九
確かに止まって見える……
梨菜が集中を止めたとたん、固まっていた佳人の表情が動き出した。
佳人はウインクした。
「どうだった?」
「時間が止まって見えました。佳人さん、私にいったい何をしたんですか?」
「思考回路の仕組を少しだけ仕様変更させてもらったんだ」
「思考回路?」
ウエイトレスがケーキを二つテーブルに並べた。
一つはガトーショコラ。
これは梨菜の前に。
もう一つは数種類のベリーが飾り付けられたタルト。
これは佳人の前に置かれた。
佳人は、さっそくフォークの先でシロップ漬けのブルーベリーを一粒突き刺し、口に運んだ。
「通常は、思考回路は動作管理の流れの一部として扱われてる。つまり、考えながらも人は別の行動が取れるわけだね。言い替えれば、一つの事柄を思考するための回路は一本の経路しかなくて、集中に限界が生じるので、さらにそこに注がれる力は他に回されやすいってことになる」
佳人はそこまで言い終わると、今度は木苺を一粒口に放り込んだ。
「だから、そうならないように、一つの事柄に複数の経路を使えるようにしたんだ」
「すると、どうなるんですか?」
「食べないの?」
佳人は、梨菜のガトーショコラをフォークの先で示した。
「今は、佳人さんの話に集中してるんです」
梨菜は、頬を膨らました。
「要するに、集中力が増すんだよ」
佳人は、器用にマルベリーとブラックカラントとクランベリーの三つを同時にフォークで刺してみせた。
「一つの事柄に、文字通り全神経を注げるんだ。他の動作を全て犠牲にしてね。今のキミの場合だと、見ることに全力を注いだ。正確に言えば、キミの視界に写っている情報を持つ『マジック・アイ』の捕獲に全神経を注いだんだけどね。つまり、超高速に視界に関わる情報収集という動作が繰り返され、キミの記憶に送り込まれた。ボクが止まったんじゃなくて、キミの動きが超高速になった、というわけだよ」
佳人は言い終わると、三種のベリーを同時に口に入れた。
* * *
「あの死体は、本当に岡田美夕だったのか?」
警部がそう言い終わるより早く、パンナは真顔を崩し、笑顔に変えていた。
「おじさん、やっぱり普通とは違う考え方をするね」
パンナの指摘に、警部は首を傾げた。
「どういうのを普通って言うのかな?」
「死んだのがミユじゃない事態って、ありえないじゃない。あんなに大勢、葬儀に参列してるのに」
「岡田美夕が死んだように見せていたのかもしれない」
「へんなの」と、パンナは肩をすくめた。
「じゃあ、ミユは生きてるっていうことかな? 死んだのは、代わりの人間だって」
「それは、わからない。だから、キミから情報が得られないか試してるんだ」
その時、警部の眼が鋭く光った。
パンナは、タルトを大きくカットし、大きな塊を口の中に押し込んだ。
大人びてきた容貌でも、頬を膨らませてモグモグと口を動かしている様は、幼さを取り戻したような印象を受ける。
警部の口元が思わず緩んだ。
「無理やりかもしれないが、私の推理はこうだ」
警部は構わず続けた。
「あれは、岡田美夕じゃない。誰か他の人物が、岡田美夕の身代わりになって自殺している。誰かの身代わりになって、何者かに殺されたんじゃなくて、岡田美夕の身代わりに、誰かが自殺をして、岡田美夕が死んだと見せかけてるんだ。それも、巧妙によく似た女子が身代わりになってる」
パンナの口には、まだいっぱいのタルトが詰まっていて、コメントは返ってこなかった。
「キミに問いたいのは、岡田美夕をかくまっている理由と、身代わりになって自殺した女子の正体。この二点だよ」
パンナの口に入ったタルトが飲み込まれるまで、二人の間に沈黙が続いた。
パンナは、ゆっくり味合うように口を動かし、ずいぶんと時間を掛けてタルトを飲みこんでから、こう言った。
「かなり無理やりな推理だね。身代わりになって自殺したっていう点だけど、おじさんは、なぜそう思ったのかな?」
「明らかに、あれは自殺だよ」
警部が答え終わるより早く、パンナは、また大きな塊を口に放り込んだ。
「屋上の金網フェンス。高さが一メートル八十センチ。その上に三本の有刺鉄線が張られていて、合計した高さは二メートルを超える。岡田美夕の身長は百六十五センチ。体重はおよそ五十キロ。どこか他で殺害され、あのフェンスを越えて放り投げるなんて、よほどの力持ちでも、とても無理な芸当だよ。死因に結びつく外傷を受けた痕跡も、フェンスを壊した形跡も、全く見つからなかったしね。死因は、屋上からの落下による後頭部の強打だよ。それに、体中に有刺鉄線によるものと思われる無数の引っかき傷があったし、特に手の平の真ん中に深い傷があった。有刺鉄線の結び目を握り締めてるんだ。これは、強い意志でフェンスを乗り越えた、という状況を物語っているよ。彼女の自殺は明らかだ。その事実に基づいて、推理を立てるしかない」
警部は話を止め、パンナの反応を窺った。
彼女はまだタルトを咀嚼するために口を動かしていた。
警部は、すっかりヌルくなったホットコーヒーの残りを一気に飲み干した。
「この推理の良いところはね、辻褄が全部合ってくるという点だよ。友だちが死んだにも関わらず、平然としているキミの態度に対する疑問点も含めてね」
パンナはケーキを飲み込み終わったが、何も話そうとはしなかった。
「どうやら、真実はキミの口から話してはもらえないらしい。まだ、私に話せる段階ではない、という解釈でいいのかな?」
「もし、私がここで何も話さなかったら、私はどうなるのかな?」パンナは、警部の目をまっすぐに見て、そう尋ねた。
「どうってことはないよ。何も変わらない」と、警部は答えた。
「こんな小説じみた推理を報告できると思うかい? 今は私の中だけで進めてる話だ。ちなみに、岡田美夕の事件は殺人事件として立件されているわけじゃない。ただ、遺書の類は見つかっていないので、動機は不明のままだよ」
「じゃあ、今は話さない」
パンナは、残りのケーキを一気に頬張った。
もう頬が膨らむほどの量は残っていなかった。
「でも、さっきの質問には答えてほしいな。岡田美夕をかくまっている理由と正体について」
パンナは立ち上がり、警部の横に歩み寄り、長身を器用に折りたたんで、警部の耳元まで口を近づけた。
「私に、岡田美夕をかくまう理由は無いよ。アレの正体については説明が難しい。でも、これだけは言えるよ。アレは、決して私たちが悲しむべき存在ではない」
「アレだって?」
警部は、パンナの方を向いた。
もう少しで、警部の鼻がパンナの唇に触れるくらいに、彼女の顔は近づいていた。
「そう。アレって言い方で十分」
パンナは怯まずに答えた。
ミントの心地よい香りが警部を包んだ。
「どういう意味なのかな? まるで人間じゃないみたいな言い回しだが」
警部は、さらに尋ねたが、答えは返ってこなかった。
パンナは姿勢を起し、警部に向かって、敬礼のポーズをした。
「また私を呼ぶときはケーキセットだよ。ごちそうさま」
パンナは、つかつかと歩き出した。
警部は、姪の姿を目で追おうとしたが、視線が店外に追いつく前に、すでに見失っていた。