八十八
浦崎警部と屋高の二人は、センター長室のモニターから、梨菜が目覚めるまでの様子をずっと見ていた。
「おほん」と、警部は咳払いをした。
屋高は、警部の様子を見て、ニッコリと微笑んだ。
「とにかく、これで一件落着というところだな」と警部は言って、鼻をフンと鳴らした。
「そうですね」と、屋高は頷いた。
「回りくどい『計画』だったな。『計画』の変更によって、私の記憶がこの通り帰還したのは良いが、もし変更が無かったら、いつまで刑事などという、私にとって異常な職務を続けさせるつもりだったのかね、西藤所長は」
「それを言うなら、ボクも同じですよ」と、屋高は言い、前髪を持ち上げて、そこに半分隠れていたアーモンド型の目を見せた。
「『伝承』によって他人に成り代わっていた教授と違って、ボクのは単なる変装でしたからね。水野さんの思いつきで、むりやり刑事役をやらされて、もう散々でしたよ」
「まあ、そのおかげであの恐ろしい『ほのか姫』に、まったく存在を意識されることなく、事を無事に済ませられたんだ。感謝しなくてはな」
「ネエさんは、まったく話の通じないヒトではないですよ」
警部は、鼻をフンと鳴らした。
「さて、私の役割は終わった。これから、私はどうするか、という問い掛けに対して、キミの方から何か提案があるのかね?」
「ありますよ」と、屋高は即答した。
「できれば、私は、このまま、あの姫君に存在を知られることなく余生を過ごしたいのだが」
「そうなると」と、屋高はニヤリと笑った。
「選択肢は一つです。このまま浦崎警部に成り済まし、警視監にこき使われる。これしか、ありません」
「ふむ」と、警部は頷いた。
「よくよく考えてみたら、それも良いかもな。私は、矢吹パンナの叔父ということになってる。あの子に、『おじさん』と言われながら、刑事という職務を続けるのも悪くない気がする」
「梨菜さんが、刑事としての手腕を褒めていましたしね」
「そうだ。キミに一つ聞いておきたいことがあったんだ」
「何でしょう?」
「この浦崎という男……どうやら、実在する人物の『幻影』のようだが、何者かキミは知ってるかね?」
「少しだけ」と、屋高は答えた。
「水野さんが新米の警察官だった頃に、職務を共にしたヒトだそうですが、事件に巻き込まれて殉職されたと聞きました。ボクが知っているのは、それだけです」
「そうか……」
警部は、頷くでも、首を横に振るでもなく、そのまま黙りこんだ。
「梨菜さんに、会っていきますか」と、屋高が尋ねた。
「今日は、やめておこう」と、警部は言い、ドアの方へ向かった。
「大団円を迎える場面だよ。あの子の帰還に貢献したヒトたちが、まず盛り上がるべきだろう。私はただ見ていただけだ。優先権は無い」
「教授も、梨菜さんの『覚醒』プロセスを提供した貢献者じゃないですか」
「私は、見ていただけだよ」
警部は、鼻をフンと鳴らした。
「言葉に気をつけたまえよ。私は教授じゃない。警部だ。『ほのか姫』に感づかれたら、私は終わりだ」
「ネエさんは、話が通じないヒトじゃないって……」
「水野クンのところへ帰ろう」
屋高の言葉を、警部は遮った。
「わかりましたよ」と、屋高は立ち上がった。
「また、時を改めて、あの子に会いに来よう。とにかく、あの子が帰ってきてくれたんだ。それだけで、今日は満足だよ」
「ヒトぎらいだった教授も変わりましたね。すっかり梨菜さんに……」
「警部と呼べ。ばかモン」
屋高は、ペロリと舌を出した。
* * *
仄香と有利香は、広い会議室にて、最も二人の距離間が確保できる対角線となる席に着座して、向き合っていた。
「梨菜ちゃんの命を繋げることができたわ。姉さんのおかげよ。ありがとう」
仄香が頭を下げた。
「私のおかげではありません」と、有利香は、静香の声で言った。
「あなたと、それから篠原教授の協力があってのことです」
仄香は、有利香をじっと見つめた。
「姉さんが作り出した『計画』は……『計画』の目的という観点から見れば、最悪の結果に終わってるんだけど……姉さんは、それで良かったの?」
その質問に対して、有利香は首を横に振った。
「良いも、悪いも、ありません。梨菜さんを助けるためには、こうするしかなかったのです」
「以前、『不老不死』プロセスの成立について、激しく議論したことがあったわね。その時、姉さんは、私が世界で最も信用できない人間だ、って言ったわ。そして、今その最も信用できない私が、それを手に入れてしまった……姉さんにとって、『計画』の失敗は、世界の破滅に繋がるってことだったのではなかったかしら?」
有利香は目をつぶり、ややあってから、こう答えた。
「あなたには、話しておく必要があるようです」
仄香は唇を引き締め、無言で有利香の話に耳を傾けた。
「この先、世界には、『権限者』の存在を巡って、大きな荒波が押し寄せようとしています。一つ間違えば、まさに世界の破滅を呼びかねない、非常に大きな荒波です。仄香さん、あなたも実感しているのではないですか? 『疑似権限者』への製造プロセスだけで、短期間で巨大市場を生み出せてしまう世界経済への絶大な影響力を。あなたが、次の事業展開として注目しているエネルギー分野においても、『権限者』ならほぼ無限に入手可能な『マジック・アイ』という万能エネルギーの存在は、既存の資源が作り出した経済構造を破壊し、これもまた世界に大きな混沌を与えることになるでしょう。世界は、大きく変わろうとしているのです。混沌を産み出した後では、もはや私やあなたの力だけで、制御していくことは不可能でしょう。早い段階で展開を予測し、手を打っていかなくてはなりません。そして、私の現段階での『予測』では、唯一、世界を救える可能性を秘めているのは、梨菜さんの存在です」
「梨菜ちゃんが?」
仄香は、興味深そうに目を輝せた。
「私が『計画』を中止までして梨菜さんを救ったのは、あのヒトのことを気に入ったレベルの理由ではありません。この先の未来には、梨菜さんが必要なのです」
「梨菜ちゃんが、どんな力を持っていると言うの? 確かに、あの子は『権限者』が持つ『意志』の力の程度で、超人的ではあるけど」
「……私には、まだわかりません。ただ、世界の秩序を維持するためには、梨菜さんの力が必要なのは間違いありません」
「……」
二人を沈黙が包んだ。
しばしの後、「まだ聞いて良い?」と、仄香が沈黙を破った。
有利香は小さく頷いた。
「姉さんが……その……今の姿に若返った理由は何?」
「梨菜さんを近くで守ってあげたかったから。同じ学校に入学できるから都合が良いでしょう。そして、今後は私のこの年齢的立場を活かして、梨菜さんにもっと近いところで、支援していきたいと思っています。最初は目立った行動を取らず、存在感を薄くしていたつもりでしたが、丸野英治に狙われる事件に巻きこまれてしまいました。回避策のために、あなたの息子の玲人クンを引きこんだりしましたが、情報操作を仕掛けるなど巧みな工作の影響があったり、同時に梨菜さんにも追跡される展開もあったりで……対応の忙しさも災いして、ギリギリまで背後にあなたがいることに気づけませんでした。あなたには、早くから正体が知られていたのですね。あの時は、さすがに焦りました。柴田クンと佳人の協力もあって、何とか逃げ切れましたが……次に、あなたは梨菜さんを狙いましたね。結局、梨菜さんたちが水野警視監と連携して、自主的に解決していましたが、この時は玲人クンと柴田クンにフォローをお願いしました」
仄香は、満足そうにニヤリと笑った。
「冷静な姉さんを慌てさせた成果はあったのね。まあ、それだけでも良しとするわ。それでね、姉さん、今後のことだけど、ウチに来る気は無い? 柴田クンは、ウチの研究部に来てくれることになったのよ」
「考えていません」と、有利香はピシャリと言った。
「私ね、姉さんを守りたいの」と、仄香は言い、目の前で両手を合わせた。
「姉さんが言う世界の荒波の影響によって、きっと姉さんや梨菜ちゃんが狙われると思うの。姉さんには、私は信用できない人間であることに変わりはないのかもしれないけど、二人は私にとって利益を産み出す大切なヒトたち。おめおめと、他の第三者に渡すようなマネはしないわよ。ここは信じてほしいわ」
仄香の誇らしげな笑みを見て、有利香もニッコリと笑みを返した。
「自分の利益のために……ですか。あなたらしい言い方ですね。確かに、あなたの元にいることが、最も安全であることは間違いないようです」
「そのかわり、梨菜ちゃんへの支援のことお願いするわね。私も、姉さんが関わってくれるのが一番安心できるのよ」
有利香は、首を縦に振った。
「あなたも私の情報を使って、『幻影』を製造して、若返ることが可能なのですよ。梨菜さんと同じ世代になって、関わってみてはどうですか?」
「私は、見た目ほど若くない、この姿と年齢が気に入ってるのよ。そういうのは、もっと年老いてから考えるわ」と、仄香は答え、快活に笑った。
「あっと……もう一つ、姉さんに確かめたいことがあるんだけど……」
「何でしょうか?」
「あのレストランの前で、梨菜ちゃんが来るのを待ってた時、後ろから誰かに手を握られたの。あれは、姉さんの仕業かしら?」
有利香は、うつむき加減に仄香から視線を逸らし、「ええ」と答えた。
「私たち、触れることができるの?」
仄香は、驚きで目を大きく開いた。
「いえ……できないと思います。事実、今、お互いが触れ合うと『相殺』が始まると『予測』されます」
「でも、あの時は……」と、仄香は身を乗り出した。
「なぜか、あの時は『相殺』が起きないという確信がありました。私の『予測』が示したのです。原因は不明ですが、あの時だけは触れることができたのです」
「……」
「私たちには、まだ謎が残されているようです」
有利香は言い、そのまま黙りこんだ。
* * *
羽蕗越美は、ベッドで横になっている梨菜のそばに座り、梨菜の右手を両手で包み込むように握り締めていた。
梨菜の手の平は乾いていたが、握っているうちに、じわりと湿り気を帯びてきていた。
「私ね、勤め先が変わることになりました。美園先生の計らいで、I市内にある岡産業の工場に採用されたのです。時間帯もね、朝九時から夕方五時までで、土日祝日がお休みになります。私ね、あなたと向き合う時間を、もっと増やすことにしました。私は、あなたの親でありながら、あなたの苦しみを全く知らずにいました。もし、あのまま、あなたが帰ってこなかったら、悔やんでも悔やみきれなかったでしょう。でも、あなたは帰ってきてくれました。私ね、これは神様が与えてくれたチャンスだと思います。再び、あなたと向き合うために」
梨菜は、越美の顔をじっと見つめ、小さく口を動かした。
越美は、梨菜の口元に耳を近づけた。
「……し…ん…………ぱ…い……か…け…て…………ご…め…ん……」
「良いんですよ」
越美は、梨菜の手を握る両手に力をこめた。
「帰ってきてくれて、ありがとう……私たち、もっと話し合いましょうね。あなたのことを、たくさん聞かせて」
梨菜は涙を浮かべながら、力一杯頷いてみせた。
越美から見れば、それは小さな動きだったが、想いは充分に伝わっていた。




