部員たちの掛け声だけがぼんやりと漂う、2人きりの世界。

 ネビアは、ただ黙って迅雷の言葉を待った。

 迅雷は、ひとつ深呼吸をする。


 「―――ネビアってさ、すごいよな」


 「すごい?私が?カシラ」


 「そう、ネビアが」


 「え~、全然わかんない、カシラ」


 「すごいって。変なタイミングで転校してきた割にすぐみんなと仲良くなったりさ」


 「そんなこと?カシラ」


 「いや、他にも。『高総戦』の全国大会とか、ホントすごかった。見てて感動した。やっぱ生で見に行きたかったなぁ・・・。おんなじマンティオ学園の生徒としても、ひとりの友達としても」


 「まぁ雪姫ちゃんには負けちゃったけどね、その試合、カシラ」


 「そう、その雪姫ちゃん。やっぱさ、あの試合からだろ?仲良くなったの」


 「にゃはは・・・仲良くってほどでもないくない?割とまだツンツンよ、カシラ」


 「それでも、俺も志田先生も、誰も、ずっとあの子とまともに話すら出来ないままだったんだ。それをネビアはやってのけたんだ。すごいよ、本当に、すごくすげぇ・・・って、日本語メチャクチャだな、俺・・・」


 空を仰ぎながら迅雷は苦笑した。

 

 「そんな高尚なもんじゃないの、本当に、カシラ」


 「実際にそうなのかもしれないけどさ、まぁ、俺は当人じゃないから、なんとでも言うよ」


 「じゃあ素直にお褒めに預かっておこうかな、カシラ」


 「おう、預かれ預かれ。・・・」


 「・・・?どうしたの、また黙っちゃって、カシラ」



 「・・・俺、ネビアのことが好きだ」


 「私も迅雷のこと、好きよ、カシラ」



 急に間抜けな顔になった迅雷に、ネビアはにっこり微笑んだ。


 「話の流れでバレバレよ、カシラ。ひょっとしてこういうの初めて?カシラ」


 「う、うるせ・・・いや、てか・・・」

 

 「私も迅雷のこと、好き」


 「ホントに・・・?」


 「こんな場面でまでウソ言わないわ、カシラ。もっと言って欲しい?良いよ?好き好き好き」


 まるでどんどん赤くなる迅雷で遊んでいるような口振りだったが、迅雷にもまた、ネビアがびっくりするくらい紅潮しているのが見えていた。

 なんだか現実味がなかった。その想いを口にしたところで今日は終わるし明日も来る。世界が変わってしまったことを確かめる術なんて、今の2人にはなんにも思いつかなかった。

 お茶を濁すように、互いに笑い合って、そのまま屋上のフェンスに並んでもたれかかった。なんだか疲れ方だけは立派で、ずるずると焼けた地面に尻餅をつく。


 「やっぱすげーよ、お前」


 「でもね、そんなすごいネビアちゃんが今こうしていられるのは、迅雷のおかげでもあるのよ、カシラ。自分じゃ気付いてくれてないと思うけど、私は迅雷にすっごく支えられてきたわ、カシラ」

 

 「じゃあ、そういうことにしとく。・・・じゃないと釣り合いとれないし」


 「しとかなくてもそうなのよ、カシラ」


 肩をくっつけ合う。ネビアが転校してきた初日に交わした「これからよろしく」と、今日交わした「これからよろしく」の違いくらいは、ちゃんと分かった。



          ●



 「えい」


 風呂から上がってリビングに戻ってきた直華は、風呂に入る前にソファに座ってテレビを見ていた格好から1ミリも動いていない兄に気付いて、ちょっと驚かすつもりで背後から彼の首に両腕を回してみた。そうすると、迅雷がゴキブリを見つけた女子みたいな悲鳴を上げたので直華も思わず驚いてしまった。


 「なななななんだよナオ!?」


 「い、いやこんなに驚くなんて思わなかった・・・」


 「驚くわ!」


 「てかさ、お兄ちゃん今日、帰ってきてからずっとボーッとしてて変だよ?熱でもあるの?」


 「(ギクッ)・・・ソンナコトナイデスヨ」


 「小声でギクッて言う人まだいたんだ・・・」


 そう言いながら直華は迅雷の額に手を当てたが、考えてみれば風呂上がりで自分がポカポカしている状態じゃ人の体温なんてあんまり分からない。体温計を取って迅雷に押し付けながら、直華はソファの彼の隣に腰掛けた。

 ピピピ、と音がした。体温計を取ってみれば、36度4分、平熱だった。小難しい表情で直華は迅雷の目をまじまじと見つめた。彼女の真剣さについていけずに迅雷は目をパチクリさせる。

 

 「熱がないなら悩み事?私で良かったら相談乗るよ?」


 「ナオが可愛すぎてマジマイエンジェルなのが悩みです・・・って言ったらダメですか?」


 「そっ、そそそういうことばっかり言うのホントやめてよぉ!」


 自分で隣に座ったくせに直華は両手で迅雷をソファの隅まで押しやった。向こうではそんな兄妹の微笑ましい様子を真名が見守っている。迅雷はちょっと悩んだが、やっぱりいくら妹とはいえ話しづらくて、話をはぐらかした。不完全燃焼そうな顔をする直華の頭をわしゃわしゃと撫でて、迅雷は自室に戻っていった。

 迅雷がベッドで相変わらずもの思いに耽っていると、スマートフォンに通知が来た。取ると、ネビアからのメッセージだった。アプリを開くと、メッセージの前に写真も送信されていて、なにやらすごいご馳走が安っぽいテーブルの上にずらっと並べられている光景が映されていた。


 『今日の話をしたらウチの親父が張り切ってしまった件について』

 『これで1週間は水とお米だけの生活だよorz』

 『まあお水は魔法でタダですけどね』


 「言ったんかーい。てかどんだけ貧乏なんだお前んち」


 『電話していい?』


 ほどなくして、SNSの通話機能でコールが鳴った。音質がアレだけど無料につられてついつい頼っちゃうアレだ。アレばっかりだが、多分、結構多くの人が分かるアレである。

 迅雷は、誰かと夜通し話をしたかったのなんて中学の修学旅行以来だった。そのときは寝落ちしてしまったが。そしてこの日も結局、夜中の3時くらいでお互い眠くなってしまって、おやすみを言い合った。

 でも、それでも良いと思った。だって、明日も明後日も、いつだって会えるのだから。



          ●



 「母さん、アレ、あのー、あんとき着た服!どこだっけ?」


 「そんな指示語ばっかりじゃ分からないんですけどー」


 とか言いながら割とあっさり求められた服を発見してきた。どうやら迅雷の部屋ではないところに仕舞っていたらしい。あまり着ない服だったからだろう。


 「でもなんでいきなり?お友達と遊ぶだけなんでしょ?」


 「まぁそうなんだけど、良いじゃん別になんでもさ」


 「ふーん。・・・って、あーあ。もうサイズ小っちゃくなってるわねー」


 「ホントだ・・・」


 その後も色々タンスの中身を掘り返したが、悩んだ末に迅雷は割といつも通りの服装で落ち着いてしまった。

 なんでいつも通りではダメなのかといえば、もうお察しの通りだ。ネビアが実はまだ水着を持っていないという話をしたので、30日の海の前に2人で見に行くことになった。要するに、記念すべきネビアとの初デートである。

 夏休みなのに妙に早起きしてそわそわしながら食事や支度を済ませる迅雷を、真名は彼が見ていない間だけ終始ニヤニヤしながら世話をしているのであった。母親にはやっぱり息子の変調が分かるものなのか、それとも迅雷がよっぽど分かりやすいだけなのかは、直華が不思議そうな目で迅雷の姿を追う理由と一緒だろう。

 時計の針を見て、迅雷は慌てて自室に戻って荷物を取捨選択(大袈裟)し、階段を駆け下りる。待ち合わせまでは十分余裕があるのだが、せっかくなら「ごめーん、待ったー?」からの「いや俺もさっき来たところ」がしたいお年頃なのだ。最後、靴を履く前に迅雷はふと大事なことを思い出し、もう一度リビングに顔を突っ込んだ。


 「母さん、天気予報見た!?」


 「まー多分大丈夫よー」


 「んな適当な!」


 結局暢気な母親には任せられずに迅雷はテレビをつけた。

 

 『―――イドに関してIAMOのレオ総長は昨日の時点でアメリカと中国の駆除作業が完了したことを発表し、また同時に日本国内での作業に関してもあと1週間前後で完了するとの見通しについても―――』


 もしかしたらデータ放送ボタンを押したのは今日が初めてかもしれない。元の画面が一回り縮小されて、画面の外枠にいろいろなメニューが出てくる。迅雷がそこから天気予報を選ぶと、日本全国の天気がズラリと並んで表示される。迅雷はそこからM県を探し、晴れマークしかないことを確かめてすぐに家を飛び出した。


          ○


 「ねぇホントに良いの?」


 「だからさっきから良いっつってんでしょ」


 「本当に?」


 「本当に」


 茹だるような暑さの中を、水色の髪、水色の瞳、雪のような肌がおそろいの、顔もそっくりな天田家の姉妹は並んで歩いていた。おっきい方もちっこい方も、どちらも見ていて、溶けてしまわないかちょっと心配になるような印象の2人だ。

 もうじき目的地に到着するというのにしつこく真偽を確認してくる妹の夏姫に辟易して、雪姫は溜息を吐いた。

 たかだか服なり水着なりを買ってやると言っただけでこんなに疑われるなんて、思いの外信用されていなかったみたいで若干悔しくなる。というか、それを言うならもっと先にゲームをねだるのを遠慮すべきである。まぁ、今日はそのゲームも少しは一緒に見てやる予定なのだが、敢えてそれはまだ夏姫には言っていなかった。

 2人がやって来たのは、一央市では一番大きな郊外にあるショッピングモールだ。夏休みが始まって、大勢の人たちで賑わっている。こんなタイミングで『ゲゲイ・ゼラ』みたいなバケモノが出てきたらどうしようか・・・などと物騒なことを考えてしまうのは多分、世界広しと言えど雪姫くらいのものだろう。


 「うはー、お姉ちゃんとデート♪今日はなんてステキな日なんでしょ~」


 「こーら。待て。人多いんだから迷子なるよ」


 「はーい」


 まだ欲しいものを買ってもらったわけでもないのに、夏姫はもうスキップしたりバレエのように一回転してみたり、はしゃぎ放題である。そんな彼女の手綱をうまく握っている雪姫は、どっちかというとお姉ちゃんというより親御さんである。

 夏姫と手を繋いで歩きながら、雪姫はなんとなく周囲を見回した。本当になんとなくのはずだったのだが、ちょっと離れたところに知った顔を見つけて、雪姫は世の中には本当は「なんとなく」なんて行動理由は存在しないんじゃないかと思ってしまった。

 ちょっと足早になった姉に引かれる形で、首を傾げながらも夏姫は歩調を早めた。

 

          ○


 「ごめーん、待ったー?カシラー!」


 「いや、実は俺も今来たトコでさ~」


 ・・・って。


 「「まだ約束の1時間前だろーっ!!」」


 迅雷とネビアの息ピッタリのツッコミ合いを見た若者グループがくすくす笑いながら通り過ぎていった。

 だいたい11時くらいに落ち合うつもりが、待ち合わせの王道パターンを求めすぎた結果こんなことになってしまった。結構ロマンチックなシーンを想像していただけに、ちょっとガッカリである。とはいえ、思えばこれくらいコミカルな方が迅雷とネビアには似合っているだろう。

 ともあれ2人は歩き出す。ネビアは迅雷のことを足の爪先から頭のてっぺんまでジロジロと見て、鼻で笑った。学校にも穿いてきているスニーカー、普通のジーンズ、白い半袖パーカー―――。


 「なーんか・・・いつも通りって感じのカッコね、カシラ」


 「今まで全然そういう服とか意識したことなかったから・・・ごめん・・・」


 「じゃあ今日は迅雷の服も見ないとダメね、カシラ」


 「そういうネビアはなんかそれっぽいな。ちょっと意外かも」


 「あら失礼しちゃう。私はこれでも花も恥じらう現役女子コーセーなんだゾ、カシラ」

 


 嘘 で あ る 。


 

 ネビアはついこの間までオシャレの知識などほぼ皆無であった。・・・といっても、彼女が今まで歩んできた16年の人生を思えば、オシャレをする必要も価値も見出せていなかったのは致し方ないことだったのかもしれないが。

 ともかく、迅雷と付き合うことになった次の日には、一太にも手伝ってもらいながら一日中色んな店を回っては店員に勧められるがままに色んな服を試していただなんて言えない。その結果、元々ユルい性格なので、それらしくカジュアル路線で集めたのが今日の白地のボーダーシャツとベージュのワイドパンツとサンダルだった。

 ・・・ネビアと一太が本当に1週間も水と米だけの生活になったのはどっちかというとこっちのアイテム代が原因かもしれない。それでも、ゼロから始めた割にそれっぽくはなっただけ僥倖だ。うまく迅雷を誤魔化したネビアは、軽く爪を噛みながらポーズを取ってアピールした。あと、作者は衣類や履き物その他小物等に費やすお金を「アイテム代」とかのたまう若者のかるちゃあに全然ついていけない人種である。


 「ま、このネビアちゃんみたいな美少女は例えどんな服を着ても可愛いくなっちゃうんだけどね、カシラ」


 「そうだな。じゃあ後で試してみるか」


 「吠え面かくなよ~?カシラ」


          ○


 楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


 迅雷の幼稚なセンスでネビアを着せ替えたら、別にネビアはどんな服を着ても似合うわけではないことが判明した。


 迅雷が買った服にすぐ着替えてみたら、ネビアがお手洗いに行っている間に飢えた女子大生に逆ナンされた。元々お姉さんに弱い迅雷が参っていると、ネビアが泥棒猫を蹴散らしてしまった。


 迷子の男の子を親御さんと引き合わせてあげたら、その親御さんがマンティオ学園の生徒指導部長の西郷先生ですごく気まずかった。


 お昼は適当にフードコートで済ませた。ネビアは「変にレストランに行こうとか言い出してたら引くところだった」なんて言ってジャンクフードを美味しそうに頬張っていた。


 一番の目的だったネビアの水着選びでは、どこから引っ張り出してきたのかも分からないキワドイ水着姿を見せられた迅雷が思わず試着室の並びで声を荒げてしまった。そうして結局は割と無難なパレオで落ち着いた。


 2人でプリクラを撮った。どっちも全然プリクラに慣れていなくて、操作方法から写真の受け取りまで全部たどたどしく済ませた。でも、それはそれで可笑しくて笑えた。


 帰る前に喫茶店でアイスコーヒーをテイクアウトした。外の広場のベンチに並んで座って、夕陽を浴びながら他愛ない話をした。


          ○


 「そろそろ帰んないと暗くなっちゃうな」


 「そうねぇ。なんで今日に限ってこんなに日が短いんだろうね、カシラ」


 「さぁ、なんでだろ。そういう難しいことは歩きながら考えよう」


 夏の夕暮れ。周りの全ての音がまるで余韻のようにくぐもっていて、漂う全ての香りが綺麗に色褪せて鼻腔をくすぐるその中を、2人は互いの手の温もりを確かな中心にしてゆっくり、歩いていく。

 満たされていた。時間の速さとか遅さとか、そういう難しいことなんてどうでも良かった。こうしていればもう自分の人生には哲学なんて要らないとさえ思った。


 


















 「・・・・・・ネビア」


 















 


 迅雷は自分の隣を見た。

 さっき後にしたモールが見えた。

 それしか、見えなかった。

 その手には確かな温もりがあった。


 ブレーキ音と悲鳴があった。


 最も深くに届いたその声を振り返った。


 「・・・ネビ・・・ア?」


 急激に、中心が失われていく。ぼとりと手に握った残骸を地面に落として、迅雷は本当の温もりの中心を取り戻そうと駆け出す。


 だけれど、何者かがそれを阻む。

 例え顔を見ても誰かも分からない、全く知らない何者かが迅雷の体を押さえ込んでいた。


 「放せ、ネビアがっ!手がっ!!」


 「やめなさい!アレはオドノイドだ!!危険なんだ!!」


 「知らないそんなの関係ない!!ネビアは俺の―――」


 「違う、君は騙されている!!早く離れるんだ!!」


 「なにが違うんだよッ!!良いから放せよ・・・ッ!!」


 「聞き分けのない・・・」


 迅雷を容易く地面に組み伏せたその何者は、さらに声を大きくして周囲で息を飲み立ち尽くしている人々にこう宣言した。


 「みなさん!!我々はIAMOです!!今からオドノイド討伐作戦を開始します!!早く安全な場所まで避難してください!!」


 その宣言と共に、歩道に乗り上げていた黒塗りの輸送車から5人のプロテクターを着けた男女が飛び出して、這いつくばって右手首の断面を押さえるネビアに銃口と魔法陣を向けた。彼らはなんの合図もなく思い思いにその引き金を引こうとしている。

 

 「やめッ――――――」


 轟音が2つあった。地面が白く爆発し、ネビアを取り囲んでいた魔法士たちも迅雷を拘束していた若い男も、その小規模な天災によって容易く吹き飛ばされる。

 迅雷は自分を縛る何者かがいなくなって、滅茶苦茶な足取りでネビアに駆け寄り、抱き起こした。右手を失い激しく出血する恋人の姿を見て言葉も血の気も失った迅雷に、怒号と間違うほどの叱咤があった。


 「迅雷!!そいつ連れて逃げて!!」

 「どこでも良いから、逃げるんだ!!」


 「――――――ありがとう!!」


 迅雷は現れた2人の男女の姿も碌に確かめることなく、ただ瞬間に生まれた覚悟に従ってネビアを乱暴に立ち上がらせた。


 「迅雷・・・」


 「行こう!!」




          ○



 「クソッ、待て!!」


 「止まって。それ以上動くなら容赦しない」 


 走り去る少年とオドノイドを追いかけようとしたIAMOの魔法士たちの前に立ち塞がったのは、今夏の日本人なら誰でも顔を知っているであろう、新たなる最強の高校生だった。魔法士たちが僅かに足を止めた隙に氷の山脈が聳え立ち、その少女の退路と魔法士たちの進路を完全に断った。

 迅雷に逃げられてしまった男は自分の乗ってきた輸送車を見て、舌打ちをした。ひしゃげた車からは火の手が上がっていた。その側面には別のセダンが突き刺さっていた。


 「ったく、足まで潰しやがって・・・」


 「これでもう、俺たちを退けたとしてもあの2人がずっと遠くまで逃げてしまえばこっちの勝ちって寸法だな!」


 魔力弾を撃てる巨大な銃を携えて炎の中から現れたのは、熊のような大男だった。


 互いに図らずも同じ瞬間に居合わせた襲撃者たちは、一瞬のアイコンタクトの後に共闘を開始した。


 「足引っ張らないでよね、オッサン」


 「フハハ!!言う割には、君っ、来たときからゼエゼエじゃぁないか!」


 「ちょっと走った・・・だけだっつの!!」



          ○


 

 迅雷とネビアは無我夢中で走り続けた。さっきまでいた大通りのすぐ隣とは思えないほどの狭い路地に駆け込んで、さながら迷路のような小路を駆け巡って、長いアスファルトの階段を駆け下りて、誰もいなくなった公園の暗がりを駆け抜けた。力の続く限り、無限に続く逃げ道を追って走り続けた。干上がった喉の奥底から血の臭いがし始めても、視界が歪み始めても、走って、走って、走って走って走って走り続けた。


 「なんでまだ、私の手を握ってくれるの・・・!?」


 「好きだからだ!!」


 「聞いてなかったの?!カシラ!私がオドノイドだって!」


 「でも好きだっ!!」


 「逃げるアテなんてないわ!カシラ!」


 「場所なんかどうだって良い!お前と一緒ならなんでも良い!」


 迅雷は本当にどうでも良いし、なんでも良いと思った。それが伝わったとき、ネビアはもうなにも言うまいと思った。それが正しいと信じて、引かれる手に込める力を強くした。

 でも、次第に迅雷の体力も魔力も限界に達し始めた。彼は小学生と同程度しかない魔力を出し尽くしてなお全身に『マジックブースト』をし続けて走り続けていた。仕方のないことだった。だから、今度はネビアが出し尽くす番だった。

 ほんの僅かな高さの段差に躓いた迅雷の体を抱き留めて、ネビアは微笑んだ。

 

 「これで気持ちに応えられなきゃ、失格よね・・・カシラ!」


 本当はすぐにでも『脚』を使ってワイヤーアクションのように高速で逃げたかったが、それをすればまた足が着く。あくまでオドノイドの力には頼らず、ネビアは人間の脚で走り出す。


 だが、悪夢は醒めてくれなかった。それどころかその闇はより黒く、より暗く、背後から迫り、口を開けて、2人を呑み込んでいく。


 頭上から響く銃声。鮮血が舞う。


 「えっ・・・」


 気の抜けた声をこぼして倒れたのは、ネビアではなく迅雷だった。

 脇腹に空けられた穴から、あってはならないほどの出血をして、迅雷が地面の上で痙攣している。このままではすぐにも彼の命は失われる。どんなに冷静さを失っていても、今までずっと血生臭い場所に居続けたネビアにはその事実が当然の知識として分かった。


 「なんで・・・」


 「止まれ!無駄な抵抗はやめて投降しろ!オドノイドコード『THE LITT(リトル・)LE KRAKEN(クラーケン)』!!」


 「なんで・・・迅雷を撃ったァァァァァァァ!!」


 脳髄を沸騰させるようなネビアの咆哮は、激昂にも慟哭にも聞こえた。

 もはや加減する必要はなくなった。ネビアの眼球が真っ黒に変色し、彼女の繊細にくびれた腰から闇が噴き出し、十を数える頭足類の『脚』の形を為した。

 ネビアは全ての『脚』の先を突き合わせ、そこに魔力を収束させる。恐竜的な大きさの水弾を放つ特大魔法とあらゆる物理的防御を強引に引き裂く『黒閃』を練り合わせた、究極の殺意の具現だった。殺すために磨き上げてきた魔法の技術の全てを賭けて、2人で生きていく未来を守るために。

 正体不明のロボットスーツを着込んで空を飛ぶ影を睨み付け、絶叫と共にネビアは名も無き破壊の引き金を引いた。「だが」も「しかし」も「けれど」もない。解き放たれた黒濁の水弾は、悲鳴を発することすら許さず、その男女も不明な影を塵へと変えた。


 それでも、ネビアはひとつ誤算をしていた。いや、もはやなんの算段も今の彼女の頭にはなかった。ただ必死に頭上を飛び回る害虫を殺そうとしていただけだった。・・・だから彼女は気が付かなかった。


 すぐ目の前に迫るその刃に。


 腹を真一文字に斬り裂かれ体重で残りの肉まで千切れそうになりながら、ネビアは飛び退いて迅雷を庇うように覆い被さった。どれだけ怪我を重ねて痛覚が仕事をしなくなってきたと言えども、これだけの深手を負えば激痛と失血で頭が真っ白になりかけた。『脚』の一本で上半身と下半身が分かれないように自分の体を縛りつけ、ゆっくりと近付いてくるもう一人のロボットスーツに向けて霧を叩きつけた。

 

 ネビア・アネガメント。その名の由来となった彼女の最も基本にしてもっとも残虐な魔法。その霧はただの霧ではない。それを構成する水分の一粒一粒が何リットルもの水を凝縮して作り出された世界最高密度の水魔法であり、その水の粒は人体に入り込んだ瞬間に本来の体積を取り戻す。すなわち、それを吸い込んだ人間は(ネビア)に包まれながら溺死(アネガメント)する。

 例え顔まで鉄板で覆われた相手だろうと、スーツ内の酸素を保つための通気口くらいは必ずあるはずだ。霧の粒子はそこからわずかにでも侵入しさえすれば容易に装着者を水に沈めることが出来る―――はずだった。


 霧の中から刃が現れて、ネビアの胸を貫いた。


 「な・・・んで・・・」


 悠々と霧の中から生還したロボットスーツの頭部のバイザーから透けて見えたのは、さっき、あの大通りで迅雷を取り押さえた、あの若い男だった。


 「それはなんに対する『なんで』だ?得意の魔法が効かなかったことか?それともなぜ俺たちがここまで追いついて来れたか、か?あるいはそもそも、なんで普通に暮らしてたはずなのに見つかったのかが疑問なのか?まぁなんでも良い。どうせ最期なんだ。全部教えてやる」


 ネビアの胸から剣を引き抜いて、再び男は剣を振り上げた。ネビアは咄嗟に『脚』で自分と迅雷を包み込んで生々しいドームを作り出した。男は構わず『脚』を何度も何度も斬り付けた。


 「まず一つ目。この『ESS-PA』は全身の装甲を魔法戦用フィールドの床や壁面材に使われる耐魔力素材で構成しているから大抵の魔法など触れただけで霧散する!まぁさっきの大技にゃさすがに消し飛ばされちまったがな・・・!そして二つ目。このスーツの機能で普通に飛んできただけのことだ!最後に三つ目。ほんの一瞬だけ、あのショッピングモール内の黒色魔力感知装置に微弱ながらお前の魔力反応があったんだよ!さしずめ腹が減ってそこの少年でも食い殺したくなったのか!?」


 「違うッ!!なんで迅雷まで攻撃したのか聞いてんのよ、私はッ!!カシラ!!」

 

 

 「・・・なんだ、そんなことか。先ほど本部に問い合わせたところ、こういう返答があった。『オドノイドの逃亡を幇助する者があれば実力行使を許可する』とな」



 「・・・なによ、それ。狂ってる、オカシイ、どうかしてるわよ・・・カシラ。それがIAMO(アンタら)のやり口ってワケ・・・?カシラ。クソ以下の偽善者どもが―――」


 ―――いや、待て。


 そうだ。


 「・・・・・・あの2人は・・・?」


 自分を逃がすために、あの場に駆け付けてくれた、天田雪姫と日下一太はどうなった?この男の言葉通りだとしたら―――彼らは?

 バイザーの下で、微かに男の口元が不快そうに歪んだ。


 「お前らオドノイドと一緒にするんじゃない。・・・気付いてたよ。子供に武器を向けた時点で俺たちがやってることがクソ以下だってことぐらい。でもな、どこまで腐っても俺たちは市民を守るためにIAMOの魔法士になったんだ・・・!だからいい加減こんなクソ以下の仕事は終わりにさせてくれ・・・」


 剣撃の嵐が止んだ。

 

 「お前がその子と逃げ続けようとする限り、俺はお前の足を止めるために何度でもその子を巻き込むだろう。やりたくないが、やる。・・・人間界を異世界との戦争から守るためにはオドノイドは全滅してくれないと困るんだよ。今ならまだ、その子の命は助かる、俺たちが絶対に助けてみせる・・・だから、俺を人殺しにさせないでくれ・・・」


 「ふざ・・・けるな・・・」


 ありえないはずの声に、ネビアも男も息が止まった。

 いつ死んでもおかしくないほど衰弱しているはずの少年の声に。

 起き上がろうとしても指先が辛うじて動くだけの少年の眼光に、男は一歩後ずさった。


 「ふざけるなよ・・・どっちみちアンタは人殺しになる。ここで俺、たちを、行かせてくれないなら、どっちにしたって、そうなる・・・って、もう、分かってる、はずだ・・・!」


 「うぅぅうるさいぃぃぃッ!!」


 掻き乱され圧倒され狼狽えた男が剣を振り上げたときには、もう、迅雷の目に光は無かった。

 それでもうなにもかもが崩れ去る結末にならなかったのは、彼の傍らに寄り添っていたネビアが、彼のか細い呼吸を聞いたからだった。

 だけどもう、こんな状態の迅雷を救う手立てなんて、人を殺すしか能のないこんなバケモノにはひとつもなかった。

 ネビアを包み込む『脚』が、肉体の上下を繋ぎ止める一本だけを残して黒く解けて消えていく。


 「・・・やっぱり、スゴいのは迅雷の方だったのよ、カシラ」


 迅雷はただ居てくれるだけでネビアの命も心も救い上げてくれたのに、ネビアはこうすることでしか迅雷の、それもただ命だけしか、救うことが出来ない。

 ネビアは十分幸せだった。ほんの短い間の、結ばれたとも言い切れないような可愛らしい恋をした。

 最後のワガママに、互いの血の味を知る口付けをして。


 ―――夢は醒めるものなのよ、カシラ。


 「迅雷・・・あなたも夢から醒めて、明日からは別の人を好きになるの、カシラ。それじゃあね。愛してる、バイバイ、カシラ」


 ネビアは再び男と向かい合って、微笑んだ。


 「約束よ?カシラ」


 「あぁ、それだけは絶対に守る」


          ●

 

 なにもかもが済んだ宵闇の中で、若い男は携帯端末のマイクに告げた。


 「こちら川内兼平。任務を完了しました―――」








          ●


 






 「慈音ちゃん、今日は?どうだった?」


 「ううん」


 「そっか・・・」


 「うん。でも、仕方ないよ」


 夏休みが明けて、1週間が経った。

 神代迅雷と天田雪姫は、あの日以降まだ一度も学校には来ていなかった。

 真牙が慈音とこの会話をするのも5回目だ。3人のクラスメートがいなくなった教室は、残暑の中にあって、みんなの白いシャツがまるで喪服のように見えた。

 

 「それでもね」


 慈音の顔は肌も荒れて隈も酷く、酷く疲れているのが見て取れる。ネビアを失った迅雷のことを案じて、支えになりたいと願う慈音の苦悩は、真牙には察するにあまりあった。誰も、迅雷の負った心の傷の深さもまた、理解出来るなどとは口が裂けても言えなくて―――それでも笑顔を絶やさない慈音の強さを、みんながただ尊敬して、尊重するようになっていた。

 ただ、そうあろうとするのは慈音だけではないことも確かだった。真牙だってそうだ。色々なことを感じてきて、様々な経験をして、故に他の誰よりも迅雷にはっきりとものを言えるのは彼だった。そして学園(ここ)にはいないが、家で迅雷と一緒にいてやれる疾風や真名、そして直華がいる。


 「最近はね、としくん、ちょっとは元気が戻ってきたと思うんだ」


 「そっか」


 「うん、そうだよ!だからさ、またすぐ、戻ってくるよ!でね、また来年さ、今度こそみんなで海に行こう!」


 「お、いいね!そうしようそうしよう!そんで次は思い切って雪姫ちゃんでも誘ってみよう!」


          ○


 この日、IAMOは日本国内の全てのオドノイドを駆逐したことを公表した。

 テレビを消して、迅雷は横になった。押しかけてきた慈音たちに急に来年の話をされたときは、思わず笑ってしまった。笑えていたかは、分からないが。

 今日は終わって明日は来る。それを果てしなく繰り返して、いずれは思い描いた夏が来て、そして終わる。それが真理だとすれば、結局、迅雷にも誰にも世界が変わったことを知る術がないんじゃなく、元々世界は変わらないものなのかもしれない。



 そう思っていた。

 そう思ったまま終われたら良かったのに。

 

  

 

裏話Q&A

Q.なんでこの日に限って突然、普通にしていたはずのネビアは黒色魔力センサに引っかかって魔法士たちに見つかってしまったのでしょうか?


答えはPart3の後書きにて。


(2020/04/05 02:00投稿)

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